冷めた料理と水ぶくれの人形
「お前の作る飯は不味いんだよ!!」
「仕方ないじゃない。貴方の健康を考えて私だって努力してるのよ」
「誰がそんな事を頼んだんだよ。黙ってお前は俺の食べたいものを作ればいいんだよ」
私はもう疲れた────顔を突き合わせれば文句ばかりの生活がどうでも良くなった。
発端は夫が受けた健康診断の結果を見たからだ。肥満気味だと心配だったが、仕事柄外食の機会が多くて、付き合いで飲み会も頻繁に行く。
夫はいくら飲んでも酒に酔わないのが俺の取り柄だと豪語するが、若さの代謝で誤魔化せた二十代と違い、三十を過ぎると深酒に肌の荒れが酷くなった、
せめて家での食事くらいは身体に良いものを食べさせようと、私は頑張って来た。塩分を控えたり、遅くなった時の夜食は油物を出さないようにするなど、工夫した。
お世話になっている夫の上司の部長に連絡し、夫の暴飲暴食を注意してもらった。
健康診断を勧めたのは部長の判断だ。仕事が出来る夫だから数値で自分の状態を知れば納得し、自分から身体を気遣うはずだから。
働き盛りの夫は、会社でも期待されていて重要なポジションを任されている。部長としても可愛がり、期待している部下に倒れられても困るのだろう。
「大丈夫ですよ、部長。こうみえて健康には自信がありますから」
「いま君に倒れられては困るんだよ。奥さんからも君の健康について相談があったばかりだから、試しに受けたまえ」
「あぁ、妻の差し金ですか。わかりました」
夫は笑って部長の指示に従うフリをした。かわりはいくらでもいる⋯⋯部長の本音をそう曲解したためだ。実際部長には他にも目をかけている部下はたくさんいる。
夫は一番目をかけられている自負があるだけに、たかが身体の事程度で信頼を損ないかけたと思ったようだ。
「余計な事をするな!健康を理由に大事なプロジェクトから外されたらどうするんだ!」
俺は大丈夫。いつもそう言って自信に満ちた夫は、私が余計な事を言ったせいで部長に心配をかけたと怒った。
そして結婚してからずっと身体のためを思って作って来た料理を否定されたのだ。
いろんな気遣いは、夫のような自信家には徒労に終わると理解出来た。一番ショックだったのは、私がずっと身体を気遣って来たのにまったく気付いていない事だった。
夫婦だから感謝の言葉はないのだろうか。会社の若い子の作るお弁当の味と比較されて、他人の料理の腕を自慢されて、私はただひたすら貶められて────もう、いいや⋯⋯そう思った。
「それなら私、頑張って貴方が美味しいって言ってくれる料理覚えて作るよ」
テーブルに残された冷めた料理を見て、私は夫にそう告げた。
「挽回のチャンスは一度だけだぞ」
もし次も不味い料理を作ろうものならば離婚だ。言わないけれど夫がそう考えたのはすぐにわかった。夫が後々のトラブルで優位に運ぶためなのだろう⋯⋯誓約書まで書かされた。
まだ浮ついているだけで、誓約書は彼にとっての保険だ。私が美味しい料理を作りさえすれば、夫の心は繋ぎ止められるのだろう。でも⋯⋯冷めた料理のように、私の心も急速に冷めていた。
「おっ、今晩の飯は美味いじゃないか」
塩っぱい味付け、脂の浮く濃厚なソース。淡白な出汁の味わいなんて、アルコールで麻痺した夫の舌には響かない事は私だってわかっていた。
夫の飲み過ぎ食べ過ぎは、仕事のストレスはあったかもしれない。だから私だけでも夫を癒やすために気を遣って来た。
でも夫の身体の事を考えて、料理を作っている間⋯⋯楽しい飲み会ではしゃぐ夫の隣の席には私はいなかった。夫の帰りが遅くなるほど料理と私の心は冷めた隠し味が加わっていった。
「望み通り、わからせてあげる⋯⋯」
それは夫に対してなのか、仲の良い会社の同僚達に向けて出た言葉だったのか私にもわからない。冷めた心と裏腹に、私にも驚くくらいの闘志が沸き上がる。
冷めて初めて少しだけ夫の気持ちがわかった瞬間だ。私も理解が足りなかったのかもしれない。だから愛情の証に、夫の思考を見習う事にする。
私の気持ちを知ってか知らずか、チラつく不快な影に対して、私は持てる知識を総動員する。夫同様に保険として賭けるものをあらかじめ賭けておいた。夫婦の証としてもらうものはきっちりと頂く事にする。料理の後は好きにすればいい。
幸い決意した私の事前の行動から、私の本心は善良な妻と知れている。美味しいだけの料理でご機嫌になった夫の口からも、今は私をけなすより褒める言葉が増えた。
何も知らない夫は、根っからの大丈夫教の信者だ。勧められた健康診断もろくに結果を見ていない。
夫の健康を守ろうとしていた私の堤防は取り払われた。自由な大海へ泳ぎ出す夫の身体は日々大量の塩分や過剰なカロリー、アルコールが蓄積されてゆく。
堤防として暴飲暴食を止める役目がいないのだ。大波が襲って来ようと防ぐ事は叶わず、夫の舌に合う美味しい料理達は足枷のように彼の身体の自由を奪った。
私は夫同様に自由を得た。美味しい料理で水ぶくれの人形のように育った夫から、貰うものは貰い、誓約書を理由にお別れを告げた。愛する夫のために、日夜研を重ね戦って来た日々を綴ったノートや、部長への相談が功を奏した。
私は夫が大変な時に見捨てるのではない。大事にならないように備えていたのをぶち壊したのは夫の方だ。
夫にとって私は都合良く言うことを聞く人形だった。人形が夫の命令通りに従っただけ。指示に逆らえば破壊すると言われていた。
保険金と慰謝料と手切れ金まで頂いた。浮袋のように膨らんだ夫の心と身体で、どこまで大海の荒波に浮かんでいられるのかなんて、私にはもう興味はない。
私の心はとっくの昔に夫によって冷めた料理と共に捨てられたのだから。これからは人形になって冷めた私の心を温めるために生きようと思う。