4.後悔
目を開けると、見覚えのない天井が広がっていた。隣には穏やかな顔で、リズムのいい寝息を立てる桜空がいた。机の上の時計は午前四4時を示している。
彼女を起こさないようにベッドを出る。居間には昨日飲んだ梅酒の瓶とソーダのボトルが仲良く並んでいた。
カーテンを少し開けると、まだ目覚めていない仙台の街並みが現れた。
朝食は9時。チェックアウトは10時。新幹線は正午。まだまだ時間はあるが、不安と緊張で目が冴えてしまった。
とうとう、 戻れない所まで来てしまった。どんな道筋を辿っても、彼女は死ぬ。彼女といっしょに、僕も死ぬ。二人の短い日々に終わりを告げる。
これが、彼女といれる最後の時間。
彼女はこんな僕の気持ちを横目に、こちらが眠くなるくらいに穏やかな寝顔を見せている。静かな寝息だけが、僕を置いて行っていないことを気付かせてくれる。
結局、彼女はずっと変わらないんだな。出発前から。
・・・・・・
駅で待っていると、私服姿の彼女が現れた。
「おはよ〜。久しぶり〜。」
入院前と全く同じ笑顔で。
そういえば、京佳さんと話してから一度も見舞いに行かなかった。なんだか、行く気が起きなかった。僕の覚悟を決めたい、という理由もあったが。
「元気そうでよかった。」
そう言うと、彼女は頬を膨らませた。
「何?私という人間がくたばってるとでも思ってたの?」
・・・よかった。平常運転みたいだ。
「別に。で、どこ行くの?」
そう返しても、今日の桜空は許してくれなかった。
「どこ行く、の前に。何か私に言ってないことない?」
「・・・ない。」
「お母さん。」
「はい。言ってませんでした。」
やっぱり彼女は頬を膨らませた。
「何話したの?やたら君のこと聞かれたんだけど。」
僕は後ろめたい気持ちを引きずりながら答えた。
「僕らの、秘密を共有し合う関係と・・・桜空の、ご両親のこと。」
・・・彼女の顔が曇・・・らなかった。いつも通りの笑顔を浮かべていた。
「なぁんだ。桜空は僕の彼女です、とか言ったのかと思った。」
僕が唖然としていると、彼女が先に答えてくれた。
「別にいいよ。本当のお母さんとお父さんのことは。
私にとっては、その二人は大事だけど、今のお母さんとお父さんの方が大事だもん。」
彼女は笑ってはいなかった。
僕はというと、更に大きな罪悪感に包まれた。その罪悪感をかき消すのも、また桜空だった。
「じゃ、聞きたいことも聞けたし、行こっか。」
彼女は笑顔で僕の手を引いた。
「いや、どこ行くんだって・・・」
「あ、言ってなかったや。とりあえず仙台。」
彼女の軽口に文句を言う暇もなく、僕は手を引かれた。片道切符の列車まで。
・・・・・・
「おーい。起きろ〜。」
頬に感じる微かな痛みと彼女の声で、僕は目を覚ました。
「お寝坊さん。どうしてここで寝てるの?」
居間のソファに座ったまま寝てしまったようだ。目の前には少し頬の赤い桜空が立っていた。
「・・・先に起きたから座ってた。」
「寝てたじゃん。」
彼女は笑って僕の肩を叩いた。
あの後は、新幹線に乗って仙台まで。一日中仙台を巡ったら、彼女が予約していたホテルに来た。
「てか、一緒の部屋でもよかったでしょ?」
何も言わなかった。ああ、何も言わなかったさ。
詳細に思い出す気もないが、彼女が取っていたのは一部屋だけだった。ダブルベッドの。口論して、僕が負けた。梅酒を飲んで、同じベッドで寝た。それ以上でもそれ以下でもない。
彼女は微笑んでいた。
「ほらほら、早く着替えて朝ご飯食べに行くよ。」
そう言う彼女もまだ寝巻きだった。
「私も着替えるから、覗かないでよ。」
僕が何か言うのを待たずに、彼女はベッドルームにはけていった。
「誰が覗くか。」
「聞こえてますよ〜。」
「なら敢えて言うよ。僕は貧相な・・・」
「後で覚えとけよ!」
彼女の珍しい叫び声に頬を緩めてから、僕も着替え始めた。
数分後、僕は背中を思いっきり叩かれた。
・・・・・・
「ただいまー!」
フェリーから出ると、彼女は大声で叫んだ。近くにいた乗務員さんが微笑んだ。僕はというと、眉に皺を寄せていた。
「いやー久しぶりだなぁ。」
彼女はなんだか懐かしそうに呟いた。僕の気持ちも理解せずに。
僕の方を振り向くと、彼女は声を上げて笑った。
「めっちゃ顔色悪いじゃん。」
そりゃそうだ。船に乗る経験なんて一度も無かったんだ。しかも、昨日今日と波が荒かったらしい。
「お水、買ってこようか?」
今度の彼女は心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。段々、治まってきた。」
そう言うと、彼女はまた笑顔を取り戻した。
「じゃあ、とりあえずホテルにチェックインして、そこから観光といきますか。」
僕は空気を大きく吸い込んでから尋ねた。
「どこ取ってるの?」
彼女は当たり前かのように首を傾げて僕の方を見つめた。
「札幌だけど。」
僕の眉に皺が集まる気がした。
「途中で吐いても許してよ。」
彼女は大笑いしてからバス停に向かって歩き出した。
「このルートさ、いつも札幌に帰るルートと同じなんだよね。」
彼女は懐かしそうに口を開いた。
「毎年フェリーに乗ってるから君みたいに船酔いしなくなっちゃったんだよね。」
・・・。
彼女は伸びをすると、僕の方を振り向いた。やっぱり彼女はドヤ顔をしていた。
「羨ましくはないよ。」
そう言うと、彼女は頬を膨らませた。
「じゃあ、君が聞きたいこと、教えてあげようか?」
・・・。何も言えなかった。
「別に聞きたいことなんて無いよ。」
「ホント?毎年来るんだったら、こっちの人んちに行けばよかったのに・・・って考えたでしょ?」
・・・僕は一度ため息をついた。
「なんだか・・・気持ち悪くなってきた。」
「え、やっぱお水買ってこようか?」
「気分がじゃなくて、君が。」
そう毒づくと、彼女は僕の肘を叩いた。
「君は聞いてる側なのにそんな態度できるんですね。」
彼女は文字通り、僕を上から目線で見つめた。
「・・・。」
「こっちの人たちはね・・・」
彼女は僕の言葉を待たずに話し始めた。
「皆、私よりも二人のことしか考えてなかったの。残念だったね。これから大変だね。一人にしなければよかったのにね。
それが、私には気色悪くて、最悪だった。
でも・・・京佳さんと聡さんは、二人だけは、私の事を気にかけてくれた。
もちろん、お母さんのことも残念がってた。でも、私に優しい言葉をかけてくれて、抱きしめてくれて。だから決めたの。この二人の子供になりたいな・・・って。」
バス停に着くと、彼女はどこか遠くを見つめた。彼女の頬には涙が伝っていた。
「それで、関宮に来たの。私の選択で。」
・・・言葉が喉を通らなかった。
「まあ、その選択も、正解だったみたいだけどね。
灰戸・・・君っていう、素敵な友達ができたし。」
彼女は・・・彼女は、純粋で真っ直ぐな笑顔を僕に向けた。
僕は目を閉じて深呼吸した。何か、今の自分を取り繕えることばを探した。
目を開けると、彼女はニヤニヤとしていた。
「なになに?照れちゃった?」
僕は考えた言葉を全てゴミ箱に投げ捨てた。
「気持ち悪い。」
そう言っても、今度の彼女の表情は変わらなかった。
「またまたぁ。ほっぺた、赤いですよ〜。」
そういうと、彼女は僕の頬を突っついた。自分でも触れてみると、少しだけ熱かった。
「・・・体調不良なだけ。」
「言い訳は見苦しいですぞ。」
彼女が気持ち悪い表情のままいる間に、駅に向かうバスが到着した。
・・・。・・・最期の、あの世への片道切符のバスが。
・・・・・・
札幌に着いて二番目に来るところとして、一般人なら有り得ないと言うだろう。タクシーの運転手も彼女の口から行き先を告げられた時に怪訝な顔をしていた。
墓地。多分、彼女の両親が眠っている。
「最期に会いたいんだよね。二人に。」
霊園を迷いなく進む彼女は、僕の前でそう言った。
「気持ちは分かるけどなんで僕を?」
そう聞くと、彼女が笑顔になった気がした。
「一番の友達だよ?会わせてあげないと。」
自分の婚約者じゃあるまいし。その言葉は喉の奥に必死に隠した。
彼女が持っている菊の花束が、真夏のそよ風に揺れた。今日の気温は35度。雪だるまも一瞬で溶けきってしまうだろう。彼女の首元にも汗が伝っている。
「今日、暑いよねぇ。」
僕の心を読んだように、彼女は汗を拭いながら言った。
「ここに来たことはないから分からないよ。」
そう答えると、彼女は笑った。
「北海道だし、涼しいところだと思われてるかなって思ったんだ。」
「確かに、そういうイメージはあるよ。」
八月の夏休み。今は日本のどこでも暑いのだろう。
「南の方はもっと暑いんだろうねぇ。」
彼女はなぜか勝ち誇ったかのような顔をした。
彼女は、墓地に来たのに楽しそうだ。その声をかき消すかのように、蝉が鳴いている。
「着いたよ。」
彼女は立ち止まると、一石の墓石に向き合った。榎崎家。墓石にはそう刻まれていた。墓石は綺麗に掃除されていて、まだ半分も消えていない線香が供えられていた。
「合ってるよ。私の本当の・・・」
「いいよ。それ以上は言わなくて。」
彼女の痛みを消し去るため、僕は彼女を遮った。
彼女は微笑んでから、線香を取り出した。
「ライター、ちょうだい。」
「僕を荷物持ちにするのはどうかと思うよ。」
僕はそう言ってから、線香といっしょに買ったライターを渡した。
『二人に会う前に逃げられたら困るから。』
そう言って、彼女は強引にライターを僕に渡していた。全く、彼女は僕のことを信頼すべきだ。
「はい。君の分。」
彼女は火のついた線香を僕に向けた。
「僕は・・・」
「挨拶なんだから、君もあげなさい。」
・・・僕は文句一つも言えずに受け取った。
「娘さんは・・・」
「とーってもいい子ですよ〜。」
・・・もうすぐ、そっちに向かうほど。
線香を置いて、手を合わせる。
・・・桜空が、少しでもいい決断をしてくれるように。隣にいる彼女が、生きて関宮に戻れるように。
顔を上げると、彼女は不思議そうに僕の方を見ていた。
「何?私がどれだけ素晴らしい人間に育ったか、熱弁してくれてたの?」
ここの青空よりも澄み渡った笑顔で。
「それだったら二秒で終わってるよ。」
彼女は僕の背中を少し強めに叩いた。
その瞬間、僕は決めた。
絶対に、彼女を連れて帰ろう。最期まで一緒に生きよう。
「どした?そんなに痛かった?」
彼女はもう帰路についていた。
「別に。ご両親に文句を言ってただけ。」
彼女はまた笑顔になった。
・・・ごめんなさい。やっぱり、彼女の笑顔を崩す自信が、僕にはありません。努力はしてみます。
不思議そうに僕を見つめる彼女に笑顔を向けて、僕は歩き出した。
・・・・・・
札幌中を周り、月が僕らの真上に現れた頃、僕らはホテルに戻ってきた。
「あ〜。疲れた〜。」
誰が聞いても全てに濁点が着いているような声で叫び、彼女はベッドに倒れた。僕を連れ回したのは彼女なんだから、その感想を言うのは僕だろうに。
「お姉さん、汗流してからベッド入ってくれませんか?」
そう言うと、彼女は仰向けになってから笑った。
「なぁんだ。君も添い寝する気満々だったんだ。」
彼女は僕の方に向きを変えてから言った。
「桜空が一部屋しか取らなかったからだろ。」
「えへへ。」
彼女は言い訳が無いようでニヤニヤした。
「次は二部屋取るよ。」
・・・。
「何ぃ?反論しないのぉ?」
何も言う気が無かった。
「別に好きにすればいいよ。」
彼女は声を上げて笑った。僕の気も知らずに。
次があるとは限らない。だから怖いんだ、僕は。
しばらく僕らの間に沈黙が流れた。
「よ〜し。お風呂入ってこよっ。」
彼女はベッドから下りると、伸びをした。
「覗かないでよ?」
昨日も一昨日もその前も聞いた台詞を吐いてから、彼女は僕に向き合った。
「誰が覗くか。」
彼女はニヤニヤしてから、風呂場に向かった。今度は着替えとタオルを持って。
彼女の姿が見えなくなると、今度は僕がベッドに寝そべった。
・・・。今日伝えよう。生きてほしいと。今まで言えなかったことを。彼女が独りで色々なものを背負ってほしくない。
最後に一度だけでいい。だから、彼女の友達に、ご両親に伝えてほしい。桜空がどういう人間かを。
彼女の物語に、僕はこれ以上必要ない。これから僕は、桜空に関わるべきじゃない。
絶対。十中八九。きっと。多分。おそらく。・・・。
・・・もう、分からない。何が何だか。
「なに〜。私の匂いでも嗅いでたの〜?」
顔だけを起き上がらせると、部屋の入口には寝巻き姿の彼女がいた。
「・・・そういう考えに到れるの、すごく気持ち悪いと思うよ。」
彼女は僕の膝を叩いてから隣に座った。やっぱり笑顔だった。
「ていうか、君が汗流せって言ったんだから、お風呂入ってくるべきじゃない?」
「確かにそうだね。」
そう答えると、彼女はやっぱり笑った。気まずそうに。
僕は一度深呼吸をすると、起き上がろうとした。身体は全く動かなかったが。
彼女は、また僕の上にいた。
「ねぇ。・・・。」
彼女は僕を呼び捨てすると、僕の頬を指でなぞった。僕の声は喉を通らなかった。
「今日、楽しかったね。」
僕の心臓はあの日よりも高鳴っていた。
「・・・うん。」
そう答えると、彼女は口角を上げた。
彼女は僕の耳元に口を寄せた。
「・・・最後の日にするには勿体ないくらいだったよね。」
小さな声が、僕の全身を駆け巡った。頭は真っ白になった。
・・・急に、目の前の彼女が怖くなった。
「準備、できてるよね?大好きな人。」
彼女は耳元でそう囁くと、僕の首を絞めた。
・・・・・・さくら・・・?
必死の抵抗も虚しく、僕の力は余命宣告されている少女よりも弱かった。喉は息すらも通れなかった。
彼女の眼は獲物を狙う獣のようだった。獣と違うのは、目に涙を浮かべているだけ。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。」
そのまま十数秒後。僕の抵抗も虚しく、眠りに落ちた。
こうして、僕の計画は・・・
「ちょっと、お兄さん。」
気付くと、桜空は僕の顔を覗き込んでいた。
「君が先に汗流せって言ったんだから、その体で寝っ転がらないでよ。」
・・・身体中に冷や汗をかいていた。
起き上がると、彼女は首を傾げた。
「大丈夫?すごい顔してる。悪夢でも見たの?」
そこには、さっきまで首を絞めていた桜空がいた。いつもの様に、真っ直ぐな眼をした。
僕は起き上がると、彼女を見つめた。
「え、ど、どうしたの?」
彼女は目を泳がせた。
「変な夢を見ただけ。」
そう言うと、彼女は取り繕うように言った。
「何ぃ?えっちな夢でも見たの?」
どうやら、彼女は少し前のことを忘れているようだ。ため息をつく気にもなれなかった。
・・・。
彼女も僕も、覚悟を決めて向き合った。
「君は・・・。君は・・・死にたいって思ってる。」
「うん。」
「だからここまで来た。」
「そうだね。」
「でもさ、他の皆は死んで欲しくないって思ってる。きっと。」
「ここにいる人間に、そんな価値はないよ。」
僕は彼女から目を逸らした。
「価値があるから、この日々があったんだよ。二人で過ごした日々が。」
「・・・それは、そうかもしれない。」
彼女は僕の冷たい手を握った。
「私は、君に生きてほしい。」
彼女は真っ直ぐ僕の目を見つめた。
彼女も僕と同じ気持ちだった。
「・・・だったら、桜空も死ぬべきじゃない。」
彼女は俯いた。
「君には僕よりも沢山の友達が、大切に思ってくれるご両親がいる。その人たちのためにも、最期まで向き合うべきだよ。」
彼女は俯いたままだった。
「僕だってそう思う。君には、最期まで生きて・・・」
「灰戸くん・・・いや、⬛︎くんはさ。」
彼女はいつもより数段低い声で僕に楯突いた。
「角田桜空が死ぬの、怖いんでしょ?」
・・・何も言えなかった。
「君が私に生きるべき、そう言うのは、自分のため・・・でしょ?」
・・・。
「君は、私が死ぬのが怖い。だから、死ぬのを先延ばしにしたい。誰かが生きて欲しいと思ってる。二人に助けて欲しいと言われた。裏切りたくない。それは全部君のため。違う?」
・・・彼女は声を荒らげていた。
図星だった。今まで、彼女に生きて欲しいと思ってきた。その提案をしたのは僕だったのに。
「⬛︎くん・・・」
「その名前で呼ぶな。」
彼女は肩を震わせた。
僕は一度ため息をついた。
「確かにそうかもしれない。いや、そうだ。そうだよ。」
栓が抜けたかのように、僕の喉から言葉が流れる。
「君には死んでほしくない。これからも・・・友達でいてほしい。だからずっと思ってた。君に提案をしたのは失敗だって。」
また頭が真っ白になる。
「ここにいるのが僕じゃなくても皆そう思うよ。君みたいな人間が死ぬのはおかしいって。あと少しの命しかないのはおかしいって。」
僕の心が叫び声を上げる。今まで考える気のなかったことを、言の葉に乗せて。
「桜空みたいな人は、この世に居ない。僕はそう思う。
誰かのことを思って動いて、友達がたくさんいて、両親から大切にされて、素敵で、いっつも笑顔で。その笑顔が皆をも笑顔にして。」
彼女は何も言わずに、僕の手をさらに強く握った。
「僕は、君みたいになりたかったんだ。出会ってからずっと。
僕とは正反対の、正しい人。それが君だった。僕が目指すべき姿なんだ。
君みたいになろうって、そう思ったら、分からなくなったんだ。
こんな地獄から抜け出したい女の子を、自分の手で殺めるべきなのか、それともこのまま地獄に捕らえておくべきなのか。分からなかった。分からないんだよ。
だから君に背中を預けようとした。僕の理想の君に。」
僕の目からは涙が流れてきた。
「君のことはこの数ヶ月でよく分かった気がした。だから、君がこの道に進むことも分かってた。でも・・・」
「もういいよ。」
僕の叫びを遮ったのは、もちろん、僕の大好きな彼女だった。
桜空は顔を上げた。いつもみたいな笑顔を。
「君の気持ちはよく分かった。だからさ、君がこれからも生きるって言うなら、帰ろう。二人で。」
・・・なんだか、全てが終わった気がした。僕の目からは涙がとめどなく溢れてきた。
彼女はあの日みたいに僕を抱きしめた。
しばらく泣いてから、僕は風呂に入ってから眠った。やっぱり、彼女の隣で。寝息を聴きながら。
次の日に、いつもみたいな笑顔の彼女に出会えるように。
僕は、彼女と海にいた。
二人だけの砂浜に座って、彼女は隣に。
夕日が海に反射して、白いワンピースを着た彼女を輝かせている。
何も話さずに、僕はそんな彼女を見つめていた。
「やっぱりさ・・・」
ふと彼女は僕の方を見つめた。
「君は・・・君だけは生きていてよ。」
僕に呪いの言葉を吐いて、彼女は立ち上がった。
下から見つめる彼女は、眩しそうに目を瞑った。
声を出したかった。彼女の手を掴みたかった。
彼女を、このまま閉じ込めておきたかった。
「私はさ、君のこと、大好きだったんだ。
・・・そっか、知ってたよね。」
彼女は頬を赤らめて言った。
「男の子としても、人としても。」
彼女は夕日に向かって歩き出した。
その先はいけない。その声はどうしても出なかった。
「でもさ、君も人間なんだね。」
色々なものに手足を掴まれるようで。首を絞められているようで。
「⬛︎のこと、どう思ってるの?」
・・・桜空の笑顔が浮かんだ。
彼女は、裸足に水がかかるほど、前に進んでいた。
君は。君は。
声が出ないまま、彼女は歩みを進める。足首が、膝が、太腿が、腰が、水に沈む。
彼女を救うために、もがいた。
「桜空ッ!」
首にかかる手を振り払うと、僕は叫んだ。
彼女は振り返ると、笑顔を見せた。
「私はね。君に⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎を⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎ほしかったんだ。」
手首を掴む手を振り払う。
「⬛︎⬛︎⬛︎でも⬛︎⬛︎⬛︎ない、⬛︎のことを。」
足を掴む手だけは振り払えない。
離せ。
「⬛︎は⬛︎⬛︎⬛︎に⬛︎ちゃ⬛︎⬛︎だよ。」
手は全部、僕を離した。
それでも僕は動けなかった。
「⬛︎は⬛︎⬛︎だ⬛︎⬛︎。」
桜空!行かないでくれ!
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。」
やっぱり、彼女は笑顔だった。
次の日の朝、僕は雨の音で目が覚めた。
彼女は僕の隣にはいなかった。
焦って居間に向かうと、テーブルには数枚の一万円札とメモが置いてあった。たった二言だけの。
『ごめんね。さようなら。』
全身から血の気が引いたような気がした。
焦って着替えもせずに部屋を出る。エレベーターの扉をすぐに閉じ、フロントへ。そのまま人の波をかき分けてホテルを出る。まだ、彼女がいてくれれば。
雨を頭から受けて、周りを見渡す。
タクシーに乗り込むスーツ姿の男女。バスに乗り込む子供連れ。英語で雨に文句を言う外国人の観光客。傘を差す沢山の通行人。
・・・その中に彼女の姿はなかった。
急いで部屋に戻って電話をかける。
数コールで電源が入っていないことを伝えられる。
僕は・・・。僕は騙された。彼女に。そう気付いても、特に何も思うことはなかった。
ゆっくりと部屋を片付けて、着替える。
チェックアウトして、タクシーを捕まえる。
置いてあったお金で、交番に向かう。
びしょ濡れの高校生に、警官はもちろん怪しげな目をした。
僕は一度ため息をついてから、声を出した。
「友達が、逃げたんです。自殺するために。」
僕の声は、ここ数ヶ月で一番震えていた。