蛇足 マレフィックの天秤 中編
――普段からよく見る悪夢は現実との境目を曖昧にする。
部屋はずっと昔から同じ、王宮の『リブラ』に与えられた部屋。
壁も、装飾も、殆ど同じ。
違うのは魔導具のランプや湯沸しなどちょっとした便利なものがあることくらい。
夢は記憶の整頓をしているのだと何かで読んだが、こんなに綺麗に思い出せるのかと思うと酷く身体が重かった。
「寝た気がしない……」
両手で顔を覆って撫で下ろせば、目元に涙で濡れた跡があるのが分かる。
リブラは長椅子に横たわりながら、何度か狭そうに寝返りを打ったものの、また眠れる気はしない。
「……生まれ変わりがあるとして、僕たちは再会したことを喜べるのか? 僕だけが取り残されているこの世界でまた見送るだけなのに」
ロマンス小説をパラパラ捲れば、憎しみあっていた二人は今世ではすれ違った末に結ばれる。
「……これまで誰ひとり同じレオンだったこともないし、皆も違う。それなのに何で忘れないんだ」
* * * * *
リブラの成長が止まった理由として、その後分かったことは側にいたレオンの治癒力が成長を止めていたということで、その結果に色めき立ったのはレオンの父である国王と王妃だった。
若返りはしないが歳を取ることがないのだから、こんなに美味しい話はない。
王妃など態度をすっかり変えていて調子が良すぎるとリブラは思っている。
レオンには兄がいた。
彼はずっと王妃を実の母親だと思っていたので、その兄からお前は違うと憎々しげに言われ、その時初めて自身は王妃の子ではないと知らされた。
その真偽を父王にぶつけてから、兄王子の姿を見ることはなくなり、王妃には拒絶されるようになっていたからだ。
後日、兄王子は病を得て離宮に幽閉されたとレオンは聞いて、カリーナの身体の傷は治せても心の傷は癒せなかったように、兄も病んでいるのかもしれない。病んでいないのならば、なおのこと自分のせいだと考えたレオンは、一方的に搾取されるような関係でも王妃に望まれることを喜んでいた。
だが結局のところ、これはレオンとリブラが同じ獅子の体質を受け継いだからで、他の者には成り立たないと分かると、彼らはまたレオンと距離を取り、彼は暗い顔をするようになった。
リブラはレオンと離されると、一気に成長期がやってきた。
ホロロジウム家に戻されたものの、後々レオンの側近として召されることになる
そしてドラク・サーペント。
彼も殆どを王宮で過ごしていたのだが年頃になると、後継者としての責務を果たすために王宮から連れていかれた。
たまに戻ってきて話す機会もあるが、サーペント家では空気のような扱いだという。弟がいるものの会話すらしたことはないと言う。
しかし、リブラのこともドラクのことも家族にどう説明を付けたのだろうか。
流石にこの頃にはもう三人ともまともに生まれてきた訳ではないことは理解するしかなく、実際何のために生まれてきたのかも知っている。
だから父たちの協力者である医者に説明を求めれば、嬉々として答えた。彼は自分たちが聞けばどんなことにも答える。
各家での自分たちの存在について、王妃は秘密を知るが、他家の妻たちは何も知らされていないと言う。
――それをどうやって?
「アハハハ! 金獅子は面白いことを言うねェ。そういう時のために呪物を造ったんだよ、あの方たちは。自分たちの妻子ですら材料にするんだからねェ!」
それ以上聞きたくなくて耳を塞ぎたくなるが、自身が聞いたことだからと我慢する。しかもそういう辛い素振りを見せると、この医者は余計に興が乗るのだと長い付き合いで知っていた。
「金獅子、哀れな合の子。サーペントが造り出した『鳥女の鈴』は人を人でなくするんだよォ。だから最初からは使わないんだよねェ」
「……お前ら皆呪われろ」
「ヒヒヒヒ! 言うねェ……そうさな、皆もう呪われておるよ、儂もな。もちろんお前もなァ!」
――リブラも呪われている。
それを実感したのはその後幾つかの戦を経験してからだった。
リブラを目の前にして、敵は戦意を失くし、恐れ戦慄く。
リブラは刺されても腕を斬られても、足を折られても身体を突かれても立ち上がったからだ。
敵味方入り乱れる森の前線で、少しずつ敵が退いていく。死なない男の異常さに、昇って興奮している敵の頭が冷えていくからだ。
「……何だお前は! この化け物め!!」
「死ね! 死ね! 死んでしまえ!」
「あ、あ、悪魔だ……悪魔がいる……」
罵られることには慣れている。
それでも涙が出た。情けない、とリブラは思う。
――ここまでされても人として死ねないなんて、情けない。
王は最終的に鳥女の鈴を使うつもりだが、見世物としてリブラたちを最前線に置いたのだ。
レオンは後方、王と共にいる。万が一の時に王を癒し逃がすために。
きっとレオンはまた色々怒っていそうだ、とリブラは思った。
けれども、王がリブラを見世物にしたことは、正しい利用方法で、そもそもそのためにリブラは生まれてきたのだから。
それに、上手く行けばこのまま死ねることが出来てしまうかもしれないという淡い期待も持っていた。
死ねないリブラは痛みを感じないわけではない。
身体から血が流れ尽くすのではというほど出血もしているし、身体中の痛みに頭がおかしくなりそうだった。
流石に足まで折られては支えがないと立てないが、彼を側で支えるのはドラクだ。
そのドラクの上方、空に巨体を持つ鳥女がいて、翼を広げて敵を威嚇していた。
高音と低音の交ざった、気味の悪い猫のような鳴き声をドラクが発すると鳥女が敵陣に突っ込んでいった。
先頭を行く鳥女を追うように、さらに森のあちこちから鳥女が現れて敵を一掃していく。
「……ど、らく。なん、何で、アレ」
「アレは私の『母親』のつもりらしい。私の言うことなら何でも聞く」
鳥女という種族には雌しか産まれない。
卵生で、しばらくは乳を飲ませ、そのうち肉を食わせる。
ドラクは人から産まれた男だが、彼の性別は関係ないのだろうか。男を選んで連れ去ると聞いているが、もしかしたらそもそも魅了は男にしか効かないのかもしれない。
「私を産んだ人には鳥女の魔導石が移植されていた。流石にどこにまでは聞けなかったが、そのせいか鳥女と同じだと見られているらしいよ。向こうは私と意思疎通は図れない。こちらが一方的に命じるだけだ」
「……じ、じゃあ」
「――無理に話すな、じっとしてろ。鳥女がある程度奴らを退かせたら救護班が来るから……それに、お前が言いたいことは分かるよ、リブラ」
ドラクはリブラを見つめて、視線を気まずげに反らした。
「言ったと思うが、私は結婚して妻がいる」
「……うん」
サーペントに戻って後継者教育と共にすぐお見合いさせられ、妻を持ったとは聞いていた。
「彼女との間に子供が出来たんだ……すごく迷ったし悩んだけど、腹の子も妻も何一つ知らないし悪いことだってしていないんだ、だから――」
ドラクはひどく苦しそうに表情を歪ませる。
彼もリブラと同じことを何度も考えたのだろう。
「国を裏切ることは出来ない。血の契約はずっと私たちを縛るんだ、リブラ。鳥女を使役出来ると気付いてすぐに思ったんだよ? 一体でも手こずる鳥女を何体かまとめて王宮を襲わせれば、と」
ドラクは自身の命も含め一族郎党に未練などなかった。
サーペントの家に入った当初から、正妻主導で家人らからかなり酷い目に遭った。
妻を娶った後は離れに置かれた。彼女との間に子供が出来たがサーペント卿だけがそれを大いに喜んだ。
正妻も弟も卿の前では猫を被り大人しくしていたが、とうとう離れに火を付けられた。正妻の高笑いと弟の罵倒が聞こえてもうダメだと思った時に鳥女が現れたのだ。
妻は意識がなく、ドラクの記憶は曖昧だが必死に助けを呼んでいたのだと思う。
彼の声に応えるため、言葉通り飛んできたのが鳥女だった。
燃える屋敷を薙ぎ倒し、妻に覆い被さり庇っていたドラクを彼女ごと救い出すと、愉快な見世物を見るように集まっていたサーペントの者たちに次々襲いかかっていった。
屠った正妻と弟の頭だけをドラクの前に置くと、幾つかの死体を太い脚でまとめて掴んで一鳴きすると飛び去っていった。
「……頭を食えってことかよ……こんなもん食えるか」
ドラクはその場で泣いた。
家族だと期待してみれば、それを裏切られてきた。妻はそんなドラクを見下さず、優しくしてくれた唯一の人だった。
レオンとリブラは仲間で同類だ。
そしてそれ以外では――鳥女だけ。
そしてこの事実にサーペント卿は手を叩いて悦んだ。
「見事だドラク! 期待以上だ。奴らが大人しくしていたから鈴を使うまでもないと思っていたが、ここまでするとは思っていなかったのは私の落ち度だ。本邸に戻って妻と共に安心して暮らすが良い――それで? 鳥女はどうやって手なずけた?」
細い半円を描く目は笑っていない。
どこまでドラクを利用できるか、裏切ることはないか計算しているのだ。
正妻と弟がドラクを虐げていたことを彼はきっと知っていた。その上で優しい妻と娶わせたのもドラクをサーペントに縛り付けるための彼の策略であったのだろう。
そこに嬉しい誤算があったのだ。鳥女がドラクを護るために現れたことが。
ドラクは彼の言う通りにするしかない。
身重の妻を捨てることなど出来ないし、離縁したとしてサーペント卿に子供だけ取り上げられて殺される可能性が高い。連れて逃げても彼女まで契約に則り死んでしまう。
「リブラ、私は妻を守りたい。初めての、初めての人としての幸せを諦めたくない……」
「……そっ、か……」
涙を流すドラクを見上げて、リブラは意識を手放した。
* * * * *
ゾディアーク国はその後『魔物を使役し、呪いを振り撒く』という逸話を作ることに成功した。
王となったレオンは善政を敷こうと努力したが、戦ではどうしてもドラクとリブラに頼らざるを得なかった。
更にカリーナが産んだ子供が成長してハイドラの呪物である鎖鎌を使い、敵を討ち取っていく。
誰に似たのか、人を殺すことも厭わず残酷さを愉しむ青年だった。
そしてその頃リブラは仮面を付けるようになっていた。
レオンの側にいてもいなくても、これ以上歳を取らない。老化しないことに不都合が出てきた。
特に顕著なのが自身の家庭において。
リブラも妻を持ち子も産まれたが、子供は至って普通の人として産まれたらしく、ホロロジウム卿は悔しがっていたがリブラはホッとした。
少しだけ優しい時間がリブラにも与えられたのも束の間、妻はリブラに嫉妬するようになった。
「お願い、あなた。どうしてそんなに若くて美しいままなの? あなたがそんなだから、わたくしいつも不安なの。わたくしを捨てないで」
若い女に浮気するのかと縋る妻を可愛いと思えたのは一時のことで、彼女は常軌を逸していく。
「わたくしにもあなたの若さの秘密を教えて、お願い。でなければわたくし、もう耐えられない!」
彼女は追い詰められていた。
リブラは浮気したことなどないし、貴族の集まりにも出ないのに、どこで彼を見初めたか愛を綴る手紙が届くのだという。
家人には「付き合いのない家からのものは全て捨ててしまえ」と伝えてあるが、どうしてか彼女はその手紙を手に入れてしまう。
一度手紙を読んだが、リブラと愛を語り合っているのは自分であり妻ではない、などという虚言がこれでもかと書かれていた。
リブラは戦になれば長く家を空けるが、ここ十年ほどはゾディアークの呪いの軍勢だの不死の軍だのと恐れられ表面的には平和だった。
だから社交もせず家にいる。他の女と逢瀬する様子はないことを妻も分かっているはずなのに、勝手に追い詰められていく様子にリブラは頭を抱えていた。
レオンもドラクも年齢は三十を越え、男盛りで渋味が増す頃だがリブラの見た目はいつまでも若々しい青年のまま。
リブラが社交しなくとも、妻には妻の付き合いがあるということをあまり深く考えていなかったので、彼女は他家の女たちから嫉妬とやっかみと気味悪さのために心ないことを色々言われているのだと知った時には彼女の心は上辺を取り繕っているだけでヒビが入っててしまっていた。
リブラが外に出なくても、知っている人は知っている。
家人含む使用人に口の軽い者だっていた――リブラを慕い想う者も。
使用人の女が主人であるリブラと愛し合っているのだと思い込み、妻に嫌がらせを続けていたと知った時にはもう遅かった。
リブラの顔に焼けた鉄の火掻き棒を押し付けて、妻は泣きながら嗤っていた。
自身の肉の焼ける音と、焦げた臭い、熱さよりも衝撃と痛み。
リブラにはドラクのような幸せは手に入らない。
この時、諦めが彼を支配した。
レオンのおかげで傷は完治していたが、仮面を付けて過ごした。
ホロロジウム家の醜聞は、リブラが治療のため王宮に泊まり込んだことで広まった。
逆に仮面の言い訳になるとリブラは安堵していたのだが、妻は自身の仕出かしたことで完全に壊れてしまっていた。
リブラの結婚生活は破綻してしまった。
妻を心の底からとまではいかなかったが、それなりに愛していたリブラの孤独は深まっていく。
更に自身の子供の問題もあった彼は、今後についてレオンたちと相談しなければならないと溜息を吐いた。




