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第2話 森の出会いは無愛想な狩人

フィリア村を出て初めての夜は、想像していたよりもずっと心細いものだった。

日が落ちると、森は急速に闇の色を濃くしていく。ルナがなんとか見つけた小さな窪地に身を寄せ、慣れない手つきで起こした焚き火だけが、頼りないオレンジ色の光を投げかけていた。パチパチと木のはぜる音。それ以外には、時折遠くで響く知らない獣の声や、絶え間なく聞こえる虫の音、そして風が木々を揺らすざわめきだけが、深い静寂を破っていた。


見上げれば、巨大な木々の枝が複雑に絡み合い、空を覆い隠している。暗闇の中、そのシルエットがまるで不気味な生き物のようにうごめいて見えた。風が吹くたび、木の葉が擦れる音に、ルナの猫耳はぴくりと反応し、肩が小さく跳ねる。ぴんと伸ばしていたはずの尻尾も、今は不安げにだらりと垂れていた。


「…怖いね、ポポ」

腕の中に抱いた相棒に囁きかけると、ポポも小さく震えながら「コワイ…」と呟いた。白いふわふわの毛並みに顔をうずめると、少しだけ温かさが伝わってくる。ルナはポポを抱きしめ、「大丈夫だよ。私がついてるから」と、自分自身に言い聞かせるように言った。


持ってきた保存食の干し肉を齧るが、緊張と心細さであまり喉を通らない。フィリア村の家で食べた、母さんの温かいスープの味が恋しかった。父さんの大きな背中、長老の優しい眼差し、友達の屈託のない笑顔…。思い出せば思い出すほど、胸がきゅっと締め付けられる。涙が滲みそうになるのを、ぐっと堪えた。


(…泣かない。自分で決めたんだから)


それでも、ふと空を見上げると、木々の隙間から驚くほどたくさんの星が見えた。フィリア村から見る夜空とは比べ物にならないほどの、圧倒的な星の数。キラキラと瞬く無数の光は、まるで宝石を散りばめたようだ。


「広い世界って、こういうことなのかな…。綺麗だけど…やっぱり、ちょっと怖いかも…にゃ」


長い夜だった。ほとんど眠れないまま、焚き火が消えないように薪をくべ続け、神経を尖らせて周囲の音に耳を澄ませていた。ようやく東の空が白み始め、鳥の声が聞こえてきた時には、心底ほっとした。


「よし、ポポ、出発しよう!」

冷えた体を伸ばし、残っていた保存食を無理やりお腹に詰め込む。夜の不安はまだ残っていたけれど、朝の光は不思議と人に元気を与えてくれる。肩に乗ったポポも「イク!」と元気よく鳴いた。


昨日、道に迷いかけた反省から、地図と周囲の景色を慎重に見比べながら歩き出す。森の中は朝の光を受けて輝き、鳥たちの歌声も心地よく響いている。昨日感じたような恐怖は薄れ、再び冒険への期待が胸に膨らみ始めていた。


「今日は、あの町まで行けるといいな!」

ルナがポポに話しかけ、少しだけ足取りが軽くなった、その時だった。


「グルルルル……ッ!」


突然、すぐ近くの茂みの中から、低い唸り声が響いた。空気が一瞬で凍りつく。ルナが息を呑んでそちらを見ると同時に、茂みが激しく揺れ、牙を剥き出しにした巨大な獣が飛び出してきた。

猪のような太い体に、狼のような鋭い爪と目つき。全身が硬そうな黒い毛で覆われ、爛々と光る赤い瞳が、明確な敵意を持ってルナを捉えていた。フィリア村の周りにいるような動物とは明らかに違う、凶暴な「魔物」だ。


「ひっ……!」

ルナは短い悲鳴を上げ、全身の毛が逆立った。猫の本能が、けたたましく警鐘を鳴らす。危険だ、逃げろ、と。しかし、足は恐怖で地面に縫い付けられたように動かない。

「シャーーッ!」

肩の上のポポが、毛を逆立てて必死に威嚇の声を上げる。だが、巨大な魔物は気にも留めず、涎を垂らしながらじりじりと距離を詰めてきた。


(どうしよう、どうしよう…!)

頭の中が真っ白になる。腰のナイフに手をかけるが、震えてうまく抜けない。村で習った護身術? 逃げ方? 何も思い出せない。ただ、目の前の魔物の赤い瞳と鋭い牙だけが、やけに大きく見えた。


魔物が低い姿勢を取り、地面を蹴る。ルナに向かって、一直線に突進してきた。

(死ぬ…!)

ルナは咄嗟に目を固く閉じた。


だが、衝撃は来なかった。

代わりに、風を切る鋭い音と、魔物の苦悶の叫び声が響いた。

恐る恐る目を開けると、信じられない光景が広がっていた。魔物の肩口には、一本の矢が深々と突き刺さり、その動きを完全に止めている。


そして、木々の間から、音もなく一人の青年が現れた。

年の頃はルナより少し上だろうか。旅慣れた様子の革の服に身を包み、背には弓と矢筒、腰には長剣を帯びている。射抜くような鋭い眼光は、周囲の状況を一瞬で把握しているようだった。無駄のない、洗練された動き。全体的に冷たい、近寄りがたい雰囲気を纏っている。


青年は、呆然と立ち尽くすルナを一瞥したが、すぐに興味を失ったかのように魔物へと歩み寄った。そして、腰の剣を抜き放つと、躊躇なく魔物の首筋に突き立て、手早く止めを刺した。その一連の動作はあまりに冷静で、手際が良すぎた。彼は明らかに、こういう状況に慣れているのだ。

ルナは、助かったという安堵よりも、目の前で繰り広げられた出来事への混乱と、青年の圧倒的な強さ、そして命を奪うことへの躊躇のなさに対する、一種の畏怖を感じていた。肩のポポは、青年を警戒して低く唸っている。


青年は魔物の亡骸に屈み込み、慣れた手つきで牙や爪など、換金できそうな素材を剥ぎ取り始めた。まるで、それが日常の作業であるかのように。


ルナはようやく我に返り、震える声で呼びかけた。

「あ、あの…! た、助けてくれて、ありがとうございます…!」

青年は顔も上げずに、短く、感情の読めない低い声で答えた。

「……別に。通りかかっただけだ」


素材の回収を終えた青年は、血糊を布で拭うと、何も言わずにその場を立ち去ろうとした。ルナは慌ててその後を追う。

「ま、待ってください!」

青年は足を止め、面倒くさそうに振り返った。その視線は冷たく、ルナは少し怯んでしまう。それでも、勇気を振り絞って言葉を続けた。

「あの、お名前だけでも…! 私は、フィリア村から来たルナです! こっちは、相棒のポポ! にゃ!」

ぺこり、と頭を下げる。尻尾が不安げに揺れていた。


青年は一瞬だけルナの猫耳と尻尾に目をやり、すぐに興味なさそうに逸らした。

「……カイだ」

「カイさん…!」

「それだけか? 用がないなら、もう行く」

カイと名乗った青年は、それだけ言うと再び背を向けた。その背中は、拒絶そのもののように感じられた。


(このまま行かせちゃダメだ…!)


さっきの魔物の恐怖が蘇る。またあんなのに襲われたら? 今度こそ助からないかもしれない。この先の旅への不安が、カイの冷たい態度への怯えを上回った。

ルナは再びカイの前に回り込み、必死に訴えかけた。

「あのっ、カイさんは、どこへ行くんですか? もしかして、この先の町へ…?」

「……」

カイは答えなかったが、否定もしなかった。ルナはそれに望みを繋ぐ。

「もし、もしよかったら…! その、町まででいいんです! 一緒に行かせてもらえませんか!? お願いします!」

ルナは深く頭を下げた。声が震えているのが自分でも分かった。

「さっきみたいのが、また出たら…私一人じゃ、絶対に…っ」


カイはしばらく黙ってルナを見ていた。その表情は相変わらず読めないが、ルナの必死な様子、旅慣れていない服装や荷物を見て、何かを考えているようだった。

(…面倒なことになった)

カイの心の声が聞こえた気がした。獣人の小娘と小さな生き物。どう見ても厄介事の種だ。ここで見捨てれば、またすぐに危険な目に遭うだろう。それは分かっている。だが、自分には関係ないはずだ。そう思うのに…。


長い沈黙の後、カイは深くため息をついた。

「…町までだぞ」

「えっ…?」

「足手まといになるなよ」

ぶっきらぼうに言い放ち、カイは再び歩き出した。


ルナは一瞬、何が起こったのか分からなかった。だが、カイの言葉の意味を理解すると、顔がぱあっと輝いた。

「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、カイさん!」

嬉しさのあまり、尻尾がぶんぶんと左右に大きく揺れる。慌ててカイの後を追いかけながら、何度も「ありがとうございます!」と繰り返した。カイは相変わらず無言で前を歩いているが、その背中が、さっきよりも少しだけ頼もしく見えた。

肩の上のポポは、まだカイを警戒しているのか、じっとカイの背中を見つめていた。


カイを先頭に、少し距離を置いてルナとポポが続く形で、森の中を進んでいく。

カイの歩くペースは速かった。しかし、ルナが遅れないように、時折、ほんの少しだけ速度を緩めているような気もした(ルナの気のせいかもしれないが)。彼はほとんど口を開かなかったが、その全身からは、常に周囲への警戒を怠らない緊張感が伝わってきた。視線は鋭く前方や左右に向けられ、耳は微かな物音も聞き逃さないように澄まされている。迷いのない足取りは、この森を知り尽くしているかのようだ。


ルナは一生懸命カイについていった。何か話しかけたい気持ちは山々なのだが、カイの纏う近寄りがたい雰囲気と、無言の圧力に気圧されて、なかなか言葉が出てこない。ただ、彼の歩き方、周囲への注意の払い方、危険な場所を避ける判断力などを、必死に目で追って学ぼうとした。


時折、カイは無言で立ち止まり、地面を指さした。そこには、毒を持つ蛇が潜んでいたり、深いぬかるみがあったりした。またある時は、木になっている実を指し、「それは食える」「そっちは毒だ」と、最低限の言葉で教えてくれた。説明はほとんどなかったが、ルナにとっては全てが新しい知識だった。


(すごい…カイさん、全部知ってるんだ…)


フィリア村で教わった知識も役には立つが、カイの経験に裏打ちされた判断力とサバイバル術は、次元が違うように感じられた。彼の背中を見つめながら、ルナは感心すると同時に、自分の未熟さを改めて痛感した。


数時間、ほとんど会話のないまま歩き続けた。森の木々が次第にまばらになり、前方に明るい光が見えてきた。森の出口だ。

そして、その先には――。


「あ……!」

ルナは思わず声を上げた。

森を抜けた丘の向こうに、小さな町が見えたのだ。煙突からは白い煙が立ち上り、建物の屋根がいくつも連なっている。フィリア村とは全く違う、石や木で造られた家々。微かに人々の話し声や、荷馬車の音のようなものも聞こえてくる気がした。


初めて見る、「人間の町」。

それを見た瞬間、ルナの翠色の瞳に、再び強い好奇心の光が灯った。森での恐怖や不安が少しだけ遠のき、未知の世界への扉が開かれたような興奮が胸に込み上げてくる。


町の入り口が見えてきたところで、カイが立ち止まった。木の柵で作られた簡素な門があり、槍を持った衛兵らしき男が二人立っている。衛兵は、ルナの猫耳と尻尾を見て、訝しげな視線を向けてきた。町の喧騒が、もうすぐそこまで聞こえてきている。


カイがルナに向き直った。その表情は、森で出会った時と同じ、無愛想なものに戻っている。

「町に着いた。約束通り、ここで別れる」

冷たく、きっぱりとした声だった。


「あ…はい…」

ルナは俯きそうになるのを堪え、カイを見上げた。助けてもらったことへの感謝は尽きない。

「あの、本当に、ありがとうございました! カイさんがいなかったら、私…!」

深々と頭を下げる。


しかし、顔を上げたルナは、何かを言いよどんでいた。カイはもう背を向け、町の中へ入ろうとしている。このまま別れてしまったら、この見知らぬ町で、私は一人でやっていけるのだろうか? あの衛兵の視線、聞こえてくる喧騒、全てが不安だった。

そして、それ以上に――カイともっと話したい、彼のこと、もっと知りたい。そんな気持ちが、ルナの中で確かに芽生えていた。


カイの背中が、門をくぐろうとした、その瞬間。

ルナは、自分でも無意識のうちに、叫んでいた。


「あのっ!」


カイが足を止め、怪訝そうな顔でゆっくりと振り返った。その冷たい視線に、ルナの心臓がドキリと跳ねる。

何を言えばいいのだろう? 引き止めて、どうするつもりなんだろう?

言葉に詰まるルナを、カイは黙って見つめていた。

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