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第5話 忍び寄る嵐、不穏な調べ

カイと共に旅を続けることになったルナは、次の中継地点となった町で数日間の休息をとっていた。クォーツよりも少し大きなその町は、様々な品物を扱う市場が活気に満ち、旅人向けの宿や酒場も充実していた。


これまでの緊張感あふれる道中とは違い、ここでは比較的穏やかな時間が流れた。ルナはカイと一緒に市場を歩き回り、食料や旅に必要な小物を買い揃えた。以前ならカイに遠慮して、なかなか自分の欲しいものを言い出せなかったルナだが、今は「カイさん、この木の実美味しそう!」「この布、傷の手当てに使えそうじゃない?」と、自然に話しかけられるようになっていた。カイの方も、相変わらず口数は少ないものの、ルナが重そうな荷物を持とうとすると黙って代わりに持ってくれたり、市場の店主との交渉で不当な値段を吹っかけられないようにさりげなく助け舟を出してくれたりした。


宿屋での食事の時も、ルナはカイが黙々と食べる姿を観察し、彼がどうやら少し甘い味付けのものを好むらしいことや、特定の苦い野菜を避けていることに気づいた。それからは、食事の際にはそっとカイの皿に甘い木の実の煮込みを多めによそったり、苦手そうな野菜を取り分けたりした。カイは特に何も言わなかったが、ルナの気遣いを拒むことはなかった。


ある日の午後、宿屋の近くの広場で、ルナが猫じゃらしで子供たちと遊んでいると(猫の本能には抗えなかったのだ)、少し離れた場所からカイがその様子をじっと見ているのに気づいた。視線が合うと、カイはふいと顔を背けてしまったが、その横顔がほんの少しだけ和らいで見えたのは、きっと気のせいではないだろう。


そんな風に、二人の間には以前よりもずっと打ち解けた、穏やかな空気が流れるようになっていた。ルナはこの旅が、ただ辛いことばかりではない、楽しい瞬間もあるのだと感じ始めていた。


しかし、その平穏な日々の裏で、ルナは町の人々の間で交わされる不穏な噂を、何度も耳にするようになっていた。

「おい、聞いたか? 最近、どうも天気がおかしいらしいぜ」

「ああ、南の方じゃ、いきなり竜巻が起こったとか…」

「それだけじゃねえ。森の奥で、見たこともないような凶暴な魔物が出たって話だ」

「街道を旅してた商人が、何人か行方不明になってるって噂も…」


酒場の隅で、市場の片隅で、そんな囁き声が交わされていた。最初はただの噂話だと聞き流していたルナだったが、あまりに頻繁に耳にするため、次第に不安が胸をよぎるようになる。

「カイさん、大丈夫かな…?」

心配そうに尋ねるルナに、カイは「噂は噂だ。だが、注意は必要だな」と、いつものように冷静な口調で答えた。しかし、彼の瞳の奥には、普段以上の警戒の色が宿っているのをルナは見逃さなかった。


そして、ルナの肩の上で丸くなっているポポも、時折、特定の方向の空や地面を見つめて、くんくんと鼻を鳴らしたり、不安げに小さく唸ったりすることが増えていた。ポポは言葉では説明できない何かを、敏感に感じ取っているようだった。


数日間の休息と準備を終え、二人は再び賢者の都を目指して町を出発した。街道は広大な平原を貫くように伸びている。遮るもののない、どこまでも続くような景色。しかし、その開放感が、今はむしろ不安を掻き立てた。


歩き始めて数時間経った頃だろうか。それまで穏やかだった空模様が、急速に変化し始めた。空はみるみるうちに暗い鉛色に変わり、地平線の彼方から、まるで巨大な生き物のように、不気味な赤黒い雲が湧き上がってきた。風は生ぬるく、鉄錆のような、あるいは腐った土のような奇妙な匂いを運んでくる。


「…なんだか、変な感じがするにゃ」

ルナの猫耳が、不安げにぴくぴくと動く。空気が重く、肌にまとわりつくようだ。

その時、空を飛んでいた鳥たちが、一斉にけたたましい鳴き声を上げ、狂ったようにある方向へと飛び去っていった。地面を見れば、小さなネズミや兎のような動物たちも、巣穴から飛び出し、パニックになったように同じ方向へと駆けていく。まるで、目に見えない何かに追われているかのようだった。


そして、それまで聞こえていた風の音や虫の声が、ぴたりと止んだ。世界から音が消えたような、不自然なほどの静寂が訪れる。重苦しい空気が、胸を圧迫する。


「来るぞ…」

隣を歩いていたカイが、低く呟いた。彼の表情は険しく、鋭い視線が周囲を素早く探っている。腰の剣の柄に、自然と手が伸びていた。

ルナもごくりと唾を飲み込み、カイの隣にぴったりと身を寄せた。ポポもルナの肩の上で毛を逆立て、周囲を警戒している。


次の瞬間、世界が一変した。

ゴオオオオッ!という凄まじい轟音と共に、猛烈な風が吹き荒れた。立っているのも困難なほどの暴風が、砂塵を巻き上げながら二人を襲う。空からは、雨粒というより氷の塊に近いような、大粒の雹が容赦なく叩きつけられた。視界は一瞬にして奪われ、数メートル先も見通せない。


「きゃあっ!」

ルナは思わず顔を覆ってうずくまった。体が飛ばされそうだ。

ドォォン! バリバリバリッ!

耳をつんざくような雷鳴が轟き、すぐ近くの地面に、青白い閃光が突き刺さった。焦げ臭い匂いが鼻をつく。


「ぼやぼやするな! 死にたいのか!」

カイの怒声が、嵐の轟音にかき消されずにルナの耳に届いた。ハッと顔を上げると、カイが険しい表情でルナの腕を掴んでいた。

「こっちだ! 近くに洞窟があったはずだ!」

カイは即座に状況を判断し、最も安全と思われる避難場所へと走り出した。ルナは必死でその腕にしがみつき、転ばないように足をもつれさせながら後を追う。


しかし、嵐は容赦なく二人を打ちのめした。風と雹に行く手を阻まれ、思うように進めない。そんな二人の前に、新たな脅威が現れた。

「グルルルアアアァァッ!」

嵐の中から、複数の獣の咆哮が響いた。それは、以前森で遭遇した魔物よりも、さらに大きく、凶暴な気配を漂わせている。嵐に乗じて、あるいは嵐そのものに引き寄せられるように、魔物の群れが姿を現したのだ。その目は赤く充血し、明らかに異常な興奮状態にあった。


「ちっ…! このタイミングでか!」

カイは忌々しげに舌打ちすると、ルナを自分の背後に庇い、剣を抜き放った。

「ルナ! あの岩陰に隠れてろ! 絶対に出てくるな!」

カイはそう叫ぶと、襲い来る魔物の群れへと単身躍りかかった。


カイの剣捌きは、以前見た時よりもさらに鋭く、激しかった。嵐の中でもその動きは洗練されており、最小限の動きで魔物の攻撃をかわし、的確に急所を切り裂いていく。一撃一撃が重く、力強い。普段の無愛想で物静かな姿からは想像もつかないほどの、荒々しいまでの戦闘スタイル。それが、彼の本気の戦い方なのだとルナは悟った。


それでも、相手は数が多い。次から次へと襲いかかってくる魔物に、カイも次第に消耗していくのが分かった。息が上がり、動きに僅かながら遅れが見え始めている。


(私が、何か…!)

ルナは岩陰に隠れながら、震える手で自分の荷物を探った。直接戦う力はない。でも、何かできることがあるはずだ。足手まといでいるわけにはいかない。カイさんの役に立ちたい!


「カイさん、右! 右からもう一体来ます!」

ルナは猫の目で、嵐と闇の中でも魔物の動きを捉え、カイに叫んだ。カイはルナの声に反応し、迫っていた魔物の爪を紙一重でかわす。

「後ろ! 回り込もうとしてます!」

ルナの声が、カイの死角を補う。


さらにルナは、夜間の戦闘を想定して用意していた松明を取り出し、火打石で必死に火をつけた。幸い、岩陰は風雨を少しだけ遮ってくれた。燃え上がった松明の明かりが、カイの周囲をいくらか照らし出す。

「ポポ! カイさんが落とした矢、拾える?」

ポポは心得たとばかりに素早く駆け出し、地面に落ちていた矢を咥えてカイの足元まで運んだ。


カイは戦いながらも、ルナの的確なサポートに気づいていた。彼は短い指示を飛ばす。

「ルナ、もっと光を! 左だ!」

「ポポ、邪魔だ、下がれ!」

二人の間に、戦闘の中での連携が生まれつつあった。


その時、一体の魔物がカイの防御をかいくぐり、その爪がカイの腕を浅く引き裂いた。

「カイさん!」

ルナは悲鳴を上げた。カイは構わず魔物を斬り伏せたが、腕からは血が流れている。

ルナは咄嗟に、持っていた清潔な布と薬草を取り出した。今は近づけない。でも、チャンスがあればすぐに手当てをしなければ。


カイとルナの連携、そしてカイ自身の圧倒的な戦闘能力によって、魔物の数は少しずつ減っていった。しかし、嵐は依然として猛威を振るい続けている。


「行くぞ、ルナ! 洞窟はもうすぐだ!」

カイは最後の魔物を仕留めると、再びルナの手を掴んで走り出した。腕の傷のことなど、まるで気にしていないかのように。


そして、ようやく、風雨を避けられる岩壁の窪み、洞窟の入り口らしき場所に辿り着いた。二人は息を切らして洞窟の中に転がり込む。カイはすぐに動けるだけの岩をいくつか運び、入り口を塞いで風雨の吹き込みを少しでも和らげた。


「はぁ…はぁ…」

洞窟の中は暗く、湿っていたが、外の暴風雨とは比べ物にならないほど安全に感じられた。ルナはようやく人心地つき、その場にへたり込んだ。カイも壁に背を預け、荒い息をついている。彼の腕からは、まだ血が流れ続けていた。

ポポは疲れた様子で、ルナの腕の中に潜り込み、丸くなって動かなくなった。


外からは、まだ風の唸りや雨の叩きつける音、そして遠くで魔物の咆哮のようなものが聞こえてくる。脅威はまだ去ってはいない。

カイは休む間もなく、洞窟の入り口付近に立ち、外の様子を窺い始めた。その背中は張り詰め、警戒を解いていない。ルナも緊張が解けず、カイのそばから離れられなかった。


狭く、暗い洞窟の中。外の荒れ狂う天気とは対照的な、奇妙な静寂。二人の間に会話はない。しかし、共に死線を乗り越えたことで生まれた、言葉を超えた一体感が、確かにそこにはあった。ルナは、荒い息をつきながらも警戒を続けるカイの横顔を見つめた。


その横顔に、普段は見せないはずの深い疲労の色と、それだけではない、何か別の感情――苦悩のような、あるいは遠い過去を見つめるような、そんな複雑な影が僅かに滲んでいるのを、ルナは見てしまった気がした。

(カイさん……?)

彼が一体、何を抱えているのか。ルナは何か声をかけたいと思ったが、どんな言葉をかければいいのか分からず、ただ黙って彼の背中を見つめることしかできなかった。


嵐の中の長い夜は、まだ始まったばかりだった。

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