5.捕食者
大浴場から出ると、寮長さんがアキ先輩を探していた。何やら急用のようだったので、私は先輩と別れ、一人で部屋へ向かうことにした。先輩には絶対に外に出ないようにと言い含められたが、お風呂上がりに外に出る気はない。外が暗いのだから、尚更だ。
4月の初めはまだ寒い。
パジャマに着替えて上着を羽織るが、窓から吹き込む風に身を震わせた。
ふと、その窓の向こうを見ると、女子寮と男子寮を挟む中庭に、大きな桜が咲いていた。窓からの明かりに照らされて、怪しくざわざわと揺らめいている。
枝間に見える何かをもっとよく見ようと身を乗り出すと、両脇を何かに掴まれ、するりと窓から引き出されてしまった。
「こんばんは。美味しそうなお嬢さん」
目の前で、にいっと笑う男の口には、鋭い牙が並んでいる。想像するに、肉食系の動物だろう。
「『夜間は寮の外をうろつかない』。ルールを守っていないなら、こちらも遠慮なく手を出せる」
大雑把そうなこの男は、全く納得の出来ないことを言った。
「ルールを守っていないだなんて。私は外を見ていただけで、寮の外へなんて出た覚えはありません。貴方が引っ張りだしたんでしょ?」
「ふん。そんなの、誰も見てなけりゃ問題はない」
彼は構わず、私を肩に担ぎ上げて歩き出す。うつ伏せになった目の前に、今度はその背中がある。細身に見えたが、肩と背中は随分と筋肉質のようだ。
でも、そんなことはどうでもいい。
「ルールブックには『学園の生徒を食べないこと』って書いてあったけど?」
なるべく身体を上げて、抗議する。
「今年の入学式はまだだろう? ってことは、あんたはまだ『学園の生徒』じゃない」
彼は桜の木を横切って、東雲寮へと向かっている。
「男子寮に連れ込む気?」
「まさか。そんなことしたら、取り分が少なくなっちまう。ただでさえあんた、肉付き悪いじゃねぇか」
笑ながら彼は、あろうことか私のお尻をばしばし叩いた。内ももに近い。セクハラだ。
私は思い切り身体を捻った。
今まで大人しくしていたから気を抜いていたのか、私の膝蹴りは見事にヤツの顔面にヒットした。
「いっ、てぇぇっ! なんだってその体制から…っ」
呻くヤツから私の身体は放り出され、地面に背中を強打した。しかし、そんなことは気にしていられない。私はダッシュで小春寮を目指した。東雲寮の方が近いけれど、更に敵が増えそうだ。
「くそっ、待ちやがれ‼︎」
まあ、追ってくるだろう。身長158cmと、多分、2m近くあるだろう相手。足の長さも、筋力だって差があるだろう。
私はヤツが狼だという前提で目の前にあった桜に登ってしまったが、ヤツは人型をしていたのだ。もしかしたら登ってくるかもしれない。ならば顔面を蹴って落としてやろうと、しがみつきやすい枝を選び、スタンバイする。しかし、ヤツは登って来ない。登って来られないのか。
「くそっ、降りてこい‼︎」
「やだよ。食べようとしてるのを知りながら、降りるわけないじゃない」
さて。これからどうしようか。
ヤツの言う通り、ここで食べられても学園は何も罰しないのだろうか。弱肉強食は、自然の掟なのだから。そうだとすると、助けは望めない。自力で何とかしなくてはならない。
私はポケットから御守りを取り出した。
これは、兄が痴漢撃退用にと作ってくれたものだが、相手が動物なら更に効果が高まるだろうと思われる。
しかし、出来ることなら使いたくない代物だ。
「あ! おい、それは俺の獲物だ!」
考え込んでいると、下にいるヤツが慌て始めた。一体何だろうと首を傾げていると、首すじにひんやりとしたものが触れた。
「ふん。お前は取り逃がしたんじゃないか」
耳元で低い声が聞こえた。
ぞくりとして振り返ると、端整な顔立ちの男がいる。思わず身を引いてしまったが、彼は冷たい指で私の首筋を捕らえ、お構いなしに間合いを詰めてきた。
ーーーこいつも捕食者だ。
思わす喉が鳴る。
もう逃げられない。最終手段を使ってしまおうかと、御守りを握りしめたその時。
「お前ら、こんな時間に何をしている‼︎」
新たな男の声が響いた。
「げ。唐墨!」
反応するように下のヤツが声を上げた。
「あー、残念。また今度」
私の首すじを狙っていたヤツは私から離れると、すっと風に溶けるように姿を消した。
声の主は学園の教師で、下にいたヤツと一緒に何故だか私も叱られた。
とてつもなく、理不尽な話だ。