【喫茶】揺れたコーヒーの暇潰し
店内を包む、淡い橙色の照明。いつもの席で腕を組み俯く僕は、今日ここに来てから早2時間。夜も深まり、希に誰かの欠伸が聞こえてくる静かな空間で、未だに執筆道具を広げていなかった。
「コーヒーのお代わりはいかがですか」
顔を上げると、メニュー表を抱えた店長が眉根を下げて立っていた。心遣いに感謝をし、ミルキーウェイの2杯目を注文する。ふわり和らいだ微笑みを見せ、かしこまりました、と去って行く店長。心配かけているのだろうと、流石の僕でも察していた。
しかし、どうしても思い出せない。どうしても思い出したい。僕がここにいる目的と理由を。それ故、こうして数時間も考え続けているわけだが、一片の情報さえも思い出すことができなかった。
もう今日は、諦めた方が良いだろうか。無論、諦めたい気持ちは一切ないが、考えすぎて脳が疲弊してきているのを感じていた。
「お待たせいたしました」
空のカップと取り替えに、黒い波を打つ温かいコーヒーが置かれた。銀箔の振りかけられる様子を、ぼんやりと遠い意識の中で見つめる。
「あまり、思い詰めないでくださいね」
店長の優しい声かけに、曖昧に笑って返事をする。カウンターへ戻った店長の背中を確認して、重い溜息をカップの縁に落とした。
「なあ、あんた、なに溜息ついてんの」
――持っていたカップを、危うく滑り落とすところだった。
突如、耳のすぐ横から聞こえた男性の声。慌てて掴み直し、慎重にカップをテーブルへ戻すと、声の主を視界に写す。
灰色、まではいかないが、黒髪、とも言いがたい、明るい黒の髪。ほとんど失われている短い眉毛を、困ったように極端に下げて、うっすらと笑っている。心臓が飛び出るかと思ったほど驚き、戸惑っている僕を横目に、声の主だったそんな男性は何の躊躇もなく、向かい側に腰を下ろした。
「なんや、ビビってんか。はは、肝っ玉ちいさいなあ」
テーブルに頬杖をつき、顔をぐいと寄せてくる男性。僕の反応をおかしそうに笑うので、ムッときて冷静さを取り戻した。
「後ろから喋りかけられたら、誰だって驚きますよ」
「そうか、悪かったわ。そんで、あんた数時間俯いたまま、何悩んでん。店長が不安げにあんたのこと見とったよ」
流されるように軽く謝られたのは、もう気にしないことにした。しかし、店長に心配をかけ続けているどころか、こうして知らない男性にも迷惑かけてしまっている。今日のところは本当に諦めて、執筆作業に取り組むことが吉だろう。
カウンターに目配せすると、カップを拭いていた店長と目が合う。申し訳ない思いを胸に会釈をし、目の前の男性と向き直った。
「ご心配かけて、すみません。その、僕がここにきた目的を思い出せずに悩んでいただけなんです」
「ああ……なるほどなあ。でも、数時間悩んだくせに思い出せなかったんなら、諦めたほうがええ。そうやって悩むよりな、今楽しく過ごしたほうが絶対ええから」
わりと無遠慮に物を言う人だなぁ、などと心の片隅で思いつつも、そうやって慰めてくれる言葉が妙に嬉しかった。強張った顔の筋肉が緩み、そうですね、と言って笑みがこぼれた。初めはびっくりしたけれど、案外良い人なのかもしれない。
「僕、相田信也と言います」
「俺は月島淳。な、あんた暇してんのやろ。俺の話し相手んなってよ」
男性――月島はそう言って、僕の返答を待たずに店長を呼んだ。
「キリマンジャロ1杯、頼むわ」
能天気なノリで勢いよく喋る人だなぁと密かに思う。店長が運んできたカップからは、淹れたての湯気がふわりと舞い上がり、空気を曇らせた。テーブルに頬杖をついて片手でカップを持つ月島は、砂糖もミルクも入れていないというのに、混ぜるように中のコーヒーを揺らした。
「今まで俺の話し相手だった人の話をな、聞いてほしいんや」
微々たる変化だったが、僅かに寂しげな表情を見せた月島。僕は要求に対して、素直に承諾をする。
この喫茶店で出会い、別れた友がいたと言う。
月島はぽつぽつと話し始めた。




