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死せる謀聖 最後の謀略

 吉田郡山(よしだこおりやま)城の戦いの敗戦を受けて、山陰地方に一大勢力を築き上げてきた尼子氏は滅亡の危機に瀕していた。

 尼子氏から大内氏に転属した国人衆からは尼子氏討伐を求める連署状が大内(おおうち)義隆(よしたか)に提出され、尼子を滅ぼす好機逃すべからずと義隆によって幕府から尼子討伐の綸旨(りんじ)が出されるなど、尼子家は四面楚歌の状況に追い込まれたのだった。



「大殿……」


 大敗を喫し、這う這うの体で月山富田城に帰還した晴久は病床の経久の元へ敗戦の報告に訪れていた。


「ごほっ……ごほっ、この愚か者めが。わしや幸久の忠告を聞かず出ていった結果がこの様か」

「返す言葉もごさいませぬ」

「幸久をはじめ、多くの将兵の命を散らせたこと、如何致すつもりかッ!」

「申し訳……ごさいませぬッ!」

「…………よいか、わしの命はそう長くない。これはわしからの最後の忠告じゃ、然と胸に留めおけ!」

「大殿、何を弱気な!」

「将来尼子の家を脅かすのは大内義隆にあらず、毛利元就じゃ! その事ゆめゆめ忘れるでないぞ!」

「はっ! 尼子の家は決して潰えさせませぬ!」

「お前が元就のような当主であれば、安心して死ねるのにのぅ」


 一五四一年(天文十年)十一月十三日、流浪の身から出雲守護となり中国地方十一ヶ国の太守と呼ばれた男、尼子経久は死んだ。享年八四歳。

 

 巨星墜つの一報は瞬く間に中国地方に拡散されていき、その知らせは大内氏の本拠、周防(すおう)にも届いていた。

 

「これぞ天が与えし好機! 尼子誅すべし!」


 武断派筆頭家老の(すえ)隆房(たかふさ)が声高に進言すると、多くの者たちも賛同の声を上げた。背中を押された義隆も尼子討伐を決意。自ら大軍を率いて周防を発った。


 一方、毛利元就にも義隆から尼子討伐の出陣要請が来ており、出雲へ出陣する準備を進めるのだった。

 しかし、元就はきな臭さを感じずにはいられなかった。経久死すの報の広まりが早すぎる。元就はその死の裏に計り知れぬ謀略が渦巻いている気がしてならなかったが、時勢に逆らう事はできず煮え切らぬまま出雲遠征へと従軍するのであった。

 

 いざ遠征軍に参加しても元就の疑惑の念は深まるばかりであった。行軍が遅すぎるのだ。征く先々の寺や神社で参拝する為、行軍速度が上がらず目立った戦果もないまま戦いは長期化の様相を呈していた。


「隆房殿、此度の遠征何やらおかしいと思いませぬか?」


 元就は先の吉田郡山城の戦いで援軍に駆け付けてくれた陶隆房に胸の内を晒した。義隆の側近中の側近である隆房ならば義隆本人に進言することも可能と踏んでのことだった。


「おかしいとはどういうことだ?」

「まず某が気になっている事は、各所での必勝祈願の参拝が行き過ぎではありませぬか? 文化を重んじる義隆様なればこそとも思うが、このままでは攻略の目処が立たぬまま冬季を迎えかねませぬ」

「その件であったか。わしもほとほと困っておるのだ。明星寺の高名な僧とやらが義隆様に触れ回っておるのよ。それが原因でこの様な寺社巡りをする羽目になっておる」

「左様でございましたか……。それからもう一つ、尼子経久死すの情報の出回りが早過ぎると某は思うのです。尼子の柱石である経久の死は尼子にとって何としても秘密にしたい機密事項のはず。それが故意に流布されたかの様な広まりを見せているのは甚だ疑問に思えてなりませぬ」

「そんな事をして尼子方に何の得がある? それこそ国人領主の離反を招くだけであろう」


 隆房の眉尻が下がり、この話題を切り上げたいという態度があからさまに出ている。

 しかし元就も引かない。これは尼子経久が今際の際に仕掛けてきた謀略であると確信しているのだ。


「某が思うに経久の死を流布したのは我等を扇動する罠に相違ないかと。どうか隆房殿から義隆様に掛け合ってはもらえませぬか?」

「死んだ人間に何ができると言うのだ」隆房は失笑を吹き出した。

「先の戦いで尼子の大軍を跳ね返した元就殿とは思えぬ弱気じゃな。心配致すな! 死に体の尼子勢如き我等大内軍だけで粉砕してみせよう」

「隆房殿!」


 隆房は馬首を巡らせその場を離れていった。

 隆房の背を見送りながら元就は思うのだった。一介の国人領主に過ぎぬ自分に大内は動かせない。全ては尼子経久の、あの謀聖の掌の上の出来事なのかもしれぬと。



 大内軍は遠征開始から実に九ヶ月を擁して、ようやく尼子氏の居城である月山富田城を包囲した。しかし長い滞陣と間もなく訪れる冬季、そして大軍が意味を成さない難攻不落の堅城、更には尼子勢のゲリラ戦術による兵站(へいたん)の断裂など、大内軍の士気の低下は目を覆わんばかりであった。

 ここに至り元就は大内義隆に進言することを決意した。義隆自らも疲弊している今ならば受け入れられる余地があるはずである。


「難攻不落の富田城を力攻めしても成果は望めずいたずらに兵の命と時を消耗するだけです。今ならば被害は微小なもの。ここは撤退もやむ無しかと」

「何を弱気な、ここはもう一度力攻めをし攻略するしかありませぬ」


 元就の進言に待ったをかけたのは安芸の国人、吉川(きっかわ)興経(おきつね)であった。吉田郡山城の戦いの後、尼子方から大内方に転属した国人の一人である。


「うむ。吉川殿の申す通りじゃ、このまま何の成果もなくおめおめと帰るなど末代までの恥ぞ」


 陶隆房が興経に賛同すると、軍議の流れは徐々に力攻めの方向へと向いていった。そして総大将、大内義隆の下した決断は。


「うむ、隆房の言やよし! 吉川興経に富田城攻略先鋒の任を与える! 三沢(みさわ)三刀屋(みとや)本城(ほんじょう)山内(やまのうち)と共に攻め大功を挙げてみせよ!」

「ははっ! 大任を仰せつかり、恐悦至極! 鬼吉川の武勇、ご照覧あれ!」


 一五四三年(天文十ニ年)四月末、吉川興経勢と安芸、石見、出雲を中心とする国人たちが月山富田城に攻め掛かった。

 すると堅牢な城門が音を立てて開け放たれ……。

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