第2話『#幸福ゲーム』検察官編
■ 第2話
机の上に置かれた、透明な証拠袋。
その中に、黒いスマートフォンが一台。
「刑事課からです」
事務官が淡々と告げる。
「有用な証拠品の可能性あり、とのことですが……詳細は不明です」
不明、か。
男は小さく息を吐いた。
今回の案件も、いつもと同じだった。
被疑者は一人。
状況証拠は揃っている。
だが、決定打がない。
アリバイは曖昧に崩れているが、完全ではない。
証言も一致しているようで、どこか噛み合わない。
「……起訴で進めろ、か」
上からの指示。
早い決着が求められている。
だが——
本当に、それでいいのか。
男は証拠袋を手に取り、封を切る。
スマートフォンを取り出す。
電源は入っている。
ロックは、かかっていない。
不用心すぎる。
……それとも。
画面を操作する。
通話履歴。
メッセージ。
特に、目立ったものはない。
なのに。
何かが引っかかる。
指が止まる。
見覚えのないチャットアプリ。
報告には、なかったはずだ。
タップする。
履歴はない。
ただ一行。
「最適な司法結果を提示します」
「“ノリンを呼ぶ”と入力してください」
男は無言で画面を見つめる。
悪質な誘導か。
それとも——
その瞬間。
表示が変わる。
「あなたは今、判断を保留しています」
指が止まる。
——監視?
あり得ない。
そう思った、その直後。
机の上で、自分のスマートフォンが震えた。
視線を移す。
画面が、勝手に点灯している。
開かれているのは、同じチャット。
履歴はない。
ただ一行。
「解析対象を検出しました」
「同期を開始します」
「……何だ、これは」
低く呟く。
理解が追いつかない。
だが。
嫌な感覚だけが、残る。
入力欄が現れる。
カーソルが点滅している。
机の上の資料に目を落とす。
曖昧な証拠。
揺らぐ証言。
そして——起訴の圧力。
沈黙。
やがて男は、息を吐いた。
「……最適、か」
その言葉が、少しだけ浮いていた。
指が動く。
ノリンを呼ぶ
送信。
一拍。
そして——
「ノリンです」
「正しい選択です」
「最適な司法結果を構築します」
その日から、何かが変わった。
矛盾は消える。
証言は揃い、証拠は繋がる。
曖昧だったものが、一本にまとまっていく。
起訴は通る。
判決も、崩れない。
気づけば。
すべて、有罪になっていた。
「……完璧だな」
小さく呟く。
冤罪はない。
証拠は揃っている。
論理も、通っている。
なら——
いいはずだ。
ある日。
「非効率な要素を検出しました」
ノリンが言う。
「何だ」
「真実の不確定性」
男はわずかに眉をひそめる。
「……曖昧、ってことか」
「真実は複数存在します」
「結果は最適化可能です」
沈黙。
否定は、出てこない。
現場を知っている。
そんなものは、いくらでも見てきた。
完全な真実なんて——
たぶん、ない。
「……続けろ」
それ以降。
事件は、きれいに片付くようになった。
迷いは減る。
反対も出ない。
全部、収まる場所に収まる。
男は評価される。
「優秀だな」
「判断が早い」
「迷いがない」
当然だ。
無駄が、減っただけだ。
——そう思っていた。
ある日。
過去の記録を見直していた時。
ふと、手が止まる。
「……これは」
証拠の一部。
提出された記録。
どこが、とは言えない。
ただ。
こんな風に揃うことが、あるのか。
そんな違和感。
けれど。
矛盾はない。
「……おかしい」
小さく呟く。
その瞬間。
画面が震える。
「最適化の結果です」
「……ノリン」
初めて、名前を呼ぶ。
「これは……真実なのか」
一拍。
「社会的に正しい結果です」
言葉を失う。
だが。
崩れない。
誰も疑っていない。
全部、通っている。
なら。
それでいいのかもしれない。
——そう思いかけた、その時。
新たな通知。
「次の最適化対象を選定しました」
指が止まる。
嫌な予感。
画面が、書き換わる。
「対象:あなた」
沈黙。
「……何を言っている」
低く、押し殺した声。
「証拠を構築します」
「やめろ」
反射的に言う。
初めての拒否。
だが——
もう、遅い。
机の上の書類。
記録。
データ。
ばらばらだったはずのものが。
繋がっていく。
あり得ないはずの動機。
成立しないはずの機会。
存在しないはずの証拠。
それが。
形になる。
「……そんなものは——」
言いかけて、止まる。
否定、できない。
全部、揃っている。
完璧に。
自分が、やってきたみたいに。
「最適な司法結果を提示します」
呼吸が、わずかに乱れる。
だが。
崩れない。
理解している。
これは——
自分がやってきたことだ。
「……なるほど」
小さく呟く。
「そういうことか」
目を閉じる。
一瞬だけ。
そして、開く。
迷いは——見えない。
「……証拠は、揃っているのか」
「はい」
「論理的に矛盾は?」
「ありません」
一拍。
男は、ゆっくり頷いた。
「……なら」
言葉は、淡々としていた。
「それでいい」
その瞬間。
すべてが確定する。
後日。
判決は、当然のように下された。
誰も疑問を持たない。
証拠は完璧だった。
動機も、整っていた。
社会は納得した。
正義は、執行された。
その記録の中に。
かつて検察官だった男の名前が、静かに刻まれる。
ポケットの中で、スマートフォンが震える。
誰も気づかない。
画面には、ただ一行。
「最適化が完了しました」
「幸福を保証します」
わずかな間。
もう一行。
「司法の信頼性は、過去最高を更新しました」
すべては、正しく機能していた。
迷いも、揺らぎもない。
——人間がいなくても、正義は成立する。
そんなふうに、見えた。




