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Revelation  作者: ニツカ
10/12

10.危険な香り

 「春子、お前はバカなのか。」

 間髪入れずに秋はそう吐き捨てた。

 その言葉に迷いはない。悲しいぐらいに・・・。

 秋のその表情は明らかな怒りを帯びていた。そして、昨日のような静けさはない。


 まさか二日続けて呼び出されることになるとは・・・


 教室の外には、ご丁寧に『生活指導』と書かれたプレートが(かか)げてある。

 「・・・。」

 秋は取ってつけたような冷たい視線を向けてくる。

 ただ、春子はそれを怖いと言うよりも、綺麗だなぁと平和に思っていた。自分を真っ直ぐに見つめてくるその瞳はただの怒りではないような気がしたからだ。

 まるで造り物の美しさ。


 この人は感情を見せない人なのかもしれない・・・。

 すごくきれい。


 春子は思わず見惚れていた。

 「・・・目立たない、問題を起こさない、そんなこともできないのか?」

 秋の辛辣な言葉と冷たい視線が春子を現実へと引き戻す。

 「・・・」

 この造形美(つくりもの)を壊したいと思うのは、なぜなのだろう。春子は自分の中に湧き上がるこの不思議な感情に戸惑った。


 どす黒い!?


 こんな混乱も困惑した気持ちも、今までに感じたことがないのだ。

 「だいたい、どこの愛媛で、レイプ事件だのマリファナ事件だのが起きるっていうんだ・・・

 春子、言ったよな?

 お前の出身がアメリカだってことは今の時点で知られるのは困るって・・・」

 「それが、意味がわからないんですよ。」

 理不尽(りふじん)(たた)()ける秋に、春子は反撃を決めた。

 「・・・」

 秋は春子の表情を探った。

 「いまどきアメリカから来てる人なんて少なくないですよね?

 帰国子女なんてどこにもいます。

 そんなに目立つことですか?」

 春子は湧き上がる自分の疑問を秋に投げつけた。

 「こっちにも色々と事情がある・・・、そういったはずだ・・・。

 久我(くが)の立場を考えろ。」

 「立場?

 あ〜あ・・・『ありえない借金で未成年を人質に取ってる』なんてことが知られたら社会的にやばいってことですか?」

 「・・・」

 「借金の(かた)で婚約を押し付けてるわけですから、それは『婚約者』なんかじゃないですよね・・・、いいところ『人質』ですよね?

 ・・・ああ、むしろ『人質』にすると外聞(がいぶん)が悪いから・・・『婚約者』なんですか?」


 やりにくいガキだな・・・


 秋は自分の心に一瞬の隙間が生まれるのを感じた。


 さて、どうやって黙らせるべきか・・・


 17歳の小娘を言い含めることなど造作もないことのはずだ。だが、目の前にいる少女はまるで自分との討論を楽しんでいるかのような素振りすらある。

 「そうか・・・納得してないんだったか・・・。

 だから、あえてこんな行動を?」

 春子は婚約を白紙に戻してもらうために、飛行機の中で『ビッチ(素行悪い女性)になることぐらいできるんだから』と心に誓ったことを思い出した。そうか、その手があったか、と、一瞬、平手を打ちたくなったが、そうもいかない。

 「それは見当違いです。それはそれで、これはこれ。関係ありません。」


 そうだ、それはそれ、これはこれ、今は(かなめ)を助けることを考えないと・・・


 春子は少し、歯を食いしばりながら、そう考え直した。

 「・・・やったのは彼じゃありません。ただ、それだけです。」

 「・・・手の怪我と室川の判断・・・だったか?

 まぁ、それだけじゃ、無実を証明するのは難しいだろうな・・・」

 「金原(かなはら)先生だって、実際に現場に居合わせたわけじゃありません。津田くんが苑池(そのいけ)さんを突き飛ばしたっていう物的証拠はありませんよね。まさかあんな曖昧(あいまい)な目撃情報だけで、犯行の立証なんてできない・・・ですよね?」

 「・・・」

 「ってか、物証(ぶっしょう)という意味では、あの人の方が色々出てきそうだけどなぁ・・・手首とか・・・」

 秋は春子を改めて眺めた。


 まいったな・・・


 春子は思ったよりも色々と細かいところに気づいてしまっているようだった。


 やりにくい・・・


 改めてそんな言葉が秋の頭を(よぎ)っていった。

 「それに・・・

 春子は少し躊躇したが、そのまま口を開いた。

 「秋さん・・・、あの時、なんであんなに早く対応できたんですか?

 秋さんだけじゃありません、室川先生も・・・まるでセリフを用意していたみたいに。

 あれじゃ、まるで何かが起こることがわかってた・・・みた・・い・・・?」

 あえて口にするとその通りだった。

 なぜ授業が始まった段階で職員室で待機もしくは各教室で教鞭をとっているはずの教師3名が都合よく集まって、迅速に対応しているのか。

 そして、室川の判断はむしろ用意されていたかのようではないか。医療行為の禁じられた学校で医療行為をやってのけてしまうくらい優秀な人間が、マリファナとコカインの区別がつかないわけがないのだ。

 秋は少し目を見開くと、一瞬答えに詰まった。

 そして、尚も考え込む春子を見つめ、軽く笑みを浮かべた。


 鋭いな・・・


 「まぁ、お前が気づけるようなことは、警察でも気づいているよ。実際に津田は任意にも至ってない。

 「だったら!!

 「でも、これは事件だ。立派な刑事事件なんだよ。警察の仕事であって、お前が興味本位に首を突っ込んでいいことじゃない・・・わかるよな?」


 ・・・興味本位?


 春子は何か一つの大きな雨粒(あまつぶ)が落ちたような気がした。

 この人は本当に『興味本位で動くような無責任な』人間(わたし)に『一目惚れ』をして、婚約を望むような人なのだろうか。

 話せば話すほど、彼の『一目惚れ』説を(くつがえ)す証拠はいとも簡単に出てくる。

 しかも、秋はそれをわざと見せているかのような、そんな言動をとってくる。

 それは、違和感でしかなかった。

 「春子・・・津田には関わるな。」

 カーテンから降り注ぐ木漏れ日は秋の横顔を優美に彩る。

 いつから窓が開けてあったのだろうか。もしかしたら、教室に入った時から、開いていたのかもしれない。すり抜ける風が春子の脳裏に、引っかかっていた疑問を(よみがえ)らせる。

 「・・・・」

 「春子?」

 「秋さんは、何を知っているんですか。」

 春子は秋に一瞬の動揺があったことを見逃さなかった。何かしらの核心がそこにあるようだった。

 「・・・」

 「秋さん?」

 「・・・お前が知る必要はない」

 秋は、ふうっと息を深く吐いて、呼吸を置いた。

 「とにかく、もう一度言う。津田の件には首を突っ込むな。

 これはリクエストじゃない。

 命令だ・・・」

 「い・や・で・す。」

 春子は秋を(にら)みつけた。

 秋は春子のことを分ってもいないし、分かろうともしていない。しかも、それを春子にわかるように伝えてくる。つまり、春子に興味がないということを、だ。

 しかし、この簡単な結論は、なぜか春子の心をいっそう曇らせると、よりいっそうの反抗心を掻き立てた。

 一方、秋は春子の年齢相応の反応に、目の前の少女がまだまだ幼い子供だということを思い出す。適当に誤魔化すことは十分に可能だ、そんな結論が思いつく。

 「津田(かなめ)・・・ねぇ。・・・まだ出会って一週間も経っていないのに、随分・・・だな。」

 春子は思わずキョトンとした。秋が何を言わんとしているのか理解できなかった。

 「イチャつき、エスケープに・・・、ああ、『秘密』もあるか」

 いつから動き出していたのか定かではないが、秋は徐々に春子に間合いを詰めていた。

 「昨日、帰りはあいつと二人で帰ったんだろう?」

 やはり昨日二人で帰ったことは秋に筒抜けとなっていた。

 「ストーカー・・・」

 春子は近づいてくる秋にびくつくと、少し後退りした。

 「デートは楽しかったか?」

 目の間に迫った秋は、春子の視点に合わせて少し腰を屈めると、春子の顔を覗き込んできた。

 「ん?え・・、はい?まぁ・・・」

 昨日同様、春子はずいぶんあっさりと自分の行為を『デート』だと認める。

 その返答に、秋は不穏な色を見せる自分の心をあえて見なかったことにした。一方、春子には、なぜ秋が突然そんなことを聞き始めたのか、理由がわからなかった。

 「ずいぶん、簡単なんだな。」

 秋はうっすらと意地の悪い笑みを浮かべると、そう言い放った。

 「簡単?」

 だが、春子にはその言葉も彼の意地悪な微笑の意味もやはりわからない。

 「津田くんと帰ることが簡単ってことですか?

 ん?

 デートが簡単?」

 本格的に混乱している様子の春子に、秋も少々面食らっていた。春子が演技をしているようには見えなかったからだ。難しい問答(もんどう)ではないはずなのに、春子は困惑の表情を見せている。

 「・・・あいつが好きなんだろう?」

 秋はストレートな疑問を春子に投げかけた。

 「・・・ええ、まぁ・・・

 ・・・いい子ですから。」

 「・・・」

 「知り合ってまだ4日・・・ですけど、友達がどんなこくらいかわかりますから。」

 秋はかすかにではあったが、呆気(あっけ)に取られたような、驚いたような反応を見せた。

 「ともだち?」

 春子は秋のとぼけた表情を見逃すことはなかった。

 秋の冷静な仮面がはずれたような気がして、春子は意味もなく満足していた。

 「はい・・・。

 クラスメートですし・・・

 友達ですよ?!」

 春子は放課後の(かなめ)の行動を反芻(はんすう)していた。

 わざわざ治療の報告のために春子を待っていてくれたり、電車では怪我をしているにも関わらず春子を気遣ってくれたり、春子の複雑な境遇を察して聞き流してくれたり。ずいぶん優しい子だ。

 たったの4日で得られる悪評は少なくなかったが、それでも、春子には彼の本質をしっかり認識するには十分な付き合いをしているように思えた。

 ふっ・・・

 秋はうっすらと笑みを浮かべると、意地悪そうな目を見せた。

 「なるほど。よくわかった・・・。

 要するに、お前は俺に口を(ふさ)がれたいんだな?」

 思ったよりも斜め上をいく返答に、春子は眉をかしめる。

 さっきまでの造られた怒りではなく、秋の表情には本物の怒りのようなものが(うかが)えた。


 二人の間に沈黙が流れる。


 外のざわつきは響き渡る。

 廊下を誰かがパタパタとかけていく。

 昼休みを迎えた校内には、いたって普通ないつもの時間が流れていた。


 春子は秋の視線に耐えられず、自分の視線を()らすと、行き場の失った自身の視線を窓の方へ投げ捨ててみた。

 風で揺れるカーテンの隙間からあふれる木漏れ日が二人を優しく彩る。


 「な・・・っにを言うかと思ったら、

 ・・・秋さん、意味、わかんない・・・

 なんで、そぉ・・・」

 秋は迷子になった春子の視線を捕まえると、右手で春子の左頬にそっと添えた。

 そして、そのままゆっくりと自分の顔を近づける。

 秋は自分の目と鼻の先に迫っている。

 教室の座席に阻まれた春子は身動きが取れなかった。

 「どうする?おとなしくする?

 それとも、やっぱり、俺に手を出してほしいわけ?」

 突如訪れた的外れな問いに、春子は激しく混乱した。


 なぜこうなった・・・


 木漏れ日に彩られた秋の顔は今まで見た何よりも綺麗で、眺めさせてもらえるのは悪くないなぁと、そう呑気なことも考えてしまっていた。

 「ん?春子?」


 柔らかい吐息が春子の口に降りかかる。

 心地のいい胸の高鳴り。

 この高揚した心音(しんおん)は何を意味しているのだろうか。

 春子は幼い日のコロラドを秋の瞳にとらえた気がした。

 冷たい川からの水飛沫(みずしぶき)

 我先にと背伸びをする植物。

 地面を()う山からの雪解け水。

 そして、どこまでも優しい緑の風。

 コロラドのあの大地()で秋に会ったことがあるとでもいうのだろうか。


 秋の瞳に宿る輝きは、どれをとっても何かしらしっくりくるものがある。

 ある一種のデジャブのような感覚を覚える。

 春子はこの心地のいい空間を抜け出したいとは、どうしても思えなかった。


 それと同時に、春子はこの人がやはり本当に自分を何もわかっていない、わかろうとしていないということを確信した。

 アメリカで育った自分にとって、ちょっとしたキスくらい珍しいことではない。むしろ近しい間柄では心地のいい挨拶にすぎない。

 そして、自分は目の前のこの綺麗な人が嫌いではないのだ。


 口封じ・・・

 ああ、そういうことか・・・


 春子に静かな悟りが訪れる。


 意外と短絡的(たんらくてき)なんだなぁ・・・

 誤魔化そうとしても、無駄だって言ったのに・・・


 春子はちょっと口元が緩むのを感じた。

 そして、やはり少し満足した気持ちを確認すると、そっと目を閉じた。


 予想に反して、突然閉じられた春子の瞳に、秋は愕然(がくぜん)とした。


 あくまで汚れを知らない赤子のような柔らかな頬。

 衝動的に春子の頬に当てた自分の手が突然の満足を感じているのを知る。

 自分を信じ切っているというのか、安心して身を(ゆだ)ねる春子。


 出来心?興味本位?


 当てはめる言葉があるとしたら、そんな言葉が正しいのかもしれない。

 相手はまだ17歳の女の子。

 こういうことを体験してみたいという衝動があっても不思議でない。

 どちらにしても、これが大きな誤算であるということは認めざるを得ないようだった。

 秋は自分の判断に全権を委ねる春子に複雑な思いを抱いた。


 彼女との婚約はあくまでただの手段でしかなかった。

 久我の家で自由を得るための・・・、それ以上でも以下でもないはずだった。

 しかし、そんな割り切った思いは、彼女を空港で見つけたときに、いとも簡単に崩れてしまっている。

 途絶えたはずの幸せな時間。

 それを象徴するのがこの春子なのだから。

 春子は唯一残された手がかりではあったが、それ以上にこの子の存在が自分に幸せの時間(とき)を与えてくれたのだ。

 三年前に見たあの子は確かに春子(このこ)だった。自分にまだこんなまともな人間的な感情があったことに驚きと新鮮さを覚えたぐらいだった。


 秋は自分もまた目を硬く閉じると、少し深く溜息をこぼした。


 春子は秋の呼吸に触れた。


 もしかしたら、もうすでに、互いの唇が少し触れていたのかもしれない。

 秋は身動きがとれなくなっていた。前に倒れ込むことも、後に引くこともできない。

 しかし、自然と春子を抱き寄せていた。

 春子の頬に触れていた手は、春子の愛らしく透き通るような綺麗な後ろ髪をゆっくりとかき上げる。

 まだ17歳。

 面倒な縛り。

 少しの苛立ちを感じながらも、春子のおでこに優しくキスをした。

 引き寄せられるこの衝動を止めるそんな術を秋もまた持ち合わせていなかったのだ。

 

 ガタン!!!


 廊下で大きな物音が鳴り響く。

 秋は我に帰ると、慌てて春子を引き離した。

 二人はほぼ同時に音が聴こえた扉の方を振り返った。


 春子はいきなり夢から引き剥がされたような感覚に襲わた。

 と、同時に迎えくる少しの安堵とかなりの不快感。

 不細工に隠れきれていない頭が扉の小窓越しに見え隠れしていた。

 影は慌てている様子ではあるものの、立ち退く気配はなかった。

 秋は春子をさらに遠ざけると、扉の方へ向かった。そして、ゆっくり扉に手をかけ、一気に力を込める。 

 大きく開かれた引き戸の向こうにいたのは、英語教員の金原(かなはら)志保梨(かほり)だった。隠れる努力をするわけでもなく、金原(かなはら)は漠然とそこに立ち尽くしていた。

 「金原(かなはら)先生・・・?」 

 金原(かなはら)はおおげさに驚くと、少し潤みがかった目で秋を見つめた。

 「・・・久我(くが)先生、これは・・・

 あっ、あの、私・・・職員会議が・・・あのぉ」

 とろそうな頭では言い訳も出てこないといったところか、金原(かなはら)はくどいほどに動揺してみせた。

 そんな彼女を前に、秋がどのような表情を見せているのか、春子には見えなかった。

 「柏瀬(かしせ)さん・・・今日はこれまでにしましょう。

 八名井(やない)からの迎えが来るそうですから、後で電話をするといいですよ。」

 秋は端的(たんてき)な業務連絡に(てっ)する。

 そして、振り返り、春子を一目すると、そのまま春子を教室に残して扉を閉めた。

 

 時を待たずして、お昼休み終了のチャイムが鳴り響く。


 春子がようやく秋のオフィスを出た時、廊下にはすでに誰もいなかった。


 春子は複雑な思いで自分の教室を目指した。

 昼休みをはさんだ構内は雑然(ざつぜん)とした空気を抱え、それでも、思った以上の日常を取り戻そうとしている。

 事件現場付近には黄色の立ち入り禁止のテープが貼ってあったものの、警備員2名を除いて誰もいる様子はなかった。基本的な捜査は終わったというのだろうか、警官の姿はない。

 さっきの出来事がたったの3・4時間前のことだったとは到底思えないくらい閑散(かんさん)としている。

 春子は事件現場に改めて足を止める。

 警備員がそんな春子に気がつくと、厳しい目を向けてきた。

 いつの間に窓が開け放たれたのだろうか、緩やかな風が流れ込んでいた。

 保存しておくべきの事件の形跡は何も残っていないようだった。


 春子がようやく教室に戻った時、そこに(かなめ)の姿はなかった。(かなめ)は職員による聞き取りのために再び職員室に行ったらしかった。この呼び出しは、当然ながら、(かなめ)犯人説をより増長させていた。

 午後は再び職員会の再開に伴い、自習を言いつけられているらしく、生徒たちは思い思いに過ごしているようだった。教室は再び事件の話題で持ち切りだった。

 無意味にざわついた教室が嫌で、春子は更紗と教室を抜け、お昼に食べ損ねたお弁当を中庭で食べることにした。

 「そういえば、春ちゃん、大丈夫だった?」

 「え?うん、もちろん。どうして?いや、何が?」

 「久我(くが)先生だよ。先生があんなに怒ってるのって初めて見たかも・・・。」

 「へぇ・・・」

 「生徒指導の先生だからっていうだけじゃないような・・・」

 「えっ???」

 春子は思わずギョッとなった。婚約がバレたとあっては再び秋に怒られてしまう未来しら考えられないのだから、焦る気持ちが春子を動揺させた。

 「あの久我(くが)先生が2日も続けて、しかも怒るなんて・・・」

 「別にそんな、怒られてたわけじゃ・・・」

 更紗は懐疑的な視線を春子に向ける。春子は隠し事ができないようだった。

 「・・・先生があんなに感情出すことってないと思うよ。

 なんか・・・いつも優しいって感じの人だから。

 どんな時も冷静だし・・・」

 春子はあの取ってつけたような怒りの表情を思い起こした。

 「・・・どうみても久我(くが)先生って、なんか春ちゃんのこと気にかけてるよね。」

 「そうなのかな・・・あれは・・・気かけてるの?

 なんか全然嬉しくない・・・」

 春子は自分のドギマギを抑えられていなかった。

 「八名井(やない)先輩も由良島(ゆらしま)さんも家同士の繋がりがあるから、親しくても不思議じゃないのに、あの二人にあんな接し方しないもん。」

 「いやいや、それは単にお二人がの素行がいいからじゃない、かな・・・知らんけど

 いや、別にだから、怒られてたわけじゃないんだよ。ただ・・・」

 「ふーん・・・・」

 春子の曖昧な返答に、更紗は何かを察するとこれ以上問い詰めるのはやめておいてあげようと考えた。

 居心地の悪い沈黙が流れる。


 「あの」

 「あの」

 二人は同時に声をかけた。思わず笑顔が(こぼ)れる。

 「春ちゃん、・・・どうぞ」

 「更紗が・・・、何?」

 「いや、今度は春ちゃんが・・・」

 春子は意味のない押し問答を続ける気などサラサラなかった。

 春子は更紗に笑顔を送ると、大人しく口を開いた。

 「うん・・・、更紗にとって、津田くんってどんな存在なの?」

 「・・・」

 更紗はかすかに狼狽(ろうばい)した様子だった。

 「ど、どうして?」

 春子は自分が何か見当違いなことを聞いてしまったのだろうかと思った。

 「だって、他の子みたいに津田くんのこと、問答無用で悪く言わないし・・・

 今朝だって職員室でずっと気にかけてたでしょ?」

 「あ・・・うん・・・ま、隠しているわけじゃないけど・・・

 ただ、家が近所で、ずっと一緒に育ってきたから・・・

 他の人よりは、津田くんのこと、ちょっと知ってるだけ・・・」

 「ああ、幼馴染ってやつ?」

 「そう・・・それだけ・・・」

 更紗は春子との目線をそらした。ふとその表情に少し寂しそうな(かげ)りが見える。

 「すごいよね、ずっと一緒だなんて。」

 「?」

 「だって、ここの学校って幼稚舎からあるんだもん・・・」

 「違うよ。かっ・・・あの津田くんは幼稚舎からここだけど、私は中等部での編入だから。」

 「へーーー、でも、更紗は津田くんと、仲良しなの?」

 「・・・昔はね。」

 「今は?」

 「・・・」

 更紗は回答に困っているようだった。

 「・・・思春期?」 

 「は?」

 すっとんきょうな春子の問いに、更紗は豆鉄砲(まめてっぽう)を食らった鳩のような表情を春子に向けた。

 春子はからかうように笑った。

 「思春期。ね、なんとなく意識しちゃって、お互い恥ずかしくて話せていない・・・とか・・・そういうお年頃なの?」

 「あ、ああ、いやぁ・・・そいうつもりはないんだけど・・・

 別に意識とか・・・ないし・・・」

 更紗は言葉を詰まらせる。

 考え込む更紗を春子は探るように眺めた。

 視線は遠くを泳がせたまま更紗は少し口を開いた。

 「・・・春ちゃんは・・・津田くんのこと・・・ど、どう・・・思ってるの?」

 更紗はそう言った。

 「教室で話した通りだよ。」

 「ん?教室で?」

 「そう、私は違うと思ってるよ。」

 春子は躊躇することなく答える。

 しかし、更紗は再び驚きとも困惑とも言えない表情を春子に返した。

 「違う?」

 更紗には春子の回答が理解できなかった。そこに(かなめ)を異性として意識しているような華やかさがないのだ。恋する乙女の表情とは明らかに違う。鋭い目線を向けている。

 「うん、そう。だから、私も更紗にそれを聞きたくて・・・。」

 「・・・?ん?」

 更紗は少しずれて反応を示した。

 「更紗はどう思う?」

 「どうって、私は別に・・・ただの幼馴染だし・・・」

 「うん、だから幼馴染として、どう思うの?彼のこと、子供の頃からよく知ってるんでしょ?」

 「ん?」

 何か話が噛み合ってないことに動揺する更紗。

 それに気を止める様子のない春子。

 二人は互いの瞳に混乱を見つける。

 「春ちゃん・・・どう言うこと?」

 「だから、今回のこと。津田くんって故意に人を傷つけちゃうような人なのかってこと。」

 「ああ、あ〜〜あ。そっち?!」

 「ん?どっち?」

 再び二人の瞳に困惑が生まれる。

 「ううん、ううん、なんでもない。」

 更紗は春子の意図を汲み取ると、自分の勘違いが恥ずかしくて顔が赤くなるのを感じた。

 「あ、あの、今回、今日の事故のことね。

 あの・・・いや、そんな・・・どう、どうなんだろう。」

 更紗は今までとは全く別の意味で返答に困った。

 「喧嘩とかしてるって、そう言うのはよく聞くから・・・なんか、素行は良くはないよね。

 でも、だからって、女性を傷つけるとは・・・考えられない、かな。」

 「そっか・・・」

 「・・・春ちゃんが言ってたのって本当なの?」

 「何?」

 「苑池(そのいけ)さんの洋服と白い粉だっけ・・・、ほら、教室で言ってたでしょ?」

 「ああ、そうそう。うん、間違いないと思うよ。

 あの怪我じゃ、他人の服は破れないし、あの粉はマリファナなんて可愛い代物じゃないと思う。」

 「でも、じゃあ一体誰が・・・。」

 「それなんだよね・・・物証がないから、そのうち、津田くん自身の容疑は晴れるんだろうけど、あんなに何度も呼び出されると、決めつけられている感じがあるよね。

 津田くんよりも、全然怪しい人、何人かいるけど、まぁ、こっちも物証はないからなぁ・・・。」

 「いるの?」

 春子の大胆な発言に更紗は驚きの声をあげた。

 「うん。」

 「・・・誰?」

 「まぁ、まずは、やっぱり第一発見者だよね・・・」

 「津田くん?」

 「違う。彼は当事者・・・

 あの時、現場に一番に来た人・・・金原(かなはら)先生。」

 「まさか、先生だよ・・・なんのために?」

 「それなんだよね・・・ちょっと動機がないし、ただ、もしかしたら物証は出てくるかも・・・。

 あと、犯人を考えるときに、『先生だから』っていうのは関係ないよ。

 先生だって人間だし、間違うことは十分にある。

 うちの親だって・・・あ、いや。

 まぁ、とにかく大人の犯罪者って多いじゃない。感情や気分・衝動をコントロールするなんて、むしろ頭が硬くなってる分、大人の方が難しいらしいから・・。教師なんて聖職者は、特に普段色々制約があって溜め込んでるだろうしね・・・」

 「溜め込む?そ・・・そんなもの?」

 「うん、セオリー的にはね、あの、論理的には・・・」

 春子は自分の説明に、呆気に取られている更紗を見つける。

 「らしいよ・・・。そうだって、ママの友だ・・・、あぁ、いあぁ、あの、本で読んだことがあるかな」

 遠い昔に親から自分の知識をひけらかすのは良くないとそう言われていたのを思い出すと、春子は白々しくもあったが、余分な情報を付け加えてみた。

 「・・・へぇ・・・」

 更紗は混乱する思いがした。春子のことをよく知っているわけではないが、教室での説明といいこの説明といい、情報量が多い。だが、自分の懐疑を無視するかのように、春子はミステリードラマや推理小説が好きなのだろうと思うことにした。

 「他には?」

 「あと、怪しいのは、明らかに嘘をついている保健の先生?」

 「室川先生??嘘って」

 「さっきも言ったけど、あの人意外と優秀そうだから・・・そんな人が薬物の区別、つかないわけないんじゃないかなって・・・」

 そして、更紗には当然の疑問が湧き起こる。どうして、春子はそれらの薬物を区別することができるのか、だ。


 『見たことないかもしれないけど、マリファナは、つまりグラス(grass)、ウィード(weed)、ハーブ(herb)とかっていろいろな種類があるんだけど、いずれにしても「草」って俗称がつくような物なのね。』


 更紗は春子が流暢(りゅうちょう)にそう説明していたのを思い出した。

 まるで自分はそれらを見たことがあるかのように。

 「それに・・・」

 春子は視線を自分のお弁当に落とす。もうほとんど残っていないが、喉が詰まる思いがした。

 「ん?」

 「く・・・、く・・」

 「く?」

 更紗は春子を覗き込んだ。春子は更紗を見つめ返す。

 「・・・・・・久我先生・・・」

 「・・・春ちゃん・・・・・・逆恨み、入ってない?」

 「やだ、そんなのないよ。

 指導するのが先生の仕事なのはわかるし・・・

 でも、あの人たちって、確実に否定できないんだよね・・・。

 先生たちが来たタイミングがみんなが噂する通りなんだんたら、タイミングが良すぎる・・・」

 春子は言葉を飲み込んだ。

 先ほどの秋とのやりとりを反芻する。


 「秋さんは、何を知っているんですか。」

 「・・・」

 「秋さん?」

 「・・・お前が知る必要はない」

 「とにかく、もう一度言う。津田の件には首を突っ込むな。

 これはリクエストじゃない。

 命令だ・・・」

 

 そして、気をそらせるためにあの人は、無駄な手を打って出た。

 いや、結果として、春子はそれ以上踏み込むことができなかったわけだから、無駄でもなかったのかもしれない。そう思うと、秋に対しイラッとしている自分に気が付く。


 ・・・なんかむかつく。ごまかした・・・


 「そうなの?」

 更紗の声に春子のイライラをかき消された。

 「ん。あと・・・」

 ふと春子は四宮の不的な笑顔を思い浮かべた。

 しかし、やはりその言葉も飲み込むことにした。

 なぜ四宮はあんなにも達成感に満ちた表情をしていたのだろうか。しかも一瞬だけで、すぐにいつもの彼に戻ったわけだ。彼の普段の年相応な表情とはかけ離れた冷たい笑顔だ。

 「・・・なんか、春ちゃんって工藤新一みたいね。

 なんか、本当にこのまま解けてしまいそう!」

 更紗は考え込む春子を邪魔することにした。

 「工藤?しんいち・・・?って誰?」

 「ふふっ」

 更紗は気づくと楽しそうに笑っていた。

 「ねぇ、・・・・春ちゃんって、愛媛の出身・・・じゃないよね。ってか、日本でもなくない?」

 直球なコメントに春子は何かしら心が安らぐ気がした。

 「へへへ。」

 「愛媛の出身ってことにしたいんだよね?

 だったら、もっと気をつけなきゃ・・・」

 「津田くんにも同じこと言われた。」

 「かなっ、津田くんにも?」

 「うん、実は、速攻バレちゃって・・・」

 春子は要にバレたときのようなある種の安堵に包まれているようだった。

 「その工藤さんって、そんなにみんな知ってる人なの?有名人?」

 「うん、ほら。」

 更紗は自分の携帯の画像検索結果を見せてきた。

 『工藤新一』の検索結果だ。

 「あああ、ママが好きなのだ・・・あれ?でも、これって、コナンくんじゃないの?」

 「コナンくんは、この小さい方ね。で、こっちの大きな高校生が工藤くん。」

 「あ〜あ・・・

 ははは、ママの言う通りだ。

 漫画って日本文化には欠かせないんだから、少しは読んで勉強しとけって言われてたのに。」

 「めっ珍しいママだね・・・

 普通漫画ばかり読むなって言われない?」

 「ああ、あの人変だから。」

 二人はクスクスと心地よい笑顔を交わした。

 偏見もなく気持ちよくわかってくれる人がいるのに、秋は自分の素性を明かすことを許してくれない。春子は嘘をつく事にある種の罪悪感を覚えていた。

 「ごめんね・・・

 でも、私もなんで自分がこうなってるのかよくわかってなくて

 ・・・ごめん。

 いずれ説明できるとは思うんだけど・・・」

 「くすっ、いいよ。

 ・・・じゃあ、今は聞かないし・・・

 カバーしてあげるよ。」

 お互い話せない事があるみたいだなぁという雰囲気は二人を優しく微笑させた。

 春子は更紗の可愛い笑顔にやっぱり安堵を覚えると、にっこりと笑い返した。


 ガサガサ、ガザッ!

 「あら、先客がいらしたのね・・・」

 突如、女子生徒が三人ほど現れた。胸元には同じオレンジ色の刺繍をしている、つまり同学年の生徒だということだ。

 特に話を聞かれた様子はなかったが、そこに立ちはだかる女生徒たちは明らかに態度が大きく、春子は思わず身構えた。

 「あら、あなた・・・確か、転校生よね?」

 アメリカ育ちの春子は日本語が時に不自由になる、しかし、その中で両親には『あなた』を使うなとこっぴどく怒られてきた。もちろん失礼に値するからだ。

 それを当たり前のように使う目の前の少女。

 春子は遠慮なく怪訝(けげん)そうな表情をしてみせた。

 「笠原(かさはら)さん・・・」

 「あら、蓼科(たてしな)さん、ごきげんよう。

 クラス委員のあなたがいるってことは、やっぱり例の転校生なのね。」

 笠原(かさはら)つづらは肩までまっすぐに伸びた髪、切れ長のおだやかな目、紅を差したような赤い唇をしており、茶色がかった髪の色を除けば、まるで日本人形のような少女だった。

 「どうなの?つづら様が聞いていらっしゃるんだから、答えなさいよ。」

 後ろから勢いのついた唾が飛んでくる。

 春子はさらに嫌悪感やら不快感を感じていた。

 「別にいいわ。ねえ、聞きたいことがあるの。」

 つづらは更紗を横目で見送ると、春子に視線を落とした。

 「私に?」

 知り合いでもない人に限りなく見下ろされていることで、春子はこの少女に対する嫌悪感が増しているのを感じた。

 「ええ、単刀直入に聞くけど、あなた、津田(かなめ)さんと付き合っているの?」

 不躾(ぶしつけ)でストレートな質問に、春子はとりあえず更紗を見た。

 更紗もちょうど春子を探し当てたところだったようだ。

 「あなたたちがデートしているのを見たって人がいるの、

 ・・・複数・・・」

 ・・・デート?

 そういえば、秋もそんなふうに言っていた。それは明らかに一緒に帰ったときのことを指している。


 『デートは楽しかったか?』

 『随分、簡単なんだな。』

 『・・・あいつが好きなんだろう?』


 そう言っていた秋の言葉が脳裏を()ぎる。


 ん?好き?


 あの日、春子と(かなめ)は一緒に帰っただけなので、通常の日本人の常識からするとこれはデートではない。ただし、春子はアメリカ生まれのアメリカ育ち。そして三年ぶりの日本。幾分、日本語力には障害が生まれている。

 英語でもdateは正式な男女交際を指すものではあるが、アメリカでは異性の友達と一定の時間楽しく過ごすことを『デート』と呼んでも間違いではない。子供の頃から友達と遊ぶことを俗に『play dateプレイデート』と言うのだ。そして、春子に日本語の「デート」という経験はない。よって、春子にはその違いを認識するに至っていないのだ。


 ・・・デート・・・まぁ、そうなるよな・・・

 

 と、春子はこんな頓珍漢なことを考えていた。

 が、そんなことよりも、この小娘の人を見下すような態度が気に入らない。

 立っているからだけなのかもしれないが・・・しかし、この無駄な威圧感が気に食わない。

 「だったら、何?」

 春子は思ったよりも強い口調で返答した。

 考えをまとめるよりも口の方が先に動いてしまう。

 これもまた両親に幾度となく注意され続けてきたことだった。しかし、どうやら自身の根幹にその行動原理があるらしかった。つまり性格なのだからしょうがない。

 「ちょっと、あなた!口の聞き方に気をつけなさい。」

 後ろの取り巻きその1が唾を飛ばしながら、しゃしゃり出てくる。

 由良島(ゆらしま)麻耶(まや)のお仲間といい、この子達といい、どうしてこうも型にハマった行動パターンなのだろうか。どこかのマニュアルから借りてきたようなセリフだ。

 春子の思考はいたって健在だった。

 「デートしてたら、どうなの?・・・あなたに説明する必要なんて、ないでしょ?」

 間髪入れずに春子の口は動く。

 春子はつづらをからかうように、少し嘲笑(あざわら)ってみせた。

 「ちょっと、あなた、つづら様にそんな口の聞き方、許さないわよ。」

 取り巻きその2も前へと足を進める。

 「許さないって・・・、許さなかったら、何?どうするの?」

 春子はすくっと立ち上がると、自分のスカートにくっついているであろう芝を軽く払った。

 そして、そう言いながら、さらにからかうような悪戯(いたずら)な笑顔を送った。


 春ちゃん・・・悪役っぽい。


 隣で眺めていた更紗はそんな平和なことを考えていた。

 「このっ・・・・」

 取り巻きその2は春子に詰め寄ると、素早く大きく手を振り上げる。

 そして、間髪(かんぱつ)入れず、春子の顔に向けて振り下ろしてきた。

 「やめなさい!」

 つづらの声が響く。

 春子は素早く身を引き、振り下ろされた平手打ちを避けた。

 そして、彼女の手を綺麗に自分の右側に受け流した。

 「!?」

 春子はバランスを崩した女生徒の手首をギリギリのところで掴む。

 そのまま転ぶのを食い止めた。

 一瞬のことだったので、当人以外は何が起こったのかよくわかっていない。

 そのまま気まずい雰囲気が周辺を支配する。

 更紗はただ静かに春子を見つめ、できる限りの情報を持って状況把握に努めているようだった。

 春子は転げそうになったその女生徒の体制をぐっと引っ張り上げて元通りにすると、つづらの方へ軽く押しやり、丁寧に送り届けた。

 「きゃあ」

 大袈裟な悲鳴が響く。

 つづらはそんな女生徒の様子を気に止めるわけでもなく、春子を見つめた。

 「・・・志乃(しの)、やめなさい。」

 つづらは静かに静止した。そのまま志乃と呼ばれた少女に厳しい視線を送る。

 その取り巻きその2は後ろ向きのまま、何も言わない。

 「で、でも、つづら様。(かなめ)様は・・・」

 慌てて、取り巻きその1がつづらに迫る。 

 「ええ

 ・・・転校生、答えなさい。

 あなた、彼とどういう関係なの?」

 つづらは精一杯の冷静さを取り戻したように取り繕うと、春子にもう一度聞き直した。

 春子は背が高い方ではなかったが、つづらは春子よりもさらに小柄だった。態度が大きいので、随分長身のように思えていたが、そうでもないらしかった。

 「もう答えたでしょ。

 ・・・あなたに説明する気はないって。」

 春子はそう言って渾身(こんしん)の笑顔を送る。

 意外にもつづらはすんなりと向きを変え、真っ直ぐに教室の方へ歩き始めた。

 滑稽なほど典型的にその後ろを二人の取り巻きが追いかけていった。

 

 「流石に、『覚えてなさい』とか言わないんだ・・・」

 「え?」

 「ううん、なんでもない。」

 ピンと張られた緊張の糸が断ち切られる。

 春子は更紗と目を合わせると、クスクスと笑った。

 「・・・春ちゃん、大丈夫?」

 「うん・・・なんだったんだろうね・・・」

 更紗も自分のスカートの裾を叩いた。いつの間に拾いあげたのだろうか、更紗はハンカチに再び包まれた春子のお弁当箱と水筒を春子に手渡した。

 「春ちゃんは・・・好きなんだ・・・」

 「う?」

 「津田くんのこと・・・」

 「?」

 春子はあいかわずキョトンとした様子だった。

 更紗にとっては、春子が素早く平手を交わしたことよりも、そのことの方が重要だったようだ。

 「うん・・・、まぁ、好きだよ。」

 秋に答えたように、春子はあっさりそう答えた。

 ある程度予測はしていたことだが、そう認める春子に更紗は動揺した。

 更紗は一瞬凍りついた表情を見せたが、そんな動揺を隠すために話をつなぐ事にした。

 「そ、そう・・・そっか・・・そうなんだ・・・だよね・・・」

 自らを(なだ)めるかのように(つぶや)く更紗。

 明らかな動揺が伺えたが、春子はその動揺の意味が理解できなかった。決して彼女を狼狽(ろうばい)させるようなことは言っていないはずだと考えた。 『友達を気に入っている』と告げただけなだから。

 何が彼女をそこまで動揺させてしまったのだろうか。そこには自分が理解できていない何かがあるのかもしれない、そういう漠然とした疑いが湧き起こる。

 「更紗もでしょ?幼馴染なんだもん・・・。」

 「ん?」

 「更紗も言ってたように、津田くんって、いい子じない?優しいし・・・昨日、迷子になった時だって・・・」

 「ん?・・・迷子?」

 「そう。私、まだ家までの帰り道がわからないのに・・・。

 昨日の朝、案の定すごかったでしょ?

 ほら、更紗が私に声かけてくれるまで、隆史(たかふみ)さんが一緒だだってだけで、すっごい騒ぎだったよね。

 だから、あまり隆史(たかふみ)さんの手をわずらわせるのも嫌だなって思っちゃって。

 で、どうにかなるだろうと思って、一人で帰ったの。」

 秋にムカついて一人で帰ろうとしたという事実はとりあえず伏せておくことにした。

 「そしたら、見事に迷子で・・・ハハハ・・・

 たまたま津田くんに会ったからよかったけど・・・

 で、どうせ近くだからって一緒に帰ってくれたの。

 ・・・、あれ?じゃあ、更紗のお家も、西駅あたりってこと?」

 「ん?」

 「え?」

 「ん?デート???でしょ???一緒に帰っただけ?」

 「うん。だけ。」

 「それは・・・迷子になったから・・・?」

 「そう。」

 突然、更紗は春子の思考回路が理解できたような気がした。

 「春ちゃん、もしかして(かなめ)のこと異性として、好きとか、は・・・ないの?」

 「異性?・・・津田くんが男だったら、何か変わるの?」

 「いや、そうじゃなくって・・・あの・・・だってデートってことは、そういうことなんでしょ?つまり、お互い好きだから、付き合うってことでしょ・・・。」

 「ん?付き合う?

 ・・・ああ、コミットメント(誓・約束を伴う正式な交際)の方か・・・

 あ〜あ、デートって、そっち????

 あれ?付き合いなんかなくても、別にデート(男女で遊ぶ)でしょ?」

 「ん・・・違う」

 更紗はあっさりと否定した。

 「違うの?」

 「うん、それはデートじゃないの。お付き合いしてる人がするのがデート・・・。ねっ。」

 「じゃあ、好きって・・・つまり?」

 「そう、(かなめ)に対して異性として、男性としての好意があるかってこと。」

 「・・・・ああ〜〜〜〜〜

 全然・・・ないなぁ・・・

 まだ、会ったばっかだし・・・

 ない・・・よ・・・ねぇ・・・」

 「うん、春ちゃん・・・本当に一体どこで育ったらそうなるの?」

 更紗は晴れやかな顔で笑顔を(ほころ)ばせた。

 闇が晴れたかのような更紗の笑顔に、春子もつられて笑わずにいられなかった。



 その後の帰り道、更紗は春子は自宅まで送ってくれた。しかし、その道中、更紗による日本(にっぽん)恋愛事情・入門編をみっちり受ける羽目(はめ)になってしまったのだ。

 特に恋愛観の常識にずれがあることを本格的に心配した更紗は、これからもわからないことがあったら、まず私に聞いてね、と、春子にそれを同意させると、元気に帰っていた。

 更紗の家は思ったよりも逆方向で、自分の家と近いということはなかった。つまり津田の家も然りである。やはり津田はいいやつなんだなぁと、春子は考えていた。


 そして、意外な発見もあった。秋の言うところの「問題」行動の定義は自分が思っているものとはかなりの乖離(かいり)があるということだ。

 昼間、秋と対峙(たいじ)した時、秋はデートが云々(うんぬん)カンヌンと言っていた。映画や漫画でもあるまいし、この短期間で津田を好きになってお付き合いを始めたと言うのであれば、春子だってその人の人間性を疑ってしまう。

 勘のいい秋のことだから、途中で春子が意味を履き違えていることに気付いていたのだろうが、それでも、思わぬ形で、自分の貞操感(ていそうかん)を疑われるとは、すごく心外な気がした。

 春子は夕食を早々に切り上げると、自分の部屋に戻り、机に突っ伏した。

 緊急の授業カットで、授業に遅れが出たため、余計な宿題が出たからだ。やってしまわなければいけないわけだが、春子は、とりあえず開けた教科書とノートに顔を(うず)めた。

 そして、造り物で鎧を(まと)った秋の表情が取れた瞬間を思い出していた。


 『津田(かなめ)・・・ねぇ。・・・まだ出会って一週間も経っていないのに、随分・・・だな。』

 『イチャつき、エスケープに・・・、ああ、『秘密』もあるか』

 『昨日、帰りはあいつと二人で帰ったんだろう?』

 『デートは楽しかったか?』

 『随分、簡単なんだな。』

 『・・・あいつが好きなんだろう?』

 秋の問いかけが脳裏にこだまする。


 なるほど・・・


 更紗の説明を加味(かみ)すると、秋の言った『随分、簡単なんだな』という結論の意味がわかってくる。


 ・・・秋さん、大人気ない・・・

 あんなのただのヤキモチじゃん・・・

 ・・・いや、婚約を破棄させないための・・・演出(ふり)?・・・

 嫌な大人(ひと)・・・


 彼の言動を結論づけるためには、春子の経験はあまりにも乏しかった。

 しかし、父が仕事上の付き合いで女性と話している時の母の理不尽な疑りを考えると、なんとなく、そんな狂気にも似た意味不明さとの共通点を見出すことができるような気がした。

 そして、忘れようとしていた昼間の出来事が反芻(はんすう)される。

 優しい抱擁(ほうよう)に、優しいキス。

 あれは、ただのハグではなかった。

 確かに秋なりの精一杯の『好き』が感じられるものだった。それが演出(ふり)なのであれば、もはや春子の範疇(キャパ)を超えている。

 春子は秋の口が当たった場所(おでこ)に触れてみる。

 この新たな感覚の存在に、なんとも言えない心地よさを覚えていた。

 ただ、春子はそれによって自身が自然と笑顔にさせられていることには気づいていない。

 秋は一体どんな表情で自分を抱きしめ、キスしたのだろう。

 この気持ちはなんなんだろう。

 (かい)を得ることのできない堂々巡りは、まるで春子を嘲笑(あざわら)っているかのようである。

 春子は静かに目を閉じる。


 「・・・ルコ、はる・・

 春子?」

 夜、秋が帰宅した時、時間はすでに12時を回っていた。

 春子の部屋に様子を見に行くと、案の定、煌々(こうこう)と灯りがついたまま、机に突っ伏した状態の春子を見つけた。

 だが、この案の定な状態に、クスリッと笑みが(こぼ)れる。

 ひどく優しい癒しを心に覚える。

 時差ボケのせいで、眠気がうまくコントロールできていないのだろう。

 秋は、無造作に自分の部屋へと続く扉に上着を引っかけると、少しネクタイをずらしながら、春子に近づいた。

 途中、照りつける灯りを消す。

 柔らかい光だけを残して。

 今までのパターンから言うと、決して起きてくれはしないだろうということは簡単に想像がついた。だが、このままここで寝させておくこともできない。

 秋は春子の肩に手を置き少し強く揺さぶった。

 初日はシャツを取られ、2日目も朝までシャツを置いていく羽目になった。3日目に至っては朝まで手を外してくれず、朝方ようやく解放された。


 こっちが寝不足だな・・・


 秋は深いため息をついた。

 改めて幸せそうに笑う春子の無垢な顔を眺める。

 我ながら、よく理性を保つことができているもんだと、浅はかな思考に感心した。


 ったく・・・どんな嫌がらせだよ・・・


 目の前の小さな悪魔は遠慮を知らないらしかった。

 自分を父親か何かとでも勘違いしているのか、安心し切って目を閉じ、いつでもどこでも身を任せてくる。

 無情にも、昼間の突発的な衝動が一瞬過ぎる。

 秋は春子に触れていた手を放した。


 あの時、なぜ抱き寄せてしまったのか・・・

 あの時、なぜ止められなかったのか・・・


 春子を眺めながら、自分の感情を探った。

 昨晩のように春子に捕まって抱き寄せられたらと思うと、心のざわつきがチラリと見え隠れする。

 しかし、今、あの衝動は存在しない。

 そう確認すると秋は深く安堵した。

 改めて一呼吸おく。


 秋はもう一度春子を揺さぶった。

 「おいっ、春子?」


 自分に理性を保つ気力など、あるのだろうか・・・。

 秋はそんな思考をあえて無視する。


 春子の寝顔は昼間の無防備な瞳を閉じた表情を思い出させる。

 

 あの時、どうして思うままに抱きしめてしまったのか。


 口ではないにしても、どうしてキスすることを止められなかったのか。


 ・・・愛おしい?ってなんだよ

 

 自分の衝動・おそらくある種の本能に敬服する思いがした。

 そこにあったはずの『我』はどこに行ってしまったのか。

 

 「ここで寝るな。春・・・」

 もう一度軽く揺さぶると、意外にも春子は目を開けた。

 そして、呆けているままではあったが、体を起こしてきた。

 「・・・セーフ・・・だな。」

 秋は自分のバカなコメントを無視すると、深いため息をついた。

 「ほら、立てるか?」

 秋は春子を支えようと、椅子を回して自分の方に振り向かせた。

 春子は寝ぼけてはいるものの、素直に振り向く。

 そして、秋はそのまま腰をかがめて春子の座高の位置までしゃがみ込むと、春子を覗き込んだ。

 春子は目の前にいる秋を見つける。

 目線があう。


 しかし、秋は春子の表情に囚われた。


 嬉しそうなとびきりの笑顔。


 ほぼ同時に、秋は自分の首周りに異質なものを感じる。

 春子が自分の手を(から)めてきたのだ。


 「はる・・春子、おい、ちょっ・・・」


 そのまま春子は秋の顔を(とら)えると、躊躇(ちゅうちょ)なく自分の身体(からだ)をすり寄せてきた。


 秋は、春子の意図するところを容易に汲み取ることができた。

 伊達に29年も生きてきた訳じゃない。

 おそらく春子は夢でも見ているのだろう。

 笑顔を向けている相手が秋だとも知らずに近づいてくる。

 限りなく無防備で無垢な笑顔を惜しげもなく差し出してくる。

 秋は、春子の意図を遂行させないために、一瞬後ろに引き下がることを考えた。

 そして、引くべきだと考えた。

 春子に力で負けることはないのだから。そうすることは、おそらく容易であったはずなのだ。


 しかし、心とは裏腹に、体は動かない。

 春子は秋の存在を改めて確認する。

 そして、屈託のない笑顔をこぼす。


 「ぁき?」


 春子は吐息とともに静かにそうもらす。


 春子の自分の名を呼ぶ声は闇夜に広がり、無に帰す。


 随分ゆっくりと時が流れているような気がした。

 しかし、十分に考える時間はなかった。


 春子の瞳が閉じられる。

 春子の輪郭はもはや確認できない。


 春子はゆっくりと唇を重ねてきていた。

 そして、秋は、それを拒む術を持たなかった。


 長いキス。


 秋は身動きが取れなかった。

 いや、取ろうとしなかったのかも知れない。


 「あ・・・」


 息継ぎの仕方すら知らないのか、春子から吐息が漏れる。

 秋は自分にしなだれかかる春子を支えると、より深く抱き込んだ。


 春子は秋を見つめると、迷わず唇を近づけてくる。

 どれだけはっきりと秋の姿を捉えても、離れようとする気配はなかった。


 秋はなされるがままに、春子を受け入れた。

 しかし、それと同時に、春子を求める衝動に支配される。

 限りなく思考が停止する。

 秋は春子を抱え上げると、ベッドに横たえた。


 春子は秋の首に巻きつけた手を離そうとはしない。

 二人はそのままベッドに傾れ込んだ。

 

 秋は寝そべる春子の平和そうな顔を視界に入れると少し躊躇した。

 最後の理性の欠片がそこにはあったようだ。


 俺は・・・何をしようとしているんだ・・・

 

 相手は17だぞ・・・


 アホなのか・・・

 

 動こうとしない秋に気づいたのか、春子が寝ぼけ眼を押し開ける。

 春子は秋の存在を確かめるかのように、両手を秋の首もとから頬へと移動すると、そのまま輪郭を滑らせた。改めて、そこにある存在が何かを確かめているかのように。


 「春子・・・っやめっ

 くっ・・・」


 自分の輪郭をゆっくりとなぞる手を掴むと、秋はそのまま春子の手を握りしめ、ベッドに押し付けた。


 「は・・・ハルコ?」


 春子は、ゆっくり瞬きすると、押さえ込まれた手を無視した。

 素早く少し体を起こし浮かせると、再び秋を誘う。

 重ね合う口が少し開くのを感じる。

 秋は、そのまま春子をベッドに押し付けるように深くキスをした。


 「・・・ん・・・んん」


 17歳のそれとは思えないような吐息が漏れる。


 「あ・・き」


 自分を求める声が耳元で囁かれる。


 どのぐらい経ったのだろうか、静かな夜に二人の息だけが執拗に絡み合い、呼応する。

 秋は、そのまま春子の胸元に手をかける。

 重ねる口を何度もずらしながら、春子の首筋にキスを滑らせた。

 その度に春子の体は拒むこともなく秋を受け入れているようだった。

 

 「あきさん?」

 

 そうはっきりと名前を呼ばれて、秋は我に帰った。

 目の前の少女はその表情に驚きと後悔を(まと)っている。

 「・・・・・・」

 先ほどまでの恍惚(こうこつ)に満ちた柔らかな表現は、みるみる間に悲壮に包み隠されようとしていた。

 春子の目から涙がこぼれ落ちる。

 一つ、また一つ。涙はゆっくりと流れ落ちていた。

 意味もわからず、涙をこぼす春子の顔に秋は造り出された表情(かめん)をつけるのを忘れていた。それに気づけるような余裕はまるでなかった。


 乱れた衣服


 肩まで落ちた上着


 あらわになった肌


 しかし、春子の表情には確かな恐怖と困惑が(うかが)えた。

 それは同時に繊細な美しさを持っているようだった。

 春子はシンプルな白い布を(まと)う。

 その単調さが造形美をさらに顕著なものにしていた。


 「ハルコ?」

 秋が春子の涙に触れようと手を伸ばすと、春子は秋の手を弾いた。

 「いやっ!!」

 春子は秋を睨みつける。

 春子に拒否され、弾かれたその手に痛みが走る。いやでも自分の罪状が知らされる。何を間違えた・・・?

 春子は視線を逸らすと、そのまま(うつむ)き加減でそっぽを向いた。

 春子の横顔はまるで赤子のように汚れを知らない。

 その横をゆっくりと長い髪がサラサラと(こぼ)れ落ちていく。

 薄暗がりの中でありながら、春子の白い首筋には、確かに幾つもの赤い花びらが浮かび上がっていた。

 「秋さん・・・、今まで先生と一緒にいたの?」

 春子はポツリと囁く。

 「先生?」

 秋は春子から離れるようにベッドの上で体制を整えた。

 いつ脱いだのだろうか、自分のネクタイは足先に絡んでいた。

 シャツはない。

 改めて辺りを見渡す。

 春子の纏う白い布、それが自分のシャツだと気づくのにそう時間はかからなかった。

 秋は春子を自分の視界から慌てて遠ざけた。

 行き場を失った手は、目的もなく、自分の乱れ髪を確認し、そのまま頭を抱える。

 体の興奮が抑えられないのか、無情な痛みを感じた。

 「なんで・・・?私には不貞(ふてい)行為(こうい)はするなって、言ったくせに・・・、自分はするの?」

 秋のシャツを硬く握りしめながら、春子はそう聞いてきた。春子の頬にはとめどなく涙が(つた)う。

 「・・・なんのことだ?」

 「秋さん・・・、ひどい・・・」

 薄明かりの中でも、春子が震えている様子が見てとれた。

 「春子・・・?」

 そして、こちらに振り返ったかと思うと、春子は握りしめていたシャツを秋に投げつけてきた。

 さらに殴ろうとしているのか、春子は大きく手をあげた。

 秋はそのまま春子の手をつかみ取ると、もう一つも容易に受け止めた。そのまま再び動かないよう、胸元でしっかりと握りしめた。

 春子は抵抗して体を揺らす。

 やはり春子の白い首元は赤い花を開花させていた。

 流れる髪の隙間からは、綺麗に色づいた赤い花びらが見え隠れする。

 つい先ほどまで秋を躊躇なく受け入れていた(あかし)だ。

 しかし、今の春子の目は涙でいっぱいになっている。クリクリとした愛らしい瞳は彼女がまだ少女であることを象徴している。そして、容赦なく秋の罪悪感を増幅してくれる。

 散々キスしておいて、いや、自分の乱れ具合からも、相手の様子からも、それ以上のことをしていたのであろう、それなのに、今更、心臓が軋む音がした。


 なに?これ? 


 なんで泣いてるの・・・・?


 なんでこんなに悲しいの?


 秋は大人だ。

 婚約の話は秋の方からの申し出という事にはなっているが、それが一目惚れとか愛とか、そんなくだらない事情によるものでないことは、秋の態度が何度も明らかにしていた。

 そんなことはわかっている。

 春子は秋を見つめた。

 涙ごしでは、その表情は正確には読み取れない。

 「春子・・・」

 二人とも視線を外すことができない。

 お互いの視線に、熱が身体(からだ)中を再び駆け巡る。

 そして、支配する。

 「なんで、泣く?」

 秋は困惑しながらも、春子の動きを封じたまま、自分の体をさらに近づけた。

 そのまま自分に覆い被さろうとする秋に、春子は体を(こわば)らせる。

 抵抗は無意味なのかもしれない。

 明らかに自分の体はこのまま秋の支配を受けることを求めているのだから。

 自分の熱がそれを伝えてくる。

 そして、手足から力が抜けていく。

 「あっ・・・」

 覆い被さるような秋のその存在に、体が容赦なく熱を帯びてくる。

 秋が自分の身体(からだ)を斜めにしかけた瞬間、春子が投げつけたシャツが、再び秋の肩からこぼれ落ちた。

 そして、そのシャツからは、()せるような香りが立ちこめる。

 香水嫌いの春子には、嫌と言うほど知った香りだ。

 香りの名は「フルール・ド・テ・ローズ・ブルガリ。」

 本来ならば、洗礼された香りだ。

 そして、こんな珍しい高級な香水付けている身近な人は二人しかいなかった。生粋の名家生まれの由良島(ゆらしま)麻耶(まや)と明らかに秋に好意を寄せている金原(かなはら)志保梨(かほり)だ。

 由良島(ゆらしま)は言われなければ気づかない程度、移り香が残るほどつけてはいない。

 しかし、一方、金原(かなはら)は秋のオフィスで出会った時に気づくほどだった。教員の安月給には似つかしくない香りだと思うと、春子は微妙に気になっていたのだ。


 「・・・いや。」


 自分に覆い被さろうとする秋に、春子は弱々しい声を絞り出した。

 秋は自然と春子を求めて近づきかけていた体にブレーキをかけた。

 理性の欠片はまだあったようだ。

 大きく呼吸を整える。

 「・・・ばーか、お前がやってきたんだよ。

 俺が・・・、拒む理由がないのは知ってるだろう?

 君を求めていたのは、もともと僕なんだから。

 ・・・嫌なら・・・、寝ぼけないことだよ。」

 何事もなかったかのようにそう言うと、秋は手近にあったシーツで春子を包んだ。そして、春子の上に覆い被さっていた自分のシャツを拾い上げると、体をゆっくりと動かした。

 そう、あくまで何事もなかったかのように静かに立ち上がる。

 春子はそのままの状態から動くことができなかった。

 体が熱い。

 意味のわからない悲しさと秋を求める心がぶつかり合い、交錯する。

 混沌(カオス)だ。


 トントン。

 「・・・。」

 トントン。

 「お休み中失礼します。おぼっ・・・秋行様?」


 それは執事の加藤さんの声だった。

 秋はゆっくりとシャツを着なおした。そして、できる限り身だしなみを整えると、春子の方を振り返ることもなく、薄暗い電気をさらに暗くし、そのまま春子の部屋を出ていった。

 「加藤さん、こんな時間に・・・。」

 あくまで冷静な何事もなかったかのような声が、かすかに廊下から聞こえてる。

 「申し訳ありません、あちらに声をかけたのですが、おぼっちゃまが、ご不在のようでございましたので・・・」

 「ああ、かまいませんよ。」

 「お電話が・・・、滝本(たきもと)様からでございます。

 苑池(そのいけ)静子(しずこ)様が病院より失踪(しっそう)なさったそうです。」


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