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第8話 賢者の都の影、動き出す過去

長い旅路の果てに、二人の目の前にその都市は姿を現した。

地平線の彼方からでも見えた白い城壁と、天を突くような高い塔。近づくにつれて明らかになるその壮大さと、整然とした美しさに、ルナは息を呑んだ。空気までもが違うように感じられる。清浄で、どこか張り詰めたような、知性の香りが漂う街。ここが、世界中の知識が集まる場所――賢者の都ソフィア。


「すごい……! ここが、賢者の都……」

ルナは感嘆の声を漏らし、きらきらとした瞳で壮麗な街並みを見上げた。希望と期待で胸がいっぱいになる。この都なら、きっと虹色の泉の手がかりが見つかるはずだ。そして、賢者エリオンにも会えるかもしれない。


しかし、隣を歩くカイの表情は、ルナとは対照的に硬かった。彼の視線は鋭く周囲を窺い、その全身からは普段以上の緊張感が漂っている。まるで、見えない敵を警戒しているかのようだ。あるいは、何か重い決意を胸に秘めているようにも見えた。

(カイさん……?)

ルナは彼の様子がいつもと違うことに気づき、一抹の不安を覚えた。この都は、彼にとって何か特別な意味を持つ場所なのだろうか。


巨大な都の門は、厳重な警備体制が敷かれていた。重厚な鎧に身を固めた衛兵たちが、鋭い視線で出入りする人々をチェックしている。ルナとカイが門に近づくと、やはり衛兵の一人がルナの猫耳と尻尾に気づき、眉をひそめて盤問してきた。

「獣人か。名は? この都に何の用だ?」

その高圧的な態度に、ルナは思わず身を竦ませた。しかし、カイが一歩前に出て、懐から折り畳まれた羊皮紙を取り出し、衛兵に提示した。衛兵はその羊皮紙を一瞥すると、驚いたように目を見開き、カイの顔を改めて見つめた。そして、先ほどまでの高圧的な態度は消え、どこか敬意すら含まれたような口調で言った。

「……失礼いたしました。どうぞ、お通りください」

カイは何も言わずに羊皮紙をしまい、ルナの手を引いて門をくぐった。


(やっぱり、カイさんはただの狩人じゃないんだ…)

あの羊皮紙は何だったのだろう? 衛兵の態度を変えさせるほどの力を持つもの。カイの過去に、ますます深い謎を感じずにはいられなかったが、今はそれを尋ねる雰囲気ではない。


都の中は、外観以上に整然としていた。白い石畳の道は塵一つなく磨かれ、道の両脇には美しい装飾が施された石造りの建物が寸分の狂いもなく立ち並んでいる。行き交う人々も、アカデミックなローブを身にまとった学者や学生が多く、皆どこか知的で、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。活気はあるものの、これまでの町で感じたような雑多な喧騒はなく、静かで、少し冷たいような空気さえ感じられる。これが、世界最高の知が集う場所の雰囲気なのだろうか。


「まずは、情報を集める場所だな」

カイは周囲を見回しながら言った。「大図書館へ行こう。そこなら、エリオンという賢者の情報も、泉に関する文献も見つかるかもしれん」

「はい!」

ルナは力強く頷いた。


ソフィアの大図書館は、都の中でもひときわ壮大で、威厳のある建物だった。まるで神殿のようなその建物に一歩足を踏み入れると、そこは静寂と、古い紙の匂いに満たされた別世界だった。天井まで届く巨大な書架が迷宮のように連なり、そこには古今東西のあらゆる書物が収められているのだろう。わずかに聞こえるのは、誰かがページをめくる音と、ペンを走らせる音だけ。まさに「知識の殿堂」という言葉がふさわしい場所だった。


二人は受付カウンターへ向かい、ルナが代表して尋ねた。

「すみません、虹色の泉に関する文献を探しているのですが…あと、エリオン先生という賢者の方の居場所をご存じないでしょうか?」

受付に座っていた、眼鏡をかけた初老の司書は、ルナの言葉を聞くと、やれやれといった表情でため息をついた。

「虹色の泉、ですか…。またその話ですか。あれはただの伝承、おとぎ話ですよ。学術的な価値は…まあ、民俗学の資料としてはあるかもしれませんがね」

そして、エリオンの名を出すと、さらに困惑したような顔になった。

「エリオン先生は…ええ、確かにいらっしゃいますが、大変な変わり者でしてね。ご自身の研究に没頭されて、滅多に外部の方とはお会いになりませんよ。特に、泉の話を持ち出すと、癇癪を起こされると評判です」

やはり、ここでも反応は芳しくない。それどころか、ソフィアの学術的な権威の前では、虹色の泉は一笑に付される類の話でしかないのかもしれない。


さらに、特定の書庫への立ち入りには特別な許可証が必要だったり、閲覧できる文献が厳しく制限されていたりと、部外者に対する壁は厚かった。ルナが持ち前の嗅覚で古い書物の匂いを辿ったり、猫のように身軽に高い書架に登って手がかりを探そうとしたりすると、すぐに別の司書に「ここではお静かに! 書架に登るなど、もってのほかです!」と厳しく注意されてしまった。


(うぅ…やっぱり難しいのかな…)

ルナが少し落ち込みかけていると、カイは冷静に別の方法で情報を集め始めていた。彼は図書館の利用規則や構造を理解しているようで、司書と粘り強く交渉したり、館内に設置された膨大な目録や掲示板を丹念に調べたりしている。その姿を見ていると、彼が特定の学術分野、特に古代史や魔法理論などに、かなりの知識を持っていることが窺えた。彼はいったい何者なのだろうか?


地道な調査と、カイの粘り強い交渉の結果、二人はようやく賢者エリオンに関するいくつかの情報を得ることができた。彼はやはり大変な偏屈者で、現在は図書館内の特定の研究室に籠っているらしいこと、そして、彼の研究テーマの一つが、やはり「古代文明と伝承における超常エネルギー」に関することであること。

「会えるかどうかは分かりませんが…」司書は困り顔で言った。「とにかく、行ってみるしかないでしょうな。ただし、追い返されても当方は関知しませんので」


司書に教えられた区画は、図書館の中でも特に古く、薄暗い場所だった。埃っぽい通路を進み、一番奥にある重厚な扉の前で、カイは深呼吸をしてから扉をノックした。

返事はない。もう一度ノックする。やはり反応はない。

「…留守、でしょうか?」ルナが不安げに言う。

「いや、中にいる気配はする」カイは鋭く言った。「開けるぞ」

カイが重い扉を押し開けると、中は想像以上に散らかっていた。床から天井まで書物や羊皮紙が山積みになり、見たこともない奇妙な道具や、得体のしれない標本のようなものが所狭しと置かれている。そして、その部屋の奥、山積みの書物に埋もれるようにして、一人の老人が座っていた。


長く伸びた白い髪と髭、鼻にかけた分厚い眼鏡、埃とシミで汚れたローブ。偏屈そうで気難しそうな顔をしているが、その鋭い瞳の奥には、深い知性と、飽くなき探求心が爛々と輝いている。この人物が、賢者エリオンに違いなかった。


エリオンは、突然の訪問者に気づくと、迷惑そうな顔で二人を睨みつけた。

「なんじゃ、お前たちは! 勝手に入るな! 何の用だ!」

「失礼します、エリオン先生」カイが冷静に名乗った。「我々は虹色の泉について、先生にお話を伺いに参りました」

「虹色の泉だと!?」エリオンは途端に顔を真っ赤にして怒鳴った。「またその手の話か! 下らん! そんなおとぎ話に構っている暇などないわ! さっさと帰れ、帰れ!」

老賢者は杖を振り回し、二人を追い払おうとする。


(やっぱり、ダメなのかな…)

ルナが諦めかけた、その時だった。

「でも、先生は泉のことを研究されているんですよね?」ルナは意を決して、一歩前に出た。「私は、どうしても泉を見つけたいんです! それがただの伝説だとしても、この目で確かめたいんです!」

ルナの純粋で真っ直ぐな瞳が、エリオンを捉える。その強い想いが伝わったのか、あるいは珍しい猫獣人の少女に興味を引かれたのか、エリオンはピタリと動きを止めた。


さらに、ルナの肩から飛び降りたポポが、部屋の隅で丸くなっていた奇妙な毛玉のような生きエリオンのペットらしいに近づき、何やら楽しげにじゃれつき始めた。その光景に、エリオンは少しだけ目元を和らげた。

そして、カイがエリオンの研究に関連するような、非常に専門的で鋭い質問を投げかけた時、エリオンの態度は明らかに変わった。

「ほう…お主、ただの狩人ではないな? 古代魔法理論を知っておるとは…面白い」

エリオンは眼鏡の位置を直し、改めて二人を見つめた。


「まあ、良いじゃろう。少しだけなら、話を聞いてやらんでもない」

エリオンはそう言うと、ようやく二人を部屋の中に招き入れた。そして、埃っぽい椅子を勧めると、ゆっくりと語り始めた。

「虹色の泉…あれは、単なる伝説ではない。わしの長年の研究によれば、あれは古代に存在した、極めて強力なエネルギーの源、あるいはその力の残滓そのものかもしれん」

エリオンの目は、学究的な興奮に輝いていた。

「問題は、その泉が常に存在するわけではないということじゃ。特定の天文学的な条件が揃った時、あるいは、古代の遺跡に残された特定の『装置』が作動した時にのみ、出現する可能性がある…あるいは、泉自身が、特定の『資格』を持つ者の前にのみ、その姿を現すのかもしれん…」


エリオンはそう言うと、山積みになった資料の中から、一枚の古びた羊皮紙の地図と、いくつかのメモ書きを取り出した。

「これは、わしが見つけた数少ない手がかりじゃ。南の大陸にある『アークレイア』と呼ばれる古代遺跡。そこに、泉への道を開く鍵があるかもしれん。だが…」

エリオンは厳しい表情になった。「その遺跡は危険じゃ。近づく者を拒む仕掛けが施され、古代の守護者も眠っておるやもしれん。そして、泉の力そのものが不安定で、人の精神に影響を与える可能性もある。行くなら、相応の覚悟が必要じゃぞ」

彼は地図とメモをカイに手渡した。具体的な場所や方法は断定できないが、これ以上の情報は望めないだろう。


「ありがとうございます、エリオン先生!」

ルナは深々と頭を下げた。大きな手がかりを得られたことに、胸が高鳴る。カイも地図とメモを受け取り、エリオンに礼を述べた。彼の表情は依然として硬かったが、その目には新たな決意が宿っているようだった。


エリオンの部屋を辞し、二人は今後の計画を話し合うために宿屋へと戻ることにした。アークレイア遺跡。そこが、次の目的地だ。

しかし、大図書館を出て、人通りの少ない裏通りに差し掛かった時だった。

突然、前方の角から、フードを深く被った数人の人影が現れ、二人の行く手を塞いだ。その者たちからは、明らかに敵意と、ただならぬ圧力が感じられた。


そして、その中の一人が、カイに向かって低い声で呼びかけた。

「……見つけたぞ、カイ・アシュフォード」


カイの名前。しかし、それはルナが知っている名前ではなかった。その名を聞いた瞬間、カイの全身から放たれる空気が一変した。鋭い殺気と、最大限の警戒。彼は咄嗟にルナを自分の背後へと庇った。

「貴様ら……なぜ俺の居場所が…」

「我々を甘く見るな、裏切り者め」フードの男は嘲るように言った。「組織は常にお前を探していた。お前がソフィアに戻ってきたことも、刻一刻と報告が上がっていたぞ」


組織…裏切り者…! ルナは息を呑んだ。やはり、カイには隠された重大な過去があるのだ。

「お前が持ち出した『アレ』を返してもらう。そして、組織への裏切りに対する、相応の罰を受けてもらうぞ、カイ」

「……断る」カイは低く言い放った。「お前たちには関係ない。失せろ」

「そうはいかん」フードの男は冷たく笑った。「あの方――ゼノン様が、直々にお前をお待ちだ。大人しく来てもらおうか」


ゼノン、という名前に、カイの表情がさらに険しくなった。強い因縁のある相手なのだろう。

睨み合うカイとフードの男たち。空気が張り詰め、一触即発の雰囲気が漂う。ルナは恐怖で体が震えるのを感じた。ポポも、相手に対して激しい威嚇の声を上げている。


フードの男たちは、ここで事を構えるつもりはないのか、あるいはカイの実力を警戒しているのか、一旦引き下がる素振りを見せた。

「今はまだ、警告だけにしておこう。だが、次はないぞ、カイ・アシュフォード。そして…」

男の視線が、カイの後ろに隠れるルナに向けられた。

「その猫娘も、お前の『弱点』にならぬよう、せいぜい気をつけることだな」

不気味な言葉を残し、男たちは闇の中へと姿を消した。


後に残されたのは、重苦しい沈黙だけだった。カイの全身からは、未だに殺気が立ち上っている。ルナは、彼の過去の深刻さと、自分たちが置かれている危険な状況を、改めて思い知らされた。


宿屋に戻る道すがら、二人の間に会話はなかった。

部屋に入り、扉を閉めた途端、カイが重い口を開いた。その声は、苦悩に満ちていた。

「ルナ……」

彼はルナに向き直った。その瞳には、深い葛藤の色が浮かんでいる。

「お前は、ここから一人でフィリア村に帰るか、あるいは別の安全な場所へ行った方がいいかもしれない」

「……え?」ルナはカイの言葉が信じられなかった。「そ、そんな…! 嫌です! カイさんを一人にできません!」

思わず叫ぶように反論する。


カイは苦しげに顔を歪め、絞り出すように語り始めた。

「俺は…カイ・アシュフォード。かつて、銀狼騎士団という組織にいた。そこで…俺は、取り返しのつかない失敗をした。多くの仲間を失い…俺は、裏切り者として組織から追われる身になったんだ…」

彼は全てを話したわけではなかったが、それでも、彼がただの狩人ではなく、重大な過去を背負い、今もなお追われ続けているという事実は、ルナに重くのしかかった。

「さっきの連中は、その時の…騎士団の者たちだ。俺と一緒にいれば、お前も必ず危険な目に遭うことになる」

カイはルナの肩に手を置き、その瞳を真っ直ぐに見つめた。

「それでも……お前は、俺と一緒に来るか?」


それは、ルナの覚悟を問う、重い問いかけだった。危険は分かっている。怖い気持ちもある。けれど――。

ルナは迷わなかった。カイの手を握り返し、強い意志を込めて彼を見つめ返す。

「行きます!」

その声は、震えていなかった。

「どこへでも、カイさんと一緒に行きます! 私も、戦います! カイさんの過去がどんなものであっても、私はカイさんのそばにいたいです!」

猫耳をぴんと立て、ルナは決意の表情を浮かべた。


カイは、ルナの力強い言葉と瞳に、一瞬、息を呑んだようだった。そして、彼女の覚悟を受け止め、深く頷いた。その瞳には、安堵と、感謝と、そしてルナへの深い信頼の色が浮かんでいた。

「…分かった。ありがとう、ルナ」


二人の間に、言葉はなくとも、確かな絆が結ばれた瞬間だった。それは、単なる恋愛感情だけではない、過酷な運命を共に乗り越えようとする、「共犯者」のような強い結びつき。


賢者エリオンから得たアークレイア遺跡への地図。そして、カイを追う組織の影。次の目的地は、虹色の泉への希望と、避けられないであろう危険が隣り合わせの場所となる。

二人は顔を見合わせ、静かに頷き合った。覚悟は、決まった。

ソフィアの街の灯りが、窓の外で静かに瞬いていた。

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