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喫茶『Stern』 〜 月曜日の珈琲 〜  作者: 夏川 流美
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優しい彼女に恋をした

 セミロングの髪が、さらりと滑らかになびく。細くて白い指先と、華奢な身体。胸を張って真っ直ぐ前を見つめる、真剣な表情。どこを見ても「可愛い」という言葉しか出てこない。


 彼女は仕事に向かったところだ。僕はその後ろを、こっそりと追いかける。途中で駅に入ってしまうから、仕事場までは行けない。けれど毎朝、彼女の後を追いかけるだけで楽しかった。



(あ……)



 彼女が駅に入ったのを見送って、その場に座り込む。短い時間だった。こうして姿が見えなくなった後には、酷く寂しい感情が湧き出て来て、しばらく帰れないのだ。



 はぁ。小さく溜息をつくと、地面に目を落とす。視界に映る自分の手足。ふわふわもこもこの毛並みと、このピンクの肉球は、彼女は持ち合わせていない。



 何故なら彼女は人間で、僕はネコだから。



 なのに僕は彼女に、恋をしてしまった。





 仕事終わりの彼女を、塀の上で丸まって待つ。月が随分高い位置にきている。そろそろ帰ってくるはず。



 程なくして現れた彼女は今日も、溜息の連続で、朝とは打って変わって、疲れ果てた顔をしている。そこで僕の出番だ。


 塀の上からスマートに降りると、にゃぁんと一声。するとどうだ、彼女はあっという間に目を輝かせて笑顔になってくれるのだ。


 大人しく頭を差し出すと、柔らかい手の平でゆっくり撫で始める。ときどき喉元を揉んでくれるのが、たまらなく気持ち良い。



「シロは今日もかわいいねぇ……」



 にこにこ穏やかで、幸せそうな彼女の表情。シロ、というのは僕の名前だ。勝手につけられただけだが、彼女が呼んでくれるから、気に入っている。



(僕が撫でさせるのは、キミだけなんだよ?)



 そんな想いを込めて、また鳴き声をあげた。背中を大きく2度撫でると、彼女はすくっと立ち上がる。……なんだ、もう終わりなの?



「じゃ、またね、シロ!」



 手を振って離れていく彼女のことを、座ったまま見つめる。だいぶ明るくなってくれた。それは非常に嬉しいのだけど、やっぱり僕の心には孤独感が湧き出てきた。







 よく晴れたある日のこと。家を飛び出してきた彼女は、清楚なワンピースを着て、髪を巻いていた。上機嫌に歌を歌いながら何処かに向かっている。


 いつもと違う雰囲気に、胸が大きく高鳴った。すごく、可愛い。思わず物陰に身を隠してしまって、前に出られなかったくらいに。


 後ろからとことこと着いていく。段々と街中へ入っていき、中心部の広場で誰かを探すよう首を振っている。すぐに表情はパァと輝いた。



「お待たせ〜! 待った?」


「ううん、待ってないよ。行こうか」



 相手の男と、幸せそうに腕を組む姿を見て、息が詰まりそうだった。あれが恋人か。僕には絶対に歩けない隣を、あんな奴が歩いているのか。



 ……人間になんて勝てっこない。だって僕の恋心は、伝える術すら持たない。


 だからこそ考えてしまう。


 もしも、僕が人間になれたら

 あの男みたいに、彼女の隣を歩けるんだろうか。





 それからというもの、同じネコの友達や先輩、家族、知り合いの知り合いなど、片っ端から話を聞いた。「人間になれる方法はあるか」と。答えは全員、NOだった。


 気が付けば、そんな僕を気味悪がってみんな側からいなくなってしまった。友達も家族も、離れていってしまった。本当に、孤独になってしまった。


 それでも人間になりたいと、何百回も何千回も、何万回も願って、祈って、絶対になれるって言い聞かせて。なのに朝目覚めて確認する手足は、変わらないままだった。







 今日も彼女はデートだ。嬉しそうに家を出て行く姿で分かる。デートから帰ってきた彼女に撫でてもらう気にはなれなくて、こんな日はひとりぼっちで翌朝まで過ごす。


 商店街にご飯を貰いに行こう。それからちょっと遠出して、いろんな人間の話を盗み聞きして、ネコが人間になれる方法を知らないか探ってみよう。


 ぼちぼち歩き出す。ふと見上げた空はどんより曇っていた。なんだか雨が降りそうだなぁと、向かう足を早めた。





 ……日が殆ど沈んで、月が顔を出す夕方と夜の境目の時間。何の収穫も得られないまま、落ち込んで戻ってきた僕に追い討ちをかけるみたいに、突如として雨が降り出した。


 全身に当たって弾ける大粒の雨。数秒のうちにびしょびしょに濡れた。まぁ、こんな日があっても良いか。元気のない心はそんなことを思って、ゆっくりゆっくり帰路を辿る。



 その途中。道路の向こう側、僕と同じ方向に歩いていく彼女が目にできた。どうやら様子がおかしい。傘をさしていないのに僕と同じくらい歩くスピードが遅くて、俯いている。時々、歯を食いしばって目を擦っていた。


 間違いない。彼女、泣いてる。何かあったんだ。


 僕が笑顔にしてあげなきゃ。



 すっかり重くなった身体のことなんて忘れて、彼女の元に走り出す。周りなんて、何ひとつ見えていなかった。



 僕が飛び出した道路に車が来ていると知ったのは、雨音に負けないくらいのクラクションと、驚いて振り向いた彼女の、目を見開いた顔だった――…………







…………――ここは?


 顎に触れるふわふわの毛布。まったく知らぬ空気。身体を起き上がらせようとしたら、下半身に強い痛みが痺れるように流れた。思わず野太い鳴き声が漏れる。



「あ、起きてくれたのね」



 鈴のような可愛い声と共に、目の前に顔を出したのは、僕が愛してやまない彼女だった。あまりの近さに反射的に逃げようとしてしまい、動かなかった下半身にまた鳴き声をあげる。



「足が治るまであんまり動いちゃだめだよ。使えなくなる寸前だったんだから」



 彼女の忠告に、大人しく頭を下げた。僕は車に轢かれたのか。そう思い出すのには十分な情報だ。ともかく、治るなら良かった。



 しかし、一体なぜ彼女がいるのか。僕が今いるところは、何処なのだろうか。横顔を上目遣いでじっと見つめていると、気付いた彼女は普段の何倍も優しく、耳の裏を撫でてきた。



「しばらくの間、よろしくね。シロ」



 慈しむように細められた目に、鼓動が速くなる。僕はしばらく、彼女と一緒にいられる、ということで良いんだろうか。勘違いじゃ、ないよな?





 ……なぁん、と返事をしてみた。


 人間にはまだ、なれてないけれど。


 彼女の隣でこうして過ごせるのならば

 今はこれでもいいかな、なんて。



 そんなことを思えた。

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