悪態ついて穴に落とすなんてあんまりです
このご時世、仕事を辞めた。
正確に言えばクビになったのだ。年末年始、仕事納めをしてようやく休みだと思ったその日に、異動を命じられ、私は辞めざるを得なくなった。
異動先は遠く、両親の遺した家がある私は引っ越すことも出来ず。これから先もずっとそこで働いていくのかと思ったら、私には無理だと思った。話を聞けば、社長のお気に入りだった主任があること無いこと吹き込んだようだった。つまり私は邪魔だったみたいで。主任とぶつかることはあったが、それなりに上手くやれていた、と思っていた。つまり色恋関係なく、私は彼を信用していたのだ。けれどそれは私だけだったようで、話した内容は全て沢山のヒレを付けて社長へと伝わっていた。
失敗も私のせい、成功はあの人の手柄。
『あんたはお人好しすぎるから気をつけた方が良いよ』
ふと、友だちに言われた事を思い出す。お人好しだったつもりはない。それでも、ずっとチームでやってきた仲で、それなりに……、いや、やれていなかったからこうなんだろう。
十二月の最後、クリスマスを終えたけれど、今度は正月に向けて早足に帰路へつく人たちとすれ違う。寒く冷え込む街頭で見えなくなってしまっている月明かりの下、普段なら何か温かい飲み物でも買って帰ろうと思ったのに、今はそんな気分にはなれなかった。身体が強ばったような、先を考えて本当に虚無だった。
「年明け、わたし、しごとないんだ」
ぽつりと声が零れて理解した。仕事をしなくていいんだ、なんて素晴らしい。そう思う反面、これから先どうやって暮らしていけば良いんだ、という思いで一杯になった。吐きそう。貯金なんて殆ど無い。安月給でこき使われて挙げ句上司に裏切られて職を失った。なんて哀れなんだろう。死んだ方がマシでは?いやいっそ死にたい。
いつも通りの帰り道、街頭が少なくなり、人も居ない。母が誕生日にくれたマフラーだけが温かかった。こつん、こつん、と歩く音が響く。
家に帰ったら蕎麦でも作ろう。テレビを見ながらコタツでみかんを剥いて、ごろごろしようと思って居た朝が遠い昔のように感じた。ぽっかりと穴が開いてしまったような胸の内が重い。重りでも飲み込んだような感覚になんだか悲しみを越えて腹が立ってくる。私がこうしている間に、あの人は笑っているのかと思ったらずるいと思った。
部長が呼んでいると私を呼びつけた時の笑った顔を思い出して憎くなる。私はこんな思いをしているのに?
世の中には私よりも大変な境遇の人だっているだろう、それはわかる。けれど、だとしても、私はあの男が憎いと思った。憎いと思って、私はその感情にしっくりきていた。
「ああ、そうか」
私はあの男が憎い。
上手くやっているあの人に嫉妬している。信用していたのに裏切られて勝手に絶望している。……だからと言って何か出来るわけでは無いのだけれど。会社に火をつけるなんて出来ないし、後ろから刺しに行く事も出来ない。今更文句を言う気力も無いし、何も出来ない。だから余計に憎いのかも知れない。何も出来ない自分に腹が立つのかも知れない。
どうにも私は人を見る目が無いらしい。昔告白してきたクラスメイトは私の親友にフられたからじゃあお前で、という理由だったし、その後付き合った別の男も私の事が好きじゃ無かった。女の子と付き合ったときは別の女の子に浮気されて捨てられて。友だちに貸した金は返ってこないし、信じていた上司には裏切られる。人間なんて信用出来ないね。人間は愚か。
人を呪わば穴二つ、なんて言葉があるし、昔見たアニメでも人を呪った者に碌な事が起きなかったのを覚えている。人に向けてそう言う感情を抱いてはいけないのだと、分かっては居る。分かっては居るのだけれど。
「みんなしんじゃえばいいのに」
気付けば出た言葉。言っちゃった。言っちゃいけないのに言ってしまった!酷い言葉なのになんだかうきうきしたような気持ちになって足取りが軽くなった気がした。そんなの気のせいなのに。少しだけ軽くなった足取りで右足を踏み出した瞬間。
「っあ」
すかっと階段に気付かなかったみたいに私は落ちた。暗い穴の中。叫び声を上げる余裕も無く私は謎の穴の中へと落ちていった。
▽
名前は月本悠里、齢三十一歳にして無職。結婚予定は無し、恋愛歴も浅い。高校を卒業しただけの学歴で美人でも無い。得意なことも特にない。仕事を頑張ってはいたけれどやりがいは感じていなかった。なんて絶望的。なんて可哀想。ああ哀れ。……自分で言ってて悲しくなってきたな。やめよ。
そんな私が目を覚ましたそこは鬱蒼と茂った森の中でした。
「……ここ、どこ」
問いには誰も答えない。それはそう、ここには私しか居ないのだから。みんなしんじゃえ、なんて言ったから早速罰が当たったのかな。だとしたらあんまりだ。ちょっと文句言っただけなのに。
草の上に寝転がっていた身体を起こして辺りを見渡して見る。ネットで見た樹海みたいに見えて、死ぬのには絶好の場所だと思った。死ぬつもりは無いけど。荷物はある。着ている服もある。鞄に入っていたスマートフォンを見てみれば電波は無い。もしかして、最近読んだ異世界に飛んじゃった系の物かな、なんて現実逃避してみる。というか、穴に落ちたときに死んだのかも知れない。今頃下水道で死体を晒しているのかも、と思ったら普通に辛くなったのでこれは夢の中だと仮定しよう。
空を見上げれば太陽は見えない。かろうじて森の中が見えるのは月明かりのお陰だ。空も良く見えないけど、木々の間から差し込む光のお陰で視認できている。
これは人を探して頼った方が良いのだろうか、と思って少し止まる。もしも穴に落ちたのでは無く只気を失ってここに捨てられたなら、見つけた人に殺されるのでは?そもそも人を見つけても信用出来るのか?……分からない。疑心暗鬼になりすぎていてだめだと思った。
ゆっくり立ち上がってみる。身体に痛いところはないので怪我は無いらしい。穿いていたヒールも高くないものだったお陰で、コンクリートの上では無いけど歩くのには支障ないようだった。鞄を持ってその辺りに転がっていた木の棒を持つ。自分が座っていた所に丸を描いて木の棒を突き刺した。何となくの目印だったが、ここへ戻ってくるつもりはないし、何かの役に立つ気はしなかった。まあ、気持ちの問題という奴だね。
とりあえず森の中を進んでいく。森の中、ではあるけれど、どうやら山の中では無いみたいだった。下り坂も、上り坂も無い。唯々平坦な道に木々が広がっている。なんだか身体が軽い。それにさっきまで随分気が沈んでいたのに今はあの何かが腹の内側を渦巻くような感覚は無い。暗がりの森の中で、少しも不安を感じない。なんだか不思議な森だと思った。空気が肌に馴染むような、何かが出てきそうな暗闇なのになんだか安心する気がした。
虫も居ない、獣も居ない。随分と静かな道をひたすら歩いて行く。奥へ進めば進むほど戻れないような気がしたのに、奥へ進まなくてはと思った。
それから広い場所へ出た。雲で月が隠れてしまっていて明瞭とまではいかないけど、小さな家が見える。なんだか森の中にある魔女の家の様だと思いながら近づいていく。誰も居なければ少しだけ借りよう。誰か居たら……その時はその時かな。
小屋の周りには柵があり、内側に畑のようなものがあった。雑草が生えては居るが土の質が明らかにそこだけ違うからそう思ったがどうなんだろう。荒れ果てているから、誰も居ないのかも知れない。月が雲で隠れて居たのがゆっくり雲が通り過ぎていく。月明かりが徐々に家を照らし出して、見えたのは家の前に座る大きな犬だった。
「っ」
思わず身体が強ばって立ち止まる。その犬は大型犬よりも大きく、人が乗れそうな大きさの犬だった。ライオンや虎よりも大きい。ゾウよりは小さい。どれくらいだろう、四つん這いになった熊くらいはあるのかもしれない。それがじっと私を見つめていた。家の前に座ったまま、じっと私を見ていた。形は犬だけど、犬じゃ無いその生き物の身体には花が咲いていた。ふわふわの毛のように見えたそれは草で顔半分は蔦で覆われているようにも見える。まるで神聖な生き物のようなその姿に不思議と恐怖は無い。赤い木の実のような目がじっと私を見つめてその身体をゆっくり動かした。長い間そこに居たのか、顔を半分覆っていた蔦が地面とを繋ぎ止めているのを、ぶちぶちと引きちぎって近づいてくる。本の数歩。近づいてきた犬はやっぱり大きかった。美しく、恐ろしいような、現実にはあり得ないその姿に、恐る恐る手を伸ばした。もしかしたら噛みちぎられてしまうかも知れない。私の事も食べてしまうかもしれない。それでも、誰からも必要とされずに、裏切られてきて、最後にこの美しい犬が生きるために私を必要としてくれるなら、食べられてしまっても悪く無い。痛いのはもちろん嫌だし、怖いけれど。
触れて見れば赤い木の実のような目をゆっくり瞬かせて、なんとなく笑ったように見えた。ふわふわとした葉っぱは、まるで毛並みのような触り心地で気持ちが良い。
『……ぉ、う』
「……?」
固まってしまった口元が動いたと思ったら何か声のような物が聞こえた。目の前の犬が鳴いたのかと思って止まれば、もう一度口が動く。
『わ、が……おう』
「わがおう?」
『わが、とも。お、かえ、り』
大きな身体が近づいて、その頭を擦りつけてくる。
わがおう、わがとも、おかえり。
わがおうもわがとももよく分からないけれど、おかえりだけは分かる。そしてその言葉は暫く聞いていなかった言葉だった。初めて会った筈の、犬のようで犬では無い不思議な生き物に言われたのに、その言葉が嬉しくて、温かくて、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ただいま」