第6話 共闘の証、重なる手
洞窟の中は、外の荒れ狂う世界とは隔絶された、静かな闇に包まれていた。時折、岩の隙間から吹き込む風の唸りや、遠くで響く雷鳴が、嵐がまだ続いていることを告げている。入り口を塞いだ岩の隙間からは、冷たい雨混じりの風が吹き込み、ルナは思わず身を縮こまらせた。
カイは壁に背を預け、目を閉じているように見えたが、その全身から発せられる緊張感は、彼が決して眠っているわけではないことを示していた。ルナは、少し離れた場所に膝を抱えて座っていたが、洞窟の冷気と、心の奥底から湧き上がる不安に耐えきれず、無意識のうちにカイのすぐそばへと身を寄せた。彼の体温が、わずかに伝わってくるような距離。カイはぴくりとも動かず、ルナが近づくことを拒絶する素振りも見せなかった。
肩の上で眠っていたポポが、小さく身じろぎしてルナの腕の中に顔をうずめる。その小さな温もりが、ルナの心を少しだけ和ませた。
二人の間に会話はない。けれど、先ほどまでの死闘と、それを共に乗り越えたという事実が、言葉以上の繋がりを二人の間に生み出していた。嵐の中のこの閉鎖された空間で、沈黙はもはや気まずいものではなく、むしろ互いの存在を確かめ合うための、静かで濃密な時間のように感じられた。
ルナは、隣にいるカイの横顔をそっと盗み見た。いつもは感情を読み取らせない彼の顔に、今は隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。そして、それだけではない、何か深い苦悩のような影も…。先ほどの戦闘で負った腕の傷が痛むのだろうか。それとも、何か別のことを考えているのだろうか。
不意に、カイが顔をしかめ、小さく呻いた。そして、無意識にか、傷を負った左腕を右手で庇うような仕草を見せた。
ルナの猫の目は、暗がりの中でもその動きを捉えていた。そして、彼の服の袖が、先ほどよりも濃く濡れている――血が滲み続けていることに気づいた。
「カイさん…! やっぱり、腕、ひどいんじゃ…?」
ルナの声に、カイは僅かに目を開けたが、すぐにまた閉じてしまった。
「…たいしたことはない」
掠れた声で、彼はそう答えようとした。しかし、その声には痛みを堪える響きが含まれている。
「そんなことないです! 血が、止まってない…! 見せてください!」
ルナは強い口調で食い下がった。もう、彼に遠慮している場合ではない。このまま放っておけば、傷が悪化してしまうかもしれない。
カイはしばらく黙っていたが、ルナの真剣な眼差しと、出血が続いているという現実に、観念したように小さく息を吐いた。そして、重い腕をゆっくりと持ち上げる。
ルナは慌てて自分の荷物を引き寄せ、明かりの代わりになるような光る苔(あるいは予備の松明に火をつけ)、そして薬草と清潔な布を取り出した。
カイが渋々捲り上げた袖の下から現れた傷は、ルナが思ったよりも深く、痛々しかった。魔物の爪で引き裂かれたであろう傷口からは、まだじわじわと血が滲み出ている。ルナは息を呑み、自分の手当てで大丈夫だろうかと一瞬不安になったが、すぐに首を振った。自分がしっかりしなければ。
「し、沁みるかもしれませんけど、我慢してくださいね…!」
ルナは震える手で、水筒の水で濡らした布を使い、慎重に傷口の周りの汚れを拭き取っていく。次に、村で教わった止血と化膿止めの効果がある薬草を、指先で丁寧にすり潰し、傷口にそっと押し当てた。カイの体がびくりと強張り、抑えた呻き声が漏れる。
「ご、ごめんなさい!」
「…いや、続けろ」
カイは短く言うと、再び目を閉じた。
ルナは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、薬草の上から清潔な布をきつく、しかし腕を締め付けすぎないように注意しながら巻いていく。
手当てをしている間、二人の距離は驚くほど近かった。ルナの亜麻色の髪が、時折カイの頬を掠める。彼の少し荒い息遣いが、すぐ耳元で聞こえた。ルナは自分の心臓がドキドキと音を立てているのを感じながらも、手元の作業に集中しようと努めた。この人の役に立ちたい。少しでも、彼の痛みを和らげたい。その一心だった。
ようやく手当てが終わる頃には、ルナの額には汗が滲んでいた。
「…これで、少しは…」
顔を上げると、カイがじっとこちらを見つめていることに気づいた。その瞳には、いつものような冷たさではなく、戸惑いと、そして何か温かいものが揺らめいているように見えた。
「…助かった」
ぽつりと、カイが呟いた。
「いえ…! 私にできるのは、これくらいしか…」
ルナは慌てて首を振る。そんなルナの様子を見て、カイの口元がほんの僅かに、本当に僅かに緩んだ気がした。
洞窟の中に、再び静寂が戻る。けれど、それは先ほどまでの静寂とは少し違っていた。共有した痛みと、ルナの温かい手当てが、二人の間にあった見えない壁を、また一つ溶かしたようだった。
しばらくして、カイがぽつり、ぽつりと語り始めた。それは、手当てを受けたことへの返礼なのか、それともこの静かな闇がそうさせたのか、ルナには分からなかった。
「俺は…昔、守れなかったものがある」
その声は低く、静かだったが、深い後悔の色を帯びていた。
「仲間だった。信じていた奴らだ。だが…俺が弱かったせいで、俺の判断が甘かったせいで…そいつらを、失った」
言葉は断片的だった。けれど、彼がどれほど重いものを背負ってきたのか、その一端が痛いほど伝わってくる。
「だから、強くならなければならなかった。誰にも頼らず、一人で生きていくために。二度と…何も奪われないように…」
狩人になったのは、そのためだと彼は言った。あるいは、それは贖罪のつもりだったのかもしれない、と。
ルナは、ただ黙ってカイの言葉に耳を傾けていた。同情の言葉も、慰めの言葉も、軽々しく口にすることはできなかった。ただ、彼の隣で、彼の痛みを、彼の孤独を、静かに受け止めたいと思った。彼女の存在そのものが、彼にとって僅かながらでも癒やしになることを願って。
カイが語り終えると、洞窟の中には再び重い沈黙が訪れた。外の嵐の音だけが、変わらず響いている。
ルナは、そっと手を伸ばした。そして、迷いながらも、カイの、傷を負っていない方の手に、自分の手をそっと重ねた。
カイの肩が、驚きで微かに震えた。彼がハッとしたようにルナを見る。その瞳には、驚きと、戸惑いと、そして今まで見たことのないような、揺らぎが見えた。
(拒絶されるかもしれない)
ルナは一瞬、手を引っ込めようかと思った。けれど、カイは意外にも、その手を振り払わなかった。それどころか、まるでルナの温もりを確かめるかのように、僅かに、本当に僅かに、指先に力を込めたような気がした。
ルナは何も言わなかった。ただ、真っ直ぐな翠色の瞳で、カイを見つめ返した。言葉はいらない。ただ、伝えたかった。「あなたは一人じゃない」と。その想いが、この重なった手を通して、彼に届けばいいと、そう願った。
カイの硬い表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。彼が長い間抱えてきた孤独の氷が、ルナの純粋な温かさによって、ほんの少しだけ溶け始めた瞬間だったのかもしれない。
そばで見ていたポポが、二人の間で「きゅぅ」と小さく、優しい鳴き声を上げた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
外で荒れ狂っていた風雨の音が、いつの間にか弱まっていることに気づいた。雷鳴も遠のき、魔物の気配も感じられなくなっている。
カイがゆっくりと立ち上がり、慎重に洞窟の入り口を塞いでいた岩を少しだけ動かして、外の様子を窺った。
「…嵐は、過ぎたようだ」
カイの言葉に、ルナも立ち上がって彼の隣に立った。洞窟の外には、夜明けの光が差し込み始めていた。空はまだ厚い雲に覆われていたけれど、激しい嵐は確かに去り、世界は静けさを取り戻していた。空気は雨に洗われて澄みきり、土と濡れた草の匂いがする。
洞窟内に差し込む朝の光が、まるで希望の光のように、二人を照らした。
二人は顔を見合わせた。言葉はなかったけれど、共に危機を乗り越え、特別な夜を過ごしたことによる、確かな絆がそこにはあった。昨日の夜までの二人とは、何かが明らかに違っている。穏やかで、少しだけ照れくさいような空気が、二人の間に流れていた。
「…よかった」
ルナが安堵の息をつくと、カイも静かに頷いた。
簡単な朝食をとり、カイの傷の具合を改めて確認し、荷物をまとめる。洞窟を出る準備が整った。
「行くぞ」カイが先に立ち、洞窟の外へと歩き出す。ルナもその後を追おうとした時、カイが振り返って言った。
「…大丈夫か? 無理はするなよ」
それは、彼なりの不器用な優しさだった。
「はい! カイさんこそ、腕、痛みませんか?」
ルナが心配そうに尋ねると、カイは「ああ、問題ない」と短く答えたが、その声は以前よりもずっと柔らかく聞こえた。
洞窟を出て、再び街道へと戻る。嵐の爪痕は至る所に残っていたが、朝の光の中では、それすらもどこか清々しく感じられた。
二人は、自然と以前よりも少しだけ近い距離で歩いていた。時折、視線が絡み合い、どちらともなく慌てて逸らす。そんな仕草に、ルナは自分の頬が熱くなるのを感じた。
(私、カイさんのこと……)
この感情が何なのか、ルナはもう気づいていた。それは、ただの尊敬や信頼だけではない、もっと温かくて、切なくて、胸がドキドキするような気持ち。カイへの恋心。それをはっきりと自覚した瞬間だった。
カイもまた、隣を歩くルナの存在を、以前とは違う形で意識していた。守るべき、か弱い存在。それだけではない。自分を理解し、支え、そして心を温めてくれる、かけがえのない存在。その感情にまだ名前はつけられなかったけれど、彼女がそばにいることが、今の彼にとっては何よりも心地よかった。
嵐は去った。しかし、世界に起こっている異変が終わったわけではないだろう。賢者の都を目指す旅は、まだ続く。深まった絆を胸に、そして互いへの新たな想いを秘めながら、二人は次なる目的地へと、確かな一歩を踏み出した。