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3.約束

 彼女は、窓の外を見つめていた。まるで、自分が名画の中の女性になったかのように。

 病室にいるというのに、彼女はいつもとは何一つ変わらないように見えた。

「大丈夫・・・?」

 息を整えながら尋ねると、彼女は肩を震わせてからこちらを見た。

「あ、来てくれたんだ。ありがとう。」

「質問には答えで返しなよ。」

 そう言うと、彼女は笑った。いつも通り。

「全然大丈夫。体の中がちょっとおかしいだけだよ。」

 彼女は何気なく言うが、僕の心配は拭えなかった。

 十数分前、彼女から急に連絡が来た。

『入院することになっちゃった。』

 流れ星を見つけたかのような軽い文章。

『どこ?今すぐ行く。』

『関宮病院。全然来なくても大丈夫だよ〜。』

 そのメッセージを受け取ってすぐに走ってきたのだ。お陰で、服も息も乱れたままだ。

「灰戸くんこそ大丈夫?椅子座ったら?」

 彼女は丸椅子を指さしながら言った。

「大丈夫。すぐ帰るから。」

「来たばっかなのに?冷たい人だねぇ。」

「君と一緒でいつも通りだよ。」

 そう答えると、彼女はまた笑った。

 少しだけ、安心した。病室のベッドに座っている彼女は、紛れもない桜空本人だ。

「まあ、元気ならよかったよ。特に元気にさせられそうなものも無かったし。」

 そう言うと、彼女は口を尖らせた。

「手土産も無しに来たの?」

「君は少し図々しすぎるんじゃないか?」

「私、病人だよ?」

「そういう所を言いたいんだよ。」

 いつも通り、彼女が笑う。何も変わらない。変わらないでほしい。

「じゃあ、売店でアイスでも買ってこようか?

 今日は最高気温31度らしいよ。」

 そう提案すると、彼女は窓の外を見た。

「もう、そんなに暑くなったんだ。君と初めて話した日は、まだ涼しかったのに。

 時が過ぎるのは早いね。」

 ・・・確かに早い。刻一刻と、彼女がいなくなってしまう日も、近付いている。

 彼女は僕の方を見て、また笑った。

「病院食って味気ないんだよねぇ。甘いもの食べたい。」

 そう言うと、彼女はベッドから出た。


・・・・・・


「ほんと、もう夏になったんだねぇ。」

 そう言うと、彼女は笑顔でアイスを(かじ)った。

 病院の屋上。屋根の下。花壇の草花は生き生きとしている。

「病院中エアコン効いてて涼しいから、季節感バグるんだよねぇ。」

「不謹慎なのは分かるけど、羨ましいよ。」

 彼女はまた笑った。

 夏を運ぶ風が彼女の少し長い髪を揺らす。

 こちらを見た彼女と目が合う。目を逸らして自分のアイスを齧ると、よく聞く笑い声が聞こえた。

「何何?やっぱり美人だな〜って?」

「惜しい。黙ってれば美人なのになって思っただけだよ。」

 そう言うと、彼女は僕の肘を叩いた。

「ほんとサイテー。」

「一応褒めてるんだよ。」

「私、そんなチョロくないし。」

 彼女は口を尖らせた。

 僕らの反対側のベンチには、老夫婦が仲良さそうに談笑していた。右手側では、小さな男の子と女の子が花壇を見つめていた。

「あーゆーの、いいよね。」

 彼女が呟いたのが聞こえて、彼女の方を向き直した。彼女は既にアイスを食べ終えて、アイスの棒を咥えていた。

「なんの事?」

「あそこの二ペア。」

 僕に全く分からなかった。

「小さい頃からあんなに仲良かったり、おじいさんおばあさんになっても楽しそうに二人で過ごせるって、いいなって。

 私にはもうどっちも無理だからさ。」

 彼女は、どこか懐かしそうな目をしていた。

「君にはあんな友達はいなかったの?」

「いたよ。ってかいるよ。君とは違ってね。」

 今度は僕が肘を叩きたくなった。

「ナツキって幼馴染(おさななじみ)がいるんだ。

 ちっちゃい頃からずっと仲良いんだよ。

 ていうか、女の子じゃなくて男の子のこと。男の子と小さい頃から仲良いっていいなって。」

 やっぱり、僕にはよく分からなかった。

「異性の幼馴染ってよくない?」

 僕はため息をついた。

「何何?今度は存在しない男の子に嫉妬した?」

 この前僕に覆いかぶさって泣いた彼女は、もうここにはいないみたいだ。

「うるさい。負けヒロイン。」

 また彼女に叩かれると思ったが、彼女は首を傾げた。

「ん?何それ?」

「わからないならいいよ。」

 なんだか情けなくなってきた。

「ていうか、僕にも幼馴染くらいいたよ。」

 そう言うと、彼女は目を輝かせた。なんで、こういう人はゴシップが好きなのだろうか。

「引っ越す前のことだからあんまり覚えてないんだ。

 確か、南って名前の女の子。僕とは違って、君みたいに元気溌剌(はつらつ)な女の子だったよ。」

 本当に、顔も覚えてない。十年来の付き合いなのに、僕の人嫌いは仲が良かった人も拒絶してしまったみたいだ。

「好きだったの?」

 彼女は未だに目を輝かせていた。

「別に。ただの友達だと思ってた。」

 そう答えると、彼女は口をへの字に曲げた。

「つまんないの。」

「僕にはいいけど、南に失礼だよ。」

 やっぱり彼女は笑った。

 ・・・。

 風の声と子供たちの笑い声だけが、この空間に響いていた。件の老夫婦はいつの間にか消えていた。

「今からでも、楽しんだらいいんじゃないか?」

 そう言うと、彼女は首を傾げた。

「退院したらさ、もう学校も友達も何もかも気にせずに旅に出たらいいんじゃないかな。」

 彼女は下を向いた。

「確かにそれもいいね。でも、私は君ほど強い人じゃないからさ。独りでいると、色んなものに押しつぶされちゃうよ。」

 そう言う彼女に、僕は笑った。

「誰が独りで行けって言ったんだよ。君が突然、選択を誤ってもいけないし、そもそも君が生きてる限りは友達でいるって約束しちゃったしさ。

 君と同じく、僕も味方でいるよ。」

 彼女は僕の方を見つめた。どんなことを考えているのかなんて、分からなかった。だから僕も二色の目で見つめ返した。

 彼女は何かを悟ったのか、満面の笑みを浮かべた。

「ありがと。」

 彼女は立ち上がって僕の方に向き合った。

「あんまり外に長居すると疲れちゃいそう。そろそろ戻らない?」

 僕は頷くと立ち上がった。

 彼女は笑顔で僕の手を握った。


・・・・・・


 ベッドで仰向けになると、いつも見ている天井が見えた。いつも見ているはずなのに、不思議な感じがする。

 あの時は、彼女がいたから見えなかった。彼女はいつも僕の当たり前を壊してくる。笑顔で。

 僕が部屋のベッドに倒れている間も、彼女は病室で独り苦しんでいる。じゃあ、僕は何ができるのか。

 ・・・二つの考えが浮かんだ。一つは、彼女をずっと苦しめ続ける選択。もう一つは、彼女を助けられても、もっと酷い地獄に送ってしまう選択。

 二択のように思えるこの選択肢も、彼女にとっては後者を選ぶしかないのだろう。

 ただ退屈して死ぬか、最後に皆を裏切ってから死ぬか。

 なぜだか分からなかったが、彼女の笑顔が浮かんだ。

 気分を変えようと立ち上がって、真っ暗なリビングに入る。やっぱり、線香一本も立っていない仏壇が目に入った。

「貴方が生きていれば、僕はここにいなかったのに。」

 当たり前のことを言っても、彼女は何も返さない。

「桜空は、生きていたかもしれないのに。」

 ただ、素直で。

「僕がいなければ、ただ退屈な日々を過ごして。」

 いつも笑顔で。

「そして、誰にも何も言わずに死んでいく。」

 馬鹿みたいなことだって確かにする。

「僕には桜空が分からないんだ。」

 僕とは全く違う生き方をする彼女が。

 ただひとつだけ、分かる。

「桜空がいない世界に、僕は必要ない。」

 だから、彼女がいなくなったら、消えよう。そう心に決めると、僕はリビングから出た。

・・・

 病室に入ると、彼女は驚いたような顔をしてこちらを見た。

「え?今日平日でしょ?」

「学校サボって来たよ。君みたいに。」

「私、病人だよ?」

 彼女はいつもみたいに笑った。

 ベッドのそばのパイプ椅子に座ると、彼女はニヤニヤとした。

「何〜?学校サボりたくなるくらい、私に会いたかったの〜?」

 なんだかムカついたから、いつもとは違う返しをしてみた。

「そうだよ。」

 そう言ってみると、彼女は頬を少し赤く染めた。

「え、ありがと。」

 やっぱり塩らしくなる彼女に、僕は口角を上げた。

揶揄(からか)っただけ?酷いな君は。」

 今度はまだ少し赤い頬を膨らませた。

「で?本当は?」

「別に。学校行くくらいなら桜空と過ごした方が楽しそうだ、って思っただけ。」

「待って。マジで分からなくなるから。」

 彼女は頭を抱えた。本音ですら疑われてしまうなんて、僕はどれだけ信用されていないのだろうか。

「明日は学校行くでしょ?」

「どっちでもいいや。」

「ダメだよ。卒業できなくなっちゃう。」

 ・・・だから何だよ。卒業したから何なんだ。桜空がいな未来に、その二文字に意味なんて無いのに。

「別にいいよ。桜空の相手をするのが今一番大事だから。」

 そう言うと、僕はカットされたスイカを取り出した。

「ほら、手土産。君はこういうのが欲しかったんだ・・・ろ?」

 彼女の方に向き直ると、彼女は不思議そうに口を開いていた。

「どうした?」

「こっちのセリフ。君、やっぱり変だよ。どうしたの?」

 何も、言えなかった。実は、まだ悩んでいる。昨日考えたことを彼女に伝えるべきか。

「灰戸くん?」

 まだ、覚悟ができなかった。彼女を地獄に連れていく覚悟が。

 自分がどうなったっていい。どうせ死ぬんだ。でも、彼女は・・・。彼女にはもう時間が残っていない。その時間を、僕が捨ててしまっていいのだろうか。

「⬛︎く〜ん?」

 彼女は僕の目の前で手を振っていた。僕の名前を呼んで。

「本当に大丈夫?」

 彼女は真っ直ぐな目で僕を見つめていた。

「君は、このままその日まで生きていたいと思う?」

 彼女は首を傾げた。

「もしも、全てを裏切ってまで、もっと酷い地獄に行けるなら、君はどうする?」

 彼女は何かを察したように、俯いた。

「具合的には?」

 彼女の声はいつもの倍くらい低かった。

「・・・皆のことを忘れて、好きなところに行く。」

 彼女は何も言わなかった。

「あとは君の好きなことをすればいい。」

 ・・・。

「やったことのないことも、やってみたいことも、やりたくないことも、またやりたいことも。」

 ・・・。

「・・・色々したら、その後は桜空が決めればいい。生きるのも、その・・・諦めるのも。」

 ・・・彼女は(うつむ)いたまま言った。

「君は、私がどっちを選ぶと思う?」

 ・・・。

「やっぱ、分かるよねぇ。出会ってもう半年も経つんだから。」

 ・・・。

 彼女は僕の方を向いた。

「君はどっちがいいと思う?」

 ・・・。

「私のたった一人の友達は、どう思う?」

 ・・・。・・・前者。

 やっぱり、桜空には生きていて欲しい。

 でも、地獄でずっと生きさせるのも、あとが引ける。それに君は、素敵な場所で死にたいんだろう。

「そっかぁ・・・。じゃあさ・・・。」

 彼女はそう言うと、戸棚の引き出しから五百円玉を取り出した。

「もういっそ、コイントスで決めよ。君が当たったら、このまま最期まで過ごすよ。外れたら、君を連れて旅に出させてもらうよ。」

 彼女は笑顔だった。

 僕は久々にため息をついた。

「そうしよう。それなら僕は文句を言わない。」

 彼女は笑うと、コインを投げた。

 コインは宙を舞って、彼女の左手の甲に落ちた。彼女はすぐに右手でコインを隠した。

「表か、裏か。」

 二分の一。どちらが出ても、彼女は死んでしまう。彼女がどちらの地獄に行くのか。コインの裏表で決まってしまう。

 ・・・1分だけ考えて、僕は答えを出した。

「・・・裏。」

「・・・勝負。」

 彼女が右手を離すと、コインが顕になった。表向きの。

 彼女はまた笑顔になって僕の方を見た。

「これからよろしくね。」

 これから更なる地獄が待っているのに、彼女は屈託のない笑顔を僕に向けている。

 その笑顔を見て決心した。

「こちらこそ。」

 僕も彼女に笑顔を向けた。

 もう、どうなったっていい。彼女が望むなら。

 彼女は笑みを浮かべて僕の方を見ていた。

「どこ行こうかな〜。君もリクエストあったら言ってね。」

 そう言うと、彼女はテーブルの上のスイカに手を伸ばした。スイカを口に入れて無邪気に笑う彼女は、もうすぐ死んでしまうだなんて誰にも思われないだろう。

 いや、違うか。彼女は死んでしまうんじゃない。僕に殺されるんだ。僕はこれから、先の短い一人の少女の命を奪うんだ。

 彼女は僕の視線に気付くと、スイカをこちらに向けてきた。

「君も食べなよ。」

 僕は何も反応できなかった。

「きっと、大丈夫だよ。」

 彼女は小さな声でそう言うと、スイカを僕の口まで運んだ。流れに任せてスイカを齧ると、彼女はニヤニヤと笑った。

「こーんな美少女にあーんてしてもらえるなんて、君は幸せ者ですねぇ。」

 本当に。本当に幸せだ。

 今食べたスイカよりも、目の前の彼女の方が甘い気がした。いや、物理的に甘くない気がする。

「皮側の方選んで食べさせたでしょ?」

 そう指摘すると、彼女は声を上げて笑った。

「バレたか。」

 彼女はそう言うと、甘い部分のスイカを自分の口に放り込んだ。

 まるで、ここだけが外の世界と切り離されてしまったかのように、ここには僕たちだけの世界が広がっていた。それほど、僕には彼女以外のものは何も見えていなかったんだ。

 誰にも、何にも邪魔されない、そんな世界があった。君以外には。

「あ、もう11時じゃん。」

 彼女がもの惜しそうに言った。

「そろそろお母さんが来るんだよねぇ。」

 遠回しにさっさと帰れと言われている気がした。

「君には迷惑かけても、お母様に迷惑かけるわけにもいかないね。」

「私にもかけないでよ。」

 彼女は口を尖らせていた。

 ・・・。

「・・・君は。」

 最後に口を開くと、彼女は僕のことを真っ直ぐ見つめた。

「ううん。覚悟は決まってるよね。」

 そう言うと、彼女は満面の笑みを見せた。

「もちろん。どんな結末になっても、私は大丈夫。」

 僕の聞きたくないセリフを正面から浴び、僕は耐えきれずに後ろを向いた。

「じゃ、また今度。」

「まったねぇ。あ、今度はパイナップル持ってきてよ。」

 僕は手だけ振って、病室を出た。


・・・・・・


「でさー、あの男の子誰って、めっちゃ疑われたんだから。」

 彼女は口を尖らせながら、僕に文句を連ねていた。

 昨日病室を出た時に、目立った女性なんかいなかったが、どうやら見られていたらしい。年頃の娘の病室から出てきた歳が近そうな男のことだ。そりゃ気にもなるだろう。

「ほんと、今度からはお母さん来る日は来ないでよ。」

 どうやって角田家のお見舞い事情を知れと言うのだろうか。

「なんでもいいけど、僕のことは詳しく言わないでくれよ。」

「言えないよ。君のことなんか。」

 なんだか複雑だった。ちなみに、僕は学級委員という設定だそうだ。

「ていうか、僕からしたらそんなことはどうでもいいんだ。君は行きたいところでも決まったのかい。」

 そう聞くと、彼女は満面の笑みを見せた。

「うん。最期に北海道、行きたいんだよね。」

「北海道?」

「そ、でっかいどう。」

 爆笑必至のギャグを流すと、彼女は口を尖らせた。

「私さ、子供の頃、北海道に住んでたんだ。

 色々あって、中学生の頃に関宮に来たけどね。」

 僕は何も言わずに彼女の言葉を待った。

「やっぱり、最期くらい戻りたいなって思って。私は生まれ育った街の方が好きだからさ。」

 彼女はどこか遠くを見つめていた。

「別にいいと思うけど・・・」

 言葉を切ったところで、彼女は僕の方を見つめた。驚く程に真っ直ぐな、同じ色の瞳で。

「戻るんだったら、ご両親になんて言うのさ。」

 ・・・少しだけ、彼女の顔が曇ったような気がした。そう思うと、首を傾げて、僕に続きの言葉を促した。

「何があったのか知らないけど、そんな場所に独りで行くことを認めてくれるのかな。」

 そう続けると、彼女は微笑んだ。

「多分、許してくれない。でも、決めたんだ。

 私はあの二人に嘘なんてついたことない。あ、君のこと以外ね。でも、辛い思いをさせるとしても、行きたいって思いの方が強いんだ。」

 彼女の笑顔は、いつもとは打って変わって、覚悟に満ちていた。

 僕はというと、強がって次の言葉を探していた。

「僕が言えたことじゃなけど、君って最低な人間だね。」

 そう言うと、彼女は声を出して笑った。

 僕がどうしたって、きっと彼女の決意は揺らがない。後悔したところで、もう遅いんだ。

「てか、やっば。そろそろお母さん来るじゃん。」

 彼女は時計を見ながら大声で叫んだ。

「それじゃ、また今度。」

「ばいばーい。」

 彼女に手を振ると、彼女は笑顔で手を振り返した。

 背を向けて病室を出る。

 出口の方を向く。

 ・・・。

 ・・・僕の目線の先には、桜空と似ても似つかない女性が立っていた。誰もいない廊下に。

 女性は僕のことを見つけると、驚いたような顔をしてから頭を下げた。僕もつられて頭を下げる。

 すれ違った後は、すぐ近くの扉が開いた音がした。

 ・・・少しだけ、待ってみることにした。

 ロビーの椅子に座って、落ちていく日を眺めていた。

 咳をする子供。松葉杖をつく高校生。薬をもらう老夫婦。スーツ姿でビジネスバッグを持つ女性。元気そうに談笑する老婆たち。

 色んな人が来ては、帰っていく。誰も、僕を気にも留めず。

 夕日が傾き始めた頃、さっきの女性が出てきた。

 僕は一息ついてから、彼女を追った。

「すいません。」

 彼女は立ち止まると、僕の方を見た。真っ直ぐな、同じ色の瞳で。

「桜空・・・さんの、お母様で合ってますか?」

 彼女は複雑そうな顔をした。

「いや、桜空さんの友達で、その・・・。」

 僕は大きく息を吸った。

「桜空さんのことを、教えていただきたいです。」

 彼女は口を小さく開けると、とうとう口を開いた。

「君は、桜空のどんな友達なの。」

 ・・・頭の中で、色々なものが駆け巡った。

「僕は・・・」

 ・・・。・・・。・・・。

「友達です。秘密を共有できるくらいの。」

 彼女はまた驚いたような顔をした。

 数分後、僕らは公園のベンチに座っていた。

「君、お名前は?」

「灰戸・・・です。桜空さんには灰戸くんって呼ばれてます。」

 彼女は少し微笑んだ。

「灰戸くん、ね。私は、角田京佳(きょうか)。桜空の保護者です。」

 ・・・少しだけ、沈黙が流れた。

 ここで聞くのは行けない気がする。

「桜空さんは、お宅ではどんな感じだったんですか?」

 そう聞くと、京佳さんは微笑んで口を開いた。

「桜空は、いっつも笑顔だったよ。きっと、私たちに心配かけたくなかったから。」

 ・・・。

「桜空さんは・・・。」

 言葉が喉に詰まって、息もできなかった。

 僕が窒息していると、京佳さんから口を開いた。

「桜空の本当の両親はね、事故で死んだんだ。桜空が小学生の頃に。私は桜空の叔母。」

 どうしても、言葉が喉を通らなかった。

「桜空が寂しい思いをしないように、親身になって接してきたつもり。でも、こんな事になって。」

 何も、分からなかった。もう。

「桜空はいつも笑顔で、お友達もいっぱいいる。それでも、本当の意味でそばに居たい、って思う子はいなかったのね。」

 僕はゆっくりと息を吸った。

「私には、桜空の心の奥底は分からない。でも、秘密を話せるような、優しい友達はいたのね。しかも、男の子だなんて。」

 京佳さんは、優しく微笑んだ。

 友達・・・。僕が・・・。

「灰戸くん。君だけは、桜空のこと、大切にしてあげてね。さいごまで。」

 もう、乗りかかった船からは降りられない。次に降りれるのは、この船が沈んだ時だけだ。

「・・・・・・僕は・・・。」

 どうしても喉から出ない言葉を噛み締めて、僕は言い直した。

「僕は、桜空さんに飽きられるまでは、友達でいようと思います。」

「ありがとう。」

 ・・・。怖かった。こんなに優しい人を、裏切ってしまうことが。

 日がその姿を消そうとする時、京佳さんは立ち上がった。

「ごめんね。こんなに時間取らせちゃって。」

「いえ、僕にとっても有意義な時間でした。」

 優しい京佳さんの声は、僕の罪悪感を刺激した。

 だからといって、桜空の覚悟は変わらないのだろう。

 僕は一体、どうすればいいんだ。どちらの道を選んでも、彼女を助ける結果になる。でも、片方は彼女にとっては茨の道だ。

 だったら、僕は・・・。

 ・・・僕は、君が選んだ道を歩むよ。

「ねえ。」

 最後に、京佳さんが僕を呼び止めた。

「灰戸くんの、君の名前だけ、聞いてもいいかしら?」

 僕は一度息を吸った。あの人は違う覚悟で。

「⬛︎です。」

 はっきりとそう言うと、京佳さんはまた微笑んだ。

「⬛︎くん。素敵な名前ね。」

 やっぱりどうしても、その名前だけは聞き取れなかった。

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