雨空の向こう側
――ぼく、お姉さんとけっこんする!
雨粒が窓に伝う、曇天の空を見つめていた。ぼんやりしていた脳裏に、幼いころ口に出したそんな言葉が聞こえてきた。
あれから今日で15年か。月日が経つのは成長するほど早くて、残酷に思う。
小学生のころに恋をしていた相手は、近所のお姉さんだった。
学校から帰ってくるといつもお菓子をくれて、今日も頑張ったね、と頭を撫でてくれた。遊びに行くと一日中、トランプやゲームで遊んでくれた。そして遊んだ日には、母と同じくらい美味しい手料理を振る舞ってくれた。買い物に行くときはいつも自転車で向かう、明るくて優しい、お姉さんだった。
学校の友達には絶対にお姉さんのことを言いたくなかった。自分だけの秘密にしたかった。でも小学生の秘密なんて簡単にばれてしまって、大勢の友達とお姉さんの家に遊びに行ったことがある。その時でも、いつもと変わらない様子のお姉さんに、子供ながら嫉妬したりなんかしていた。
今でも鮮明に思い出せるほど思い出深く、実に長い時間お世話になったお姉さんは、ただひとつだけ、人と変わっていた。お姉さんは「星になりたい」というのが口癖だった。
――にんげんって、お星さまになれるの?
――なれるよ。人はみんな、お星様になれる。お月様にも、太陽様にもきっとなれる。
そんな会話を交わしたことがある。このときはまだ、お姉さんの言っていることがよく分からずに、ふうん、と言って流した。今はそれを後悔している。
口癖の意味が分かる事が起こったのは、自分が中学に上がる数ヶ月前。時折、お姉さんが姿を見せないことが増えた。だが、自分は自分でお姉さんの家で遊ぶことが少し恥ずかしくなってきていて、会えなくて寂しい思いをすることはなかった。それでもずっと、好きな気持ちに変わりはなかったけれど。
お姉さんの姿を、ここ最近見ていない。そう気づいたのは、お姉さんと会わなくなって1週間……2週間近く経っていただろうか。玄関横には自転車が置きっぱなしで、無くなっているのも見ていなかった。
母に聞いても知らないし同じく見ていないと言うので、心配して家のインターホンを鳴らした。応答も物音もなかった。母に携帯を借りて電話をかけてみた。3コール、4コール、留守番電話につながっても、お姉さんの声が聞こえてくることは無かった。
ざわつく胸と、段々白んでくる脳内で非常に焦った。パニックになっていて、あまり覚えていない。けど、心配した母がお姉さんの家に行き、警察を呼んでくれたことはうっすらと記憶している。
そこからの時間は、急激に早く感じた。警察が到着し、家に入って見つかったのは、お姉さんの死体。首を吊っていたと聞いたのは後日のこと。その場では、お姉さんが自殺していることだけが慎重に伝えられた。
自分はお姉さんの死体を目にしなかった。周りの大人が止めてくれていた。見なくて良かったとは、大人になっても思う。だからただ、突然好きな人がいなくなった現実を突きつけられて、もう一生会えないのだと知って、胸にこみ上げてきた吐き気に従った。2度も従った。落ち着かせようと必死に背中をさすってくれる母の手を感じながら、自分はその時、ぼんやりと空を見上げた。
すぐにでも降り出しそうな曇天の空模様。など思っていたら、空気を読んだかのように雨が降り出した。嘔吐物は次第に雨に滲んでいった。強くなっていく雨音の中で、ようやく泣いた。自分と他の誰が濡れようとも関係なく、その場で延々と泣き続けた。大声を上げ、空に届かせるみたいに泣いた。今晩は星が見えない空だと認識すると、更に酷く号哭した。
小学生のころの恋は、こうして終わらせられた。
「ぱぱ、ごはん、できたよ!」
「わかった、すぐ行くよ」
自分にはもう、子どもがいる。大学で付き合って結婚に至った嫁もいる。順風満帆な生活を送っていた。だけど時々、雨空を見つめてこうして思い出す。幼いながらも確かに恋をしていた相手が、星になった出来事を。雲で覆い隠されたその向こう側に、彼女は今も輝いているのだろうか、と。




