12.舞い降りた天使
苑池静子は元華族、苑池グループのお嬢様。そして、加害者(と決まったわけでもないのに、ほぼ決めつけられてしまった)・津田要は有力政治家の津田幸太郎の一人息子。
名門学園で起きた不可思議な事件。それに加えての失踪事件。
多方面のマスコミが食いつきそうなお話であるはずだった。
しかし、春子のクラスで予測が立っていた通り、翌日のニュースでそれが報じられることはいっさいなかった。
日本のテレビも新聞もインバウンドの観光客が迷惑だの、どの政治家が都議選に出馬するなど、畑に熊が出たなど・・・、実に平和なもので埋め尽くされていた。
日本に来てようやく4日目が終わったあの金曜日の夜。正確にはすでに土曜となっていたわけだが、秋は突然『滝本』なる人物から電話で呼び出されると、そのまま帰ってくることはなかった。
春子は悶々とした気持ちでその日を無駄に過ごした。
ただただ、帰らぬ秋に大きな不安とこれまた思いのほか大きな安堵を持ってしまう自分の気持ちに困惑していた。
それは淡い期待感にも支配されることがあり、春子を困惑のドツボへと落とし込んだ。
そしてさらに次の日、日曜日。
春子は朝目覚めると、綺麗な大空を見つけた。
しかし、秋が帰宅した気配はなかった。
・・・This is so stupid (アホくさ)・・・
解答のない状況に想像以上にヤキモキしている自分をバカらしく感じると、この日は思い切って東京散策に出かけることにした。
3年ぶりの日本は、まるで別世界だった。
かろうじて記憶に残っている昔の日本とは全く異なっている。
まるでオトギの国に迷い込んでしまったかのような錯覚すら覚える。
大都会、東京
なのに、点在する昔ながらの日本の家屋・風景・そしてそこで息づく人々の生活。
春子にとっては何もかもが新鮮だった。
・・・あれは・・・なんだったんだろう・・・。
しかし、そんな春子の東京散策を中断させる事件は起きた。
都心の高層ビルに佇む公園。
春子はそこのブランコに意味もなく揺られていた。
もちろん迷子になったのだ。
携帯電話は充電を失い、歩き疲れた春子はビル群に囲まれた公園を見つけると、座れる椅子を探した。しかし、ここそこに置かれためぼしいベンチには別の人がすでに座っていた。だから、その奥の木陰で風に揺られていたブランコに座ることにした。
西に帰っていこうとしている太陽は高層ビル群の影を強める。
そして、春子を遠慮なく包み隠す。
春子は別に迷子になったことに考えを巡らしているわけではなかった。
その辺を歩けば、いやでも交番は見つかるはずで、日本のお巡りさんがどれだけ親切かはよく知っている。迷子になるのも別に初めてのことじゃない。加えて、日本語がわからないわけでもないのだから、余計に心配する必要性は微塵も感じていなかった。
しかし、それ以上に気になることが起こったのだ。
ある種の怪事件だ。
時は遡って、数時間前。
春子は繁華街をあてもなく歩いていた。
バッテリーが切れそうな携帯電話を握りしめ、自分の位置関係を確かめようとしていた。
人でひしめく東京では東京人でもなければ前の人を避けて巧みに通り抜けることはほぼ不可能だ。渋谷交差点での映像でよく見るように、人を避ける技はある種の訓練を要することなのではないだろうか。
春子は運動神経が悪い方でないと自負している。
しかし、東京の人の流れに逆らうのは思った以上に困難だった。
そして、それは行き交う人の流れが勢いを増したときに起こった。
ドンっ!
前の人の波に飲み込まれないようにと、大きな流れを避け、通りの脇の方を目指して進んだ時、春子と同じことを考えた人がいたらしく、春子はその人の胸に思い切り突き当たってしまったのだ。
「すみませ・・・!!」
鼻よりデコが痛い。
自分の鼻の低さを思い知らされる瞬間だ。
春子は自分のデコを抑えながら、慌てて目の前の黒い影を見上げた。
次の瞬間、春子は目を見張った。
ぶつかった相手はサングラスをかけていたから、その人の顔の全貌が確認できたわけではなかった。が、それでも、それはおそらく学級委員長の四宮海斗であると見て取れたからだ。
別に四宮が東京のどこを徘徊していようが不思議なことではない。
この広い東京で休日に偶然出会うというのはかなり奇妙な気もするものの、起こり得ないことではない。ましてや、同級生なわけだから、声をかけるのに躊躇する理由もないはずだった。
だが、春子は凍りついた。
この四宮はあからさまにガラが悪かった。
無駄にチャラかった。
四宮の髪は綺麗な白寄りの金髪で、うっすらと化粧でもしているのか、黒いサングラスの下には赤い唇と白い肌。シンプルな黒いシャツの上にはシルバーのネックレスが垂れ下がり、左耳にはまるで小さなブランコがついているかのようなピアスがぶら下がっていた。
春子は、この四宮がサングラス越しでも、自分と同様の動揺を示しているのがしっかりと感じ取れたような気がした。
しかし、東京の人の波は二人に立ち止まることを許さない。
二人は互いから目が離せないままに、波に飲まれた。
そして、そのまますれ違うと、互いを後ろに見つめ合っていた。
四宮はゆっくりと唇を細く両側に引き伸ばす。
それは不適な笑みを作り上げる。学級委員長という仮面をつけていない時に一瞬見せる微笑だ。
四宮は春子よりずいぶん背が高いというわけではなかった。そして、今現在、この四宮も坂道を歩いているわけでもないはずだった。
しかし、四宮は顎を突き出し、春子を下に見下ろす。
「オィ・・・しのっ・・・」
その掛け声と一緒に、別のこれまたチャラそうな男が春子を横切り、視界を防ぐ。
颯爽と、四宮の肩を組むと、二人はそのまま人の海の中に消えていった。
春子はそのまま人の波にもみくちゃにされながら、無駄に逆らうことなくそのまま流れに身を任せた。
不穏な気持ちが春子に絡みつく。
・・・あれは・・・なんだったんだろう・・・。
まぁ、思春期の男の子だもん・・・色々あるか・・・
春子は自分も思春期真っ只中ということを棚に上げると、四宮の不適な笑みを思い起こした。
事件のあった日、落ち着かない教室で、四宮は全く同じ微笑を作っていた。
何かしら勝ち誇ったような、何かしら事が自分の策略を反映してうまく行ったような、とにかく春子にしてみればある種の不安が掻き立てられる微笑だ。
そして、あからさまに津田要に向けられた執着心。
四宮海斗、そして、津田要。
同じクラスの同級生、しかし、おそらくは幼稚舎より共に学んできた相手でもあるはずだった。彼らには彼らなりの歴史がある。昔から知っているからといって、仲がいいとは限らない。
そこに何かがあったとしても不思議でない・・・。
だが、それが犯罪の動機になるとすると話は別だ、春子はそう思った。
苑池の事件が起こった時、四宮の関わりを裏付けるような言動があったわけではない。むしろ、それは皆無である。よって、春子が彼を無条件に疑ってしまう理由は正直見つからなかった。
しかし、あの微笑をわざわざ作り上げた理由が自己顕示でなければ、いったいなんだったのか・・・、そう考えると、何かしら引っかかってしまうのだ。
四宮は穏やかに笑っていた。
あたかも自分の計略が無駄なく遂行されたことに対する満足感、そんなものがあるように。
『春子・・・津田には関わるな。』
『とにかく、もう一度言う。津田の件には首を突っ込むな。
これはリクエストじゃない。
命令だ・・・』
秋の声が脳裏をよぎる。
秋には散々関わるなとの忠告を受けた。
そして、理不尽なそして限りになく不適切な挑発も。
しかし、なおも、事件を考察している自分自身に春子は少し呆れた。
Yeah, this is just so stupid… (本当に・・・アホだな・・・)
確かに秋さんの言う通り放っておくべきなんだよね・・・
警察だって動いているわけだし・・・
直接私が巻き込まれたってわけでもないわけだし・・・
大雑把に考えを巡らせている春子は、続け様に、秋からの不適切な挑発の部分を鮮明に思い起こす。
『それとも、やっぱり、俺に手を出してほしいわけ?』
・・・かもしれない・・・
・・・かもしれない?
いやいやいや、春子!
気を確かに!!!
・・・かもしれないって・・・何!?
してほしいって・・・思った・・・
どういうこと?
私の脳みそ、いつの間にそんなお花畑になったの!?
そして、同時に自分に湧き起こったあの衝動を思い出す。
昼間の化学室でのことも然り、夜の出来事も然り。
身に覚えのない衝動が沸々と蘇る。
昼間のは百歩譲って、『気の迷い』と結論づけることもできるのだろう。
しかが、夜の出来事はどんな言い訳を考えても説明がつけられなかった。
そう、ただ自分が秋を求めてしまったという事実以外には。
秋に起こされたあの時、多少寝ぼけが入っていたとはいえ、彼の気遣いを突然理解したような気がした。それが嬉しく、そして、それと同時に過去数日間の心地の良い眠りが彼によって持たされていたという事実にも気づいてしまった。
初日にはシャツを剥ぎ取った。
次の日は、何もなかったはずなのに、目が覚めると、前夜同様のシャツに包まれていた感覚があった。
そして、三日目、自分の頬にはずっと誰かの手の感覚があった。
目を覚ますまで確かに手があったのだ。
あの時、春子は突然それらが秋によるものだと理解すると、何かしら心から湧き起こる衝動が止められなくなった。
突き動かされるように、思わず秋に抱きつく。
『これはありがとうの意味のハグだから』と、抱きついてしまった瞬間に、咄嗟にそう考えた。
しかし、幸か不幸か、事故は起こった。そして、『ありがとうのハグ』がただの言い訳に過ぎないことをいやというほど知ることになる。
春子の唇が秋の唇を触れた。
その瞬間、至高の幸福感をもたらせられる。
春子は何者かに全てを支配され、すべての思考は停止した。
そうして考えていくと、その後の行動は、もはや事故などではなく故意でしかない。しかし、春子はあえてその事実から目を背向けることにした。
自分の意識が戻ってきたのは、「フルール・ド・テ・ローズ・ブルガリ」の香りが自分の思考を呼び起こした瞬間だった。
自分が一体何をしていたのか、一瞬にして春子の思考は迷子になった。
乱れた衣服
肩まで落ちた上着
あらわになった肌
そして、無粋に立ち込める他人の香。
高校教師に似つかわしくない「フルール・ド・テ・ローズ・ブルガリ」の香りは、それが金原志保梨のものであることを春子に直感させた。
その移り香は秋と金原との距離を想起させる。
たまたま匂いが移るような距離をとっていたのか。
それとも長時間にわたる密着があったのか。
はたまた、秋を所有したいと望む金原の思惑で、春子にそう思わせたかったのか。
それは定かではなかった。
・・・が、春子の邪推は止まらない。
最も最悪の可能性が思考を占める。
秋には動揺があった。春子の問いがわからない様子ではあった。
しかし、否定もなかった。
春子は公園のブランコに揺られながら自分の足元に落ちる影を見つめた。
影は長く伸び切っているようだったが、消える時を見失ったかのように、周りの暗さとの同化を拒んでいた。
「春子?」
自分を呼ぶ声がした。
春子はこの声をよく知っている。
確かめるまでもない。
春子はゆっくり顔を起こした。
周りにいたはずの人は消え、そこには、もはや、自分と声の主以外には誰もいなかった。
残った微かな西陽が、鮮明にそして優美に、秋の姿を形作る。
「・・・ストーカー・・・」
春子は秋に聞こえるように呟いた。
どこにいるともわからない今の状況で知った顔が目の前にあり、春子の心は安堵と嬉しさが支配しているはずだった。
だが、春子の思考は「フルール・ド・テ・ローズ・ブルガリ」の香りの記憶に蝕まれていた。
春子は複雑に入り組んだ心の感情を紐解くことができず、自分の心も迷子になっていることを自覚した。
「携帯の電池が切れているのに・・・見つけられるって・・・、やっぱり、私に発信機でもつけてるんですか?」
秋の髪は無造作に乱れていた。
スーツは着崩れ、まだ5月で涼しいにも関わらずそのおでこにはうっすらと汗が滲む。
明らかに春子を探し回った痕跡が窺える。
「・・・んなこと、するか。」
そう否定はしたものの、秋は少し考えを巡らせた。
「・・・まぁ、似たようなものか・・・。
携帯のバッテリーが切れたから、GPS・・・で位置情報・・・な。」
秋は自分の携帯を振ってみせた。
春子の電源が落ちると警告されるように、いつの間にか設定されていたということらしかった。
確認できる最後の位置情報を受け取ったのは、ちょうど四宮らしき人物を目撃したあたりだったはずだった。あの後すぐにバッテリー切れとなったのだから。つまり、秋は、かれこれ数時間、自分を探していたということになる。
春子の心には、ほっこりする、くすぐったい、なんとも自分勝手な気持ちが芽生えていた。
が、やっぱりそれを無視することにした。
秋はゆっくりと春子に近づいてくる。
ブランコは静かに心地よく揺れる。
夕日が最後の力で、西の空をオレンジに彩る。
澄み切った空にオレンジ色の虹彩が淡く色づいたかと思うと、どんどん力尽きていった。
春子は微かな笑顔を秋に向けた。
「暗くなる前に、帰るぞ?」
秋は夕焼けに目をやりながら、春子のブランコを片手で静止した。
しかし、春子は動こうとしない。
秋はなんとなく春子が動かない理由を察していた。
おそらく自分と金原との関係を疑って、ヤキモチにも似た感情が生まれているんじゃないか、そうは思ったが、自惚れの可能性も十分にある。
「あの・・・手首の件・・・香水に物証になるって、なんで分かったんだ?」
秋は、金原と一緒だったわけではないことを直接的に説明するのは、何かしら気が引けた。よって、別の角度から話してみることにした。
「・・・何が・・・ですか?」
春子はそういうと自分のブランコを止めている秋を改めて見上げた。
暗がりに浮かび上がるその姿も美しい。
たった1日会っていないだけなのに、ずいぶん懐かしいような気がしていた。
「お前、言ってただろ?
物証なら手首から出てきそうだって・・・」
「ああ、金原先生のことですか?」
直接的な話を避けようと思って切り出したが、春子は特に意識した様子もなく金原の名前を出してきた。やはり秋の都合のいい解釈、自惚れだったのか?!
「・・・ああ、まぁ・・・
お前・・・なんで彼女を疑ったんだ?」
春子は秋の手を無視して、少しブランコに反動をつけた。
秋は、その波に逆らわず、手を一緒に動かした。
「最初は、やっぱりあの人が現場に駆けつけたタイミングが良すぎたから、っていうだけでしたけど・・・。
でも、秋さんに呼ばれた後、現場を通りかかったときに『フルール・ド・テ・ローズ・ブルガリ』の香りがあれだけ立ち込めていたのが・・・異常だなぁって思ったんです。
珍しい香りだし、そもそも香水って嫌いだから、あの人がつけてるのを思い出して・・・。
前日は大してつけていなかったのに、今日、体育の前に職員室ですれ違った時は・・・かなりの香りをつけていました。
『一雫の香り』って、少量で香り高くなるっていうのが売りなんですよ。その高級な香水をひっくり返すほど浴びるのって・・・おかしいですよね。
よほど金銭的な余裕があるのかもしれませんが・・・そもそももったいないですし・・・」
春子は事件があった直前に、職員室を訪れた時のことを思い返していた。
春子が職員室を退出しかけた時、津田を心配そうに見つめる更紗に話しかける直前だ。
香水の香りに包まれた金原は颯爽と登場し、春子とすれ違う。
すれ違う春子を意識した様子は微塵もなかった。
そのまま彼女は迷うことなく秋のそばに近づいた。
誰もが津田要の様子を見守る中、彼女の視界には確かに秋以外はいっていないようだった。
秋が彼女を視界にとらえ、笑顔を返す。
そして、彼女は頬を赤らめる。
その瞬間、彼女はその視線で春子を一瞥していた。
微かではあるが、ご丁寧に、神妙な笑顔を送りつけてきた。
春子はそんな金原の様子を思い出しつつも、話を続けた。
「そんな香水を大量につける理由なんですが・・・、可能性は2つほどに絞られます。
・・・何か・・・例えばマリファナのようなきつい匂いを消したかった・・・。
か・・・、どこかであの高級な香水を捨てる必要があったか・・・。
で、わざとらしくあったのあの白い粉ですけど、発見させたかったんだと思いますが、一目瞭然、マリファナではありません・・・。室川先生がどう言おうと、当事者なら分かりきったことです。
仮に彼女はあの粉をマリファナと誤認して欲しくて・・・だから、香水を振りまいたことにしましょう。室川先生は何故かそれに乗っかってあげたみたいですけど、ちょっと・・・無理がありますよね。学校の教員だけならまだしも、警察の介入があれば、そう簡単に欺けません。知ってかしらずか、警察の介入はありませんでしたが・・・。
となると、もう一つの可能性が浮上します。何かの手違いで粉がばら撒かれ、そして、香水はどうしても捨てなければいけない状況になった・・・。
しかも、ちょっとした行動でも怪しまれそうな時に、あえて危険を犯してまで捨てるってことは、おそらく証拠につながる何かがあったからじゃないかなって、思ったんです・・・
たとえば、麻薬絡みの線を疑われた時の予防と考えると、捨てたものに麻薬が混入していた可能性ってありませんか?」
春子は話終わると、秋の目を見つけた。
「なるほど・・・驚いたな・・・」
秋は素直に春子の洞察力に感心した。
「出たんですか・・・?」
「・・・ああ、C17H21NO4だ。」
「・・・コカインか・・・、合法ドラッグですか?」
「だな・・・。」
「純度、高かったりするんですか?」
春子はまるで美味しい料理の秘訣を尋ねるかのように、平然と質問を進めた。
「・・・。」
秋は、黙って頷いた。
春子も一緒に頷いた。予想していたとばかりに。
「それにしても、お前、そんなこと・・・、よく知ってるなぁ。」
「・・・別に特別なことじゃないですよ。
アメリカでは・・・子供にとって薬物は身近ですから。
授業の一環であるんです。
構造・効力・結果・・・、一通り、勉強させられるんです。」
「・・・」
秋は随分複雑な気分だった。
「それより、いいんですか?」
春子は自分に笑顔が生まれていることを自覚した。
「何が?」
秋は、春子の笑顔を見ると、自然と自分もイタズラな笑みを返していた。
「捜査情報、部外者に漏らしちゃって・・・」
「どうせお前のことだから、調べるだろ?」
「・・・へへ。」
春子は少し秋が自分を理解してくれているような気がして、くすぐったいような不思議な気分がした。
「首を突っ込むなって言ってんのに・・・。
まぁ、そこまで気づくと、見て見ぬ振りはできない・・・か・・・」
「なんですかね・・・。
・・・どうでしょう。
自分でもなんでこんなに気になるのかよくわからないんですけど・・・
あっ、でも、秋さん、違反になりませんか?」
「・・・?」
「先生としてなら問題ないですけど、現職の刑事って守秘義務がありますよね・・・?
捜査情報、私に漏らしちゃったら、職務規定違反とかで、懲戒処分・・・?!」
「ふッ・・・やっぱりそれも気づいてたのか?」
春子は少し頬を赤らめながら、秋を優しく見つめた。
「まぁ、昨日、抱きついたときに・・・ぁの・・・腰に・・・」
少し言いにくそうに答える。
「ああ・・・」
秋は左腰の後方に携帯している手錠の存在を思い出した。
同時に、それを感じるというのは、いったいどんなふうに抱き合っていたのだろう・・・という邪心が心を支配したのはいうまでもないが、秋は堂々と無視した。
「秋さんは、潜入捜査・・・なんですよね。類似事件を追ってるってことですか?」
「ったく、お前は・・・。余計なこと考えんな・・・」
秋は春子の頭を優しくコツリと突いた。
春子は何かしら心の底からの暖かさを感じていた。
優しい幸福感。
これは一体なんなのだろう・・・
知りたいような
まだ知らなくてもいいような
そんな気持ちだった。
「あの、でも、津田くんは・・・」
春子は突然思い出すと、秋に聞いた。
「あいつには最初から任意も出ていないって言っただろう?
お前の言う通り、負傷している津田にできることじゃない。
まさ・・・あ、室川先生が証言しているよ。
まぁ、自殺の可能性は捨てられないが、事故で落ち着くだろうなぁ。」
「自殺?事故?」
「ああ・・・」
「あれが、自殺か事故??」
「何が言いたい・・・?」
「それは、金原先生を泳がすためですか?
そっか、潜入の・・・、何かあるんですね?」
「・・・いや・・・状況証拠からすると、この件に関してはおそらくそうなる・・・。」
春子の発言に、秋は自分の守秘義務を無視し、話を続けることにした。もちろん自分がそう処理させないために動いているという事実も伏せて・・・。春子に何が見えているのか聞いてみたくなったのだ。
「苑池さん・・、落ちた時、仰向けだったんですよね?
秋さん、津田くんと揉み合ったとされた場所に争った後や踏ん張ったような足跡ってあったんですか?」
「いや・・・」
秋はハッとさせられる。
事故であれば、落ちる瞬間に何かに捕まろうとしたはずだった。あそこには事故での転落を防げるだけの手すりがある。ひっくり返って落ちようと思っても、あの手すりを超えることは容易ではない。
また、自殺の場合を考えても、真剣に自殺しようとしている人間が、大した高さもない場所から飛び降りるのだろうか。しかも、後ろ向きで?・・・目撃者に阻止させないため?それとも・・・
「ね、ありえないですよね?
秋さん、苑池さんの落ち方だけでも、事故も自殺も無理なんですよ。
事故にしては現場が綺麗すぎます。彼女がもがいた跡がない。
確かに自殺の可能性はありますが、自ら意図した自殺というのなら、方法が不確実すぎるんです。
本気で死にたい人間はあんな曖昧な自殺なんてしません。
ただでさえ怖いはずなのに、死ねないかもしれないような死に方、選ぶはずがありません。悪ければ全身麻痺ですよ。
死にたい人間はそんな判断をしない。
意識が混濁するほどのコカイン量ですから、中毒症状ための事故とも考えられますが・・・。」
春子は少し考え込むと、首を左右に振った。
「ううん・・・。いろいろな状況証拠が自殺させられたことをものがったています。ただの中毒者の事故なら、あの場に津田くんが居合わせた理由がわかりません・・・。」
「居合わせた理由?」
「津田くんを執拗に職員室に呼び出しているんです、ただの目撃者ではない何か疑う理由があったんですよね?」
「ああ・・・」
「だったら、その池さんは津田要ではない誰かにやられたんです。
コカインで意識混濁に陥る状態にさせられ、しかも、津田くんがいるちょうどいいタイミングを狙って・・・薬物まで見つけさせて・・・。
それに、秋さんが潜入捜査しているということは、裏に誰かがいる可能性を探っているんですよね?
薬の出所もある程度目星がついてるんじゃないですか?」
秋は素直に驚きを隠せなかった。そしてゆっくりと口をひらく。
「つまり、誰かに指示されて飛び降りた、と言いたいのか?
しかも、自殺に見せかけるために、薬物を発見させたと?」
「ええ。」
春子はキッパリと返答した。
「さっきまで白い粉は意図的ではなく偶発的に、むしろ犯人の誤算で、撒かれたものだと思っていました。
でも、そうじゃない。
薬物が関わってるとあっては、学校側も警察に通報するのに躊躇します。彼女の・・・いやむしろ彼女の家の名誉を守るために、嫌疑をかけられた津田の名誉を守るために。苑池さんが自殺だったとしても、まさか麻薬中毒による自殺なんてスキャンダル・・・色々配慮すると、警察沙汰になったとして、かなりの確率で事故として処理される・・・、犯人はそうなることがわかっていた・・・
あっ、前にもあったんですね?」
「ああ」
観念したのか、春子の予想に反して、秋はあっさりとそう認めた。
「3年前・・・同様に女生徒がクラスで感情のコントロールを無くし、周りの生徒を持っていたカッターナイフで負傷、彼女自身は意識混濁の上、病院に運ばれた。だが、翌日、行方不明となり、学校で自殺しているのが発見された。だが、事件は事故として処理された。」
「薬物は?」
「疑いがあったが、検査にも検死にも至っていない。」
「自殺でも事故でもない可能性かあったのに・・・ですね」
「そうだ。」
「やっぱり。だったら尚更、苑池さんは誰かに指示されて、津田要に容疑を被せるつもりであのタイミング・あの場所を選んだ・・・そう考えるのが自然です。」
「だが、なぜ津田要なんだ?
なんのために?」
「それは・・・色々可能性があると思いますが・・・」
春子は四宮の不適な笑を思い出す。
勝ち誇ったような薄笑い。
「苑池さんを襲った動機と、津田くんを巻き込んだ動機は、別物のような気がします。
でも、少なくとも苑池さんの事件の動機は、秋さんたちの潜入捜査の理由、3年前の動機と同様なんじゃないでしょうか・・・。」
「・・・。」
秋はしばらく考え込んでいた。
色々と辻褄があう。
薬がらみの事件はここにきて3つも出てきている。
3年前の10月24日、午前10時58分。高柳愛佳、当時18歳、教室でカッターナイフで同級生を負傷、意識混濁の中、病院に救急搬送された。その翌日、逃走の上、学校の屋上より飛び降り自殺。
そして、昨年12月新宿界隈で薬の売り買いをしてホテル密室殺人事件で被疑者に上がった大学生3名。現在、帝国大学医学部所属。しかし、3年前の高柳愛佳事件直後に城泉を退学になっている城泉の卒業生だ。
その大学生3名が世間を騒がして、一週間後、城泉学園高等部2年・原井川美代莉の誘拐未遂事件が起こった。そして、突然の捜査打ち切り。
これが秋が潜入捜査に至った理由ではあるが、遡れば室川を投入したのは3年前の事件を起因とする。
今年、これまでに羽田の検疫で見つかった、コカイン系の特性を持つ遅効性の合法ドラッグ。
秋は、会議室のホワイトボードに貼られた分子構造を思い起こしていた。
[1R-(exo,exo)] -3-(benzoyloxy)-8-methyl-8-azabicyclo[3.2.1]octane-2-carboxylic acid methyl ester
Molecular formula: C17H21NO4
Molecular weight: 303.4 g/mol
春子の言う通り、薬物の出所は釣島組であることがほぼ判明している。薬物を所持していたことで、10日前ほどに渋谷付近で捕まった若者は釣島組の構成員であることがほぼ確実している。
そして、昨日起こったのが苑池静子の事件。現在18歳、城泉学園高等部3年。昨日、5月24日金曜日、午前10時45分。階段の踊り場で飛び降り、意識混濁のまま病院に収容されるも、現在失踪中。現時点で足取りは掴めていない。
しかし、これらの事件に津田要は関わりがない・・・。
城泉絡みの事件を徹底的に洗い出そうとした滝本さんの推理は間違っていないようだが、そこには明らかに何かしらのピースが欠けている。
それでも、これら一連の事件と津田の関わりが関係ないことだとすると、ずいぶんスッキリしてくるような気がした。
「・・・秋さん」
春子は秋の思考を邪魔すると、ブランコを降りて、秋の真下に立った。
遠くに沈んでしまった太陽を追いかけるように、ゆっくりと口を開いた。
「調べて欲しいことがあるんです・・・。」
「・・・?」
「本人たちに聞く方が手っ取り早いような気もするんですが、万が一のことを考えると・・・」
「・・・言ってみろ。
できるかどうかは別として、何が気になっている?」
「あくまで憶測の域を出ないんですが・・・津田要はいつからあんなふうになったんですか?・・・あんなふうに素行の悪い生徒を演じるようになったんですか?」
「演じる?」
「あれは彼の本質じゃない・・・と思うんです。
「それって、もしかして、うちのクラスの蓼科更紗が編入してきた頃と重なるんじゃないですか?」
「・・・どういうことだ?」
「蓼科更紗は中等部の時に城泉に入学したと言っていました。津田要とは幼馴染で、学校が別々でも交流があるほどに仲が良かったのに、今ではまるで赤の他人です。本人は隠しているつもりはないと言っていましたが、誰も知らないほどにその事実は表に出ていません。
加えて、津田要は本来素行の悪い人間ではありません。無理をして演じている可能性があります。根は真面目で、優秀な学生・・・。成績も悪くないんじゃないですか?政治家の息子だから、ではなくて、成績の優秀な学生だから、先生方も彼の行動を咎めていない・・・。
じゃあ、なんであえてあんな素行の悪い人を演じているんでしょうか・・・?
反抗期・・・?
思春期とか・・・?
・・・そんな生ぬるい理由ではないと思うんです。」
秋はそのまま春子の横顔を見つめた。
現在高2の蓼科更紗が中等部に入ったといえば、5年前。そこになんの関係があると言うのか・・・。そして、秋はもちろん津田の非行の経緯など知るはずもない。秋は不思議に思ったが、これまでの春子の言動から考えると何某か確信めいたものがあるのかもしれないと考えた。
「・・・わかった・・・。一応・・・
「お邪魔して・・・、すみませんねぇ・・・」
秋の返答は突然の問いかけに阻まれた。
春子は素早く秋の後ろに視線を向けると、そのまま顔をこわばらせた。
秋はすぐさま春子の視線を追いかけた。
木々の木陰から、柄の悪い男たち五人ほど、いつの間にか姿を見せていた。
男たちは、何かスポーツをしていたであろう体を惜しげもなくひけらかしていた。ムキムキというほどではなかったが、ボディーガードとして活躍していたとしてもおかしくないような大柄な男たちだった。
秋は素早く春子をブランコから引き剥がすと、自分の後ろに隠した。
春子は当たり前のように隠れさせられた秋の背中を見つめると、何かしら不思議な気分だった。
何をどこまで聞かれていたのか、何を目的としているのか、誰を狙っているのか、全く見当がつかない。秋は背後に春子を精一杯隠すと色々な可能性を考慮してみた。
五人はニヤニヤと笑いながら、春子と秋に向かってにじり寄ってくる。
手前の二人の手元には鉄の棒か、ナイフのようなものが見え隠れしている。しかし、鉄の棒を持つような若い不良たちではない、どちらかというと、銃の一丁や二丁、服の下に隠していそうな輩だ。
ブランコの裏手にある木陰に隠れていたのであろうが、秋は五人もの人間に、これだけ背後から迫られているのに気づいてもいなかった、そんな自分に驚きが隠せなかった。
常に自分の後ろは取られないように、気を張っていたつもりだったのに、完全に気を回すことができていなかったのだ。
おいおい・・・油断しすぎだろぉ・・・
秋は浮かれすぎていた自分の行動を後悔せずにはいられなかった。
こいつらの目的は何なのか、それとも、誰かによって仕向けられたのか・・・。
思い当たる節はいやというほどある。
限りなく頭が混乱する思いがした。
『日本に呼びつけた時点で、春子の安全を最優先にしろ』
そんな曖昧な指示を押し付けてきたのは祖父・伯父・義父だった。
彼らのセリフが脳裏をよぎる。
普段は口も聞かない三人がそう迫ってくる意味はわからなかったが、深く聞くことはしなかった。
今はこの自分の判断に後悔の念が生まれる。
『安全を最優先にしろ』
そうしてSPまでつけさせた意味はこれだったのかもしれないのだ。
「あんたら、ずいぶん色々知ってるらしいな・・・。
ちょっと一緒に来てもらいましょうか・・・。」
そう言われて、秋はターゲットが自分たち二人であると判断した。
ただ、そうなると秋はますます混乱する思いがした。
単純に考えると、自分たちの話を聞いていて『いろいろ知っている』と判断されるのであれば、釣島の関連となる。しかし、最近、捜査に加わったばかりの自分がマークされる理由が検討もつかなかった。限りなく部外者の立ち位置である。ましてや、春子は6日前に日本に来たばかりなのだ。
情報が筒抜けになっている?!
状況は最悪の結果を想定させた。
あたりはすっかり暗くなったのに、リーダー格の男は真っ暗なサングラスをしている。そのサングラス越しに、他四人に顎を使って、合図を出した。
おもむろに四人の男たちは秋と春子を取り囲む。
そして、二人を確保しようと、男のうちの一人が春子と秋を目掛けて手を振り上げてきた。
『ちょっと一緒に来てもらう』という生優しいお誘いではないことは、一目瞭然だ。
相手は確実に自分たちを傷つけようとしている。
男の手が大きく後方へ投げ出されると、そのまま勢いよく秋と春子をめがけて、拳を振り下ろそうとしていた。
それが視界に入ると、秋はさらに春子を自分の後方へ押しやると、両手で拳を作り、その拳を硬く握りしめた。
ドガッ!!!
ズザッ!!!
いい音が響いたかと思うと、春子の前に立ちはだかっていたはずの秋の姿が一瞬にして消えていた。
そこには、Tシャツ姿の大柄の男のみが自分の拳に酔いしれていた。
「ん?」
春子は周囲に視界を広げると、自分の足元から1メートルほど後ろに吹き飛ばされて、さらに尻餅をついている秋を見つけた。
春子は慌てて秋の方へ走り寄った。
「秋さん!!!」
秋は殴られ、口の左側から血を垂らしている。
ずいぶん見事に決まったようだ。
脳が揺られていないのが幸いなのではないかというぐらいに決まった綺麗な右ストレートだった。
「秋さん・・・!?」
イッ・・・・ッツゥ
痛々しく赤くなる秋の左頬。
春子は尻餅をついたままで弱々しく痛みに堪えている秋を見つめた。
「よわっ・・・」
しかし、春子は思わず心無い本音が漏れてきた。
勢いよく自分を守ってくれようとしているのだし、現役の警官なのだから、秋はそれなりの訓練ぐらい受けているはずだと考えたのだ。だが、そうでもないようだった。
百歩譲って一般人相手に手を出せないとしても、相手の右ストレートを避けるどころか、素直に顔面に食らうなんて、どう贔屓目に見ても、反応できなかったとしか言いようがない。春子は目をぱちくりさせながら呆れたように秋を見つめた。
「お前なぁ・‘・・心配しろよ。」
秋は左手で口元に垂れているであろう血を拭うと、そのまま左頬に手を当てた。
口の中には血の味が広がる。
「・・・してます。
・・・弱すぎて・・・」
秋は目をパチクリさせている春子を睨んだ。
春子はかすかに笑っていた。
微かだったが、春子はそれを隠そうとはしなかった。
秋は子供の頃から何をやって小器用にこなしてきた。
護身術に関しても、別に訓練を受けていないわけではない。訓練はそつなく熟した。
だが、実戦は別だ。
人を殴るという行為だけはどうしも苦手なのだ。体がうまく反応してくれない。
そうこうしているうちに、柄の悪い四人は満足そうなリーダーを後ろに取り残して、秋のそばでしゃがみ込む春子に迫ってきた。春子が立とうとすると、秋は素早く春子の腕を掴んで、自分に引き寄せた。
「いいから、逃げろ。
こいつらの目的は知らんが、お前は向こうに走れ!!」
秋は春子にそう言うと、春子の腕を力一杯引っ張って、春子を自分の後ろへ押しやった。さっきのパンチの影響で、まだ立つことすらままならないのに、秋は体をなんとか起こすと、膝に手を当て自分を支えるように立ち上がった。
「春子!・・・行けっ!!!!」
フラフラしたまま、秋は春子に怒鳴りつけた。
「お〜〜〜〜お、お兄さん、かっこいいなぁ。」
「でも、まともに立っていられないよね?無理すんなよ。」
他と比べると頭一つ低い男が、工事現場にでもあったかのような鉄パイプを握りしめた手をまるで刀を持って対峙しているかのように秋の前で構えた。
「いいから、二人とも大人しく来てもらおうか。」
そう言うと、またその男が秋に向かってにじり寄ってきていた。黒服・ジーパンと装いはシンプルだが、髪は赤髪で根本から少しずつ黒くなっている。手には指輪、派手なアクセサリーで飾り立てられている。アクセサリーをジャラジャラさせながら鉄パイプは剣道の剣を見立てているようだった。その男は秋の後ろで間合いをとると、グッと襲いかかってきた。
秋は、今度は鉄パイプで殴られることを覚悟して、目と歯を食いしばった。
ズザザァァァァ!!!!
大きなものが滑り落ちる音がした。
しかし、秋には何もおこらない。
次の瞬間、地面に這いつくばっていたのは、その男の方だった。
秋の足元には赤髪の男が無様に転げ落ちている。
そして、行き場を失った鉄パイプはコロコロとどこまでも転がる。
「鉄パイプって・・・古っ・・・。
昭和のドラマでしか見たこと無いし・・・。」
春子は呑気なセリフを発した。春子にとってみれば、何気ない発言だったのだろうが、秋の足元で震える男には大いに屈辱的であるようだった。
それを見ていた反対側の男が、何か恐ろしいものでも見てしまったかのように、その表情を強張らせた。しかし、立ち止まれない理由でもあるのか、大声を上げて、恐怖をかき消すと、右方向から秋の方に拳を振り下ろしてきた。
しかし、男は秋の目の前まで迫ってきたかと思うと、地面に吸い込まれるかのように、秋の視界から消えた。そして、またしても、男はおとなしく地面に這いつくばった。
秋の前では、舞い降りてきた天使のように、春子がゆっくりと降り立つ。
春子は男の手首を軽く持つと、おかしな方向に手をねじ上げた。
イタタタタァっツァ!!!!
男は肩を抑えながら、苦痛に震える。
秋の瞳に春子が映る。
春子は、天使の羽を整えると、緩やかにその翼を羽ばたかせたかのようだった。
そして、春子は可憐に舞を舞う。
「この、クソガキ!!!
舐めやがってぇ」
先ほど秋に右ストレートを喰らわした男が、構えをボクシングの基本のものに直すと、秋を無視して、春子の前に迫ってきた。
大きな男が春子に覆い被さろうと、その体をうねらせる。
春子はこの男の右の殴り拳の軌道を寸手のところで綺麗に交わすと、クルリと体を翻し背後をとる。
春子は男の勢いをそのまま使って、自分をすり抜けさせると、力の余った男の背中を軽く押した。
男が立ち止まることは許されない。
バランスを崩したかと思うと、春子はその足を軽く払った。
男はそのまま前のめりに走っていった。
ようやく止まるとゆっくり振り返り、恐ろしい獣と遭遇してしまったかのように、春子をワナワナと震えながら見つめた。
「なんなんだ?お前???」
リーダー格の男は、暗くなったこの時間にはもはや必要のないサングラスをようやく勢いよく外すと、春子を睨みつけた。厳つい眉毛、意外に切れ長で繊細な目、鼻筋は今までの喧嘩の蓄積からか、少し曲がっているようで、細い唇とは絶妙なバランスを作っていた。捲り上げられた右肩にはタトゥーが見え隠れしていた。
秋は、ふと、この顔を知っているような気がした。
「ケン!!女がこんなに強いなんて話、聞いてないぞ!どういうことだ??」
「すまん、俺にも・・・・」
倒れ込んでいた二人の男たちは何とか苦痛に耐えると、姿勢を立て直していた。
ただ走らされただけとなった右ストレート男は、腕に多少の自信があったのだろう。体勢を整えると、さらに春子に殴りかかってきた。
自分の右頬を目指してくる男の大きな手だったが、春子は素早く目の前に肘越しのガードを作る。春子の目の前で男の拳がぶつかるかに見えたが、春子は再び男の軌道を逸らし、男の力を無力化させる。
春子のそれは、ただただ、舞を踊っている天使のようだった。
春子はそのまま男の手を上に弾くと、男の弾かれた手は彼の防御を解放させた。
男の体はそのままあけっぴろげに伸びる。
そして、そこに春子は男の腹めがけて、容赦なく、左から回し蹴りを喰らわせた。
一瞬のうちに、大男が硬直する。
ぁがぁっっ・・・・!!!
蹴りは男性の大切なところを目掛けて見事にハマったようだった。春子は、かがみ込む男の丸まった背中に滑り落ちると、上から男の背中を押しつけ、地面に下座させた。
男の苦痛に搾り出される音に反応するかのように、古舞が奉納される。
春子の所作は手順通りにお行事よく並べられたようで、ただただ綺麗だった。
春子は、リーダー格の男と『ケン』と呼ばれた小柄のヤサクレタ男を正面に見据えた。
そして、精一杯の笑顔を作る。
春子の口がゆっくりと動かされる。
「正当防衛です。
・・・お兄さんたちは、どうしますか?」
春子は可愛い笑顔で、恐ろしいことを口にする。
「おいっ、一度ひくぞ。」
そうリーダー格の男が静かに言うと、倒れ込んだ男たちを回収し、春子を2度見することなく、元来た道であろう方向へと走り去っていった。
ふーーーっ
春子は静かにため息をつくと、いつの間にか再び尻餅をついて座り込む秋を見つけた。
「秋さん!!大丈夫ですか?」
秋は自分の口に広がった血を思い出した。
ゲホッ
口の右から血の溢れ出し顎を伝っていく感覚が走る。
ジンワリと痛みが増していく。
「ったく、弱いなら前に出ないでくださいよ・・・」
春子はハンカチを取り出し、あたりを見渡した。
そして、ブランコの向こうのお砂場のさらに向こうに水飲み場を発見すると、春子はとりあえず、秋をほったらかして、ハンカチを濡らしに行った。
春子はそそくさと戻ってくると、秋の顔の右側を自分の手で支えた。
「ちょっと・・・動かないでください・・・
あぁ・・・いったそぉ・・・」
自分が大きな男たちに力一杯危害を加えた事実は無視して、春子は自分も痛そうに反応しつつ、秋の左をハンカチで抑えた。
春子たちの頭上にはいつの間にか街灯が灯っていた。
「いッ・・・」
秋は、春子の触れるハンカチからの痛みを我慢した。
「応戦・・・しないんですか?」
「ばーか、応戦して怪我でもさせてみろ、始末書もんだ・・・」
「いや、避けるくらいしたらいいじゃないですか・・・私のは・・・したのに」
昨夜、秋をたたこうとした時には秋はしっかりと自分の両手を握りしめていた。
「ふん・・・」
秋も同様のことを思い起こしているのか、秋は視線を泳がせた。
春子は秋の瞳を覗き込む。
「・・・いやいや、お前のほうがおかしいだろう・・・
なんでそんなに強いんだよ?」
「・・・」
「・・・」
秋は目を逸らさず、春子の回答を待った。
「ママが・・・中国のドラマが大好きで・・・特に歴史物・・・。で、そのまま功夫にハマっちゃって・・・レッスン取らされたから・・・」
「いやいやいや。
・・・そんなんで、そこまで強くなれるもんか、普通・・・?!」
「運動神経だけは結構自信あるんです。」
春子は笑って誤魔化す。
「・・・まあ、なっちゃったものはしょうがないですよね。」
秋も笑おうとするが、口の切れいているところが、いっそう深みをますようだった。
秋は、ゆっくりと体を起こそうと、自分を支えた。
春子はそんな秋の腕を支えるとゆっくりと一緒に立ち上がった。
秋は再び目が眩むような感覚に襲われた。
思ったよりも脳が揺さぶられていたのかもしれない。じっと立ち止まると、目眩がとれるのを待ってみることにした。
春子はじっと静止した秋を支えると、心配そうに覗き込んだ。
秋はそのまま春子を抱きしめた。
「秋さん?」
「お前・・・そんだけ感がいいんだから、わかってんだろう?」
「・・・何を・・・ですか。」
秋は、春子の肩に顔を埋める。
「金原と俺に何もないこと・・・」
「ああ・・・、うん、確かに・・・。
わかってるかも・・・です。」
春子は自分の肩に乗せられた秋の頭をポンポンと撫でた。
なぜ出会ったばかりのこの大きな子供に愛しさを感じるのか、春子は自分の心の裏切りを痛感した。
「あの香り、証拠品だったんですか・・・?」
「・・・。」
秋は少し体を起こすと、そのまま春子をギュッと抱きしめた。
秋は自分の思考に混乱を感じると、やはり無視することにした。