「shadow」
ネットの功罪とは何か?
その迷路について悩む青年がいた。
「shadow」
誰しもが居心地の良い空間と場所を求めている。その場所が影だとしても。
サトルと言う男が居た。
子供の頃は活発で、いわゆる社交的な性格だった。クラスをまとめたり、他の子の世話を焼くのが好きだった。成績も悪くなく、クラス委員や生徒会長の候補にもなっていた。
高校は地元の私立進学校で、可も不可もなく過ごした。希望通りの大学へ進学し、学生らしい青春時代を経験した。学びだけではなく、悪友達との交流は彼にとって良い思い出だろう。元々目立った人間なので友人も多く、知り合いとの様々な意見交換やイベントも楽しんだ。
卒業後は大手の企業に就職し、先輩達からも可愛がられる。同期の方との交際もそつなくこなし、年度を重ねる度に順調に成長した。
他人よりも、順調に伸びてしまったのだ。それが危険だった。
サトルは幼少の頃からずっと成績も優秀で、その事に関して本人はごく当たり前だと思っていた。自分の立ち位置に不思議さを感じることは無い。彼の家庭はどちらかと言えば裕福な環境で、父親は有名企業の管理職として年収もそれなりであり、兄は医科大学を出ている。姉は外資系企業へ就職している。それが彼にとって、普通だったのだ。学友達も皆同じような境遇の人間達。何不自由の無い暮らしに慣れていた。いや、その他の世界を知らずに育ったとも言える。
サトルは仕事も順調で、若いながら役職にも就くようになる。部下も増えて、中には自分よりも年配の人間も居た。ただ、それも彼にとっては普通の事であり、それなりの配慮はするものの特段の意識の変化は無い。
ある日、会社の廊下。
前の大通りを見ると、沢山のロードバイクが走っていた。彼等はどこに行くんだろうと思いながら、サトルはその光景を何と無く眺めていた。
背後から声を掛けられた。
「おい、何見てるんだ?」
振り返ると同期入社のコウイチが居る。彼は何時も感情のブレが無く冷静で、同期の中でも大人だった。仕事がひけたら、焼き鳥屋で一杯いこうと誘われた。
夕方の駅前通りには赤提灯や小さな飲み屋の灯りが街を彩っている。通りを歩む度に、食欲をそそるにおいがする。コウイチとふたりで歩いていると、目指す焼き鳥屋の吐き出す煙が見えて来た。
「外でイイよな?」コウイチは店外にある古びたテーブルを選び、酒のプラ箱に板を渡した椅子に座った。店のアルバイトの女の子を呼んで「とりあえずジョッキ2つ、焼きモノ10本ぐらいと、モツ煮ふたり分ね。」
注文した焼き鳥が来る前に彼はサトルに話し出した。
「なぁ、ここを見てみろよ。平和そのものだよな。どうしてなのか、サトルには分かるか?」
「それは仕事が終わった安心感と、呑める悦びだろ?違うのか?」
「そう思うか?」
「そうだと思うよ。違うのか?」
コウイチは届いたビールをグイッと一口飲んで答えた。
「それは周りの人が、皆自分と無関係な人間だからだよ。誰も俺達に関心も無いし、興味も無い。だから、楽なんだよ。皆んなそうさ。もしも、周りが会社の人間だったらどう思う?上司や同僚、部下だとしたら、こんなにくつろげるか?」
「ま、まぁそうだとは思うよ。だけど、どうしたんだよ急にそんな事言ってさ。」
「実はさ、」と言うコウイチはサトルに語り出した。
自分が嫌になる時があると彼は言った。会社でも、プライベートでも、その為に気持ちが安まらないと言う。その理由とは、他人と比較してしまうのが一番の原因だと感じているらしい。
「会社でもさ、誰かと比較してしまう。仕事以外でも同じなんだ。つまり、プライベートでも安まる場所が無い。」
そして彼は溜息を吐きながら言った。
「ネットでもさ、他人の幸せそうな投稿なんて見てると気持ちが萎えるんだよね。それが一番自分で情け無くて、嫌なんだ。」
だから最近はあまりネットサーフィンなどもしなくなったと言う。TVもほとんど観ないし、雑誌も読まなくなった。今の自分には、以前から持っているDVDなどの映画だけが心乱されずに観ることの出来る媒体だと言う。
サトルにはその感覚が分からない。どうして彼はそう感じるようになったのか。何か原因があるのか?だとしたら、それは何か。コウイチの話を聞きながら考えていた。
コウイチが言った。
「サトルも焼き鳥食べなよ。」
ハッと気がつく。食べる事も忘れていたので、あわてて串を持った。それを見てコウイチが続けた。
「俺はまだ引き籠りじゃないけど、それもなんだか分かるような気がする。あの人達もたぶん、他の人を見たくないんだと思うよ。見ると、どうしても比較してしまうからな。それが辛いんだよ。」
彼はこの夜、最後に一言言った。
「サトルも気を付けろよ。結構キツイもんだからな。」
サトルはその言葉に頷きながらも、その意味が分からなかった。
焼き鳥屋で勘定を済ませて駅の方へ向かう。するとあちこちの道からサイレンが聞こえて来た。何台ものパトカーや救急車が走り去ってゆく。
駅前に到着するが、そこには人だかりが出来ていた。拡声器を持った駅員が何やら言っていた。
「ただ今、〇〇踏み切りで人身事故が発生した為、上下線共に運行停止になっております。復旧のメドはまだ分かりません。」
隣に居たコウイチがポツリと言った。
「若い子なのかな?」
サトルはコウイチの寂しげな顔を見て言った。
「自殺だと?」
ふたりはその後話し合って、タクシーでサトルのマンションへ向かう事になった。
築年数15年ほどの7階建てのマンションは、地下に駐車場を構えた高級物件であり、その5階の一室をサトルは借りていた。間取りは、一人暮らしには十分すぎる広さの1LDKだった。彼の歳にしてはいささか贅沢とも言える内容だが、サトルのサラリーを知る者は納得しただろう。
サトルはキッチンから飲み物を持って来て、テーブルに置いた。
「コウイチがさっき、辛いと言ってたよな?俺はお前に悩みなんて無いと思ってた。仕事も順調じゃないか。」
「辛いのは、見た目じゃ分からない、、、、だろ?」
「ん〜、まぁそうだとは思うけど。確か『比較』とか言ってたけど、その事か?」
「なぁサトル、人間が一番孤独を感じる時って、一人の時じゃないんだよ。大勢の中での孤独が一番キツイんだよ。
学校とか大勢の生徒がいるけど、孤独感で悩んでる子供は沢山いる。周りには沢山の学生が居るのに、そうなんだ。
大勢の中の孤独。
それを大きくしたのが社会だよ。」
彼は続けた。
「昔よりも現代社会の方が、孤独感を持ってる人間は多くなってる。鬱病もそうだし、他のメンタル病んでる人も増えてる。
昔と今はいろいろ違うけど、最も大きな違いは何だと思う?
昔は、自分の目に見える世界はとても狭かった。隣近所、学校とかTVとか、そんなものだった。
だが今は違う。
無限に見えてしまう。ネット、スマホから何でも見える。見えると言うか、見せられる。
それが人間の心を壊しているけど、便利さがその事を覆い隠しているんだよ。
心って言うのは、誰もが同じじゃ無い。キャパが違うし、育てられた環境で出来が違うんだ。
寛容な人も居るし、切れやすい人も居る。それと同じことだ。
自分にとって無関係な人間の事を見て、楽しめる人も多いけど、その見た事を上手に消化出来ない場合もある。
スマホを開けばTwitterやFB、ネットフリックス、インスタ、YouTube、ティクトックで若者達は見るだろ、いろいろ。
そこにあるのは、無関係な人間達の幸せな姿のオンパレード。持ってるモノの自慢のオンパレード。
これ見よがしに見せつけられる。
だろ?
『それは素晴らしいことです』と、世間は認めてる。その他人の幸せを見て、あなたも嬉しいでしょ?って世間は言う。
しかしな、ここ数十年そのネット世界が子供達に、いや全ての人に広がってから精神疾患は増加し続けているのも事実なんだ。
人間って言うのはな、自分達が思う程に『寛容』では無いんだよ。楽しいと喜んでネットの世界を見ている人も、自分が知らないうちに心の奥の壁に黒いカビが生えている。
ネット世界って、結局は『勝ち、負け』チックだからね。勝ち組と負け組がはっきりして居る世界なんだよ。
『比較』って言ったのは、それだ。知らず知らずのうちに、自分が負け組だと認識されてしまうのが、比較なんだよ。
比較って、もっとエグイ言い方をすれば『嫉妬』だな。
ネットの幸せな姿見るだろ、そして「いいなぁ」と思う。それはもちろん、相手を認める良い点もある。けれども、嫉妬も内包している。つまり、ほとんどの人間は聖人君子みたいに悟っては居ないって言うことだ。
線路に飛び込んで自殺する学生も、もしも田舎の人数が少ない学校に居て、スマホなんて無かったら死んで無いかもよ。
俺は性善説は信じるよ。でもね、人間が弱い生き物だとも思っている。
40人のクラスメイトが居る中で誰も友達が居ない生徒は物凄く孤独なんだ。それよりも学校に行かずに一人でゲームしてる方が幸せなんだ。理由は、耐えられないからさ。
しかしそれは責められない、誰にも。
ネット世界って、つまりは『比較』を見せつけるモノでもあると思う。『ワタシは幸せ。あなたはどうなの?』ってさ。
何も知らなかった人間が、何かを見て感じる事で嫉妬を持つ事もある。自分を嘆くこともある。
何度も言うけど、人間って弱いんだ。自分の心を完璧にはコントロール出来ない。
弱い人間はどうすると思う?
自分の心を維持する為に、どうする?自分よりもはるかに大きな幸せを見せつけられて。
そしていつの間にか、相手を認めなくなる。更に非難したり嫌う事になる。それをやって、かろうじて自分の心を維持する。
つまりこう言う事だ。
『アンタは幸せそうにしてるけど、実は不安だらけの嫌な奴が自分を必死になって騙してるだけだろ?その表現なんだろ?』そう考えるようになる。
ただ、その批判は自分でも良く無い事だとは心の中で感じている。そして、自分は嫌な奴だと感じてしまう。
その結果、最後には自分自身を嫌うようになる。
そしてスイッチOFFしてしまう。」
サトルにはよく分からない。それを見越したようにコウイチは言う。
「お前には分からないかもな。何故かと言うと、サトルは今まで苦しんだ経験が無いからな。お前は、他人の幸せそうな姿を見ても何も嫉妬なんて考えないんだよ。
だけど、実は俺はその事が一番心配なんだ。
サトルには免疫が無いから、もしも俺の言った事がお前の身に、そして心に突き刺さって来た時に、お前には耐えられるのか?それが心配なんだ。
それにな、もうひとつ。お前は優等生だから嫉妬されやすい。嫉妬は恐ろしいんだよ。」
サトルには、まだコウイチの言葉が理解出来なかった。ネット世界を批判する意味が分からない。確かに、中には良く無い人間も居る。善悪混合の様な気がしないでも無い。ただ、コウイチは他人の幸せな姿を見て、病む事もあると言う。その意味が分からない。嫉妬についても自分には理解出来ない。
サトルはその日以来、ずっと考え続けていた。なんとかして、コウイチの悩みを共有して、ちゃんとした話し相手になりたいと考えていた。しかし、自分は人間関係で悩んだりした事が無い。サトルはメンタル本を読んでヒントを得ようとした。
数冊読んでみた。どの本にも共通点があるが、それは人間関係が問題点をつくるとの内容だ。つまり、周りの人からの影響下にある時に精神状態にトラブルが発生している。
それを避ける為には、多くの人は自分をその影響から逃がすことになり、最終的には対人的な接点を消してゆく。これは孤独の始まりだ。
引き籠りや、対人恐怖症はその典型例かなとも感じた。誰とも関わりたく無い結果だと思われる。
本はメンタルの維持の仕方や、考え方を述べているが、そもそもその本を手に持つ人間に対してのアドバイス的な内容だ。何かしらのストレスを感じている人向けに書かれた物だろう。
サトルは、自分自身ではその様なストレスを持った事が無い。彼の目には見えない部分がある。おそらく多くの方々も同じだろうと思って居たが、どうやらそうでもないらしい。実際には、相当の%で悩みを持つ人間が存在すると感じた。世の中は病んでいるようだ。
サトルは素直な感想として思う。「人間関係ってなんだ?」
自分でも仕事の失敗や、挫折などはあったが、それとは違うのか?ポジティブな姿勢だけでは乗り越える事が出来ないのだろうか。サトルは、いつの時もそうして来たから分からない。人間関係で深く悩みを持つ事が理解出来ない。これがコウイチの言った事なのだろうか。自分には、他人の幸せを感じる事は出来るが、悩みの沼の底に沈み込む人達の本心は理解出来ないのだろうか。
踏み切りに飛び込む人の話を聞いて「どうして?」とは言っても、その辛さを理解出来ないのだろうか。
人の心の奥の痛みを、理解出来ないのだろう。
コウイチが言っていた、大勢の中にいる孤独を理解出来ない。他人の幸せを見て、不幸感を増す事がどうしても分からない。
『嫉妬』なのか、『挫折』なのか、どうしても分からない。
何故人間関係に悩むことが、孤独への逃避になるのだろう。この世からのサヨナラになるのだろう。どうして、それほどまでに苦しむ事になるのだろう。
コウイチが言うネット世界の広がりが、ひとつの大きな影響を及ぼすとは?どうしてだろう。
そう言う人間はどの時代でも同じ%は居ると言う人も居る。だが、そう言って切り捨てても良いのだろうか。コウイチは増えていると思うと言うが、そうなのだろうか。
確かに娯楽の中にもリスクは一定数あるとは思う。アルコールも楽しさを味わうが、依存度が増すと心身共に病的になる。依存症と呼ばれる事は多数あるが、どれもこれも同じだろう。そのひとつとして、ネット依存がある。特徴的なのは、アルコールやギャンブル、タバコには年齢制限があるが、ネット世界にはほとんど無い。もしくは、あったとしても機能しているとは言い難い。未成年のネット依存度は低いとは言えない。
ネットの評価は数で示される。フォロワー、ヒットが多い方が良いとされている。これは当たり前として捉えられているのが現状だろう。
数が全てだ。
つまり、多い方が評価値が高くなる。ネット世界での知り合いや友人でも、同じく評価される。5000人の友達が居る人間と、50人の友達が居る人間とでは評価値が違う。後者は不人気者のレッテルが貼られる。
サトルは益々分からない。自分にはネット世界の友達など皆無だから、自分はその世界ではどうなのか?存在しないのか?
ネットの世界の中で、楽しく会話が出来る人だけが幸せなのか。その人は他人とのコミュニケーションに長けているのか。人間関係が素晴らしいのだろうか。
ネット世界は無限に見えているが、その広さは本当に広がりを持っていると言えるのか。
その世界へ毎日、没頭して彼方此方へと頻繁に訪れる人。知り合いが数千人居る人は、その事が幸せなのだろうか。多くの方に見られる、見せる、それが嬉しいのか。
おそらく、その非現実的なネット空間の中でしか得られない幸福感があるのだろう。それはリアルな世界よりも、もっと大きな影響を本人にもたらすのだろう。
百万人の人達が観るコンテンツを見ないと人生において損するのだろうか。見れば、より幸せになれるのだろうか。
本当に?
サトルには理解出来ない。
今のサトルに分かっている事は、ネット空間に入り込まなくても自分は今のままで全く問題が無いと言う事だった。特に不便も無いし、幸せだと思っている。
評価値が高いコンテンツにも興味が無い。ネットで友達を増やそうとも思わない。ましてや、ネット空間に自分の事を発信しようとは考えた事も無い。自分にとって、必要かと思う事も無い。つまり、無くても構わないのだ。彼は仕事での利用と、リアルな友達とのやりとりだけを行なう場がネットという場所だった。
サトルは元々読書家で、様々な文学やエッセイに触れる事が好きだった。また、偉人伝や現代においての著名人達のストーリーモノを好んだ。
サトルはネット世界を考える時、もしも彼等が今生きていたらどうしたのかと思う。毎日ネットに没頭したか?どうなのか。もちろん自分の世界観を持つ方々だから、その分野には興味は持つかも知れないとも思う。ただ、無闇にコンテンツには興味を持つ事は無いだろうとも思う。おそらく数の論理には全く興味を示さないのでなかろうか。
彼等は自分の中の世界で遊び、思考を楽しみ、そして完結すると思う。つまり、ネットや他人には影響を受けないだろう。
彼等の頭の中はネット世界よりも、遥かに広大な広がりを持つのだと思う。更に言えば、思考の深さが全く違うだろう。
その時、サトルは少しヒントを得た気がした。
ネット空間は思考する世界ではなく、観る世界を主とするのではないかと思った。それが故に、影響下に堕ちやすい。
純文学のように思考する場合は、自分の中の心の世界で考える事になり、他人に影響されない。
ネットコンテンツは、観て感じる。そして、次々と流れてゆく。その蓄積は、実は見る者にとってはストレスにもなり得る。他人と自分は違う人間だから、当然の事だ。消化し切れないデータはストレスになる。ただ、多くの人々はそれに気が付いて居ない。楽しいなと思いながら、実はストレスを溜める。
カキコミについても、それが同様になる。自分の心を発散すれば、楽になるどころかストレスが蓄積する。賞賛もあれば、反発もあるのだ。
見れば見るほど、言えば言うほどにどんどんストレスは溜まり続ける。見えない反発を何処かで感じるからだ。
アルコールと似ている。飲めば、楽しいが、ずっと飲み続けるとストレスが溜まる。そして、やめられなくなる。依存している事にさえ、気が付かない。
ある日の夜、コウイチがサトルのマンションに来た。
「サトル、俺はもう自分の事が理解出来ないんだ。何を求めているのか分からない。
求めれば求めるほど、何かが逃げて行く。愛を求めれば、孤独が襲って来る。
真実を語ろうとすると、脳裏に浮かぶウソが見える。
自分の心に響くのは、素直に生きろと言う誰かの声だけ。
素直さは、自分には恐怖に見える。
生きる為に、自分を成長させたが、何が成長したのか分からない。
生きる方法とは、他人とのコミュニケーションだと人は言う。それは、誰とでも上手くやれと言う事なのか。
誰もが良いと言う事を、自分も良いと思うのが真理なのか。
地震や台風などの天災は、良い事ではないと言う。それは、誰が決めたのか。
人付き合いが出来ない人間は、人間として価値が無いのか。
コミュニケーションが上手い人間は、人格者なのだろうか。
他人の幸せを見る事が辛いのは、人間失格なのか。
誰ともつるまない、孤独を望む生き方は異常なのか。
海底でひっそり生きる、名も無い魚には価値が無いないのか。
孤独とは蔑まされる事なのか。
なぁ、どう思う?サトル。」
サトルはそう言われても、何も答えられない。もしかして、コウイチは心が病んでしまったのだろうかと思った。
彼は何を望むのか?
孤独に生きたいと言うのは、言葉の端々からうかがい知れる。何も求めずに、生きたいと言うのか。
コウイチは答える事が出来ない自分を見て、「また来るよ。」と言って帰って行った。その後ろ姿にも孤独を感じた。
なんとかしてコウイチの悩みを解消してやりたいと思った。
そんなある日のこと。
上司からの命で、プロジェクトを立ち上げる事になる。サトルを含めた5人ほどのメンバーが集められ、その中にひとりの女性が居た。彼女の名はサチコという、サトルよりも1年先輩だが、年齢的には2歳ほど歳下のなかなかの美人だった。
サトルの会社の別の部門にアダチと言う先輩が居たが、サチコは彼の彼女だとの噂が囁かれていた。
暫くするとサトルのLINEにコウイチから連絡が来て、驚く様な事を言う。それによると、実はアダチとサチコは上手くいっておらず、サチコが別れたいらしい。アダチの暴言がその理由として書いてあった。確かに彼は自分よりも下の人間に対しては、時には言葉が荒くなっているのをよく見る事もあった。
プロジェクトは進み、メンバー相互の意見交換も忙しい。サトルも彼女と頻繁に話し合って居た。そんな中で、ふたりは惹かれあってしまう。
しかし、サトルはアダチの事を考えて諦めようと思っている。それが当然だと考えて居たので、自分の心を誰にも伝えなかった。
するとコウイチから、また連絡が来た。
「アダチさんに直接聞いてみたらどうかと思うよ。彼女と付き合ってるのか?ってさ。もしもアダチさんが付き合ってないと否定したら、その時はお前の気持ちに素直になっても良いんじゃない?」
サトルはコウイチの言う通り、アダチに確認した。
「アダチさんはサチコさんとお付き合いされてるんですか?」
アダチは否定した。
サトルはサチコに告発する。
その後サチコはアダチに告げた。
「他に好きな人が居る。別れます。」
おそらくアダチとサチコは付き合っていたのだろう。アダチがサトルの問いに否定したのは、彼の中で社内では公にしたくないと言う考えからだろうと思われる。しかし、サトルは彼の言葉を信じてしまった。
アダチは退社した。
サトルとサチコを恨みながら。そして自分を悔やみながら。
その後、コウイチはサトルに言った。
「お前は何も悪くないよ。そしてサチコも悪くない。そしてアダチさんも悪くない。誰も嘘を言ってないからな。アダチさんも、嘘じゃなくて本当に付き合ってない気持ちだったんだよ。もしかして、まだ言えないと考えていたのかも知れないな。」
サトルはコウイチの言う、誰も嘘を言ってないとの言葉を考えていた。
コウイチは続けた。
「恋愛は人間ドラマの縮図なんだと思うよ。誰も悪くないけれども、必ず傷つく人間が存在する。もしも、傷つくのが嫌ならば恋愛なんてしない事だ。オールハッピーなんて、それこそ嘘だ。」
サトルはその言葉に衝撃を受けた。「オールハッピーなんて無い?」考えてみれば、確かにそうかも知れないと思う。
ハッピーの裏側なんて誰にも分からないし、見せやしない。
誰だって何かを犠牲にしたり、誰かを知らずに傷つけたりしてるのかも知れない。
サトルは思った。
『完全な愛は何か?そんなものは有るのか?神じゃあるまいし、人間にはそんな事無理じゃないのか。』
そんなサトルの心を読んだようにコウイチが言う。
「愛とは実に厳しいと思うよ。愛は喜びも与え、そして苦しみも与えるだろ。優しさも、嫉妬も与える。それが愛なんだ。」
サトルは答える。
「嫉妬は感じた事が無い。」
コウイチはそれを聞いて大笑いした。
「お前の知らない所でアダチさんとサチコがデートしても、そう言えるのか?他の男と密会しても何とも思わないのか?」
「サチコはそんな女性じゃない!」
コウイチはゲラゲラ笑った。
「もし、彼女から別れを告げられたらどう思う?アダチさんの気持ちがお前には分からないだろうな。お前には人間の悲しみが分からない。人間にとって、愛を失うほど悲しくて苦しい事は無いんだ。」
サトルは答える事が出来ない。
コウイチは続けた。
「愛こそは全てだと言うだろ?じゃあ、愛が無かったら全て無いのと同じか。その生きる意味が無かったら、死ぬ以外には無いのか。」
サトルは反論した。
「誰だって、人を愛す事は出来るはずだ。」
「そうかもな。赤子が母親を愛するようにか?愛は大きければ大きいほど、無くした時の喪失感は限りない。恋人との別れや、友達に裏切られた時。しかし、その経験で得る物もある。」
「それは何?」
「世の中にはそんな時も有ると知る事だ。その経験は、自分を知るキッカケになる。」
「自分を知る?」
「自分がどういう人間なのかを知る事だよ。」
コウイチはそう言うと帰って行った。
ある日、サチコがサトルのマンションへ来て、泊まって行く事になる。
サチコは言う。
「最近、少しだけ不安になる事があるの。あなたは、私の事を本当に愛しているの?」
「もちろんだけど、どうして?」
「いつも何かを考えてるでしょ?私の事以外の何かを。」
「いや、そんな事は無いよ。」
「それなら、私の事を知ってる?私がどんな思いでいるのか知ってる?私が周りの人達からどんな女だと噂されてるか知らないでしょ。私は自分勝手に、男を取り換えた女だと言われてる。」
「そんな、、、。酷い。」
「優秀な出世街道を進む男に鞍替えした打算的な女だと言っている。、、、あなたの事よ。」
「誰がそんな事を!」
「皆んなよ!それだけじゃない。」
「え?」
「サトルも言われている。先輩のオンナを略奪した、酷い男だと言ってるわ。そのせいで、アダチさんは会社を辞めたと言って、全部あなたの責任だと言ってる。」
「まさか。」
「あなたも、私も、そんな人間だと言っているわよ。私はつらい。この気持ち、あなたには分からないの?」
その夜は、どれほど彼女を慰めてもダメだった。
数日後、コウイチが来た。
「噂になってるようだな。大丈夫か?そんな事を気にする事ないぞ。愛するのに、他人の都合なんて関係無いだろ。それに、お前はアダチさんに確認したんだからな。」
「そうなんだけど、彼女も自分も参ってる。」
「酷い事を言う奴等は何をどう考えてるのかね、全く。ヒトの幸せがそんなに嫌なのかな?お前とサチコの幸せが憎いのかな。きっと、嫉妬だろ。それに、ケチを付けたい人間って言うのは何処にでも居るからさ。」
「どうしたらいいと思う?」
「無視する事だね。だいたい、そんな事を言う奴等なんてどうでもいいだろ?捨てちまえよ。」
「捨てる?そんな、、、。」
「じゃあ聞くけど、奴等はお前達が仲良くしても裏で噂を言うし、もし別れたら、それ見た事かと悪口を言うだろ?。どっちにしても、言われるんだよ。だから、そんな人間とはオサラバして、接点を持たない事だ。」
「考えると、ノイローゼになりそうだよ。」
「サトル笑わせるなよ。お前は悩みなんて無縁だと言ってただろ?しっかりしろよ!お前は優秀な人間なんだからな。」
「優秀?、、、。」
「そうさ、優秀さ。だから嫉妬されるのさ。もしもお前がボンクラで、彼女もダメ女だったら誰も気にもしないよ。目立つから、嫉妬されるんだよ。芸能人とかいろいろ言われるだろ?それと似ているんだな。俺は以前からずっと言ってるだろ、お前のそう言う点が危険だと。」
コウイチは続けた。
「ダメ人間が何をしても、笑われるだけだろう。本人がカッコいいと思ってても、笑われるんだ。しかしな、優秀な人間がする事には必ず嫉妬が生まれる。人間って言う奴は、あさましいんだよ。下を見れば笑い、上を見れば嫉妬する。もちろん、腹の中でだけどな。『凄いですね〜』口では言いながら、馬鹿にしたり嫉妬してるんだ。それが人間だ。」
「そんな事は無いよ。」
「お前は本当にオメデタい奴だな。さっきノイローゼだと言ってたじゃないか。そんな事が無いなら、ノイローゼにもならないだろ。」
「なんだか孤立してしまった気がするけど。」
「孤独か?俺と一緒じゃないか。」
コウイチはそう言って帰って行った。
社内でのプロジェクトも終わり、サトルとサチコはだんだんと連絡が希薄になって行った。
サトルは仕事も忙しく、元々恋愛には慣れていないのもあり、女性への頻繁な連絡を重視しないタイプだった。彼は愛さえあれば、そのような事は問題無いと思っていた。
だが、彼女からするとそれは大きな問題だった。連絡が来ない日は酷く落ち込んでいる。さらに会えない日々が続いて行くと、不満は蓄積された。以前の彼、アダチと比較するようになってゆく。そして、アダチと別れた事を後悔し始める。彼に愛された夜を思い出す。震える指でLINEを開き、アダチへ連絡を入れた。彼女は寂しさに負けてしまった。
サチコはサトルへ別れを告げた。
愛する者を失った事の無いサトルは、頭が混乱する。何もかもが、信じられない。どうしてなのか、分からない。常に冷静だった彼の心は掻き乱された。食欲もわかず、寝る事も出来ない。
彼の目から光が消えてしまう。
そんな時、コウイチが訪ねてきた。
「サトル、大丈夫か?別れたそうだな。彼女はアダチさんと復縁したらしい。知らなかったか?他の誰かに聞くよりも俺から聞く方がまだマシだろ。」
サトルは驚いてサトルを見た。
「サトル、気にするな。もう済んだ事を悔やんでも仕方ないだろ。お前とサチコは縁が無かったんだよ。」
「縁が無かったか、、、。」
「そうさ、結ばれる運命じゃなかったって事さ。」
「そうかも知れない。でも、自分が彼女の事を分かってやれなかった。彼女の心を思い遣ってやれなかった。」
「そう自分を責めるなよ。お前にはきっと他に運命の人が居るはずだ。落ち込まないで前を向いてくれよ。女性との出逢いは、これからもあるんだから。」
「俺は彼女を愛していた。それなのに、俺は、、、。」
「自分の事が嫌になるのか?彼女に対しての自分が。後悔で心が張り裂けそうなんだな。」
「どうして俺は、、、。」
「お前はツライだろう。愛してたからツライんだよ。しかしな、ツライのはお前だけじゃない。」
サトルはその言葉にはっとした。
「サトルがツライのと同じくらいに、サチコもツライ思いを重ねていたんだ。お前は、ツライと自分を責めているが、それは俺から言わせると自分勝手な事だ。」
サトルは黙っている。
「お前、自分の事だけじゃないか。彼女の身にもなってみろよ。きっとお前よりもツラくて悲しいかも知れない。それにな、もう一つある。」
サトルは顔をあげてコウイチを見た。
「アダチさんの事だ。あの人は後輩に彼女を取られ、悩んだ挙句に退社している。それも、彼の選んだ道だから仕方がないが、相当にツラくて苦しかったはずだ。」
サトルはポツリと答えた。
「そうだな。」
「アダチさんは辞めた後も、サチコを待っていたのかも知れない。そして、彼女は彼の元へ戻った。これもまた、運命。誰も分からない世界だ。」
コウイチは続ける。
「今回の事で、一旦別れたアダチさんとサチコにこれからどう言う未来かやって来るのかは誰にも分からない。そして、何を学んだのかは本人達にしか見えない。ただ、これだけは言える。
彼等は自分という人間を、本当に知ったと思うよ。自分がどんな人間なのか、それを突きつけられたからな。」
「俺は、、、。俺は何者なんだ?」
「人間って奴は、愛を失った時に自分を見つめ直すチャンスをもらう。自暴自棄になって奈落へ落ちるのか、世間を責めるのか、自分を見つめ直して生き変わるのか、足りなかった愛に気がつくのか。死ぬ間際と同じ事だ。大きな愛を失う事は、それほどの事なんだ。サトル、お前も良く考えるんだな。世の中には、もっと深い悲しみが数え切れないほどあるんだ。」
コウイチは帰って行った。サトルはコウイチの事が何故か心配になっていた。彼の言葉には、悲しみが満ちていたからだ。
そんなある日、サトルはグループ会社への出向を命じられた。企画に精通したサトルが選ばれていた。グループ会社への出向は良くある事で、他にも数人の本社メンバーが行っていた。その中にひとりの後輩が居て、彼はサトルに懐いて居た。彼の名はアキラと言う。
出向する事が決まると、その彼から早速電話が入った。
「サトルさん、こちらへ決まったんですね。またお会い出来るので嬉しいです。実はお話があるので、お会いした時に話を聞いて下さい。ちょっと色々ありまして。」
サトルは快く了解し、電話を切った。
本社の専務から出向先の副社長に会って、指示を仰げと言われている。サトルは出社当日、副社長室へ向かった。
「君の事は本社の専務からよく聞いている。そこで、頼みがあるのだが、今進めている新規プロジェクトの再構築をやって欲しい。」
「はい。再構築ですか?どの様な?」
「実はなかなか思うようには、はかどっていないのが実情なのだ。このままでは、結果が出るのに時間がかかり過ぎる。目をつぶって耐える余裕はこの会社には無い。そこで、一度君の手腕でやり直した方が早くて良い結果も出ると考えた次第だ。本社の専務に無理を言って君に来てもらう事にした。」
サトルは副社長からプロジェクトの概要と目的を聞いた。そして、現在組まれているプロジェクトチームへ参加する事になる。
プロジェクトチームがミーティングを開始すると報告を受けたサトルはその部屋へ向かう。先に行ったサトルは末席に腰掛けて待っていた。メンバーがぞろぞろと入室して来る。サトルが頭を下げても、誰もサトルに挨拶もしない。暫くすると、年配の神経質そうな男性が入って来た。するとメンバーが立ち上がり「組長、お茶にしますか?コーヒーですか?」と言う。
『組長?』なんだそれはと、サトルは思う。まさか、苗字ではあるまい。その組長と呼ばれた男はサカモトと言う名前だった。
サカモトはサトルを一瞥すると、自分に用意されている上席に座って言った。
「プロジェクトは順調に進んでいる。先週末迄の報告を頼む。」
そう言うと、他のメンバーはそれぞれ書類を見ながらいろいろ説明を始めた。90分ほどの会議が終わると、『組長』が終わりを告げる。
サトルは手を上げて言った。
「この度、本社からの出向でこちらのプロジェクトに参加する吉田サトルと申します。よろしくお願いします。過去の会議内容の資料を拝見させていただきます。」
サトルがそう言うと、メンバーは組長の顔色を伺うように彼を見る。組長が黙って頷き、そのまま彼は部屋を出た。
ひとりのメンバーが分厚い資料をサトルのテーブルに置いて、「こちらです。」とだけ言うと部屋から出て行った。
サトルはひとり部屋に残り、資料に目を通す。問題点が幾つも見受けられる。彼は自宅に持ち込んで、精査したいと考えた。
組長、つまりサカモトの了解を得る為に彼を探してみたが、本来なら居るはずの部屋には居ない。
女の子のスタッフに聞いてみる。
「サカモトさんは何処にいらっしゃるのですか?」
女の子は呆れた様な顔をして言った。
「あぁ、いつもの所です。社の裏庭です。」
サトルがそこへ歩いて行くと、サカモト組長を中心にして取巻き達が談笑している。
「あの吉田って言う奴、生意気ですねぇ、組長に挨拶もまともにしないなんて許せませんよ!どうしますか?組長。」
その時、サカモトはその子分の肩越しにサトルが歩いて来るのを見た。そして開口一番言った。
「お前、何しに来た!ここは俺のシマだぞ。俺を誰だと思ってるんだ。俺は伝説の組長と言われた漢なんだぞ。俺に生意気な口を聞くとぶっ殺してやる。分かったか!サカモト組に逆らったらどうなるのか教えてやろうか。」
サトルは言った。
「サカモトさん、組長って言うのは辞めて下さい。ここは会社です。」
「なんだと!このヤロー!テメェ死にてえのか?おい!」
するとサカモトの隣に居た取巻きのひとりが言った。
「サカモトさんはな、ネットでは伝説の組長として有名な御方なんだぞ。ひと声掛ければ、数百人集まるぞ。」
サトルは聞いた。
「あなた方のような人達が集まって来るんですか?で、集まってどうするんですか?」
サカモト組長が言った。
「ボコボコにしてやるんだよ。お前もそうなりたいのか?」
サトルはハッキリ答える。
「どうぞ、やってみて下さい。煮るなり焼くなり、やってみたらどうですか?」
取巻き達は黙った。誰にもそんな勇気は無いらしい。もちろん、そんな事をしたら1発でクビになってしまう。始めから終わりまで、クチだけの奴等だ。
それを見てサトルは言った。
「ただいまこの時からプロジェクトチームのリーダーは私がやります。不服なら副社長へチームを抜けると御自身でお伝え下さい。では、明日の10時から会議を行います。その時に今後の方針をお伝えします。」
そして最後にサカモトの目を見ながら言った。
「あ、それから資料は私が持ち帰ります。」
サトルは先の様な安っぽい脅しには何も感じない。弱い犬ほど良く吠える。そして、上にはからっきし弱いものだ。もし、殴られたとしても、それはそれで構わないと考えていた。その瞬間にチームは解散だからだ。それに人間を見れば、おおよそ歩んで来た道なりは読み取れる。どんな人生感を持って、どのように生きて来たのかが表情と言葉に出るものだ。サカモトのように。
その周りには似たような価値観を持った取巻きが集まるのも、また当然の事だ。
その夜、後輩のアキラと会った。
「サトルさん、出社早々に派手にやりましたね。大騒ぎになってますよ。あのサカモトって言う人は元暴走族って噂で、誰も何も言えない状況だったんです。それをサトルさんは、、、、。」
「そう?派手だったかな?」
「そうですよ。やってくれました!気分イイっす!でも、気を付けて下さいよ。必ず邪魔してきますからね。」
「そうだと思うよ。資料を少しだけ見たけど、意図的に引き伸ばしている。居心地の良い場所を簡単には手放したく無い意志が読み取れる。」
「やはりそうでしたか。では、なおさら邪魔しますね。サトルさんが組み立て直してプロジェクトを動かすと、ものすごい勢いで進行して行きますから。」
「いや、俺じゃなくても誰が見ても今の状況は納得しないと思う。それほど遅滞しているからね。副社長が頼んで来る理由が良く分かったよ。サカモトさんは昔の自分の肩書きで生きてるが、それは会社では通用しないんだ。会社には会社のルールがある。どれほど会社に貢献出来たのか、それで判断される。今のサカモトさんは会社にとってはお荷物社員だ。もしもあのままで生きたいなら、独立した方がいい。会社にとっても、本人にとってもね。その辺を含めて彼と話し合いをしたいと思う。」
「そうですか。副社長と3人でですか?」
「いや、ふたりだけで話すつもりだ。ところで、アキラ君の話って何んだい?」
「あ、そうでした。実はサチコさんの事なんです。自分とサチコさんは入社同期生で、ずっといろいろな相談などをお互いにしてます。なんて言うか、気心知れた間と言うか。それで、今彼女から相談されているのがサトルさんとやり直したいって言ってます。どうもアダチさんとは復縁したものの、やはりアダチさんの暴言に耐えられずにかなり落ち込んでます。それで別れると相談されましたが、その時にサトルさんの事も話してました。気持ちはやり直したいって言うんです。」
「アキラ君の考えは?」
「自分の考えは、彼女の気持ちはわかります。ただ、今の彼女のままでは同じ事の繰り返しになりそうな気もするんです。」
「誰にでも言える事だけど、そう簡単には人間って変われない。変われないし、相手を変える事も難しい。だろ?」
「そうだと思います。」
「それを踏まえてと言うか、それを知った上で考えないと同じ事の繰り返しだ。アダチさんの暴言に耐えられずと言うが、彼の癖なんだと思う。それほど本人は言ってないつもりなんだと思う。簡単に言うと、気にしないで少しだけ我慢すればやっていけるかも知れない。こう言う人なんだと理解して、自分が相手を許せば済む事だ。でも、サチコにはそれが出来ない。これも、彼女の癖と言うか、性格なんだ。我慢出来ないんだね、たぶん。その事を自分で知って、修正しないと誰と付き合うとしても我慢出来ないかもね。相手はそう簡単に変わらないから。それに、欠点があるのが人間だしね。その事を好きになれたら良いけどさ。」
「分かりました。」
サトルはアキラと少しだけ呑んで、別れた。マンションに帰り、久しぶりにコウイチに連絡を入れた。彼がどうしているか心配だったからだ。
「どう?その後は。」
「その後?そうね。」
とコウイチは話し出した。
かなり精神的に疲れたと言う。
「体じゃなくて、メンタルが疲れたよ。でも、そうなると体も調子悪いな。なんとか口で強がりを言って、自分の言葉で救われているのが現状かな。それも最近は少なくなってさ、だんだんと言う事も減って来た。強がりを言っても、なんとなく不安や孤独感が襲って来るんだ。余計なことや、考えても仕方ないことを忘れられない。俺、最近特に思うんだけどね。」
「どうした?」
「いや、目には見えない刃物ってあるんだとつくづく思う。言葉や態度って目には見えないけど、使い方によっては本物の凶器以上なんだと思う。文字もそうだな。その刃物で、心という目には見えないモノを切り裂くんだ。」
サトルは黙って聞いていた。
コウイチは言う。
「お前、怪我した事あるだろ?その傷跡を見てどう思う。懐かしい感じかな?心の傷は、そうはいかない。その時の嫌な思いが消える事は無いんだ。たぶん相手は完全に忘れているだろうな。でも、そんな事とは無関係に、心に刻まれた傷跡は疼くんだ。
それを心が弱過ぎるとか言う人も居る。そう言う人は何も分かっちゃいない。ポジティブな生き方が大切だとか、前を見ろとか言われてもツライだけだ。説教なんてゴメンだね。傷に必要なのはなんだと思う?
薬なんだよ。
心の傷を治す薬なんだよ。
絶対に説教なんかじゃ無い。
心は心でしか癒せない。
だから、ペットブームなんだと思うよ。彼等ペットは無償の愛だからな。皆んな、癒されたいんだよ。飼育したいんじゃなくて、癒されたいんだ。
さっきさ、見えない刃物って言っただろ。その刃物は誰でも持っている。そして、いつでもどこでも切り付けられる。小学生から老人まで、全ての人が持つ。刃物を出すか出さないかは、本人次第だ。
『臭い』とか『汚い』、『気持ち悪い』と言われて、自殺する子も居るからな。子供って残酷な一面もあるんだ。
そりゃ確かに、その言葉にも耐えて頑張る人も居る。ただ、その刃物で付いた傷跡は消えやしない。一生残る。どんなに頑張って成長して、成功したとしても消えやしない。心の傷の記憶は消せないんだ。」
「コウイチ、何かあったのか?」
サトルは恐る恐る聞いてみた。
「フラれたんだ。よくある事さ。情け無いけど。俺が悪かったからね、仕方ないよ。これってさ、人生の中でも結構な重傷だな。心が痛いよ。だから、関係無い事まで気になってしまうんだな。」
そう言うとゲラゲラ笑った。
そして言う。
「サトル、出向先で揉めたらしいじゃない?大丈夫か。いろいろあるよなぁ、マジで。」
「まだ始まったばかりだから、どうなるのか分からない。でもさ、やらなきゃいけない事だから、愚痴ってもしょうがないだろ。嫌だと思えば思うほど嫌になるし、そんなに気にしなきゃ、それで終わるんだ。要は自分次第だよ。」
「お前は本当に強がりを言うなぁ。」コウイチはまた大笑いした。そして最後に言った。
「サトルが友達で良かったよ。ありがとな。」
次の日に組長サカモトとふたりで話し合いをする予定だった。予定通りにサトルは部屋で待っていたが、30分経ってもサカモトは現れない。サトルは席を立ち、サカモトの部署へ行った。
いつものように取巻きに囲まれたサカモトが居た。サトルは言った。
「サカモトさん、お待ちしてました。打ち合わせはどうしますか?」
サカモトは答えない。
「どうされますか?」
サトルは再度聞いたが、サカモトは黙ったままだ。
「では、こうします。明日の10時に会議室へ全員来て下さい。そこに来れない方はプロジェクトチームから脱離したものとさせて頂きます。よろしいですね。」
「良かねぇよ。お前、邪魔なんだよ。さっさと消えろ!俺が消してやってもいいけどな。」サカモトがそう言うと、取巻きは大笑いした。
サトルは落ち着いた表情を崩さない。とても穏やか目付きでサカモトを見ている。サトルはサカモトの言葉と態度を見て、彼が可哀想に感じていた。この人は自分を精一杯誇示して生きてる。昔の悪かった時を唯一の誇りとして、生きている。その姿が痛々しい。彼の生きて来た世界は知る由も無いが、酷く幼く感じる。幼稚と言う言葉が頭に浮かんだ。この幼い中年の男は、おそらくこのままの姿で生きて、死ぬのだろう。せっかくちゃんとした会社に入れたのに。それをまた捨てるのかも知れない。彼にとっての正義は、脅しと威嚇で他を支配する事なのかも知れない。もし、彼に対して頭を下げご機嫌を取れば、彼は満足感で満たされるだろう。ここに居る取巻きさん達も、全員その道を辿って来たのだ。これは世の中の縮図の様にも見える。大人しく気持ちの弱い人間は、強い人間の傘の下に入りたがる。その傘の人格は関係無いかも知れない。強ければ良いのだ。
サカモトの取巻きのひとりが言う。「だいたいな、お前が勝手にリーダーとか馬鹿言ってるがそんなの誰も認めないぞ。」
サトルは答える。
「認めてもらいましたよ。」
サカモトが顔を真っ赤にして言った。
「誰の許可をもらったって言うんだ。俺は認めてやしない。」
するとサトルは懐から一枚の紙を出して両手で広げた。
「社長から許可を得ております。これがプロジェクトリーダーの辞令です。私が直接に頂きました。」
次の日の10時、彼等は全員揃ってやって来た。
サトルは全員にプロジェクトのやり直しを命じ、各人へ過酷過ぎるほどの仕事量を与えた。そして、言う。
「この仕事量は少ないですか?本社では新入社員でもこなします。雑談しなければ、あっという間に終わりますよ。では、これから毎日10時に何処まで進んだか報告に来て頂きます。」
その夜コウイチがマンションに来た。
「どうだ?あの人達は。」
「暇を作れない様にした。タバコを吸う暇も無いだろうな。仕事に没頭してもらうんだ。」
「それが一番だな。」
「いろいろ言うよりも、それが良いと思う。彼等は仕事の面白さを知らない。仕事に没頭して、目的を達成した喜びを味わってもらう。失敗、挫折も体験してもらう。仕事に疲れ果てて死んだ様に寝る日々を知ってもらう。」
「お前は他人には厳しいと言われてるからな。」
「仕事だから当たり前だろ?遊びじゃ無いんだ。それに、適当にやって仕上げた仕事よりもいろいろ身に付く。仕事に甘える事を教えても良い事なんて無い。そうやって仕事をやってると、仕事が終わった時の楽しさは格別だしね。その事を経験させてやりたい。彼等は知らないんだ。」
「愛のムチか?そりゃイイや。ダメ社員が生まれ変わるのが楽しみだな。」
「ん?でもね。俺がたぶん一番仕事する事になるんだけどね。仕方ないよ、ふたり分?いや、さんにん分やらないと間に合わないし。」
「組長とやらが仕返ししないかね?」
「するかもね。望む所だよ。どんな風にするのかだいたいの予想は付くよ。無視、サボタージュとか、変な噂とかでしょ。脅しもあるかな。それもこれもまた楽しみだね。彼に武器があるように、自分にも見えない武器があるからさ。分かるだろ?彼の武器より切れ味鋭いよ。」
「お前は鬼だな。」
「今までサボり続けて来たんだから、仕方ないだろ。相手に相応しい対応をしてるだけだよ。」
「キツくて泣くだろうなあの人達。」
「泣いてもらう。」
「こわっ!」
コウイチはそう言って、首をすくめて帰って行った。
サトルは思った。
何も好き好んで泣かせる訳じゃ無い。彼等には必要なんだ。仕事の醍醐味、厳しい仕事から花を咲かせる喜びを知る事が。そして、一番分かって欲しいのは、視野を広げる事だ。サカモト組と言う、小さな世界の中の価値観で全てを知っていると思い込んでいるが、それがどれほど狭い視野なのかを自分の目で知って欲しい。仕事の広がりはもっともっと大きなモノだと自分の目で確かめて欲しい。自分の能力を発揮してもらうんだ。ついて来れない人も居るだろうが、その時にフォローするのがリーダーの一番の仕事だとも思っている。自分もまた、今回は試されるだろう。
しかしどうしてもサトルには理解出来ない事がある。それは、彼等は何故に群れたがるのか、不良グループ化したいのか、その一員になりたいのか、それが分からない。おそらく、その中でしか得られない特別な価値があるのだろう。組長が仕切る世界の中で、構成員になる事が、他を捨てても良いほどに喜びなのだろう。組長に自分が愛されたいのだろうか。会社には居場所が無く、そこへ入り込むことで安心なのだろうか。彼等にとって、組は心を癒すシェルターなのかも知れない。組長もまた、取巻きに囲まれる事で癒されたいのかも知れない。そう言う意味では、ひとつの家族として機能しているのだろう。
サトルには分からない。コウイチに聞いてみようと思っていた。
サトルは会社でプロジェクトチームを3分割した。それぞれに目標を与えて、独自の行動を認める。その報告を全体会議でサトルがまとめ、指示を出す形に改める。要するに、競争させる事によってお互いに刺激し合ってもらう。彼等にもそれぞれに個性がある。その個性を理解して、協調し易い人間同士のグループ分けをし、権力の一極化を避けることにした。
第1回目の進捗状況の報告会で、その結果は驚く程の違いが現れた。目標を掲げて達成しようと努力したグループも在れば、目標が理解出来ないグループもある。3グループの違いがはっきりと出た。それを全員が同時に見る事になる。
サトルは全ての報告を受けて、最後に言う。
「私の指定した日程までに、与えられた仕事内容を完遂したグループには毎回報奨金を出します。そして3グループ全体が達成した場合には報奨金を増やします。大変ですが、よろしくお願いします。では、来週までの目標をお伝えします。」
コウイチから連絡が来た。
「人間ってさ、欲には正直だよな。目の色が変わるだろ?」
「競争するモチベーションにはなるかと思うよ。何も無いと、やっても実感が無いしね。欲って言うか、やって良かったって感じる事は大切だから。」
「良く知らんけど、昔の大名さん達も民の部族間で土木工事を競わせたと聞いたこともあるけど、そんな感じかね?」
「競争は悪い事じゃない。まぁ、全てでも無いけどね。使い方だよな、問題は競争をどう使うかで全然違うから。」
「競争社会って言うのは、俺はあんまり好きじゃないけどな。疲れるしさ。お前の考える競争って何?」
「そうねぇ〜、チームワークかな。競争を勝ち抜く為には、絶対に必要なチームワークがある。個人の能力だけでは無理だ。結果って言うのは、出さなきゃ価値が無いと言う反面もあるけど、チームワークが確立したらもし負けても得るモノは必ずある。そして、いつか結果を出せる。なにより、チームワークが大切だと思うのは、勝ち続ける為にそれが大切だと思うから。チームワークが無いと一発屋で終わるんだ。続かない。競争って言葉だけに注目するとキツく感じるかも知れないけれど、実はチームワークを作るための競争なんだよね。」
「チームワークねぇ。俺はチームワーク苦手だから。」
「そう言って否定するなよ。チームワークって、要するにスピードなんだよ。早く、確実に、良いモノを仕上げることになる。下手な職人さんより、名人の方が早くて良いモノを造るでしょ。そうなると、更に良いモノを時間を掛けて造り出す事が出来る。余裕って言うか、視野が広がるんだ。その名人のスピードをチームワークで作ることなんだよね。」
「理屈は分かるけどさ、チームワークとか団体行動とか嫌なんだよ。そう言うの大嫌い。」
「コウイチはダメだろうな。実は俺もあんまり好きじゃないんだけどね、団体様って言う奴。でも、仕事だから仕方がない。」
「団体行動しなくていい仕事がいいなぁ。」
「団体行動が嫌いな理由は?」
「話が合わない人と一緒に居たく無いんだよ。疲れ果ててしまう。話をしないとさ、相手は俺の事を無視する様になる。それも嫌だし。だからと言って、話を無理して合わせててもツラい。ただ、その場に居るだけで苦しくなるんだ。」
「プライベートでも同じかな?」
「プライベートなら尚更だよ。知ってる人の数だけ嫌なこともあるって言うと分かるかな?だから、知り合いは本当に少ない方がいい。俺の場合、極端かもね。とにかく、普段付き合う事が無くてもさ、知ってる人の顔も見たくないし、情報なんて絶対に見たく無い。特に、好きじゃ無いタイプの人間はね。ダンゴムシみたいに誰か来たら丸まって、見もしないし、何も言わない。」
「ダンゴムシ?」
「そうだよ。1匹であてもなく彷徨うダンゴムシ。だから、組長とやらの取巻きの話を聞いて思ったよ。その人達って、集まって楽しくやってるんでしょ?それが楽しいって言うのが分からないよ。でも、きっと仲間と一緒で居心地いいんだろうね。孤独なんて無いのかね。」
「いや、そうは思わない。寂しがりだから集まってるんだと思う。本人はそう言わなくても、そうだと思う。寂しくなかったら、集まらないでしょ。集まる必要無いしね。コウイチも孤独だったら、集まれば?」
「嫌だね。じゃあ、お前の言う通り孤独だから集まるとしたら、集まらない俺は孤独じゃ無いのかよ?」
「寂しがりと孤独ってのも、ちょっと違う気もするね。」
「俺はたくさんの友達なんて要らない。友達が多ければ良いなんて、ゾッとする。ヒトケタで満足だね。孤独を感じる時は、多くの人を感じた時だ。楽しそうに遊んでる奴とか、幸せだと言ってる奴とか、自分のモノを見せたがりの奴とかさ。ウンザリだ。ひとりが良いんだ。寂しがりみたいに、
集まりたがるなんて無いね。心が折れる。」
「何となく分かる気もするんだけど。やっぱり、孤独を怖がってるんじゃない?孤独って言うのはさ、大勢の中で感じるんだよ。平原の中で、ひとりで居ても孤独は感じないと思う。だから、コウイチは孤独を恐れてるかもよ。恐れの為にひとりになりたい。」
そう言うと、
コウイチは不貞腐れて帰って行った。
次の日会社で後輩のアキラと会った。昼休みに屋上で話をした。
「サトルさん、サカモトさん達が何処から聞いて来たのか知りませんが、サトルさんとサチコさんの事をいろいろ言いふらしてますよ。」
「え?そうなの。なんて言ってる?」
「それが酷いことになってます。サトルさんがアダチ先輩から、彼女を寝取った略奪愛になってます。しかも、彼女に暴力を振るったとか言ってますよ。」
「、、、、。」
「サトルさんの事をアルコール中毒だとも言ってるようです。飲めば人格が豹変して暴力を振るったり、訳の分からないコトを言うとか。」
「俺が?アル中って言うの?」
「もっと酷い事も、、、。」
アキラは言いにくそうに下を向く。
「言ってくれ。」
「サチコさんを妊娠させて、強引に中絶させたと、、、。酷すぎます。嘘だらけで。」
「それを聞いて信じる人も居るのか?」
「残念ですが、居ます。俺は必死になって否定するんですけど。そんな馬鹿な話は信じるなって。」
「こちらの社には俺の事を知らない人がほとんどだからな。しかし、サチコの事はこのままには出来ない。そんなデタラメは放っておけない。」
「どうしますか?」
「本社へ噂が流れるのも時間の問題だろう。サチコが不憫過ぎる。悪いけど、アキラくん頼みを聞いてくれないか?」
「はい。」
「先ず、本人たちに伝えようと思う。外から聞くよりいいだろう。君がふたりを呼び出して、アダチさんとサチコに直接言ってくれ。こんな状況になっているが、動揺しないように。アダチさんには、サチコを守る事だけお願いしてくれ。彼女のメンタルが心配だ。俺が行って言うよりも、お前の方が良いと思う。俺はこっちで、直接サカモトと話し合いをする。」
「分かりました。任せて下さい。」
サトルは次の日の夜、サカモトを呼び出した。サトルはサカモトの顔を見るなり言った。
「話し合いをするつもりは無い。今、妙な噂が流れている。その噂を流したのが誰なのか、調べ上げる。そして、然るべき処置をする。これで話は終わりだ。」
マンションに帰るとコウイチが来た。
「まるで喧嘩だな。いつも冷静なお前も熱くなる事もあるんだって驚いたよ。」
「自分の事だけなら、俺は黙ってる。何も言わずに。」
「そうだろうな。今回はサチコが酷い事を言われてるから、黙ってる訳にはいかないか。」
「当たり前だ。」
「しかし、言う方も馬鹿だね。シラを切り倒せる訳がないのにな。調べれば、すぐに分かる事だ。」
「ああ、もう手は打った。」
「お前は何でも早いな。で、分かったらどうするんだ?相手はどうなる?」
「とりあえず、何もしないよ。調べて発信者が確定出来たら、そのまま放って置いても社内にはそれが一気に広まる。そんなデタラメを流した人が誰なのかって、全員が知ることになる。その結果を見て、どうするのか決める。」
「お前は何も言わずとも、奴等は周りから白い目で見られる事になる訳だな。」
「それは知らん。周りの人の良識に期待するだけだ。」
「まぁ、噂の内容からして女性達には総スカンだろうな。」
「知らんよ、そんな事。」
「相当怒ってるな。しかし、これで一件落着か?」
「いや、それは違う。サチコが噂で傷付いた事には変わりない。消えないと思う。可哀想な事になってしまった。女性としては、最も嫌な事だからな。サチコ次第だけど、訴訟手続きをするかも知れないね。」
2日後の夜、アダチさんから電話があった。
「アキラから話は聞いた。サチコはショックで塞ぎ込んでいる。どうして、彼女がこんな目に合わなくちゃいけないのか?説明してくれ。」
アダチさんはアキラからも説明は聞いていたが、サトルとサカモトの具体的なやり取りを知りたがった。
彼は3日後の夜に町外れの公園に来てくれと言う。サトルは了承した。
電話が切れた後すぐにコウイチかがマンションに現れた。
「アダチさんと会うのか?」
「どうして知っているのか?アダチさんとは今約束したばかりだ。」
「いや、たぶんそんな事になってるかと思ってね。ところで、会うのか?」
「あぁ、約束した。3日後の夜、公園で会う。」
「やめておけ。行くな。」
「しかしな、サチコの事も聞かないと。」
「いいから、やめろ。会うな。」
「どうしたんだ?何故止める。」
「嫌な予感がするんだよ。何か理由を付けてやめろ。その方がいい。」
「いや、ダメだ。今回は行かなきゃならん。」
「しょうがないな。では、言うけど。アダチさんはあの噂を信じてるぞ。お前がサチコを妊娠させて、堕ろさせたって。」
「まさか!そんな。デタラメだぞ!」
「確かにデタラメだ。しかし、アダチさんは信じてる。お前とサチコを疑ってるんだよ。その事でお前を白状させようとしている。何をするか分からんぞ。」
「でも、どうしてそんな事を信じるんだよ!」
「アイツだよ。」
「アイツ?誰だ?」
「サカモトだよ。サカモトはわざわざアダチさんと会って、彼に吹き込んだんだよ。嘘を。お前の口から聞いたと言ったらしい。お前が、自慢話をするようにサチコとヤッタ話や、彼女の事をアバズレと言ってると、そしてアダチ先輩を馬鹿にしてるように笑ってたと言ったんだ。サチコは堕したくないのに、お前が脅かして堕胎させたと。」
「なんだと!それで、アダチさんは信じたのか?嘘だろ?」
「本当なんだよ。嫉妬だ。嫉妬で自分を見失ってる。サチコもアダチさんに叱られて本当の事を言えと殴られたらしい。サチコも否定したが、アダチさんは信じない。サカモトの方を信じてる。」
「しかし行かないと。行くしか無い。もし、行かないと認めた事になる。自分から真実を話すよ。」
「お前、刺されるかも知れないぞ。どうしても行くならアキラを連れて行け。その方が安心だ。」
「いや、アイツに危ない事なんて頼めない。ひとりで行く。」
サトルは3日後の夜、ひとりで暗い公園へ向かった。
ジャングルジムの所に人影がある。こちらに背を向けて立っていた。サトルはその影に近づいて声をかけた。
「アダチさん。」
すると影は振り返った。
その男はサカモトだった。
「よく来たな、吉田サトル。」
サトルはサカモトを見て、言った。
「サカモト、、、。アダチさんは何処にいる。」
するとジャングルジムの背後の方から声が聞こえた。
「久しぶりだな、吉田サトル。お前にひとつだけ聞きたい事がある。」
サトルは黙っている。アダチは続けた。
「サチコが堕したのは俺の子供じゃないのか?お前は嫉妬して、サチコに無理矢理堕胎しろと言ったんだろ?違うか?」
サトルは驚いた。
「何を言ってるんです。サチコは妊娠してなかったし、堕ろしてもいません。サカモトの言う事は全てデタラメなんです。」
アダチはサカモトと目配せするようにして、答えた。
「サチコがそう言ったんだよ。俺の子供をサトルに無理矢理堕胎させられたってな。」
「サチコが?まさか、、、。」
サトルは絶句した。
サトルの驚く様を見て、サカモトはニヤニヤしながら言った。
「お前さっき、この話はデタラメとか言ってたな。お前の言う事がデタラメなんだよ。お前は嘘だらけ。そして、俺はそれを暴いてやった正義の使者だ。お前は、サチコさんに対して酷い事をした最低の人間だ。」
サカモトがそう言い終わる。するとサトルの周りに数人の男達が彼を取り囲むように現れた。それぞれの男の手には棒のような物が握られている。サトルは彼等によって滅多打ちにされた。
どのくらいの時が経ったのだろうか。地面に転がっているサトルが気がつくと、暗闇の夜空に星々が見えていた。やっとの思いで、片手を顔に当てた。掌は真っ赤な血液で濡れていた。サトルは立ち上がろうとしたが、起き上がる事が出来ない。額から流れる血が地面に滴り落ちた。
「サトル!サトル!」
遠くで声が聞こえた。
サチコとアキラがサトルの元へ駆け寄って来た。
「先輩!しっかりして下さい!なんて事を!」
アキラが叫んだ。アキラは怒りに震えている。
サチコがサトルの頬を両手で触れ、額の血を拭った。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
そう言って彼女は嗚咽した。
アキラが呼んだ救急車と警察が現場に到着し、サトルは病院へ運ばれていった。サチコも一緒に救急車に乗った。アキラは、警察の現場確認の立ち合いとして残っていた。
現場は保全の為にロープで仕切られる。鑑識も来て、公園の土の上に残った足跡の記録の為の処置をしている。
数日前、アダチがサチコを問いただした際にサチコは否定したが、彼の恫喝と暴力に恐怖して妊娠を認めていた。その事、彼女はアダチとサカモトが連絡を取っている事を知り、自分がサカモトから何をどう言われているのか知る為にアダチの携帯を盗み見た。そこには信じられない様な事が書かれている。
そして昨晩も、アダチが風呂に入った隙をみてサカモトとのLINEを見ると、今日の事が書かれていた。
彼女は自分の携帯はアダチに毎日のように見られる、いや見せなくてはならない。アダチが外出するのを待ってアキラへ助けを求めていた。
サトルが病院の救急室で手当を受け、病棟へ移動される。サチコと遅れて来たアキラが病室で待っていた。
意識の無いサトルがふたりの前のベッドに横たわる。顔のあちこちには縫われた傷が数箇所ある。腕と脚もギブスで固定してあった。
アキラが言った。
「死ななくて良かった。でも、これは酷過ぎる。ひとりを数人でやったと警察が言ってました。足跡で分かるそうです。」
「私が悪いの。怖さに負けてしまった。」
「いえ、悪いのはサカモトです。奴がアダチさんを騙したからです。しかもその上に、襲撃までするなんて信じられない。」
ナースが来て、今夜は引き上げるように促された。
病室にひとりになったサトル。
気がつくと、コウイチが立っていた。
「だから、行くなと言ったんだよ。馬鹿な奴等は馬鹿な事をするんだよ。暴力は正義とでも思ってるんだろう。まぁ、お前には分からない世界だけどな。今、お前の気持ちはどうなんだ?」
「サチコが心配だ。それだけだ。」
「だろうな。でも、サチコはアダチとは距離を取ると思うよ。」
「サチコのメンタルが心配なんだよ。」
「そうだな。彼女にとっても、信じられない出来事だからな。いわゆるスキャンダルだよな。お前にとっては自分の傷の痛みよりも痛いのか。」
サトルは黙っていた。するとコウイチが言った。
「俺がサカモトを破滅させてやるよ。アイツの口は悪過ぎるからな。あの口を黙らせてやる。」
サトルは黙っている。
「止めないのか?サトルらしく無いな。暴力は嫌いじゃなかったのか。まぁ止められても、やるけどな。やられた事を返すだけだ。」
サトルはやっと口を開く。
「サカモトやアダチさんは俺を痛め付けて嬉しいのだろうか。アダチさんはサカモトの嘘を何故見抜けない?どうしてサチコを信用しない。嘘が全てを狂わしてる。人間って、そんなに憐れなものなのか?」
「お前の言う通り、人間は憐れなんだろうな。人を、人の心を切り裂く事をやって喜んでるんだからな。罪も無いサチコまで酷い目にあった。残酷だよ。」
「俺がこんな事を言うと、馬鹿だとコウイチは言うかも知れないが、サカモトやアダチさんは今の考えを変えないと不幸になると思っていた。だから、仕事についても違うイノベーションをつくる事にもした。その方が彼らにとって良いと俺は考えたからだ。彼が流した噂にしても同じだ。考え直して欲しいと思っていた。でも、今はそうは思わない。」
コウイチは黙って聞く。
サトルは続けた。
「俺はもう彼等の事はどうでもいい。あのまま生きればいい。そう思っている。人に嘘をついて喜んでるのも続ければいい。仕事をサボタージュするのも続ければいい。気に入らない人間を殴るのも続ければいい。そういう生き方をして、そのまま死ねばいい。死に際を迎えた時、自分の人生を振り返るといい。」
「たぶん、良い人生だったって思うんじゃないか?反省なんかしないだろ。」
「そうだな、そうだろうな。俺の知った事じゃない。そういう人生を送ればいい。」
「じゃ、俺にも何もするなと?」
コウイチはサトルに確かめた。
「放っておけよ。俺も仕事を含めて放って置くよ。どうでもいい。」
サトルの言葉を聞くと、
頷きながらコウイチは帰った。
翌朝、サチコとアキラが病室へ来た。サチコがサトルへ詫びた。
「ごめんなさい。私が悪いの。」
アキラがそれを聞いて言う。
「サチコさんは殴られて、無理矢理嘘を言わされたんです。全部サカモトのせいです。」
サトルは答えた。
「分かっている。もう、いいんだ。謝らないで。それよりも、サチコの気持ちが心配なんだけど。大丈夫か?」
「弱かった私は、嘘を付いてしまった。それが原因だと思っているの。だから、どうしてもその嘘を改めないと自分が許せない。サトル、警察に被害届を出して、彼等を訴えて!」
「でも、そうすると事が公けになる。君を巻き込むかも知れない。」
「公けにして!そうしてくれないと、私は嘘をついたままになってしまう。全てを公けにしたいの。」
アキラも言う。
「サトルさん、サチコさんの言う通りだと思います。このままでは、サカモト達の言ってる事がそのままになってしまうんです。」
サチコはサトルの手を握って言った。
「私は全て、本当の全てを言う。そうする事が私には必要なの。お願いサトル。」
サトルは警察を呼び、被害届を出したいと申し出た。その後、警察による取り調べ、サトルが申し出た加害者各人への聴取が行われた。また、事情を知る者としてサチコとアキラへの聴き取りも行われた。直接の加害者と、支持したサカモト及びアダチは首謀者として逮捕された。会社はプロジェクトを解散し、逮捕された者を解雇した。また別件としてサチコも風評被害の被害届を出し、それに関わった者達も警察によばれ厳重注意と罰則規定により罰金が課された。会社は減給と停職を課した。
その後、サチコは社を退社し、実家のある高知県へ戻って行った。サトルもプロジェクト解散により、本社へ戻っていた。
休職届を出していたサトルも復帰はしたが、退社を考えていた。
コウイチがマンションに来た。
「怪我の具合はどう?サチコが田舎に戻ったそうだな。」
「そうなんだ。彼女には居る場所を変えることが必要だったのかも知れない。無理もないよ。」
「お前の方は大丈夫か?」
「大丈夫な部分と、そうでも無い部分と半々かな?仕事的にはまぁ何とかだけど、気持ち的にはダメージ大きいね。あまり寝れなくなってる。」
「あんだけの事があったんだから、仕方ないよ。誰だって参るよ。」
「そうだな。こう言う事があるとさ、周りの人の反応がガラッと変わるね。まぁ、ほとんどの人が離れて行ったけどね。」
「そんなもんだろ、人間ってさ。仲間内の誰かが嫌だと言えば、それに従うんだよ。今まで仲良くしてたのに、手のひら返しさ。」
「そうだね。変わったね。良く分かったよ、信頼してた人も近寄って来なくなったよ。」
「人間は自分の都合の良い方へ付くのさ。お前は捨てられたようなもんだろ。しかし、そういう人達とは離れるべきだと俺は思うよ。それが分かって良かったとも思える。付き合う価値無いだろ?」
「価値が有るのか、無いのかは分からんけれど、離れたとしても自分は構わない。相手もそれを望んでるしね。たぶん、俺の顔も見たくないんだろうからね。」
「サトルはその人には何にもしてないハズなのに、嫌われる。人間社会らしいと言えば、らしいな。数の原理か。多い方に付きたがる。」
コウイチは笑っていた。
半年後、サトルは退社の意向を決めた。後輩のアキラに伝える。
「実は退社しようと思う。世話になったな。ありがとう。」
「そうですか。残念です。」
アキラは薄々感じていたようだ。
「で、どうするんですか?」
「田舎の静かな場所にでも行って、何かしたいと考えているんだ。独立って言うと大袈裟だけどね。都会の世界から少し離れてみたい。のんびりやってみるよ。」
「会社を立ち上げるんですか?」
「好きな事をやってみたいんだ。俺は自分の残りの時間を、好きな事で使いたい。」
「サトルさんが好きな事?あ!レコードですね?ジャズとかブルースですか?」
「うん、ジャズを聴いたり、バンド演奏が出来るそんな店を考えてる。ブルーノートだね。小さいけれど、本物志向の店にしたい。」
「え〜!本当ですか?」
「ジャズやブルースを本当に好きな者だけが楽しめて、流行に左右されないホンモノを提供出来たら嬉しいと思ってる。」
「マジですか?きっと遠方からも来てくれますよ。」
「夢でもみたくなったから。そうなる日がいつか来ればいいけど。まぁ、初めは赤字覚悟だけどね。大衆ウケは考えてないから。」
サトルの表情は穏やかだった。
2年後、ある山の中で店は開店した。
『森のブルーノート』
店内ホールでは、アキラとサチコが働いてる。裏のキッチンでサトルが料理とオードブルを作っていた。
忙しくなって来たサトルの頭の中の、もう一人の彼の影。
そう、コウイチの声が頭の中で言った。
「頑張れよ!」
ーーー『shadow』終わりーーーー
作マサヒロ
サトルとコウイチの関係は、あなたの中にもある。