1.初夏は嵐を迎える
その日は朝から曇り空だった 。
天から垂れ下がる雲は、午後にはその重みに耐えられなくなったのか、絞り出すように、雨粒をこぼし始めた。10分もしないうちに、空はすっかりと闇の装いを整えた。
学校の校庭に面したメイン・ストリートでは、車の往来が激しく、時折、ダンプの失踪する音が、激しい雷のような低い唸りを上げる。実際に雷鳴が響いていたのかもしれないが、日常のそんなありふれた騒音に誰も気を止める様子はなかった。
空に掛けられたどす黒い雲の帯が乱れる。大量の水を支えるその帯は、まるで留め金が突如として切れてしまったかのような雨を地上へと落とし始めた。
教室にいる生徒たちは、そんな予期せぬ光景に、何かしらある種の興奮を覚える。
大きな嵐が来るのかもしれない。
たいていの場合は、そんな高揚した予感とは裏腹に、通常の強い雷雨が降り注ぎ、そして、 何事もなかったのかのように自分の時間の波に戻ってくる。多少、風が強く木々をしなっていようが、多少、雷が垂直に光の帯を地面に叩き付けようが、人間の生活における『通常運転』に支障をきたすことはない。
が、しかし、この日は予想を超える大きな嵐となった。「4時にはトルネード警報が発令される」との天気予報の報道に、学校は緊急、授業を切り上げ、2時半での帰宅を生徒たちに勧告した。
そんな流れで、春子のクラスにもニュースが飛び込んだ。嵐によって焚き付けられた高揚感に油が注がれる。どことなく生徒たちはソワソワした様子を隠せないようだった。
もちろん、春子も例外ではない。
ただ、春子はそれを呆然と他人事のように眺める、そんな自分の存在を知っていた。
春子達生徒は、終業ベルを待たぬ間に、片付けを始める。そして、教師たちに促されるままにスクールバスへと乗り込んだ。
バスは勢いよく発車した。バタバタと乗り込んだバスの中は、引き続き生徒たちの興奮に包まれていた。
バスは轟音を上げて高速を走行する。暴れる水しぶきに四方を囲まれ、さらにバスの走りによって水しぶきがあがる。雷鳴はバスの騒音に遠慮しながらも近づいてきていた。
それでも、バスからの光景はいつもと変わらぬ家路だ、と、春子は平静を装った。
バスは自宅の手前のメインストリートで止まる。家までは数メートルの距離だが、傘を忘れた春子にとって濡れることは避けられなかった。それでも、なるべく濡れることは避けたいなと思いながら、バスの階段を降りた。
木々の向こうに自宅の二階の窓が見え隠れしている。ふと、家には電気がついていることが目に入った。雨と風にゆさぶられる木々が視界を邪魔しつづける。
ただの錯覚?
そう思いながら、もう一度目を凝らす。だが、やはり少しの光が窓から見え隠れしていた。
この時間は誰もいないはずなのに、どうしたんだろう・・・
春子はそう不思議に思いながら、バスの運転手や友だちと挨拶を交わすと、全速力で自宅へと足を進めた。
ガチャッ。
春子は玄関の扉のノブを握りしめる。
やはり鍵は開いているようだ。
春子はそのまま扉を一気に押し開けてみた。自分の背後のけたたましい雨音に、すぐさま家の中から微かな別の音が加わる。まるで古びた家屋の屋根裏をネズミと猫が追いかけっこでもしているかのように。
「ただいま〜?」
とりあえず声をかけてみる。
雫の足れるシャツの裾を絞り、ぐしょぐしょに濡れた靴を脱ぐ。グッショリとなった靴下を脱ぎ、足をマットで拭いていると、キッチンから母が顔をのぞかせて来た。
「お、春ちゃん、お帰り。早かったね」
いつものお調子者の笑顔を見せる母だったが、春子は不思議な違和感を覚えた。
春子の濡れた衣服を見渡すと、母はタオルを持って来てくれた。
学校がこの悪天候の影響を受けて、早く帰宅になったことを説明しつつ、玄関から少し入った突き当たりの洗面所へと足を運ぶ。そして、濡れた衣服を洗面所で脱ぎ捨て着替えを探した。
何かが違う・・・。
タオルを頭からかぶり、背中のちょうど半分まで伸びた髪をまとめあげる。タオルの隙間から鏡越しに自分の姿が見える。そして、その後ろに映る風景を見渡してみた。そこにはいつもと変わらぬ洗面所がある。
静かな鏡面とは裏腹に、ドタドタ、ガザガザという人間の作業音と屋根や窓に吹き付ける雨風の音は、大合奏を繰り広げている。春子はそれが何かしら不自然な気がした。
「なんで、ママ、帰ってるの?」
春子は洗面所から少し顔を出して、母のいるであろうキッチンの方へ向けて声を放った。しかし、そんな春子の問い掛けは、雷鳴にかき消されたようだった。母からの返事はない。
春子は着替えをすませると、母のいるキッチンへと向かった。
そこに母はいなかった。変わりに2階にある両親の寝室からドタバタと音が響く。
春子は少し辺りを見渡した。何なんだろう、この違和感は・・・。いつもと大して差はないはずのキッチンを、春子はどことなく他人の家のように感じた。
そして、リビングへと目を移す。リビングの奥には大きな暖炉がある。もちろん、今は使っていないが、「火が燃えるにおいが好きなのよ」と言い張る母によって、それは未だにつぶされず、健在だった。暖炉の手前には薪を置くスペースがきちんと確保され、いつでも出動可能状態になっている。
その横手にはラックがおかれ、その上にテレビとパソコンが並べておいてある。パソコンは動画をテレビと連動させて見るための物なので、ケーブルのたぐい以外は意外とすっきりとまとめてある。そして、その手前には横長いソファーが2つ、中央の丸いコーヒーテーブルを挟んであった。どうやら、奇妙な違和感はその辺にあるようだった。
そうだ、テーブルの上にもソファーにも書類がないんだ・・・。
春子は、いつもなら、無造作に置かれた書類の類いを片付けようと触ると、理不尽に父の逆鱗に触れる事を思い出した。
書斎に片付けたのかなぁ・・・
そんなことを思いながらゆっくりとテーブルに近づいてみた。
春子は子供心に自分の両親は片付けが苦手なんだろうなと思っていた。スペースがあれば、つい床に物を並べてしまう。母は父の後を追いかけて掃除するのが大変だなどとぼやいていたが、どうひいき目に見てもその床スペースは双方によって互角に占領されていた。というのも、床のスペースを占領するのは書類や雑誌、本だけではないからだ。母は観葉植物が好きで、とにかく家の至る所はジャングルと化していた。
しかし、今日のリビングは広い。床を覆い尽くしていた書類も雑誌も本も観葉植物でさえ、どこかに片付けられてしまったかのようだ。まるでお客様を迎える前日のように。
春子は、キッチンの入り口に放置しておいたバックパックを拾い上げると、それと一緒にソファーへ移動した。バックパックは思いのほか雨の被害を逃れていた。雨ざらしになっていたのは春子の前面のみだったようだ。
バックパックをソファーの縁に、放り投げると、春子自身もそのままソファーに座り込んだ 。テーブルの上には、いつものような 飲みくさしにされたコーヒーも、読まれていない手紙の山も、使われることのないコースターもない。
一枚の紙以外は 。
春子はその紙を何気なく見下ろしてみた。一枚の紙切れ。そこには、やたらと小さい文字達が所せましと書き連ねてあった。そして、春子は無意識にそこに自分の名前があることを見つけた。
「なに、これ・・・」
それが嵐の元凶だとはこのとき知る由もなく、春子は静かにその文字の羅列に目を走らせたのだ。
外の嵐は静かに家の屋根、壁、窓を打ち付けていた。轟く雷鳴はいつのまにか頭上を通過したのか、再び遠くで響き渡っている。今は雨の音だけが、春子の世界を埋め尽くしていた。
「どういうこと?」
精一杯の軽蔑のまなざしで、春子は自分の母を見つめた。母は自分の赤いパスポートをパソコン机の上から拾い上げる と、いそいそと小さいポーチの中に押し込めていた。
「だって、春ちゃん、考えてみてよ、素敵だと思わない?」
おもむろに振り返った母の目は、ナイーブな輝きをキラキラと放っていた。ナイーブと言っても日本語の『純真無垢』などという可愛らしい意味ではない。英語本来の『白雉バカ』という意味だ。
「思・・・うわけないでしょぉ・・・ふつう」
春子は、尋常ならぬキャピキャピ感を演出する母の言葉を遮ぎる言葉を探してみた。しかし、どう切り崩したら良いのかが思いつかない。
何を持ってして素敵だとぬかすのか、この人は・・・。
心の中で、うごめく黒い塊。沸々と煮えたぎる。燃え上がる炎は真っ黒だった。混乱の中で、冷静な自分が遠くからそんな光景をあざ笑うかのように見ている。怒りを覚える感情とどこか冷静な自分、そんな自分に春子は嫌悪した。
「でもでも、春ちゃんだって、日本、好きでしょ?」
母はまるで春子を障害物のように跨ぎ、横切りながら、自分の往来スペースを確保していた。
よくよく考えてみると、春子が他人の家にいるかのような違和感に襲われる理由は、整頓されたリビング以外にも、まだあったのだ。
開け放たれた隣の応接室には、ぎっしりとダンボール箱が積み上げられているのだから。
母は春子のいるリングを越えて、キッチンへと軽快にステップを踏む。
「ママ!それはそれ、これはこれでしょ?日本がよくても、どうして『素敵』にはなるの!?」
春子は紙切れをテーブルに叩き付けた。自分の手が震えているのを感じる。
痛い・・・。
おそらく痛むのは手の腹ではない。どこかもっと内側で、奥で、心とか心臓とか、内面が締め付けられるような感覚に襲われた。震える手でさらに紙切れを押さえつけると、痛みを拭うために手を解放してみた。だが、その手の行き場は見つけられなかった。
「ママ、これ、理解できてるの?」
母は、春子の前で一瞬動きを止めると、春子を不思議そうに見つめ返している。
「・・・ 当然でしょ・・・、お母さんがこのドラフト(下書き)作ったんだから」
トンチンカンな回答に、時が止まる。
春子は目眩のような、自分からは抵抗もできない空気の流れに襲われたような気がした 。それでも春子は正気を保つと、母の笑顔を見つめ返した。
「だったら、こんなの、ただのcrazyよ!」
煮えたぎる黒い塊はそれでもなお吹き出そうとはしていなかった。冷静な春子がストッパーを掛けてくる。あくまで動揺する気持ちをあざ笑うかのように。
「春子・・・」
母はゆっくりと春子の目を見据えた。春子は自分の顔が熱くなるのを感じた。 悲しいという訳ではなかった。むしろ、この傍若無人で理不尽な母親を効果的に説き伏せることのできない自分の無力さが悔しいのだ。
「突然で悪いと思ってる。もっときちんと説明するべきなんだろうけど・・・」
母は春子が座るソファーに近づくと、動揺する春子の頬を優しくなぞった。無謀な挑戦を受けてもなお、変わらぬ暖かい母の手、優しいまなざし。ずるいよ・・・と春子は思った。
「ごめんね。でも、ママ、もう、行かなきゃ。」
母は万遍の笑みを春子に見せると、だだっ子をなだめるかのように春子の頭を軽く2度叩いた。
「飛行機が間に合わなくなっちゃうのよ。ま、状況的には・・・ちょっと変かもしれないけど、クレイジーってほどじゃないでしょう。」
春子の母は一貫して、バラ色の花でも背負っているかのようなトーンで話をつづける。目の前であきれ果て呆然とする春子を気に留める様子ではないようだった。母は軽い足取りでキッチンの方へと進んでいった。
「素敵だと思うけどなぁ。むしろ、超ロマンチックじゃない? 別に今すぐ結婚しろなんて言ってるわけじゃないしね。先方だって、あんたが18になるのを待つって言ってくださってるし」
母の手はあんなに暖かいのに、母のまなざしはあんなに優しいのに、どうしてこんなに悪魔なのだろうか、まるで母の姿で悪魔と話しているような不快感が全身を支配していく。
「それのどこがcrazyじゃないのよ?! 」
どうにかしてこのニコニコ顔を崩す方法はないのだろうか。春子はどうやって母にこの状況の異常さを理解させるべきか考えようとしてみた。だが、そんな冷静な試みは、あたかもコレが日常の些細な一コマのように話し続ける母を見ていると、ふつふつとわき上がる怒りの塊にもみ消されてしまう。
「わかってるわよ。だから、突然で悪いと思ってるって。でも、ともかく、ママは、パパの所にちょっと行ってくるから。フィレンツェだって、楽しみ♡ ま、長くても1年よ。パパ、結構、飽きっぽいし」
キッチンの流し台のゴミをかき集めると、それを束ねて母は後ろの扉から裏庭へと放り投げた。
「でもね、今回のがうまくいけば、パパだってようやく画家として大成できるかもしれないんだから。パパを助けると思って我慢して! ねっ」
母は可愛い顔をして春子の方へ振り返ると、できもしないウインクをしようとしている。滑稽だ。
「ママもサバティカル(休暇年度:大学教授が研究のためなどに申請できる有給休暇)は、どっちにしても1年だから、遅くても来年には戻ってくるつもりだし」
リビング同様、台所もいつもは母の好きな観葉植物でジャングルと化している。少なくとも今朝はそんなジャングルの基礎となっていたポトスの林に行く手を阻まれ、それに文句を良いながら、朝の身支度を終えたように記憶していた。だが、今は、彼らの姿は見当たらない。
「まあ、それはそれとして。ねっ、向こうの人、結構イケメンらしいよ♡ お金持ちだし、素敵♡♡♡ さっきも言ったけど、別に今すぐ結婚しろっとは言ってないのよ。とりあえず、婚約ってだけだし、あんたが18になる、つまり来年の5月までは本格的な婚約も結婚なんて話もないの。パパだって、そう簡単に春ちゃんをお嫁になんて行かせたりしないよ。でも、せっかくだから、会ってみればいいと思うのよね。ただで日本にも行けるわけだし・・・」
母は、この間植え替えした小さな サンセベリアの鉢植え2つと窓際に垂れ下がるアイビーに水を注いだ。あのどでかい親玉のようなサンセベリアや四方へとはびこっていたオリヅルランはどこに消えてしまったのだろうか。
「You guys are just insane… (二人ともイかれてるよ)」
春子はソファーに座ったまま、拳を膝の上に預けた。
「まぁ、ずいぶんね。」
母はジョウロから水を抜くと、キッチン周りの水を拭き取った。
「だって、そうじゃない。これって婚約とか結婚とかそんな可愛い物じゃないよ。この紙、どうがんばって解釈しても、借用書なのよ。私、借金の形に売り飛ばされてるよね? 会った事もない、おっさんに! 」
いつもより自分の声が響いているような気がした。そこまで大きな声を出したつもりはなかったから、春子は少し自分でも驚いてしまった。
そして、母が一瞬のためらいを見せたような気がした。
「まぁ、ね、平たく言えばね・・・。ったく、色気ないんだから・・・。」
ためらいと感じた物は幻だったのか、あっさりと自分の奇行を認めてしまった母に、春子は全身の血の気が引く思いがした。
無理かもしれない・・・、この人に常識を求める事は・・・。
春子は、怒りをぶつけるより先に、あきらめもしくは悟りのような境地に似た思いを植え付けられているようだった。
「ねえ、ママ、ちゃんとこの紙見てよ! 事実、借金の形に売り飛ばされるって言う方が正しいでしょ。ここに書いてあるのってそういうことだよね?」
春子は例の紙切れをコーヒーテーブルから拾い上げた。もう一度上から、文字列に目を通す。Affidavit of Support、そう書かれた書き出しは、後続に続く複雑な文字の羅列によって、この意味を持たないはずのただの紙切れを、公式文書として変化させていた。
「パパの芸術活動の全面スポンサーに一億円の貸付金。無利子、無期限、しかし、担保として娘をMr. Akiyuki Kugaの婚約者という条件で!!!18の年に正式な婚約をって。」
「さすが、よく理解してるわねぇ〜。でも、まぁ、ほら・・・それはなんとかなるって、ねっ♡ 」
応接室からひょっこり顔を出すと、いたずら少女の顔をした母は微笑んだ。
「ねっ♡、じゃな〜〜い!ママ!!!」
紙を握りしめた手が再び無意識に震えていた。
ニンマリする母はただのいたずらな少女なのだ。ちょっと度が過ぎるだけで、悪魔じゃないのは分かっている。たぶん。
しかし、自分の意思を無視して勝手に事が運んで 行く事に、春子は付いて行く事ができなかった。この笑顔を壊したい。ただ、純粋に春子はそう思った。
「ママ、これって娘の身売りを同意した借用書なんだよ。ご丁寧にnotarization (公文書化)までして。二人は私がどうなってもいいと思ってるの?」
応接室にいる母の動きが再び停止する。そして、母の返事は来ない。ふと、春子は今外が嵐に見舞われていることを思い出した。
「どうでもいいなんて思ってるわけないわ。」
母は、応接室の暗がりから、静かに答えた。さすがに少しくらい動揺してくれたのかもしれない、そんな微かな期待に、春子はさっと怒りを忘れドキドキと胸を打つ鼓動を感じた。
「・・・春ちゃん・・・」
母は優しく春子を見つめ、リビングへと近寄る。そして、手を握り締めながら、ゆっくりと春子の隣に腰掛けた。
「春ちゃんさ、もう17歳になったのに、ボーイフレンドの一人もいないじゃない!」
無神経な母の言葉に、春子はただ呆然とした。平凡な状態と異常な状況があたかも何の矛盾もなく一致するかのように、母は春子に語りかける。
「それは・・・関係・・・ない、でしょぉ・・・なにそれ・・・、っていうか誰がいないって言ったのよ!」
春子は戦意喪失のごとく平凡な返答を出した。
「じゃあ、いるの?」
「それは・・・」
「ほら、みなさい。いまだに、初恋すらないって・・・、週末、男の子とデートするわけでもないし。ママはむしろそれの方が心配です。勉強、勉強って、いい加減、デートすることのほうを真剣に・・・」
「ママ!!」
母は余裕の表情で、春子をたしなめようとする。世の中、勉強しろと言われるのが普通のはずなのに、なぜ好きな人ができないことを勉強と同列に扱われているのか、春子には理解ができなかった。
「勉強するのは別にいいけど、あんた17歳なんて女の子が一番輝くときなのよ。ママですら、17歳のときは、フフフ」
「マぁマ!!!!!」
春子はようやく冷静さを忘れると声を荒げた。
「いい、あちらは、3年前あなたが日本に滞在していた少しの間から、ずっと思いを寄せてくださってたのよ。春ちゃんのことがいいって言ってくださって、いいじゃない、めっちゃロマンチックじゃん。」
「アホか!!!!」
「アホはあなたです。十代の女の子なんていうステータスがどれだけ短いものか・・・ぁあ」
母は、何かを思い出したように、右手で左の手のひらを叩くポーズを取ると、再びリビングを抜けて、応接室へと走って行った。
「すぐにそうやって、話をそらす!そういう事を言ってるんじゃなくて、どこの世に、娘を売り飛ばす馬鹿親がいるのかって言ってるの!」
母の姿はダンボールの陰になって見えてはいない。春子は勢い良くソファーから立ち上がっていた。母のいる応接室に向き直し、反応を待ってみるが、しばし返事がなかった。さすがに非常識さを感じてくれたのだろうか。
「・・・本当に色気のない子・・・、マッチメーカーと言ってほしいわ。春子には、素敵な恋をしてお金持ちで素敵な男の人と結婚してもらいたいの。さっさとね。」
そんな訳もない。母がダンボールをずらし、探し物する音が響く。
「A match-maker? Really? That’s what you think of this stupid thing? (お仲人さん?本気で?こんな馬鹿げたことがそれだと思ってるの?) こんなの、人権蹂躙じゃない! 借金の形に売られるような状態で、恋愛とかって、ないから。漫画の読みすぎにもほどがあるでしょ!!」
母はゆっくりと応接室から出て来た。その母の表情から笑顔が消える。そして、まっすぐ春子を見据えた。
春子の思惑通り、笑顔は消えた。でも、それが何の意味もない事を春子は何となくずっと分かっていたような気がした。
「蹂躙って、あんた、そんな難しい言葉よく知ってるわねぇ・・・。」
ぽろっと出てしまったのだろうか、母は慌てて手で口を押さえると、ちょっと目線をそらす。そして、再び改めて春子のそばに近づいて来た。
近づくと春子に腰掛けるように促した。春子は力なくストンと、バランスを崩したように、ソファーに沈んだ。
漫画の読みすぎ・・・まさにそうなのだ。いつもの事ながら春子にとっては考えられない珍行動もこの母にとっては漫画の世界の延長なのだ。何かしら春子の中で、母の思考がつながったような気がした。
母は静かに春子の隣に腰を下ろした。春子の手から紙切れを取り上げると、それをテーブルの上にそっと置いた。
「春子・・・まぁ、突然で驚いているだろうけど・・・。」
ああ、この人が言わんとしている事が予測できてしまう。春子の中の黒い塊はシュワッと、炭酸水のように泡になって消えて行った。
「まぁ、しょうがないじゃない。パパが酔った勢いでサインしちゃったんだから。めったに飲まないもんだから、1杯でいい感じになっちゃったみたいなのよね・・・。あいつ、ほんと、使えない・・・」
そんな事だろうなぁ・・・春子は素直に納得した。
「ママだって、ドラフト書いてるときに、まさか先方さんが春子の事を指名してるなんて思わなかったんだよねぇ。そんなに想われて、求婚される方は幸せですねぇなんて言っちゃったぐらいなんだから。でも、パパ的には、これで成功して、あんたを連れ戻しに行く算段が出来上がっちゃってるみたいなのよ。とにかく、ママはパパのところに行ってくる。だから、あんたはおとなしく日本に行ってなさい」
母は優しく春子の手を握りしめた。暖かくて柔らかい母のぬくもり。
「春ちゃんが18歳になるまでに、パパが成功する事を祈ってるのね。じゃあ、樹奈美さん、この子の事お願いしますね。」
春子の気づかぬ間に、母はすっかり身支度を整えたようで、応接室ごしの廊下には 『樹奈美さん』と呼ばれたきれいなお姉さんが様子をうかがうように立っていた。長い髪をすっきりと後ろに束ね、ラフなTシャツとジーンズ姿で、姿勢よく佇んでいたその女性は、振り向いた春子にやさしく微笑んだ。
「はい、先生。後は、お任せください。」
母はすくっと立ち上がり、樹奈美を見つめると、静かにうなずいた。
「じゃあ、春ちゃん、せいぜいがんばって来なさいね。」
再び母は視線を春子に戻すと、いたずらっ子のような笑顔に戻っていた。そして、両手を広げる。座ったままの春子の右手を拾い上げると、ソファーから引き上げ、そのまま抱き寄せた。
「かならず・・・帰ってくるからね。」
母は春子の耳元でそっとささやいた。
優しい声、いい香り。
母さんはずるい・・・と、春子は思いながら、仕方なく自分の両手を母の背にあて抱き返した。何かしら、いつもよりも長い長い包容のように感じた。
春子の背中に母の手が押さえつけられる。
心地良いぬくもり。
母は自分の顔を春子の頭にすり寄せ、春子の髪をなでおろした。母は何も言わず、ただ春子を抱きしめる。
春子は母の足下にスーツケースがあるのを見つけた。少なくとも一年を考えた旅にしてはすいぶん小さいような気がした。まるで1週間程度の小旅行をかねた学会にでも行くかのようだ。
母は、春子の頬に軽くキスをすると、そのまま振り返る事もなく玄関に向かった。
「樹奈美さん、本当に急なことで悪いわね。じゃあ、行ってくるわ。」
母はそういうと戸口に立っていた樹奈美にハグをした。そして、やはり春子のほうを振り返る事なく、そのまま春子の視界から消えて行った。
春子は複雑な思いでその場に立ち尽くした。
「じゃあ、 春子ちゃん、私たちも行きましょうか。表に車を待たせていますから。」
玄関の閉まる音と同時に、樹奈美は、まるで、今日の夕食の買い物でも行くかのように、春子に声をかけた。
改めてリビングルームを見渡す。そこには今朝当たり前のようにあった生活感がまるで失われていた。今朝、いつものように学校に行き、小一時間前にいつものように帰宅した、そんな日常だったはずなのに。
「帰ってくる」とささやいた母の言葉とは裏腹に、この家はきれいになりすぎているような気がした。
今朝の今朝まで、すべてがそこにあったのに・・・。
ふと、春子の手に何かが触れた。 帰ったときのそのままの状態でずっと横に置いていたバックパックだった。
「・・・準備してきます」
自分でもずいぶん物分りの良い返事に驚いた。だが、慌ただしく振り返ることもなしに出て行ってしまった母に、春子は抵抗しても意味がないことを悟ってしまったのだ。
春子はバックパックを手にとり、ソファーを離れた。急いで2階に向かおうと、樹奈美のそばの戸口を目指した。
「いえ、準備はすべてできていますから。」
樹奈美は春子の肩を捕まえると、春子のバックパックをするりと取り上げた。
「あの、でも・・・。」
「大丈夫ですよ。お母様が全部用意されて、もう車に積んであります。
行きましょう。フライトは最終便を押さえています。」
樹奈美はそういうと左手で玄関を示した。玄関のスモッグガラスごしの外の様子は嵐の影響で薄暗かった。だが、思ったよりもずっと静かになっていた。
春子はどうしようもない不安を覚えながらも、樹奈美に誘導されるがままに、玄関の扉へとたどり着いた。
靴を履こうと下を見下ろすと、樹奈美が靴を脱いでいない事に気がついた。そして、母が歩くたびにコツコツと音をさせていた事も改めて思い出される。
いつもは、家の中で靴はくなって、うるさいのになぁ・・・。
玄関脇から見える応接室にはいくつものダンボールが転がっている。 靴置きには春子の靴、ただ一足しか残っていない。
帰宅したときに感じた違和感は、この家全体には相応しくないその整然さだったのだ。それでも、あの時は、この異常な状態を特に認識できていなかったのだから不思議だ。
靴を履き終え、玄関の扉を触ろうとした瞬間、扉は外へと向けて自動的に開かれた 。どうやら外にも人がいたらしい。
開かれた扉からは激しい雨音が響いてくる。ふと自分がいつもより早く帰宅した理由を思い出した。ここら一体には、4時から9時までトルネード警報が出ているからだ。