第1話 旅立ちのフィリア、希望の一歩
朝の光が、木々の葉の隙間から柔らかな金の糸となって降り注ぐ。
フィリア村は、今日も穏やかな目覚めを迎えていた。深い森の奥深く、大樹の枝々や幹に寄り添うように建てられた家々。それらを繋ぐのは、しなやかな蔓で編まれた吊り橋だ。朝露に濡れた緑が太陽を反射してきらめき、空気は清浄で、土と草と、どこか甘い花の香りが混じり合って胸を満たす。
猫の獣人族が多く暮らすこの村では、朝の挨拶も軽やかだ。畑仕事に向かう者が鼻歌交じりに手を振り、狩りの準備をする若者が弓の手入れをしながら仲間と談笑している。尖った耳をぴくぴくさせ、しなやかな尻尾を揺らしながら行き交う村人たちの姿は、この森の風景と完全に調和していた。
そんな穏やかな村の朝を、一際高い大樹の枝の上から見下ろす少女がいた。
少女の名はルナ。陽の光を浴びて艶やかに輝く亜麻色の髪の間から、ピンと尖った猫の耳が覗いている。同じ色のふさふさとした尻尾は、今は枝にゆったりと預けられているが、時折、感情の機微を示すように小さく揺れた。大きな翠色の瞳は、眼下に広がる愛しい故郷の風景を映しながらも、その視線はもっと遠く、村を囲む森の向こう、青く広がる空の果てへと向けられていた。
「……ふぁあ……」
小さくあくびを一つ。寝起きのせいだけではない、心の奥底から漏れ出るようなため息だった。
(今日も、同じ朝……)
フィリア村は好きだ。優しくて温かい家族も、頼りになる長老も、一緒に遊んだ友達も、みんな大好きだ。この森の匂いも、木々の囁きも、体に馴染んだ心地よさがある。
けれど、十七歳になったルナの心には、日に日に抑えきれない思いが膨らんでいた。
(外の世界は、どんなだろう……? この森の向こうには、何があるんだろう?)
物心ついた頃から、村の古老たちが語る外の世界の話を聞くのが好きだった。喧騒に満ちた大きな街、地平線まで続く砂漠、空を覆うほど巨大な生き物――聞けば聞くほど、ルナの胸は未知への憧れでいっぱいになった。
「ルナー! 朝ごはん、できたわよー!」
下から母親の呼ぶ声が聞こえ、ルナはぴくりと耳を動かす。「はーい!」と元気に返事をすると、軽やかな身のこなしでひらりと枝から飛び降り、するすると幹を伝って地上へと降り立った。ふわりと揺れた尻尾が、地面に着く寸前にバランスを取る。
ルナの家は、村の中でも特に大きな木の根元に建てられていた。中に入ると、焼きたてのパンと木の実のスープの良い香りが鼻をくすぐる。食卓にはすでに父と母が座っていた。
「おはよう、ルナ」
「おはようございます、父さん、母さん」
席に着き、温かいスープを一口すする。体の芯から温まる、慣れ親しんだ優しい味だ。けれど、ルナの心はどこか上の空だった。窓の外、木々の向こうに見える空ばかりが気になってしまう。
「……ルナ? 何か考え事?」
母親が心配そうに顔を覗き込んできた。ルナは慌てて笑顔を作る。
「ううん、なんでもないよ! スープ、すごく美味しいにゃ!」
誤魔化すように、少し大げさに尻尾をぱたぱたと揺らしてみせた。両親は顔を見合わせ、困ったように笑う。最近の娘の様子が少し変わってきたことには、気づいているようだった。
食事が終わり、片付けを手伝った後、ルナはふらりと家を出た。足が向かうのは、自然と村の中心にある、ひときわ巨大な古木の下だった。村の皆から「知恵の木」と呼ばれ、敬われているその大樹の根元には、いつも村の長老が静かに座っている。
「長老、おはようございます」
声をかけると、白く長い髭をたくわえた長老は、ゆっくりと目を開けた。深く皺の刻まれた顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「おお、ルナか。今日も元気そうじゃな」
「はい!」
ルナは長老の隣にちょこんと座り込んだ。長老の周りには、不思議と落ち着いた空気が流れている。
「長老、また外の世界の話、聞かせてくれませんか?」
いつものおねだりに、長老はくすりと笑う。
「お主は本当に、外の世界が好きじゃのう。……良いじゃろう。今日は、とっておきの話をしてやろうか」
長老はゆっくりと語り始めた。それは、このフィリア村にも古くから伝わる伝説。世界の果てにあるという、「虹色の泉」の話だった。
「虹色の泉……それは、七色の光を湛え、見た者の心を映し出すと言われる神秘の泉じゃ。ある者は、どんな願いも叶うと言い、またある者は、世界の真理がそこに映し出されるとも言う……じゃが、その場所を知る者は誰もおらず、実際に泉を見たという者は、わしの知る限りではおらん」
長老の言葉は、静かに、けれど確かな重みを持ってルナの心に響いた。虹色の泉――その名前を聞いただけで、ルナの胸は高鳴った。キラキラと輝く七色の水面、神秘的な光、世界の真理……想像するだけで、体が震えるほどの興奮を覚える。
(虹色の泉……! 私、見てみたい……!)
今まで漠然と抱いていた外の世界への憧れが、その瞬間、はっきりとした目標に変わった。そうだ、私はこの目で虹色の泉を確かめたい。この広い世界のどこかにある、その輝きを見つけたいんだ。
ルナの翠色の瞳に、強い意志の光が宿った。
長老は、そんなルナの表情の変化を静かに見つめていた。
「……心に、何か決めたようじゃな、ルナ」
「……はい!」
ルナは力強く頷いた。「私、旅に出ます! 虹色の泉を探しに、この広い世界を見てみたいんです!」
その決意は固かった。
家に帰ったルナは、夕食の席で、改めて両親に自分の気持ちを打ち明けた。
「父さん、母さん。私、旅に出たいんです」
突然の告白に、両親は目を見開いた。食卓に緊張した空気が流れる。
「旅に、出る…? ルナ、何を言っているの? 外の世界がどれだけ危険か、分かっているの?」
母親の声は震えていた。父親も厳しい表情でルナを見つめる。
「ルナ、お前の気持ちは分かる。だが、まだ早い。それに、お前は一人で……」
「一人じゃないよ! それに、危険なのは分かってる。でも、だからこそ、私は行きたいんだ! この村で教わったこと、猫族としての力、それを試したい。ただ守られているだけじゃなくて、自分の足で立って、自分の目で世界を知りたいんです!」
ルナは必死に訴えた。これは、ただの子供のわがままじゃない。自分の成長のために、どうしても必要なことなのだと。
「それに……虹色の泉を見てみたい。伝説かもしれないけど、それでも、この目で確かめたい夢なんだ!」
しばらくの沈黙が流れた。両親は互いの顔を見合わせ、深くため息をついた。娘の瞳に宿る強い光が、本気の決意であることを物語っていた。
やがて、父親が重々しく口を開いた。
「……分かった。お前の決めたことなら、止めはしない」
「えっ……父さん?」
「ただし、必ず、無事に帰ってくると約束しなさい。どんなに辛くても、くじけそうになっても、必ずフィリアに帰ってくるんだ」
「ルナ……」母親は涙ぐみながら、ルナの手を強く握った。「気をつけるのよ。本当に……」
「父さん、母さん……ありがとう!」
ルナの目からも涙が溢れた。心配をかけてしまう罪悪感と、理解してもらえた安堵と感謝。そして、必ず帰ってくるという新たな決意が胸に込み上げる。
旅立ちの日までは、あっという間だった。
ルナは自室で、小さな革袋に必要なものを詰め込み始めた。何を持っていくべきか、あれこれ悩む。村で教わった薬草の知識をまとめた手帳、非常食用の干し肉と木の実、水筒、小さなナイフ……。
「ルナ、イクノ?」
足元で、小さな声がした。見ると、ふわふわの白い毛玉のような小動物が、心配そうにルナを見上げている。ルナの長年の相棒、精霊獣のポポだ。ポポは人間の言葉を少しだけ理解し、片言で話すことができる。
「うん、行くよ。ポポも、一緒に来てくれる?」
「ポポも、イク! ルナと、イク!」
ポポは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねると、ルナの肩によじ登った。その温かさと重みが、ルナの心を少し和ませる。ポポは危険を察知するのが得意で、きっと旅の助けになってくれるはずだ。
ルナが旅立つという話は、すぐに村中に広まった。心配した村人たちが、次々とルナの元を訪れ、餞別をくれた。
「ルナ、これ、傷によく効く薬草だ。持っていきな」
「こっちは、腹持ちのいい焼き菓子だよ。困ったときに食べるといい」
「これは、わしが若い頃に使ってた丈夫な革袋だ。お前にやろう」
「道中の安全を祈って、お守りを作ったんだ。肌身離さず持っておけよ」
「気をつけるんだよ」「困ったことがあったら、人を頼るんだぞ」「フィリアの誇りを忘れずにね」
温かい言葉と品々に、ルナは何度も頭を下げた。この村の優しさが、胸に沁みる。
最後に、村の鍛冶屋で小さなナイフを研いでもらい、道具屋で寝袋と火打石を手に入れた。これで最低限の準備は整った。荷物は思ったより重かったけれど、それ以上に未来への期待がルナの心を軽くしていた。
そして、旅立ちの朝が来た。
夜明けの柔らかな光の中、ルナとポポは村の入り口に立っていた。そこには、見送りのために集まってくれた両親、長老、友人たち、たくさんの村人たちの姿があった。
「ルナ、元気でね」
「何かあったら、いつでも帰ってくるんだぞ」
「手紙、書けよな!」
「ポポ、ルナのこと頼んだぞ!」
涙ぐみながら手を振る友人、力強く肩を叩いてくれる大人たち。ルナは一人一人に「ありがとう」「行ってきます」と伝え、ぎゅっとハグを交わした。
最後に、長老が前に進み出て、ルナの肩に手を置いた。
「ルナ。世界は広い。お前が想像するよりも、ずっと広く、厳しく、そして美しいじゃろう。だが、どこへ行こうとお前はお前だ。フィリアの子であることを、その誇りを忘れるでないぞ」
「……はい! 長老!」
ルナは長老の言葉を胸に刻み、深々と頭を下げた。
そして、名残惜しさを振り切るように、満面の笑顔で皆に手を振った。
「行ってきます! みんな、元気でね!」
肩に乗ったポポも、小さな前足を上げて「イッテクル!」と叫んでいる。
ルナはくるりと背を向け、村の外へと続く道へ、力強く第一歩を踏み出した。
少し歩いてから振り返ると、フィリア村と見送る人々が小さく見えた。寂しさがこみ上げてくる。けれど、それ以上に、これから始まる未知の冒険への期待が胸いっぱいに広がっていた。
(さあ、行くんだ!)
希望と、ほんの少しの不安を胸に抱いて。
「広い世界」が、今、ルナの目の前に広がっている。
村を出てしばらく歩くと、森の様子が少しずつ変わってきた。フィリア村の周りの見慣れた木々とは違う、もっと背の高い、見たこともない種類の木々が空を覆っている。地面には色とりどりの花が咲き、知らない鳴き声の鳥が枝から枝へと飛び交っていた。
「わぁ……! すごい! ポポ、見て見て!」
ルナは目を輝かせ、感動の声を上げる。肩の上のポポも「キレイ! キレイ!」と興奮した様子だ。太陽の光が木漏れ日となって降り注ぎ、風が頬を撫で、新しい土の匂いがする。五感の全てで、「広い世界」を感じていた。
まさに、歌詞にあった「どこまでも澄み渡る空 草木の匂い感じて」の世界だ。
夢中になって景色に見とれ、歌でも口ずさみたい気分で歩いていたルナだったが、ふと気づくと、周囲の様子に見覚えがないことに気づいた。渡された簡単な地図を取り出して広げてみるが、どうも実際の風景と一致しない。
「あれ……? こっちで合ってるはずなのに……にゃ?」
自信があった方向感覚が、慣れない環境で鈍っているのかもしれない。ルナの猫耳が、不安そうにぺたりと垂れた。
「道、間違えちゃったかな……」
日が少しずつ傾き始めている。このまま森の中で夜を迎えるのは避けたい。焦りが募る。
「ルナ、アッチ、イヤなカンジ」
その時、肩の上のポポが、ある方向を指さして呟いた。ポポは危険な魔物などの気配には敏感だが、今回はそういう類の危険ではなさそうだ。どちらかというと、迷い込んだ者を惑わすような、淀んだ空気を感じているらしい。
「そっちはダメなんだね。ありがとう、ポポ」
ルナはポポの頭を撫で、深呼吸をした。ここでパニックになってはいけない。村で教わったことを思い出すんだ。
(太陽は……あっち。それから、木の苔は……)
ルナは空を見上げ、木の幹を注意深く観察する。フィリア村の森で学んだ、自然の中での方位の見つけ方。それを頼りに、なんとか進むべき方向の見当をつけた。
「よし、こっちだ! 行こう、ポポ!」
再び歩き始めたルナの表情には、もう迷いはなかった。最初の試練は、自分の力で乗り越えられそうだ。
しかし、安堵したのも束の間、森のさらに奥深くから、今まで聞いたことのない、低い獣の唸り声のようなものが、風に乗って微かに聞こえてきた気がした。
ルナは足を止め、ぴくりと耳を澄ませる。
(今の音……なんだろう?)
胸騒ぎを覚えながらも、今はただ、この森を抜けるために先を急ぐしかなかった。夕暮れの影が、ゆっくりと森を覆い始めていた。