第4話 狩人の背中、旅人の心得
翌朝、ルナはまだ薄暗いうちに目を覚ました。硬いベッドのせいか、それとも緊張のせいか、あまり熟睡はできなかった。窓の外を見ると、朝靄が町全体を覆っている。約束の時間までまだ少し間があったが、いてもたってもいられず、ルナはポポを肩に乗せて宿を出た。
町の門へと向かう足取りは、期待と不安で少しだけ震えていた。
(カイさん、本当に来てくれるかな…?)
昨日の別れ際の言葉は信じたいけれど、彼の気まぐれさや、自分を厄介者だと思っているかもしれないことを考えると、不安が完全に消えるわけではなかった。
門の前にはまだ人影はまばらだった。ルナは門の脇に立ち、カイが現れるのをじっと待つ。肩の上のポポも、そわそわと落ち着かない様子で尻尾を揺らしている。時間が経つのがやけに遅く感じられた。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
約束の時間が近づくにつれ、門を出入りする人の数が増えてきた。その一人一人にカイの姿を探してしまう。もしかしたら、やっぱり来ないのかもしれない。そんな弱気な考えが頭をよぎり始めた、その時だった。
朝靄の中から、すっと一つの人影が現れた。見慣れた、旅慣れた服装。背には弓と荷物、腰には剣。そして、感情を読み取らせない、涼やかな横顔。
「カイさん!」
思わずルナの声が弾んだ。カイは時間ぴったりに、まるでそれが当然であるかのように、そこに立っていた。
彼はルナを一瞥し、小さく頷くだけだった。
「行くぞ」
短くそれだけ告げると、彼は昨日と同じように、さっさと門の外へと歩き出す。
「あ、待ってください!」
ルナは慌てて駆け寄り、その背中に向かって叫んだ。
「あの、昨日は本当にありがとうございました! それから、今日も…! よろしくお願いします!」
深々と頭を下げる。
カイは振り返りもせずに、歩きながら言った。
「足手まといになるなと言ったはずだ」
相変わらずの塩対応。けれど、不思議と昨日のような冷たさは感じなかった。むしろ、それが彼なりのコミュニケーションなのだと、ルナは少しだけ理解し始めていた。
(大丈夫、今日はちゃんとついていくから!)
ルナは心の中で呟き、カイの少し先を行く背中を、しっかりと見据えて追いかけた。
町を出て街道を進み始めると、カイは時折立ち止まり、ルナに声をかけるようになった。ただし、それは世間話などではなく、もっぱら旅に必要な知識、サバイバル術に関するものだった。
「そこの地面を見ろ」
カイが指さした場所には、いくつかの動物の足跡が残っていた。
「これは昨日の夜通った鹿の跡だ。まだ新しい。近くにいるかもしれん」
「こっちは…ゴブリンの可能性がある。複数いるな。この足跡を見たら、迂闊に近づくな」
カイは足跡の形や深さ、間隔などから、驚くほど多くの情報を読み取っていく。ルナは猫の目で一生懸命地面を見つめ、カイの説明を聞きながら足跡の違いを覚えようとした。最初はどれも同じに見えたが、カイに言われて注意深く観察すると、確かに微妙な違いがあることが分かってきた。
道端に生えている植物についても、カイは足を止めて説明した。
「その赤い実は毒だ。見た目が綺麗でも、絶対に口にするな」
「この葉は傷によく効く。だが、よく似た毒草もあるから、この模様をよく覚えておけ」
彼は実際に葉を摘み取り、ルナに見せながら簡潔に特徴を教える。ルナは村で習った薬草の知識と照らし合わせながら、必死に記憶に刻みつけようとした。時には、肩の上のポポがくんくんと匂いを嗅ぎ、「コレ、イイニオイ!」「コレ、クサイ!」などと教えてくれることもあり、それが意外なヒントになったりもした。
水の確保についても、カイは実践で示した。
「こういう地形の場所には、湧き水があることが多い。だが、そのまま飲むのは危険な場合もある」
彼は近くの小川を見つけると、砂と小石、そして布を使って簡単な濾過装置を作り、水を浄化してみせた。その手際の良さに、ルナはただただ感心するばかりだった。
さらに、小動物を捕らえるための簡単な罠の仕掛け方も教えてくれた。木の枝と蔓を使い、あっという間に巧妙な罠を作り上げるカイ。
「むやみに生き物を殺すな。だが、食料が尽きた時のために、覚えておけ」
ルナも見よう見まねで挑戦してみるが、なかなか上手く形にならない。
火のおこし方も、改めて基礎から教わった。火打石と火口の使い方、湿った薪でも火をおこすためのコツ。カイはほとんど何も言わず、ただ黙々とやって見せるだけだ。
「見て覚えろ」「自分で考えろ」
それが彼の基本的なスタンスらしかった。ルナは質問したくても、その真剣な横顔と、時折向けられる鋭い視線に、なかなかタイミングを掴めずにいた。
「私、全然ダメだにゃ……」
何度目かの失敗に、ルナは思わず弱音を漏らした。すると、カイは一瞬だけルナの方を見て、言った。
「最初からできる奴はいない。諦めずに繰り返せ」
ぶっきらぼうな口調だったが、それは紛れもない励ましの言葉だった。ルナは顔を上げ、カイを見つめる。彼はもう前を向いて歩き始めていたが、その言葉だけで、ルナの心は少し軽くなった。
(うん、頑張ろう!)
カイが少しだけ、先生のように思えてきた。
森を抜け、道は緩やかな丘陵地帯へと差し掛かった。視界が一気に開け、見渡す限り緑の丘と青い空が広がっている。フィリア村の周りとは全く違う、どこまでも続く広大な景色。強い風が草を揺らし、ルナの髪と尻尾をなぶっていく。
「わぁ……! 広い……!」
ルナは思わず感嘆の声を上げた。体の奥底から、何か大きな力が湧き上がってくるような感覚。これこそ、自分が旅に出て見たかった景色の一つだった。
その感動に背中を押され、ルナは勇気を出してカイに話しかけてみた。
「カイさんは、ずっと狩人をしてるんですか?」
「……」カイは少しの間黙っていたが、「まあな」と短く答えた。
「どうして狩人に? 何か、きっかけとか…」
「……お前には関係ない」
やはり、自分のことになると口が重くなるようだ。それでも、完全な無視ではなく、一応は聞いている素振りを見せてくれるだけ、以前よりは進歩かもしれない。
ルナはめげずに、今度は自分のことを話してみた。
「私は、フィリア村っていう、森の中の小さな村で育ったんです。猫獣人の村で、とっても綺麗で、みんな優しいんだけど…でも、外の世界が見てみたくて」
「それで、虹色の泉を探してるんです! 伝説かもしれないけど、見たら何か、すごく大切なことが分かる気がして!」
ルナが夢中で話している間、カイは黙って前を向いたまま歩いていた。けれど、ルナが「虹色の泉」という言葉を口にした時だけ、彼の眉がほんの僅かにぴくりと動いたのを、ルナは見逃さなかった。やはり、彼は何か知っているのかもしれない。
「カイさん、知ってること、ある?」ポポがルナの肩から、カイに向かって問いかける。
カイはちらりとポポに視線を向けたが、「…さあな」とだけ答えると、また口を閉ざしてしまった。
(やっぱり、簡単には教えてくれないか…)
ルナは少し残念に思ったが、焦らないことにした。いつか、カイが話してくれる時が来るかもしれない。そう信じて、今はただ、彼から学べることを吸収しようと思った。
その日の夜は、街道から少し離れた、小高い丘の上で野営することになった。
カイは驚くほど手際よく野営の準備を進めた。まず、風向きと地形を考慮して最適な場所を選び、素早く焚き火をおこす。次に、周囲に簡単な見張り用の結界のようなものを張った。それは魔法とは少し違う、狩人独自の技術のようだった。ルナも教わったことを思い出しながら、一生懸命に薪を集めて手伝う。
簡単な食事を摂りながら、焚き火の暖かさに身を委ねる。頭上には、昨日よりもさらに多くの星が輝いていた。まるで、手が届きそうなほど近くに見える。昼間の広大な景色もすごかったけれど、この満天の星空も、息をのむほど美しかった。
静かな時間が流れる中、珍しくカイの方から口を開いた。
「この先の地域は、最近魔物の活動が活発になっているらしい。昼間見たゴブリンの足跡もそうだが、もっと厄介な奴らも出るという話だ」
その声は低く、真剣だった。
「特に夜間は、魔物だけでなく夜盗も出る。大きな町以外では、決して一人で行動するな」
それは明らかに、ルナに向けられた具体的な忠告だった。ルナは背筋を伸ばし、真剣な表情で頷く。
そして、カイは少し間を置いてから、続けた。
「…お前が探している虹色の泉だが」
ルナは息を呑んでカイの言葉を待った。
「もし本当に見つけるつもりなら、まずは南の大陸にある『賢者の都』を目指すのが定石だろうな。古い伝承や文献が、世界で最も多く集まっている場所だと言われている」
「賢者の都…!」
ルナは目を輝かせ、持っていた地図の余白に、震える手でその名前を書き込んだ。初めて聞く具体的な地名。旅の目標が、少しだけはっきりと見えてきた気がした。
「ありがとうございます、カイさん!」
「…ただし」カイは付け加えることを忘れなかった。「泉が存在するという保証は何もない。あくまで、可能性の話だ」
「はい、分かってます!」
それでも、ルナの心は希望でいっぱいだった。
カイはそれ以上、泉についても、賢者の都についても語らなかった。そして、自分の過去や、なぜこの旅をしているのかについても、一切触れなかった。ルナがそれとなく探るような質問をしても、「お前には関係ない」の一言で、巧みにはぐらかされてしまう。彼の心には、まだ厚い壁があるようだった。
それでも、焚き火を囲むこの静かな時間は、ルナにとって心地よいものだった。カイとの距離が、ほんの少しだけ縮まったような気がしたからだ。彼のぶっきらぼうな言葉の中にも、不器用な優しさや気遣いが感じられるようになっていた。彼の過去が、ますます気になってしまうけれど。
それから数日間、二人の旅は続いた。
ルナは少しずつ旅に慣れ、カイに教わったことを実践するようになっていた。以前はただカイの後をついていくだけだったのが、自分から周囲の気配を探ったり、ポポと協力して食べられる植物を見つけたりするようになった。
ある日の午後、ルナはカイに教わった簡単な罠を仕掛けてみた。そして、しばらくして見に行くと、なんと、食用になる小鳥が一羽、罠にかかっていたのだ。
「やった! カイさん、見てください! 私、捕まえられました!」
ルナは興奮して、捕まえた小鳥をカイに見せる。猫耳と尻尾が、喜びでぴくぴくと動いていた。
カイは獲物を見て、「…まあ、悪くない」と素っ気なく言った。けれど、その口元に、ほんの一瞬だけ、微かな笑みが浮かんだのを、ルナは見逃さなかった。
(カイさん、今、笑った…?)
すぐにいつもの無表情に戻ってしまったが、ルナの胸は温かいもので満たされた。認められた気がして、とても嬉しかった。
また別の日、ぬかるんだ斜面でルナが足を滑らせ、転びそうになった時があった。「わっ!」と声を上げた瞬間、目の前にカイの手が差し伸べられた。咄嗟にその手を掴むと、力強く引き上げられる。
「…気をつけろ」
カイはすぐに手を引っ込め、何事もなかったかのように前を向いてしまったが、その行動は明らかに以前の彼とは違っていた。以前なら、きっと無視するか、せいぜい「邪魔だ」と舌打ちするくらいだっただろう。
ルナは自分の胸の鼓動が少し速くなっているのを感じながら、「あ、ありがとうございます…」と呟いた。
カイの中で、何かが少しずつ変わり始めているのかもしれない。そして、それはルナ自身の変化とも関係があるのかもしれない、とルナは思った。自分はもう、ただ守られるだけの存在じゃない。カイの役に立てることもあるのだと、少しだけ自信が持てるようになっていた。
数日間の旅を経て、目的としていた次の中継地点の町が、丘の向こうに見えてきた。クォーツよりも少し大きな、活気のある町のようだ。
カイが足を止め、町を指さした。
「あそこが次の町だ」
その言葉に、ルナの心臓がどきりとした。ここでまた、別れを告げられるのだろうか?
「カイさんは…」ルナは恐る恐る尋ねた。「この先も、賢者の都の方向へ行くんですか?」
カイはしばらくの間、黙って町を見つめていた。ルナは息を詰めて彼の返事を待つ。
やがて、カイは視線をルナに戻さずに、静かに言った。
「……まあ、しばらくは同じ方向だ」
その言葉に、ルナは心の底からホッとした。まだ一緒に旅を続けられる。その事実が、何よりも嬉しかった。
カイがなぜ同行を続けるのか、彼の本当の目的は何なのか、まだ分からないことだらけだ。それでも、今はただ、この無愛想で、強くて、そして時々優しい狩人の隣を歩いていけることが、ルナにとっては何よりの希望だった。
二人の関係は、まだ始まったばかり。この先の旅で、何が待ち受けているのか。ルナは隣を歩くカイの横顔を盗み見ながら、期待と少しの不安を胸に、新たな町へと続く道を歩き始めた。