第7話 嵐の後に咲くもの
嵐が過ぎ去った後の世界は、静かだったが、同時にその爪痕を深く残していた。ルナとカイが進む街道も例外ではなく、倒れた大木が道を塞いでいたり、土砂崩れによって道が寸断されていたりする場所がいくつもあった。二人はその都度、力を合わせて障害物を乗り越え、あるいは危険な箇所を迂回しながら、ゆっくりと先へと進んでいった。
数日後、二人は嵐の被害を大きく受けたと思われる小さな村に辿り着いた。村の家々の屋根は飛ばされ、壁は崩れ、畑は泥水に覆われていた。しかし、村人たちは絶望に打ちひしがれているわけではなかった。彼らは互いに声を掛け合い、励まし合いながら、黙々と瓦礫の片付けや家屋の修復作業に取り組んでいた。その姿は痛々しくもあったが、同時に人間の持つ逞しさ、困難に立ち向かう強さを感じさせた。
「…私たちも、何か手伝えないかな?」
ルナがカイに提案すると、カイは少しだけ考える素振りを見せた後、静かに頷いた。
よそ者である二人に、村人たちは最初、警戒の色を見せた。しかし、ルナが持ち前の身軽さを活かして崩れかかった屋根に登り、瓦礫を取り除くのを手伝い始めると、その警戒心は少しずつ解けていった。ポポも小さな体で瓦礫の下から使えそうな道具を探し出しては、村人に届けたりしている。カイは黙々と、しかし力強く倒木の撤去作業を手伝い、その腕っ節の強さに村の男たちは目を見張った。
日が暮れる頃には、二人はすっかり村人たちに受け入れられていた。彼らは温かい食事と、雨露を凌げる納屋の一角を寝床として提供してくれた。
「あんたたちがいなかったら、こう早くは片付かなかったよ。本当にありがとう」
皺くちゃの顔で笑う老婆の言葉に、ルナは胸が温かくなるのを感じた。人の役に立てる喜び。それは、旅に出て初めて強く感じた感情かもしれなかった。カイも、村人たちから感謝の言葉をかけられると、少しだけ照れたような、困ったような表情を見せた。それはルナにとって、とても新鮮な光景だった。
村での復興作業を手伝いながら、あるいは再び街道に戻って次の町を目指す道中で、ルナとカイの間の空気は、以前にも増して穏やかで、親密なものになっていた。
ルナが焚き火のために重い薪束を運ぼうとすると、カイが黙って近づき、ひょいとそれを取り上げて運んでくれる。ルナがカイの腕の傷の具合を心配して「もう痛みませんか?」と尋ねると、カイは「ああ、お前のおかげで、もうほとんどな」と、少しだけ柔らかい声で答えてくれるようになった。その言葉だけで、ルナの心はぽかぽかと温かくなった。
食事の準備は、いつの間にか二人の共同作業になっていた。ルナが木の実や薬草を採集し、カイが小動物を狩る。焚き火を囲んで食事をする際には、ルナはカイの好物である甘い木の実の煮込みを、彼の分だけ少し多めによそった。カイも、ルナが食べやすいように、硬い干し肉をわざわざ小さく切り分けてくれる。そんな些細なやり取りの一つ一つが、ルナにとっては宝物のように感じられた。
ある夜、焚き火のそばでうたた寝をしてしまったルナが、寒さで目を覚ますと、自分の肩にカイの上着がそっとかけられていることに気づいた。隣を見ると、カイはいつものように見張りをしているようだったが、その横顔は月明かりの下で、どこか優しく見えた。ルナはそっと上着を握りしめ、再び眠りについた。夢の中でも、彼の温もりを感じているような気がした。
ふとした瞬間に視線がぶつかり、どちらともなく慌てて逸らしてしまう。そんなことが何度もあった。ルナは、カイに見られているかもしれないと思うと、無意識のうちに髪を手で梳いたり、服についた泥を気にしたりするようになった。カイの方も、ルナが話す時にぴくぴくと動く猫耳や、感情に合わせて揺れる尻尾を、つい目で追ってしまっている自分に気づき、内心で戸惑っているようだった。
(私、カイさんのこと、本当に好きになっちゃったんだな…)
その想いは、日増しにルナの中で確かなものになっていった。彼のそばにいられるだけで嬉しくて、彼の些細な優しさに胸が高鳴る。同時に、彼の力になりたい、彼が背負っているものを少しでも軽くしてあげたい、という気持ちも強くなっていた。
カイもまた、ルナに対する自分の感情の変化に気づいていた。最初はただの厄介な同行者、守るべきか弱い存在だったはずの少女が、いつの間にか自分の心を温め、癒し、そして強くしてくれる、かけがえのない存在になっていた。彼女の明るさ、純粋さ、そして時折見せる芯の強さ。その全てが、凍てついていた彼の心を溶かしていく。彼女を異性として意識していることは明らかだったが、その感情をどう表現すればいいのか、長い間孤独に生きてきたカイにはまだ分からなかった。ただ、彼女を守りたい、彼女の笑顔を見ていたい、という気持ちは、日に日に強くなっていた。
旅を続けながら、二人は立ち寄る町や村で、根気強く情報収集も続けていた。目的地である「賢者の都」と、ルナが探し求める「虹色の泉」について。
賢者の都については、やはり「学術都市であり、世界中の知識が集まる場所」という評判が一般的だった。古い文献や、様々な分野の賢者たちがそこにいるらしい。しかし同時に、「部外者には閉鎖的」「都の中は厳格な規則で管理されている」「特定の資格がないと入れない区域がある」といった情報も耳にした。一筋縄ではいかない場所であることは間違いなさそうだ。
虹色の泉に関しては、やはり具体的な情報はほとんど得られなかった。多くの人はそれを単なる伝説やおとぎ話として扱った。「南の大陸の、誰も行けないような奥地にあるらしい」「古代文明の遺跡と関係があるという噂を聞いたことがある」といった、曖昧な話ばかり。中には、「泉を探しに行った者は、皆、帰ってこなかった」という不吉な噂を囁く者もいた。
それでも、諦めずに聞き込みを続けるうちに、ある比較的大きな町で、有力な手がかりを得ることができた。古物商を営むという博識な老人が、二人の話を聞いて教えてくれたのだ。
「虹色の泉か…懐かしい名前じゃな。わしも若い頃は、その伝説に魅せられたもんじゃよ」老人は皺くちゃの顔で笑った。「泉そのものの場所は分からんが…賢者の都に、その泉の伝説を長年研究しておる、ちと変わり者の賢者がおるという話じゃ。名前は確か…エリオンとか言ったかな。非常に偏屈で、滅多に人に会わんらしいが、彼なら何か知っておるかもしれん」
「賢者エリオン…!」
ルナは目を輝かせ、その名前をしっかりと記憶に刻んだ。ようやく見えた、具体的な次のステップ。希望の光が見えた気がした。
「ありがとうございます!」ルナが深々と頭を下げると、隣にいたカイも、珍しく老人に向かって静かに頭を下げた。しかし、カイの表情はどこか硬いままだ。エリオンという名前に、あるいは賢者の都という場所に、彼の中で何か引っかかるものがあるのかもしれない。
情報収集の過程や、何気ない日常の会話の中で、ルナはカイの過去や彼自身の考え方に繋がるような言葉の断片を、少しずつ拾い集めていた。
フィリア村の家族の話をルナが無邪気にした時、カイがふと遠い目をして「…家族か。俺にはもう…」と寂しげに呟いたこと。
嵐の中で魔物と戦った後、「力だけがあっても、守れないものはあるんだ」と、苦々しげに言ったこと。
かつて彼が所属していたらしい「銀狼騎士団」という名前が出た時に、彼の表情が一瞬だけ険しくなったこと。
そして、ある夜、焚き火を見つめながら、「信じられるのは自分だけだと思っていた…お前と会うまでは」と、ぽつりと漏らしたこと。
それらの言葉は断片的で、全てを物語ってはくれなかったが、ルナの中で少しずつ繋がり、カイという人間の輪郭を形作っていった。彼がどれほどの喪失を経験し、どれほどの孤独と不信感の中で生きてきたのか。その強さの裏にある脆さや悲しみを垣間見るたびに、ルナの胸は締め付けられるようだった。もっと彼のことを知りたい。彼の痛みを理解し、彼の孤独を少しでも癒せる存在になりたい。ルナは強くそう願うようになっていた。
そしてルナ自身も、この旅を通して大きく成長していた。最初の頃のように、ただカイの後をついていくだけではなくなっていた。
危険な場所では、持ち前の五感と身軽さを活かして斥候役を務め、事前に危険を察知してカイに伝える。情報収集も、ただ闇雲に聞くだけでなく、相手の様子を見ながら慎重に言葉を選び、時にはカイとは別に行動して情報を補完することもあった。旅のルートについても、地図を読み解き、自分の意見をカイに伝えられるようになっていた。
何より大きな変化は、カイに対してはっきりと自分の気持ちや考えを伝えられるようになったことだ。彼が無理をしていると感じた時、例えば腕の傷がまだ完全に癒えていないのに重い荷物を持とうとしたり、疲労が溜まっているのに休息を取ろうとしなかったりする時には、ルナは真っ直ぐに彼の目を見て言った。
「カイさん、休んでください」「無理しないでください。私にできることがあれば手伝いますから」
最初は驚いたような顔をしていたカイも、今ではルナの言葉を素直に受け入れるようになっていた。
(私はもう、カイさんの足手まといじゃない。ちゃんと、隣に立って、一緒に歩いていけるようになりたいんだ!)
ルナの心の中には、そんな確かな決意が芽生えていた。カイを守りたい。彼を支えたい。そして、彼と対等なパートナーとして、この先の未来を共に歩んでいきたい。
賢者の都へと続く道は、まだ遠い。しかし、二人の間には、嵐の夜を経て、そして穏やかな日々の中で育まれた、確かな絆があった。
その日の野営地は、美しい夕焼けが見える丘の上だった。空が茜色から深い紫へと移り変わっていくのを眺めながら、二人は焚き火を囲んでいた。以前よりもずっと穏やかで、温かい空気が流れている。
「賢者の都に行ったら、エリオンさんっていう人に会えるかもしれませんね」ルナが期待を込めて言った。「そしたら、虹色の泉のことが、もっと分かるかもしれません」
「…ああ」カイは静かに頷いた。「だが、期待しすぎるな。伝説は、往々にして人の願望が作り出したものだ」
現実的な言葉だったが、その声には以前のような冷たさはなく、むしろルナの期待を壊さないようにという配慮が感じられた。そして、ほんのわずかながら、彼自身も何かを期待しているような響きも含まれているように聞こえた。
ルナは、燃える焚き火の向こうにいるカイを見つめた。そして、ずっと胸の中にあった素直な気持ちを口にした。
「私、カイさんと一緒に旅ができて、本当に良かったです」
言葉にした途端、顔が熱くなるのを感じた。
カイは、驚いたように少し目を見開き、ルナを見つめ返した。しばらくの沈黙の後、彼の口元に、はにかむような、それでいて深い感情のこもった、微かな笑みが浮かんだ。
「……俺もだ」
低く、けれどはっきりと、彼はそう呟いた。
その一言だけで、ルナの心は喜びでいっぱいになった。夕焼けの空よりも、もっともっと温かくて、キラキラしたもので満たされていくのを感じた。
未来がどうなるかは分からない。賢者の都で何が待っているのか、虹色の泉は本当にあるのか。カイの過去の影が、再び二人を脅かすことがあるのかもしれない。
けれど、今はただ、この瞬間が、この温かい気持ちが、何よりも大切で、かけがえのないものだとルナは思った。
カイと共に歩むこの旅路を、ルナは心から愛おしく感じていた。