宝石の時間にさよならを
私の隣が君になって、もうどのくらい経つんだろう。
出会ったのは満員電車の中。私が、人生で幾度目かの痴漢を受けている時。気持ちの悪い手つきに全身に鳥肌をたて、どうやって警察に突き出してやろうか、言い逃れできないように証拠を捉えてやらなければ、と考えていた。
だけど突然、私の真横で大声を出した男がいた。
「痴漢はやめてください!」
それが、君だった。
見れば犯人の手首をがっちり掴んで、険しい顔を寄せている。身長は大きく、ガタイもそこそこ良いためか、犯人は手を振り解けなさそうだ。
次の駅で降りる2人の後を、私はゆっくり着いていく。まるで他人事のように、駅員に突き出される様子を見つめていた。
「警察に話せますか?」
表情を崩した君が、弱々しく問いかけてくる。でも私はそれに何も答えられなかった。なんというか、ずっと呆気に取られていた。こんなこと、初めてだったから。
返事のない私を、まだ怯えているのだと解釈したんだろう。わざわざ目線を合わせ、悲しそうな柔い笑顔で喋りかけてきた。
「怖かったですよね、もう大丈夫ですよ。嫌でなければ、警察に話す間、俺も隣に居ますから」
不思議と心が温まる気がした。頬が紅潮して、君の前で痴漢されたことが恥ずかしくまで感じた。互いに名も知らない初対面同士なのに、ここまで親身になってくれる優しい人が世界にはいるのだと、驚きつつも、嬉しかった。
だから、どうして運命はこんなにも残酷なんだろうかと絶望した。
君とまた対面したのは仕事の関係。痴漢の件があったから、仲良くなるのは容易いことだった。プライベートで連絡を取り合うようになって、積極的に出掛けに誘った。君はいつでも快く来てくれて、いつも私より楽しそうに過ごして帰るんだ。
羨ましかった。憧れだった。屈託のない笑顔も、偽りのない優しさも。君の全てを私は好いていた。
遊びに出掛けるたびに好きにさせられた。離れたくないと、強く思わされた。こんなにも魅力的で素敵な君が、死んで良いわけがない。
「ねぇ、もう連絡してこないで」
――今宵、私はきっと死ぬ。そうと分かっているから、突き放した。
面食らった君の顔。すぐさま悲しそうに、苦しそうに変わり、伸ばされた手はどこにも触れずに落とされた。
「理由、聞いてもいい、かな」
「もう関わりたくないだけ」
へらりと笑っていた表情が、一瞬でまた変わる。まるで百面相みたいだった。私がそうさせてしまったのに、呑気にそんなことを思っては、唇を強く噛んで拳を握りしめた。
「……わかった」
「俺、なんかしちゃったみたいで、ごめんね」
「今まで、ありがとう」
「…………さようなら」
その言葉を耳にした私は、何も答えずに背を向けて歩きだす。もう君の顔は見られなかった。し、私の顔も見せたくなかった。一歩、歩いただけで堰を切ったように涙が溢れ出す。君に届いてしまうかもしれないから、決して声は出さぬように私は、延々と泣き続けた。
君に愛されていたあの時間は、大事に大事に、心の奥で取っておこう。
こんな運命を、こんな偶然を、こんな人生を、呪ってやりたかった。憎くて憎くて、大嫌いだった。何もかも、私も、家族も、こんな仕事も。
離れたくなかった。堂々と隣に居たかった。胸を張って彼女として歩き続け、いつか家庭を持てたのなら、いったいどれほど幸せだったことか。生きてて良かったと、思えたかもしれないのに。
もしも私が"暗殺者"ではなく
普通の人間として生まれ変わったら。
普通に人を愛して、普通に人に愛されて
普通に生きていけるのかな。
その時にはまた君に
会うことができますように。