私のお母さん<後編>
お母さんを買って、1ヶ月近く経つ頃になる。ほぼ毎日、料理をしてくれて、家事も当然のようにこなしてくれるお母さん。家事をしている後ろ姿に定期的に目を奪われて、どこか靄のかかった感情を抱えた。
「今日の夜ご飯なにー?」
「今日は炒飯と餃子で、中華メニューにしてみました」
たおやかに微笑むお母さんの後ろから、フライパンを覗き込む。綺麗に並べられた餃子には、私の大好きな羽がついていた。
お母さんが居てくれるから知った餃子の羽のパリパリ感は、惣菜じゃ味わえない美味しさ。小躍りをして席に座った、瞬間だった。
『ガチャン』と玄関の開く音がした。
血の気が失せていく。か細い呼吸と、力の入らない手足。何も考えてなかった。今更言い訳をするには、不可能なほどに頭が真っ白で。
意識が目の前を映したのは、何か重い物が床に叩きつけられるような音が、心臓を震わせたからだ。
「あんた誰? 人の家に、何勝手に上がり込んでんの?」
――ママ。違うの、その人は。
口が動かない。喉から声が出ない。伸ばしたい手は腰の横のまま。ママが先程放り投げたのであろうブランド物の鞄が、視界の隅っこで私を見つめている。
「あの………私は、母親として買っていただきました」
辿々しく答えるお母さん。答えを聞いて、見開いた目で睨みつけてくるママ。私が未だに青ざめていると、
――バシィッッ
目の前が白く光った。反射的に左頬を抑えた。なにが、起こったの。般若のような顔したママは、穿つように私を見つめ続けている。
「なぁに、コレ。私へのあてつけ? 私なんかいらないってこと? 誰が産んでやったと思ってるの?」
聞こえてる筈のママの声が、反対の耳にすり抜けていく。じんじんと熱を帯びてきた左頬をさすって、ママにビンタされたんだとようやく自覚をもった。
自覚してしまった時から、込み上げる涙。ぼやけていく視界のおかげでママが見えないことが、少しだけ気持ちを楽にさせた。まるで、現実じゃないみたいだから。
答えなくちゃ。ママはママだよって。
寂しかっただけなの。
代わりがほしかった。
私のママは、世界でひとりだけなんだよ。
浮かび上がった幾つもの思いとは裏腹に、声は一切出ることなくて。ただ、僅かに。ママが気付いてくれるか分からないくらいに、微々として首を横に振ることが精一杯だった。
何十もの涙が落ちて、揺れ続ける視界の中。お母さんとママは、なにかを酷く言い争っている。喧嘩、しないでほしいのに。暫くして頬に伝った涙が乾いた頃、怒鳴り声に代わって、電話するママの声が耳を通り抜けていく。
「ごめーん、そっち戻る。ありえない話さぁ、娘が私なんか母親じゃないって言うのよ。信じらんなくない? つーことで家出てくから、あけといて」
ママはそんなことを電話の向こう側に話しながら、家具から小物から何から何まで手当たり次第、壊す勢いで蹴り飛ばしながら外へと出ていった。
バンッと、玄関が閉まる音。私はその音を合図に、緊張の糸が切れたのかその場にへたり込んだ。
ママ、出て行っちゃった。
脳内に流れるその一文。その事実。胸を痛いほどに詰まらせて、熱くなった瞳からは再び涙が溢れ出る。
私が、悪い。私の、せい。
私のワガママで、ママが勘違いして、
それで出て行っちゃった。
私のせいなんだ。
「ぅ、ぁ…………ぅわあああ‼︎」
小学生みたいに、泣きじゃくる。
苦しくて、痛くて、辛くて、悔しくて、心底悲しかった。私はママに見て欲しかった。それだけだった。でも、私のせいでママを傷付けて、私の願いだって叶わぬものに成り下がった。
割れ物を扱うみたいに、私を抱きしめてくれるお母さん。優しくぽんぽんとされる背中の心地良さ。泣いている間、誰かが側にいてくれる嬉しさと共に(これがママだったら)なんて無情なことを考えてしまっていて。
わたし、残酷だ、すごく。
お母さんを買った金額。それに対して、してもらっていることの数々。全てが重石になって、罪悪感になって、私の心は押し潰されてしまいそうだ。
――以降、ママが家に姿を見せなくなった。どうせ会話もなかったし、日常に変わりはない。帰ってこなくなるのも……当たり前なのかもしれない。
流石に生活費が足りなくなって、お母さんが近場の飲食店でパートを始めてくれた。お互い、気さくに話せるようにもなった。
今日は、お母さんと一緒に映画を観に行く。鏡の前でくるりと回ってみてから、次にお母さんの前でまたくるりと回って見せる。
「この前買ったお洋服? とっても似合ってる。可愛いよ」
なんの躊躇もなく褒めてくれた言葉と、朗らかな笑顔が、くすぐったくて、照れ臭くて、でもやっぱり嬉しい。
身支度を整え、綺麗な格好をしているのは、今や私だけではない。お母さんも、最初とは打って変わって健康的に、素敵な様相になった。
薄化粧のお母さんと、ちょっと濃いめの化粧を施した私が、並んで玄関を出る。鍵を閉めてもらっている間、真っ白い羊雲が早々と流れていく様子を眺めて、思い出す。
「――マスク忘れてた!」
「あら……私も。取ってこないとね」
お母さんと顔を見合わせて笑い合う。せっかく閉めてもらった鍵をまた開けてもらって、一緒に部屋へと戻る。
私の望んでいた、幸せの形。
時々、胸の奥がチクリと針を刺す。
私は、未だママと呼べていない。
まるで、それを主張するように。
ママを、忘れさせないかのように。