プロローグ2
どうやら俺は数日中で死ぬらしい。
昨日の夢で唐突に告げられたけど、やはりただの夢なんだろうか。だとしても縁起が悪い。別にあのソフィアと名乗った女性の話を全て信じているわけじゃない、気にならないわけじゃなけど……。一つ気がかりなのがソフィアと名乗る女性の発言だ。いつも見ている夢なら時間と共に忘れていくものなんだけどなぁそれだけ昨日見たあの夢は比類なく異質だった。
「一応今のところは特に、問題無しか……」
冗談だとしてもこんな日に仕事などしたくはない。だが社畜とは屈強な戦士である。例え雪で電車が見送られようと、台風で交通手段がなかろうと休みなどはなく、何とかしてどうにかして出社しなくてはいかないのだ。つまり例えこんな憂鬱な日でも働き蜂の様にせっせと身を粉にして働かなくていけないのだ。社畜万歳。
一番警戒すべきはやはり出勤と退勤時と予測した俺は周囲を今までにないくらい警戒しつつ出勤した。だが、日本は今日も平和らしく物騒なことなど起こる様子もない。
なんせ、あの頭がうすら寒い糞ハゲ上司が体調不良で休みと分かって今日はなんて素晴らしい日なんだと隣のデスクの同僚と黙ってハイタッチしたくらいだ。
いつもと違ったピリピリとした空気のない職場とはなんと居心地が良いんだろう。こんな感じであれば新入社員もすぐ辞めたりしないんだろうけどな。
お陰で、指導しても指導しても新人が辞めていきその分の仕事が俺らに山のように回ってくる。それが予測できていた賢い奴や有能な奴は直ぐに辞めていった。
自ずと、残ったのは俺たちのような使い捨てカートリッジのような奴らだけ……。
会社の離職理由の大多数が人間関係。欝になる理由の殆どが上司。だけどその上司はお世辞にも良いとは言えない。
あいつは馬鹿の一つ覚えのように声を荒げるが、今の時代、檄を飛ばすだけで成長するなら、皆して同じ指導をしている。
それについてあの上司はそれが分かっていない。いや、むしろそれが正しいと信じて止まないのだろう。ああいった輩は他人が何といっても、ましてやその上が言ったところで改善はしない。
俺もそろそろ考えるべきだな。身の振り方を……。
等と普段の愚痴を零しつつデスクに向かっていると、いつも以上に仕事が捗った。上司がいない方が仕事が進むって笑えてくるよ。まぁそのお陰で今日は珍しく定時に帰れそうだ。
俺は時刻が十八時になったところで、俺は高揚した気分を抑えつつ、鞄を勢い良く抱える。
すでに何人か退社するように立ち上がっているのを横目に同僚達に挨拶をし、退社すると脱兎の勢いで電車に飛び乗る。日はまだ沈んでいないが、電車は既に帰宅する人々でそこそこ混み合っていた。俺が自宅、最寄り駅まで帰ってきた頃には日はすっかりと沈んでいたが、普段にと比較するとずっと早い。
さて、今日は帰ってから何しようか。普段では出来ないことができそうだ。何せ、昨日は疲れてすぐ寝てしまったからなぁ。と逡巡しつつ、いつも寄っているスーパーで晩飯の弁当と酒を買う。社会人成り立ての時は色々料理もしてたんだけどなぁと今日もいつもの言い訳をしながら帰路に付く。
気分的に今日は少し遠回りをしようと、少し人気のないところを歩いていると、
「……い、いや!! やめて!! お、お願いだから、こ、来ないで!! 」
切羽詰まったような女性の声が耳を付く。悲鳴にも近いそれからはとてもじゃないが平穏な様子が想像できない。俺は改めて周囲を見るがこういう時に限って全く人気はない。
なんだこの胸騒ぎは……。背中から冷や汗が出てくる。嫌な予感がする。
事は急を要すると俺は駆け足で路地裏に入っていく。
角を曲がると、ところどころ裾の解れた烏羽色のマントを着込みフードを深く被った、体格的には男だろう、そいつが、女性に馬乗りになっているのが目に映る。その情報からは強姦という言葉が過る。――のだが、ここに来て俺の体は畏怖の念を抱いているのだろう、足が凍ったのではないかと錯覚するほど思うように動かない。
男が女性の衣服に手をかけたところと相手の女性が必死にバタついたお陰で、俺はハッと我に戻り、強張った体を叩き歯を食いしばり一歩、また一歩と歩みを進め、体が動くのを確認すると走った。直ぐに俺はマントドロップキックをかました。
――げふっ
男はドロップキックの反動でそのまま近くに置いてあったゴミ置き場のゴミ袋に頭から突っ込んだ。これは好奇と俺はそのまま女性に駆け寄り、
「だ、大丈夫ですか!? 」
と声をかける。女性は上半身を起こしつつ、
「……は、はい。大丈夫です――ひいぃぃ」
と顔を抑えつつ、後ろへ後ろへと下がっていく。え、何? この人の顔を見てひいぃぃ、って酷く――。
途端に背中から鈍いドンという音と共に体に衝撃が走る。それは一度や二度ではない。何度も何度も何度も何度も。
そして次第に駆け抜けていく鈍痛。それは今まで味わったことのない感覚で、理解が追いつかない。徐々に力が抜けていく体。衝撃が止んだ頃には俺は既に地べたにうつ伏せになっていた。背中に手を当てると、赤々とした自分の血で染まっている。
まるで冬空の缶コーヒーの様に俺の体温は下がっていき、震えが止まらない。不思議と痛みはなかった。だが、このまま死ぬという恐怖心と寒さしか今の俺には感じない。
「はぁ、私はついている。とてもね」
ねっとりと妙に耳につく声。顔は隠れて見えやしないが、恍惚的なその声からは全身の身の毛がよだつのと同時に嫌悪感が生まれる。女の悲鳴が聞こえたと思ったら、バタバタと走り去る音が耳に入ってきた。良かった。彼女は助かりそうだ。
すると、男は今度は俺の背に乗り手に持った刃物で更に俺の体を傷つけていく。まるで仕留めた獲物がおもちゃかのように、溜まった鬱憤を晴らすかのように。
初めに刺された時点で俺は最早動けない。だが、それでは満足しないと、浅く浅く刃物で切りつけていく男の辛うじて見える口元は歪な形をしていた。
「はぁ、気持ちいいですね。この感触は。省けましたよ。探すのがね。悪いんです。貴方がね」
満足したのか、男は狂ったような言葉を置いて遠のいていく。
ふと、昨日の白いローブを着た女性の事を思い出した。
彼女は、俺に死の宣告をしていたが、これがそれなんだろうか。果たして彼女は俺がここで刺されることを知っていたのだろうか。
と邪推してみるものの、まぁあの様子では経緯までは把握していないってところか。結果のみ決まっている。人間の努力では事象を変更することは出来ないなんて運命論を信じるつもりはないが、彼女にはその結果が予知出来ていたのだろうな。
それならば、せめて死ぬ時の話を聞いて置けば良かった。もちろん、回避しようとしたところで死因が変わるだけで死ぬのは変わらない。だからこそ、死ぬ時の心の準備をしたかった。あれは完全にトラウマだよ。二度と会いたくない。まぁ実質もう二度と会えないのだから、それだけは嬉しい限りだ。
これで俺の人生もいよいよ終幕だ。社畜のように働いた俺は宛ら舞台人形の様に踊り、不必要とされれば舞台から下ろされる。
神谷庵の劇はどんなものだっただろうか。諦めることも多かった。あのウザったい上司が間違ったことを言った時にさえ俺はどうせ直らないと諦め、行動をしなかった。諦めず努力をすることに逃げていた。待遇が悪くなったらどうしようなど、いろいろだ。
意識が途切れ途切れの状態で俺は、更に掘り下げるため、これまでの自分の人生について更に考える。
家族、友達、学生時代、社会人時代、それらを思い浮かべようとするが、何故か上手く考えがまとまらない。どうやら走馬灯というのは人を選ぶらしい。俺には人生を振り返る事も、半生を悔いる事もできないのか。
こんなんだったら、もっとアニメとか漫画とかライブとかもっともっと、楽しみたかった。
思い出せなければ懺悔も出来ない。
だが、こう思う。果たして、この世に全力で生きている人間などどれほどいるのだろう。そしてそれを自分で満足出来た人間。
夢も目標もなかった俺だったが、次生まれ変わったら、その時は少しはましになるかな。
さて、意識が遠のいてゆく。いよいよエピローグといったところだ。
脇役は、舞台には降りるのも早くしないとな。