愛する人のために人を殺せるか
「私を愛しているなら、殺して」
結婚して2年目。付き合ってからは9年目になる。僕の愛する妻は、とうとうその言葉を口にした。
心のどこかで分かっていた。いつか、これほどに重いことを求められるんではないかと。まさか今日、突然言われるとは思ってもいなかったが。
サイドテーブルに置かれたランプが、淡い光で妻の顔を照らす。虚ろで、怖がっていて、不安そうで、怯えている。そんな表情で、僕を貫くように見ていた。
「どうして愛しているのに殺さなくてはいけないんだ?」
「愛されてるっていう自覚がほしいから」
妻はいつだって、僕からの愛を信じられずにいた。これだけ長い付き合いなのに、本当は嫌われているんじゃないかと、常日頃から怯えて横に居た。
何度だって説得した。心の底から愛していて、僕の隣には君しかあり得ないんだと。だけどその時の納得も、毎回長くは続かない。
ベッドに座る妻の頬に優しく触れる。
「どうやって、殺してほしいの?」
問いかけると一瞬、虚を突かれたような顔をしてから、ふにゃっと表情を緩めた。胸の奥で軋む音がする。
「あなたのその綺麗な手のひらで
私の首を包み込んで
ゆっくり、ゆっくり、首を絞めてほしい」
僕の両手を取る妻。慈しむように、指先まで丁寧に触れられる。下を向くまつ毛は、なんて長くて黒いのだろう。
「でも、首絞めって苦しいよ。それなら包丁で刺したほうが楽なんじゃ、ないかな」
「ううん、苦しくたっていいの。
だって私、あなたに愛されたいだけだから」
もう既に、愛しているというのに。なにを真剣に人を殺す方法を話し合っているのだろう、僕達は。
男とは違う、妻の白くて細い首筋に両手をかける。力は入れぬよう慎重に、そのままベッドへと押し倒した。
微笑んで、細めた目でこちらを見つめる妻は、期待している。このまま僕が両手に力を込め『愛の証明』を行うことを。
なんて馬鹿馬鹿しい。こんなことに意味があるのか。殺すことが何故、愛していることに繋がるのか。妻の思考は、理解できない。
馬乗りになったまま、手を離して体を起こす。見下ろす視線の先では、とても残念そうに、今にも泣きそうな顔をしていた。
「やっぱり私のことなんて、愛していないのね」
「そうじゃない。愛しているから僕は、殺したくないんだよ」
「そんなの嘘。私のために人も殺せない、その程度の愛なんて、ウソ」
いつの間にか、妻は冷めた目をしていた。まるで嫌いな人に向けているかのよう、淡々と言葉を綴っている。
その顔に、その瞳に、その声に。
僕は無性に腹が立った。胸の奥が煩く騒ついた。頭に血が上り、両手を再度、首にかけた。
体重をかけて、首をベッドに押し付ける。人はどれくらいで死に至るのだろう。男の手で首なんて絞めていたら、折れてしまうのではないか。
そんな考えが頭によぎって、慌てて手を引っ込めた。妻が苦しそうに咳き込む。
「ご、ごめん、苦しかったよな」
「……いいから、ねぇ、やめないで」
僕の腕を掴み、懇願してくる。
どうしてこんなにも、死にたがる。どうして僕に殺されようとする。どうしてここまでしないと、信じてくれない。僕の愛は、偽りなんかじゃないのに。9年間、心の底から想い続けていたというのに。
どうして僕の隣で、生きていようとしてくれないんだ。
「おねがい、ころして」
僕は妻の首を絞めた。
ぎゅっと、ぎゅっと、ありったけの力を込めて。
どんなに暴れても、逃げられないように。
僕のせいだろうか、妻のせいだろうか。
ベッドが酷く軋む。
でもそれは、暫くすると聞こえなくなっていて。
その時にはもう、妻も、
我に帰った僕は、妻の隣に寝転んだ。頬に手を当て、こちらに顔を向ける。妻は、安心しきった表情をしていた。
嬉しそうな顔も、幸せそうな顔も、照れた顔も。どんな顔だって幾度と見てきたのに、こんな表情は知らなかった。
「これで、君は信じてくれたの?」
「僕が君のことを、愛しているって」
「でもさ、それってさ」
「もう、遅いんだよ」
涙がぼろぼろと頬を落ちていく。
空っぽになった手の中が
寂しくて君と手を繋いだ。