三月某日
三月、卒業式が間近に迫っている。
俺は二流大学への進学を決めて、ノンストレスで卒業を待っている。
ある日の放課後、俺は日直の仕事で、教室に一人でいた。
窓の鍵を閉め、さあ帰ろうか、というところで教室に誰かが入ってきた。もう四時半を過ぎている。忘れ物を取りに来たのだろうと思い、特に気にしなかった。
最初に声をかけてきたのは相手だった。
「……あ、あのっ、黒川君!」
その声に相手の顔を見ると、クラスの男子の大半を虜にしたとかいう噂のある女子だった。小柄で茶髪、成績はトップスリーに入る。それしか知らない。興味が無かったから、ちゃんと見たことがなかった。
「……なんでしょうか、桔梗さん」
そう答えつつ、俺は初めて桔梗さんの顔をじっくりと眺めた。小さな顔、大きな瞳、右目の下には泣きぼくろがある。少々貧相な体つきだが、男子の憧れというのも頷ける。
桔梗さんは何故かかなり落ち着きがなかった。
「ち、ちょっとお話ししない?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳にある中央議会が非常事態宣言を出した。女子からの呼び出しでリンチという流れを何かの本で読んだ。それを思い出したのだ。
断ったらもっとひどい目に遭う。そう確信した。
「何故ですか?」
そう聞き返したのは俺の最後のプライドを守るためだった。
相変わらず桔梗さんはワタワタしている。確か、不器用な女子はモテるんだったか。
「ふぇっ!?えと、そのぉ……あ、ほら!もうすぐ卒業でしょう?今まで一度も話したことなかったし、せっかくだから最後に、ね?」
「……良いですよ」
「本当?ありがとう!」
どうせ断れないのだ。体育館でも空き教室でもどこにでも連れてけ。俺は完全にリンチされる覚悟をしていた。
俺の返事を聞くと、桔梗さんは嬉しそうにはにかんだ。今思うとかなり可愛いはにかみだと思うが、当時の俺には悪魔の微笑みだった。
「ねぇ、黒川君は何でA大学にしたの?」
「他に誰も志望者がいなかったので。誰も俺を知らないって環境で生活したかったんです」
「へぇー」
この辺で、リンチはやってこないことに気づいた。同時に、桔梗さんの意図を探り始めていた。
その間にも、世間話は続いていく。
「私も自分のこと誰も知らないところで生活したいなぁ」
「そうすればいいのでは?」
「あはは、無理だよ。女子って色々あるからね」
「なるほど」
とか、
「最近、犬飼君によく話しかけられるんだけど、どうしてだろう」
「犬飼は桔梗さんのことが好きなんじゃないですかね」
「えっ?それはないよ。いっつもからかわれるし」
等、全てあちら主導だった。相づち打つだけの簡単なお仕事だ、そう思っていた。大方、暇潰しで俺に話しかけたのだろう。そうも考えた。
流れが変わったのはこの言葉からだった。
「ねぇ……黒川君ってさ、そのぉ……好きな子とか、いる、の?」
妙におずおずとした仕草、口調だった。上目遣いなのは無意識だろうか。男子は入れ食い状態だっただろう。
「いません」
「えっ、じゃあ、彼女がいる、とか?」
「いませんよ」
女子は本当にこの手の話が大好きなのだなぁ、位にしか考えていなかったが、ファースト・コンタクトでここまで深い内容の話をすることは少ないだろう。
桔梗さんは何故かはぁ、とため息をつき、慌ててこっちを見てきた。目があったら急に慌て出した。
「あっいやそのぉ、ごめんね!初会話でこんなこと聞いて」
「いえ」
そのぉ、が多い人だと思った。
ここでふと思った。こちらからも話題を提供しないと不自然ではないか、と。今の状態はただ桔梗さんの質問に答えているだけである。これじゃあただの問答だ。相手は会話を望んでいるのだから、こちらからも質問せねばならん。
「桔梗さんはどうなんですか?俺の聞く限り、男子からは大人気ですが」
今思うと俺は阿呆だった。何故その話題を継続したのか。リンチされる流れを自分から造り出してどうするつもりだったのか。
限りなく馬鹿な質問に対し、桔梗さんは明らかに動揺した。顔を赤らめ、俯いてしまった。この時、俺はようやく自分のミスに気付いた。
俺が訂正する前に、桔梗さんの方が覚悟を決めたかのように真剣な顔で言った。
「私の……私の好きな人は、すぐ傍にいるよ!」
言ってからすぐに口を手で覆い、あうぅ、とかなんとか呻き出した。
俺は冷静に考えた。桔梗さんは「我が思い人は我が近くにあり」と宣言した。そのまま解釈すると、思い人は俺になる。物理的に一番近くにいるのは俺だからだ。だが、その説だけは間違っている。何故なら俺には魅力が一切無いからだ。ということは、精神的な方か。
桔梗さんの男友達といえば誰か。知らん。今の会話だけだと犬飼かもしれん。そういうことにしておこう。
「なるほど。わかりました」
「えっ……?」
つまりあれだ、今の会話は無かったことにすればいいんだと思った。
この時桔梗さんの目に涙が溜まっていたようだが、俺は気づいていなかった。
「……全然わかってないよ」
「はい?」
「全然わかってないよ!」
突然大声を出してこちらを睨んだ桔梗さんの変貌に唖然として、言葉が出なかった。
ここでようやく、彼女が泣いていることに気付いた。何故泣かれたのか、ますます混乱した。
泣きながら桔梗さんは続けた。
「何で自分で勝手に考えて、結論付けて、それで終わらせようとするの!?どうしていつも梨恵ちゃんと話すときはすごく楽しそうなのに、他の女の子には冷たくするの!?そのせいで、私黒川君に話しかけるの怖くて、私嫌われてるのかなって。それで、結局、こんな時期に、なっちゃって……」
「……」
……何と答えればいいのかわからない。
確かに今、俺は自分で勝手に考えて、結論付けて、終わらせた。山野梨恵は小学校からの友人だから、あまり異性として意識していなかった。他の女子は皆俺の事が嫌いだと思っていたから、敬語で距離をおいていた。
え?俺が悪いのか?こんな時期にって、何の事だ?とか、混乱した。
結局桔梗さんが泣き止まないことには始まらないから、それまで待った。そして、赤くなった目で桔梗さんはこっちを見てきた。さっきとは違い、表情は穏やかだった。彼女はすっと右手を差し出して、鼻声で言った。
「黒川君、ずっと好きです。お付き合いとかからじゃなくていいので、梨恵ちゃんみたいに接してくれませんか?」
俺は無言で手を握り返した。
二人目の女友達ができた。