2.崩壊
チャイムの音が鳴って数秒後、扉を開けると大荷物の彼女が立っていた。
「本気?」
「だいぶ本気。」
そう言って彼女ばブイサインをした。
いつかのゲームをした日に約束したのはもちろん覚えている。準備だってしていた。それでも来ないことを願っていたのだが。
彼女は僕の言葉を待たずに部屋に入ってきた。
「いつも通り僕の部屋に荷物置いといて。お茶とお茶菓子持ってくる。」
そう言うと、彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。
まだ彼女をリビングには入れていない。入れたくない。入れる勇気がない。あの人を見せたくない。
リビングに入ると、嫌でもそれが目に入った。
僕はそれを睨みつけることだけして、お茶を準備した。
・・・・・・
部屋に戻ると、彼女は部屋着に着替えていた。僕の部屋で勝手に。
「あ、おかえりー。」
彼女は僕に笑って手を振った。
お盆を置くと、僕はため息をついた。
「人の部屋で許可もなしに着替えるのはどうかと思うけど。」
そう言うと、彼女はまた笑った。
「別にいいじゃん。君は部屋にいなかったし。」
僕はまたため息をついた。
「なになに?期待してたの?」
彼女はニヤニヤと笑って僕を小突いてきた。僕は真顔で答えた。
「別に。貧相な身体には興味ないし。」
今度はかなりの強さの肘打ちを食らった。
「君が知らないだけで、私は結構モテるんだよ。何回か告白もされたし。」
「この世には変わり者が沢山いるんだね。」
「私の魅力を理解できない変わり者もいるみたいだけどね。」
彼女の見事な返しに僕は何も言うまいと思った。
「ていうか、君にだったら別に見られてもいいんだけどさ。本当に嫌だったら言ってね。」
僕は何も言わなかった。ああ、何も言わなかったさ。
「何?やっぱり期待した?」
また彼女はニヤニヤと笑った。
「君の馬鹿さ加減に呆れてただけ。」
そう返すと、彼女は腹を抱えて大笑いした。僕はまたため息をついた。
「ところでさ、私って何回くらいここ来てるんだろ?」
ひとしきり笑った後、彼女は僕に聞いてきた。
「うーん。初めに来た日からほぼ毎日来てるから、20回かそこらじゃない?」
「へぇ。」
彼女は興味もなさそうに呟いた。
「恋人でもなんでもない男の家に十数回も上がり込むなんて凄い貞操観念ですね。」
嫌味を言うと、彼女は首を傾げた。
「てい・・・?」
「知らないなら気にしなくていいです。」
なんだか情けなくなってきた。彼女は不思議そうな顔をしていた。
僕は立ち上がった。
「夕飯の準備してくる。麻婆豆腐でいいんだよね?」
「うん。私も手伝おうか?」
彼女は頷いてから立ち上がった。
「いや、桜空さんをリビングに入れるわけにもいかないし。」
そう言うと、彼女はまた不思議そうな顔をした。
「うーん。前もそれ言ってたけど、なんで?」
・・・。僕は、彼女の言葉を飲み込んでから答えを出した。
「いくら桜空さんでも、知られたくないことはある。」
そう言うと、僕は彼女に背中を向けた。彼女が微笑む声が背中越しに聞こえた。。
「そうなんだ。でも、君にとって私は特別なようでよかったよ。」
部屋を出ようとしていた僕は立ち止まった。
「どうした?」
彼女の声だけが背中に突き刺さった。
特別。特別・・・。特別?彼女が?
確かに彼女を特別視している自分が、そこにはいた。出会って1ヶ月とそこらしか経っていない彼女のことを、特別だと思う自分が。
「なんでもない。行ってくる。」
喉から捻り出したその二言は、少しだけ重かった。
「いってらっしゃい。」
彼女が笑っている姿が頭に浮かんだ。
彼女のもとを離れても、キッチンに立っても、料理を完成させても、違和感はどうしても拭えなかった。
・・・気分を変えよう。どうせこんな事で悩んでも、なんの意味もない。
お盆を持って部屋に戻ると、彼女は僕のゲームをやっていた。何度もやった、格闘ゲームを。
彼女は僕に気付くと、目を輝かせた。
「おつかれー。ありがとう。」
料理をテーブルに並べると、彼女は満面の笑みをうかべた。
「めっちゃ美味しそう!」
なんだか少しだけ嬉しかった。
自分の分の料理も持ってくると、彼女は笑顔で手を合わせた。
「いただきます。」
彼女は僕の返答を待たずに、麻婆豆腐に手を伸ばした。一口食べると、彼女は頬に手を当てて唸った。
「美味しい〜!」
彼女の素直な反応が、嬉しかった。自分のこんな事で喜んでくれていることが。
副菜や、汁物をつまんでは、彼女はまた舌鼓を打った。まるで・・・まるで、小さな女の子のように。
「こんなに料理上手いなんて、羨ましいなぁ。私なんて野菜すらまともに切れないのに。」
「なんか、桜空さんらしいからいいと思うけど。」
「なになに?煽ってる?」
彼女はまた僕に笑顔を向けた。
「今度、料理教えてよ。使う機会はないかもだけど。」
「いいよ。それくらいなら・・・」
・・・。僕の顔が曇ったのを感じた。
「ん?どうした?」
彼女は心配そうな顔をして、僕の顔を覗き込んできた。
「いや、なんでもない。」
そう取り繕って、僕はご飯を口に突っ込んだ。
そうか。何かの間違いで、この一ヶ月ほどを、彼女と過ごしてきた。友達として。だから、その事実に目を向けてこなかった。
でも、彼女は死ぬんだ。もう一度、間違いが起らない限り、彼女はいなくなってしまうんだ。
「・・・する?」
「ん?」
いけない。話を聞いていなかった。
まだ悩むのはやめよう。今は、この時間を過ごしたい。
「なに、聞いてなかった?本当に大丈夫?」
「大丈夫。全然関係ないこと考えてた。」
「お風呂覗いてやろうとか?」
「もう一度言おうか?僕は貧相な・・・」
「今度は殴るよ?」
彼女から仕掛けてきたのに、なんて理不尽なんだ。
「なんか、自信なくなりそう・・・。」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「いや、それはどうでもいいから。何話してたんだっけ?」
「そ、そうだね。これからどうする?って話。」
自分で決めればいいのに。その言葉はぐっと飲み込んだ。
「僕は食器洗って、家事したら戻るよ。」
「じゃあ、お風呂先に入っていい?」
僕は頷いた。その時、長風呂好きな僕は、今夜だけはシャワーで済ませることが決まった。
・・・・・・
なんだか、少し気持ちが悪い。
嬉しい。怖い。特別。
彼女に対する感情が、こんなにも増えている。正直、訳が分からない。たった、1ヶ月の関係。ただの友達か、それ以下の関係。
なのに。
食器を洗い終わると、僕はため息をついた。
冷蔵庫からチョコレートを取り出して、口に放り込んだ。いつも食べるときよりも、苦いような気がした。
お茶菓子と飲み物を持って部屋に戻ろうとすると、脱衣所の扉が開いていた。
浴室の扉に写る影には彼女の身体がはっきりと写り、洗濯機の上に乱雑に置かれた彼女の服の上には、下着が目立つように置かれていた。
僕はため息をついてから、扉を勢いよく閉めた。
部屋に戻ると、着替えやら漫画やらが散らかっていた。
もう一度ため息をついてから、僕は片付け始めた。どうせ、この行動にもなんの意味もないのだろうが。
片付けを進めていくと、見覚えのないポーチを見つけた。少なくとも僕のものではない。
・・・僕は、興味本位でポーチを開けてみた。そして、後悔した。
ポーチからは、いくつかの薬が覗いていた。
全部、名前も知らないような薬だ。
笑顔を見せるとか、下着を見てしまうとか、そんなことが起こっても、僕は彼女のことをなんとも思わない。でも、こういうのはやめて欲しい。
彼女は、僕にとって・・・。
「ただいま〜。着替え忘れちゃった〜。」
突然部屋に響き渡った声に、僕は肩を震わせた。ポーチをベッドの下に隠すと、振り返った。
彼女は、身体をタオルで隠して扉の前に立っていた。もちろん、ニヤニヤして。
「何〜?私の下着でも探してたの?」
「誰が探すか。散らかってるのが嫌いだから、片付けしてただけだよ。」
そう言っても、彼女はニヤニヤと笑い続けた。僕はというと、複雑すぎて笑うこともできなかった。
「そーなんだ。」
「僕をからかいたいんなら、その前に片付けくれないかな?」
そう言うと、彼女は笑って僕の方に歩いてきた。
僕はそれと同時に、部屋を出ようとした。
「ねえ。」
いつもより数倍低い声が、部屋中に響いた。背中越しに、彼女が複雑な顔をしていることが分かる。
「ポーチ、見た?」
「なんのこと・・・?」
誤魔化そうとした。これで終わらせようとした。だって、聞きたくなかったから。
「いくら私でも、場所移ってるの、分かるよ。大事なものだから。」
彼女がそう言うと、僕はため息をついた。
「目立つような場所に置いておく桜空が悪い。」
そう言うと、彼女はクスッと笑った。こんな時になぜ笑えるのか、さっぱり分からない。
「別に怒ってないよ。ただ、ちょっと心配させちゃったかなって。ごめん。」
彼女の声は既にいつものトーンに戻っていた。
「桜空は・・・。」
気付くと声が出ていた。彼女の様子は、想像できなかった。
「桜空は、どうして笑えるんだ。」
「どうしてって、言ったじゃんあの日・・・」
「違う。」
いつもより大きな声が出ていた。彼女はついに黙った。
「人に心配かけたのに、本当の友達とはもう出会えないかもしれないのに、明日死ぬかもしれないのに。
なんで。なんで。なんで君は笑えるんだ。
無理しなきゃいけない?じゃあなんで君は無理するんだ。
君はもう死ぬかもしれないんだ。じゃあ、自分のしたいことを、したいようにすればいいじゃないか。」
ほとんど、僕の叫びだった。角田桜空という、たった一人の人間を理解したい。そんな僕の。
「・・・うーん。」
彼女は唸った。
「難しいなぁ。」
彼女は尚唸っている。
「なんで笑えるのか・・・かぁ。」
彼女の声は少しだけ、震えていた。
しばらく、彼女の唸り声だけが聞こえた。
「・・・強いて言うなら、そっちの方がいいから、かな。」
彼女はまた笑顔になっている気がした。
「確かに、私は死ぬよ。だからって、皆にさ、私死ぬよ〜。って伝えて特別扱いしてもらっても、楽しくないって、私は思う。
だったらさ、笑うしかないよ。笑っていつもの日々を当たり前のように過ごして、その笑顔を見て、誰かが笑う。そっちの方が、有益じゃん。私がずっとくよくよ泣いてるよりも。」
僕は何も言えなかった。
「空に舞う桜のように、散る瞬間までも美しく、そして全力で生きてほしい。私の名前には、そんな想いが込められているんだって。
それなら、最後まで生きないと。散る瞬間まで全力で、綺麗な笑顔で。」
・・・彼女がどんな顔をしているか、分からなかった。
「私は、そうしたい。だから、私はずっと笑顔で、いつも通りの日々を過ごす。それが、私のしたいこと。」
・・・。
「シャワー浴びてくる。」
「ごゆっくり〜。」
今度の彼女は笑顔な気がした。
その日もいつも通り、長風呂をした。
・・・・・・
部屋に戻ると、彼女はノートを開いていた。こちらから見ると、何の変哲もない大学ノート。
彼女は僕に気付くと、ノートを閉じた。
「おかえり〜。何持ってるの?」
「こっちのセリフ。」
そう言うと、彼女は微笑んだ。
「日記・・・みたいなやつ。私が生きた証をここに刻んでるの。」
そう言うと、彼女はノートの表紙を僕に見せた。『角田桜空』とだけ書かれている。
「で、君が持ってるのは?」
そう言って、僕の持ってる角瓶を指さした。
「梅酒。」
「お酒?」
「そう。」
「君が?」
「たまにだけどね。」
ボトルの蓋を開けると、彼女は興味深そうにボトルを覗き込んだ。
そんな彼女を気にも留めず、自分のグラスに梅酒と炭酸水を注いだ。
「父さんが置いていくんだ。どうせあの人も気付いてる。」
そうとだけ言うと、僕はグラスの中身を口に入れた。彼女は眉に皺を寄せている。
「美味しいの?」
彼女は不思議そうに顔を傾けた。
「美味しいよ。」
そう言うと、彼女は自分のグラスをこちらに向けた。
自分と同じように梅酒とソーダを注ぐと、彼女は注意深くグラスの匂いを嗅いだ。その間に僕はもう一口飲んだ。
彼女はグラスの中身を恐る恐る口に運ぶと、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「苦い。あんまりおいしくない。」
そう言った彼女を見て、僕は笑顔を見せた。
「桜空みたいな子供には分からないよね。」
そう毒づくと、彼女は子供のように口を尖らせてから、グラスの中身を一気に飲み干した。彼女はこちらを向くと、ドヤ顔でグラスをこちらに渡してきた。
僕は口角を上げて、梅酒をもう一杯注いだ。
その後は、ボトルの二本目を開けるまで飲み続けた。彼女は、やっぱり終始笑顔だった。
「ところでさ。」
顔を赤くした彼女は僕の方を見て言った。酔っていても、いつもと変わらないみたいだ。
「私ってどこで寝ればいい?」
「僕のベッドか、床で寝て。」
「女の子を床で寝かそうだなんて、酷い男の子だなぁ。」
そう言うと、彼女は大笑いした。
「灰戸くんはどこで寝るの?」
「リビングのソファーで寝るよ。」
「なんなら、添い寝してあげようか?」
今度の彼女はニヤニヤしていた。
一応言っておくが、この時は二人とも酔っていた。
「桜空と添い寝するなら、友達を増やす方がマシだよ。」
笑いながら言ってやると、彼女は僕の肩を強めに叩いた。
「友達は作らないとダメだぞ、少年。将来ひとりぼっちになっても知らないよ。」
「桜空と出会う前はひとりぼっちぼっちだったから平気だよ。」
彼女は口をへの字に曲げると、僕の方にコップを向けた。
まだ飲むのか・・・。彼女はかなりの上戸らしい。
梅酒を注いでやると、また彼女は笑顔になった。
「灰戸くんと出会わなければ人間の道を外れることもなかっただろうなー。」
「僕だって、桜空と出会わなければ、こんな事に時間を費やしてなかったのに。」
そう言うと、彼女は真っ赤な頬を膨らませた。
「もういいもん。私は怒りました。」
そう言うと、彼女は仰向けに寝転がった。
その勢いでパジャマの裾がめくり上がり、彼女の腹が顕になった。
「 別に、楽しくないとか、そういう訳じゃないよ。」
そう言い訳しても、彼女は何も言わなかった。
「そんなんで怒るタチじゃないでしょ?いくら酔ってるっていっても。」
やっぱり何も聞こえなかった。
「桜空さん?」
卓袱台に手をついて、彼女の顔を覗き込むと、彼女は目を閉じていた。
「桜空!?」
焦って彼女の近くに寄った。僕のせいで、彼女が死んでしまったら。酔いだって覚めた。
次の瞬間、僕は彼女と出会ってから一番呆れてしまった。
彼女の口からはリズムのいい寝息が聞こえた。
僕は唖然と安堵からため息をついた。
彼女を・・・俗に言うお姫様抱っこの体勢で持ち上げてベッドに下ろした。彼女の体は驚くほど軽く、彼女が女だということを再認識させられた。
「お願いだから、驚かせないでくれよ。」
そう言って、彼女の頭を撫でた。特に意味なんてない。
「おやすみ。」
そう言った瞬間、彼女の口角が上がった。頭を撫でていた、右手の手首を掴まれる。
なんで僕は学べなかったのだろうか。いつも狩られるのは油断している時だったというのに。
・・・次の瞬間、僕はベッドに押さえつけられていた。僕の上には四つん這いの桜空がいた。
「桜空・・・?」
彼女は何も言わなかった。笑ってもいなかった。
部屋の中には、音一つ無かった。
どうした。その言葉すら出てこなかった。僕の頭は真っ白だった。ただ分かるのは、彼女がよく分からない顔をしているということだけだ。
「君の眼、こう見るとやっぱり綺麗だね。」
そう言うと、彼女は僕に覆い被さるようになった。
僕の中には、彼女のか、僕のか分からない心音が駆け巡っていた。
「大丈夫?」
その言葉を捻り出すと、彼女は僕の耳元で囁いた。
「うん。生きてる。」
・・・。
「もしも、さ。」
かなり時間が経った後、彼女が口を開いた。
「もしも、私が君に殺されたい、って言ったら、君はどうする?」
言葉の意味が理解できなかった。
「僕に、殺されたい、そう、言われたら。」
彼女の言葉を繰り返した。それでも分からなかった。
「どうせ、私の時間は残り少ないんだよ。そして、悪いものに毒されて、そのまま死んじゃう。
だったら、私は好きな人に殺されたい。」
彼女の声は少し震えていた。
また、静寂が訪れた。心臓すら止まってしまったかと思うほどの。それでもずっと、彼女は僕を逃がさなかった。
「僕は・・・。」
彼女に質問をされてからしばらく経った後、僕は口を開いた。彼女は僕の手を握った。
「僕は、君を殺さない。」
「どうして?」
彼女は更に強く手を握った。
「僕は、君がいなくなるまでは、一緒に過ごしたい。友達として。
それじゃあ、満足出来ないかな。」
彼女は一度ため息をついた。
「そう言うと思った。」
「分かってるなら聞かなくても良かったんじゃない?」
そう言うと、彼女は小さな声で笑った。
彼女は、また手を強く握った。
その手を握り返すと、彼女の肩が震えだした。
「私は・・・私は・・・。」
彼女は声を上げて泣き出した。僕は空いている手で彼女の頭を撫でた。
「やめてよ。お願いだから。これ以上、好きにさせないでよ。どうせお別れするんだら、もう、誰も好きになんてなりたくないよ。」
彼女がなんと言おうと、僕は手を握り、頭を撫でた。
「怖い・・・怖いよ。嫌だよ、死にたくないよ・・・。」
彼女は弱々しい声で言った。
「ここで、ずっと、こうしてたいよ・・・。」
彼女の弱いところを受け止めるには、僕の体は小さすぎたみたいだ。それでも、精一杯で受け止めた。
またしばらく経ったあと、彼女は泣き止んだ。
「ごめん。変なこと言って。」
そう言うと同時に、彼女は僕の手を放した。体重が乗らなくなったと思うと、そのまま僕の隣で仰向けになった。
「灰戸くんは、今日、添い寝してくださいね。」
そう言う彼女は笑顔だった。無防備に僕に身を寄せている。友達なんかじゃない、そんな関係だと示すように。
・・・一度、目を閉じた。心臓の音だけが聞こえた。
彼女は隣で笑っている。1ヶ月も傍にいてくれた彼女が。出会うはずのなかった、出会うべきだった彼女が。
彼女は、笑顔で。いつも笑顔で、その笑顔が素敵だと、思っている。
僕は、傍にいたい。
僕は、彼女と笑顔でいたい。
僕は。僕は・・・。
僕は・・・?
・・・僕は、気付くと彼女の上で四つん這いになっていた。
彼女は、不思議そうな、驚いたような、嬉しそうな、そんな顔をしていた。
また、静寂が訪れた。この部屋が世界から切り取られてしまったかのような。
ゆっくりと顔を近付けると、彼女は目を閉じた。
そのまま、僕は彼女と唇を重ねた。
それは、アルコールと彼女の吐息で混乱している理性を吹き飛ばすには十分すぎるほど甘かった。今まで食べたどんなお菓子よりも。今まで見てきたどんな彼女よりも。
唇を離すと、彼女の頬は赤く染まっていた。
「なんだ。君も案外やる気なんじゃん。」
「誰のせいだよ。」
そう答えると、彼女は笑って自分の服のボタンに手をかけた。
少しだけ冷静さを取り戻した僕は、彼女の上からどいた。
彼女は起き上がると、自分の服を彼女の横に放った。
「お願いだけど・・・さ。」
まだ頬の赤い彼女は自分の肘を擦りながら、僕に身を寄せた。
「お願いだから、私の事、ぐちゃぐちゃにして。今だけは、私を、殺して。」
彼女のその台詞は僕の体の中全体を駆け巡った。そして、理性を失ったかのように、彼女を求めた。彼女を殺してしまうくらいに。
その時だけは、彼女もまた、僕を求めた。
ただ欲望のままに、唇を、身体を、何度も重ねた。
部屋の中には、何度も漏れる僕らの吐息と、二人の名前を叫ぶ声だけが響き渡っていた。
あとは何も覚えていない。その瞬間に何が起こったかなんて。
全てが終わった後に、その・・・産まれたままの姿の彼女が、僕の隣で仰向けになっていたことからは覚えている。
僕の手には、彼女の手が握られている。その手を強く握りしめると、彼女は僕の方を向いた。
彼女と目が合うと、彼女はいつもとは違う笑顔を見せた。何が違うかなんて分からない。
僕は一度、深呼吸をした。
「着替え用意するから、後ろ、向いてて。」
そう言うと彼女は素直に壁の方を向いた。
急いでジャージに着替えると、ベッドの横に放られた服を拾い集めた。
背中を向けている彼女の方を見ると、彼女は少しだけ小さく見えた。その後ろに、大きめのパーカーを置いた。
「パーカー、置いておいたから、着替えて。」
扉の方を向くと、背中の方から物音がした。それを確認してから、僕は部屋から出た。
洗濯機に、彼女の服と僕のを一緒に入れた。
タオルを取って、部屋に戻った。
彼女は日記に色々と書いていた。
彼女にタオルを差し出した。
彼女ははにかんで受け取った。
どんな声を掛ければいいのか、分からなかった。
僕は彼女の向かい側に座った。それでも、彼女は日記を書いていた。どんなことを書いているのか分からない。
しばらく経つと、彼女は僕の方を向いた。そして、頬を赤く染めた。
「なんか、ごめん。忘れて。」
彼女が恥ずかしがる姿を見て、僕は吹き出してしまった。
彼女は首を傾げていた。
「なんか、そんなしおらしい桜空見るの初めてだから、笑っちゃった。」
そう言うと、彼女は口を尖らせた。
「結構真面目な話だったのに。」
いつもと全く逆の光景に、笑みが止まらない。
「ごめん。結構面白かったから。」
「うわぁ、失礼な人。」
彼女はそう言うと、笑みを浮かべた。
あんな事があっても、この空間だけはいつも通りみたいだ。
・・・やっぱり、彼女には伝えてもいいかもしれない。
「ねえ、桜空。」
「ん?何?」
彼女はまた首を傾げた。
「温かいお茶でも淹れるから、手伝ってよ。」
そう言うと、彼女は頷いた。真面目そうな顔で。
彼女を連れて部屋を出て、リビングに入る。
リビングに入ると、嫌でもそれが目に入った。多分、彼女も同時に。
僕らの目線の先には、仏壇があった。しばらくの間、手入れがされていない。
彼女は僕の前に出ようとした。
「いいよ。あんな人に桜空の想いは必要ない。」
そう言うと、彼女はまた僕の後ろに下がった。
・・・。
「あの人、僕の姉なんだ。」
部屋に戻って一息ついた後、僕は打ち明けた。
「産まれてすぐに死んだんだって。父さんも、母親も悲しんだんだって。特に母親。
だから、僕の名前はあの人のから取ったんだって。あの人の名前は・・・」
桜空は、何も言わずに聞いていた。何を思って聞いているかなんて分からなかった。
「僕が産まれてから、あの人の分も生きて欲しいって、変な呪いつけてさ。頑張って生きようと思ったよ。最初は。
中学生に上がった頃、かな。僕のオッドアイのせいで周りからの目が酷くなって、母親は耐えきれなくなったんだって。気持ち悪いとか、あの人が死んでどうたらとか。
ある日言われたんだ。お前なんか生まれて来なければよかった、って。」
誰にも助けを求められなかった。僕なんか必要なかった。
口の中がとても苦くなった気がした。
「その後すぐだったと思う。両親が離婚した。ぶっちゃけ、ありがたかった。父さんだけは、僕を守ってくれた。
そして、ここに引越してきた。あの人は、父親として連れて来たかったんだって。」
一度お茶で喉を潤した。それでも、口の中の苦味は消えなかった。
「だから、僕は人が嫌いだ。君と過ごしても、それだけは変わらない。」
話し終えると、彼女の方を見た。彼女は下を向いていた。
「ごめん、つまらない話して。」
そう言うと、彼女は顔を上げた。彼女の頬には、涙の跡があった。
「ごめん。私、君のこと全く理解してなかったんだね。」
彼女の声は震えていた。
「初めて会った時も、さっきも、君の眼を綺麗だなんて言って、君の名前を聞いたり、その・・・何度も言ったり。君にはひとつひとつが嫌だったかもしれないのに、君にそんな事があったなんて考えもしなかった。」
そう言うと、彼女は僕の近くに寄った。
「私にとっては、君はすごく素敵な人。棘はあっても、仲良くしてくれる。
私だけは、君の、灰戸くんの味方でいるよ。」
そう言うと、彼女は僕を抱きしめた。
柔らかくて、暖かくて。少しだけ、僕が使っているシャンプーの匂いがした。
「桜空・・・?」
「ごめん、これも私のエゴだけど、許してほしい。」
彼女はそうとだけ言って、更に強く、僕を抱きしめた。
ずっと、ずっと感じていなかった感覚が、僕が消し去ろうとした感覚が僕を襲った。
僕も抱きしめ返すと、とうとう耐えられなくなった。
気持ちが溢れ出してきて、嗚咽が漏れる。僕はそのまま、彼女の胸の中で泣いた。
何年ぶりだろうか。誰かの前で涙を流したの。
彼女の前で弱い所を見せている。それでも、いいと思えた。
彼女の優しさと温かさに溺れてしまうだけで、昔のことを忘れられるような。そんな気がして、ただ、心地よかった。
僕の気が落ち着くまで、彼女は僕を抱きしめた。
よく考えたら、まずいことをしている気がする。人気者で目立ちたがりの彼女と出会って数ヶ月で、その・・・そういうことをしたり、抱き合ったり、泣きあったりした。ありえないし、今思ってもありえないし、彼女は友達だ。今のところは。
・・・今だけは考えなくてもいいか。今だけは何も考えずに泣けばいいか。
ずっと涙を流すと、とうとう、彼女のこと以外何も考えられなくなった。
言い切ってしまおう。あの時から、僕は彼女に依存していた。
泣き止んでから、特に目立つ会話を挟むことも無く眠った。隣同士で。
まあ、僕は全く眠れなかったが。
彼女に背を向けて、後ろから聞こえる寝息だけを頼りに、彼女の存在を確かめていた。
心配で眠れなかった、というのもあったかもしれない。彼女に無理をさせすぎた気がして、彼女がそのまま・・・というのも考えていた。もしも彼女にこのことを言ったら、心配しすぎだよと笑うのだろう。
結局、僕は眠ることなく、朝日を迎えることになった。彼女のせいで。