1. 魔法のデザート
「リアナ様、本日のパーティーの準備はいかがですか?」
侍女のメイが心配そうに声をかけてきた。今日は私、リアナ・ヴァンダムにとって宮廷デビューとなる重要な夜会だ。子爵家の令嬢として、そして新たに宮廷内務省に配属された職員として、貴族社会での地位を確立しなければならない。
「ええ、大丈夫よ。準備は整っているわ」
私は鏡の前で深呼吸をした。前世では平凡なOLだった私が、今や異世界の貴族令嬢として生きている。この奇跡的な転生を無駄にするわけにはいかない。
ドレスは控えめながらも上品な深緑色のものを選んだ。派手すぎず地味すぎず、新参者としては適切な選択だろう。しかし、服装だけでは宮廷社会で生き残ることはできない。何か特別なことをしなければ。
「メイ、厨房に案内してもらえる?」
「厨房でございますか?パーティー前にそのような場所に...」
「大丈夫。少し準備したいものがあるの」
私には秘策があった。前世で培った知識を活かし、この世界にはない特別なデザートを作るのだ。
厨房に到着すると、料理長のベルナール氏が驚いた顔で私を迎えた。
「リアナ様、いかがなされましたか?」
「実は、今夜のパーティーで特別なデザートを作らせていただきたいのです」
「デザートを?しかし、お嬢様がそのような...」
「お願いします。きっと皆様にお喜びいただけると思います」
私の熱意に押し切られ、ベルナール氏は渋々承諾した。しかし、彼の目には明らかに疑念の色があった。
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私が作ろうとしていたのは、ティラミスだった。前世でイタリア料理店でアルバイトをしていた時に覚えたレシピを、この世界の材料でアレンジするのだ。
「まず、マスカルポーネに似た乳製品はありますか?」
「乳製品でございますか?チーズならございますが...」
「それと、卵と砂糖、それから苦い飲み物...コーヒーはありませんね。何か苦味のある飲み物はありますか?」
厨房の見習いたちがざわめいた。貴族の令嬢が厨房で何をしようというのか、彼らには理解できなかったのだろう。
「苦い飲み物でしたら、薬草茶のビターリーフティーがございます」
「それです!完璧ね」
私は材料を集めながら、前世の記憶を呼び起こした。マスカルポーネの代わりには、この世界の「ミルククリーム」という乳製品を使う。質感は少し違うが、味は似ている。
「リアナ様、何をお作りになるのでしょうか?」
若い見習いのアンナが興味深そうに尋ねた。
「『雲のデザート』よ。食べると雲を食べているような気分になるの」
私は手順を説明しながら作業を始めた。まず、卵黄と砂糖を混ぜ合わせる。この世界の砂糖は精製度が低いが、かえって風味があって良い。
「次に、このミルククリームを加えて...」
泡立て器で丁寧に混ぜていく。前世のパティシエ経験が蘇る。手の動きは自然で、まるで昨日やっていたかのようだ。
「別のボウルで卵白を泡立てます。これがふわふわの秘密なの」
見習いたちが興味深そうに見守る中、私は卵白を角が立つまで泡立てた。この世界には電動泡立て器はないが、魔法で冷やすことができるのは便利だ。
「すごい!まるで雪のようですね」
「そうね。これを先ほどのクリームに優しく混ぜ込むの。潰さないように、そっと...」
私は丁寧に材料を混ぜ合わせた。ティラミスクリームの完成だ。
次はスポンジケーキの層を作る。この世界にはフィンガービスケットのようなものはないが、薄く焼いたスポンジケーキで代用できる。
「このスポンジケーキをビターリーフティーに浸して...」
「え?お茶に浸すのですか?」
「ええ、これがポイントなの。苦味がクリームの甘さを引き立てるのよ」
見習いたちは半信半疑だったが、私の手際の良さに徐々に感心し始めた。
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層を重ねる作業は芸術に近い。スポンジ、クリーム、スポンジ、クリーム...丁寧に重ねていく。
「最後に、この茶色い粉をかけるの」
「それは何でございますか?」
「カカオパウダーよ。チョコレートの原料ね」
この世界でもカカオは貴重品だが、王宮の厨房なら手に入る。私は表面に美しい模様を描くように粉を振りかけた。
「あとは冷やすだけ。でも普通の氷では時間がかかるわね...」
その時、厨房の魔法師が声をかけてきた。
「リアナ様、氷魔法でお手伝いいたしましょうか?」
「お願いします!でも、凍らせすぎないように注意してくださいね」
魔法師が手をかざすと、デザートが適度に冷やされていく。これは前世にはない便利さだ。
約30分後、ティラミスが完成した。表面は美しく、香りも上品だ。
「素晴らしい...まるで芸術品のようですね」
ベルナール料理長も感嘆の声を上げた。
「味見をしてみましょうか」
私は小さなスプーンで一口味見した。完璧だ。甘さと苦さのバランス、クリームのなめらかさ、すべてが調和している。
「皆さんも味見してみてください」
見習いのアンナが恐る恐る口に運んだ瞬間、彼女の表情が変わった。
「これは...何という美味しさ!本当に雲を食べているみたい!」
「甘いけれど、後味がさっぱりしていて...」
「こんなデザート、見たことがありません!」
厨房中が騒然となった。皆が口々に賞賛の声を上げている。
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夜会が始まった。煌びやかなドレスに身を包んだ貴族たちが大広間に集まっている。私は緊張しながらも、自信を持って会場に向かった。
「皆様、本日は特別なデザートをご用意いたしました」
給仕たちがティラミスを運んでくる。貴族たちは興味深そうに見つめている。
「これは何という料理ですか?」
侯爵夫人が尋ねた。
「『雲のデザート』と名付けました。新しい製法で作った特別なお菓子です」
最初に口にしたのは、厳格で知られるグランヴィル公爵だった。彼は一口食べると、驚きで目を見開いた。
「これは...まったく新しい味わいだ!」
「なんて滑らかなの!」
「甘さの中に深みがあって...」
「まるで天国の味ですわ!」
会場中が感嘆の声で満ちた。貴族たちが次々とティラミスを味わい、皆が絶賛している。
「リアナ嬢、これはあなたが作られたのですか?」
ランカスター伯爵が驚きを隠せない様子で尋ねた。
「はい。家に伝わる秘伝のレシピを参考にいたしました」
嘘も方便だ。前世の知識とは言えない。
「素晴らしい!こんな美味しいデザートは初めてです」
「ぜひレシピを教えていただけませんか?」
「我が家のパーティーでもお作りいただきたい!」
貴族たちが次々と声をかけてくる。私の周りには人だかりができていた。
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その時、会場がざわめいた。第1王子アルフレッド殿下と第2王子シャルルマーニュ殿下が到着したのだ。
「兄上、あのデザートを召し上がってみてください」
シャルルマーニュ王子が兄に勧めている。彼は私の方をちらりと見たが、その視線はどこか興味深そうだった。
第1王子がティラミスを一口味わうと、彼もまた驚きの表情を見せた。
「これは確かに格別だな。誰が作ったのだ?」
「リアナ・ヴァンダム嬢でございます」
侍従が答えると、王子たちの視線が私に向けられた。
「リアナ嬢、お見事です」
第1王子からの賞賛に、私は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、殿下」
しかし、より強く印象に残ったのは、第2王子シャルルマーニュの反応だった。彼は静かにデザートを味わい、私を見つめて小さく頷いた。その瞳には、明らかに興味の色があった。
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パーティーが終わった後、私は一人でバルコニーに出ていた。夜風が心地よく、今夜の成功を噛みしめていた。
「見事な手腕でしたね」
振り返ると、シャルルマーニュ王子が立っていた。月光に照らされた彼の銀髪が美しく輝いている。
「殿下...」
「あのデザート、どこで覚えたのですか?」
「家に伝わる...」
「いえ、本当のことを聞きたい」
彼の青い瞳が私を見つめている。まるで全てを見透かされているようだった。
「私には...特別な知識があるのです」
「特別な?」
「詳しくは申し上げられませんが、人とは違う経験をしてきました」
シャルルマーニュ王子は興味深そうに頷いた。
「面白い。あなたのような人材が宮廷にいてくれると心強い」
「殿下のお役に立てるよう努力いたします」
彼は微笑みを浮かべた。それは冷静沈着で知られる彼の、珍しい表情だった。
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翌日、宮廷中が私の作ったデザートの話で持ちきりだった。
「リアナ様、昨夜は素晴らしいデザートをありがとうございました」
「ぜひまた新しいお菓子を教えてくださいませ」
「我が家の晩餐会にもお越しいただけませんか?」
廊下を歩くたびに、貴族たちから声をかけられる。一夜にして、私の宮廷での地位は確立された。
内務省での仕事も順調だった。上司のベルトラン卿も私の手腕を認めてくれている。
「リアナ嬢、昨夜のパーティーは大成功でしたね。あなたの創意工夫には感心しました」
「ありがとうございます。これからも宮廷のお役に立てるよう精進いたします」
しかし、私の心には一つの気がかりがあった。シャルルマーニュ王子の言葉だ。彼は私の秘密を察しているのだろうか?
その時、メイが駆け寄ってきた。
「リアナ様、第2王子殿下からお手紙が届いております」
手紙を開くと、美しい文字でこう書かれていた。
『リアナ嬢へ
昨夜のデザートは本当に素晴らしかった。ぜひまた新しい創作料理を見せていただきたい。近日中にお会いできれば幸いです。
シャルルマーニュ』
私の心臓が高鳴った。これは単なる社交辞令なのか、それとも...
「リアナ様、お顔が赤くなっていらっしゃいますよ」
「え?あ、いえ、何でもないの」
慌てて手紙を胸に押し当てる。転生して良かった、と心から思った瞬間だった。
前世の知識という武器を手に、私の異世界での新しい人生が始まったのだ。そして、クールな第2王子との運命的な出会いも。
これから一体どんな展開が待っているのだろうか。私は期待と不安を胸に、明日への第一歩を踏み出した。
宮廷の厨房では、今でもベルナール料理長が私のレシピを研究している。そして見習いのアンナは、いつか私のような素晴らしいデザートを作れるようになりたいと夢見ている。
一つのティラミスが、多くの人の人生を変えた夜だった。