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懺悔の教室

作者: 藍村 泰
掲載日:2010/03/04

 男子生徒は心底面倒臭そうな顔を隠しもせずに、教室の隅にいる女子生徒へと近付いた。少女は白いカーテンの向こう側を微動だにせず見つめている。

美奈みな。そこ、俺の席。どけ」

 机に手を添え、見下ろすかのように言えば、赤茶お下げの少女は半眼をこちらへ向けた。

「今まで気がつかなかったけど、豊月とよつきくんの席って眺望いいんだね」

「本当、今更。ここからなら教室内もグラウンドも、第二校舎まで見渡せる。最高な位置だろ」

「人間観察に?」

 問われて豊月恵とよつきけいは軽く頷いた。実のない会話を数回繰り返した後も、妃寺美奈ひでらみなは恵の席から立とうとしなかったため、恵は溜め息を吐いて机に腰を落とした。昼下がり特有の何かが学校全体を包んでいる。一学期期末考査の最終日、ライティングのテストを最後に今日の授業課程は終了した。

 学校には他の場所とは確実に違う時間が流れている、と恵は思っている。隔離された空間と言おうか、それが世界の全てだと思わせる小さな世界が確立しているのだ。目眩がする。

「あそこ」

 妃寺がおもむろに指し示した先には、鉄棒が整列している箇所がある。何の代わり映えもしない一角だとしても、人によっては忘れ難い思い出があったりするのが面白いところだ。

「高二の終わり頃、私の友達が自殺した」

澤井さわいマドカ」

 恵が自殺した女子生徒の名前を口にした瞬間、妃寺は肩を震わせて右腕をさすった。

「豊月くんには言ってなかったけど、私、澤井さんにいじめられてた。利用されてた」

 少しだけ開放されている窓から夏風が吹き込んでくる。湿り気を含んだそれは、恵の首筋を汗ばませる。妃寺はタオルハンカチで半袖の制服からはみ出た腕を拭う。

「澤井さんが死んだと知った時、ざまあみろって思った私は最低なんだろうね。何はともあれ、親友同士だと周囲には思われていたから。葬式の時、遺影の中の笑顔に悔し涙が出そうだった」

 いつも、ぼんやりとしているか読書をしているか、はたまたお菓子を食べているかしか印象に残らない妃寺の内部が明るみに出てくる。純粋な分、自らのどす黒い闇に苦しんだに違いない。恵は柄にもなく言葉を選ぶために天井を仰いだ。

「今から言うことは俺の考えだから、そのまま受け取らなくていいからな。お前、洗脳されやすいし」

「え……?」

「――美奈は、澤井さんに何も言えなかったことを悔しがってる気がする。決して、怨みつらみを募らせてるようには見えない。ただ、憎しみの対象がいなくなったことに無力感を抱えてるだけ」

 妃寺は息を呑んで恵を見つめ返す。途端に彼女の腫れぼったい目の淵に涙が溜まった。恵はふと笑った。強い陽射しが陰影を濃く映し出す。

「深い愛情は憎悪に、深い憎悪は愛情に。強すぎる感情は表裏を混合させる」

 図書室で読んだ本の受け売りだけれどと恵は呟いた。

 二人以外、誰も寄り付かない放課後の教室は、奇妙な静けさに包まれていた。さながら教会のような神聖な光が射し込み、足元に木々の影を作り出している。

「私、澤井さんのことを誰にも言うつもりはなかったんだ。自分の中で昇華出来ると思ってた」

 それも一つの正解なのだろうと恵は思った。血が滲んだ傷の上に瘡蓋かさぶたが出来、時間が経てば自然と瘡蓋は剥がれ、新たな皮膚が出来るように。心の傷も、少しだけ引きつった痕だけ残して癒えるものなのだ。

「でもね、豊月くんの席に座ってみたら色んな記憶が甦ってきて。溢れてしまった」

 返す言葉は見つからなかった。自分が持ち得ない傷を持っている者に、果たして何か与えることが出来るだろうか。恵は、自分達が入学するずっと以前より、何度も何度も繰り返しワックス掛けが行われてきたであろう床に視線を落とした。妃寺は少しだけ感情の波が落ち着いたのか、黙ってグラウンドを見据えている。

 恵はふと、妃寺の右腕を掴んだ。彼女は反射的にそれを拒否しようとする。しかし、腕を引き上げた瞬間袖が風に煽られ、見えてしまった。妃寺の右肩に赤々と残る、引っ掻き傷を。恐らく、背中まで続いているだろう細く深い四本の赤線は、痕が残るに違いない。

 恵は妃寺の頭を撫で、背中を叩いた。

「帰るぞ。あ、その前に、ちょっと図書室寄るけどいいか?」

「うん」

 妃寺はやっと席を立つ。

「懺悔室で懺悔を聞くシスターみたいな気分だった」

 恵が笑えば、妃寺は照れ笑いを洩らす。

「ありがとう」

 廊下に出た途端に音の洪水が二人を襲った。見計らったかのように蝉がいっせいに鳴き始めたのだ。音は様々な暖かさを内包して一気に体感温度暑くする。

「暑い……無理無理」

「だね。何で夏ってあるんだろう。アイスを美味しく食べられるのはいいけど」

 ようやく高校生らしい会話に戻った。恵は裏庭のフェンスに重なって見えるくらい、低い位置にあるように見える入道雲を見て、薄茶のビー玉の双眸を閉じた。

「いつか、気が向いたら聞かせてね」

 長い廊下の途中、重いカバンを左肩にかけ、後ろからついてくる妃寺の声が這った。

「あの教室は、私と豊月くんにとって懺悔室でしょ。いつか、言いたくなったら教えてね」

 何を、と明確に妃寺は口にしなかった。恵は黙って歩を進めた。テニスボールの打ち合いが耳に木霊こだましている。

 高校を卒業した二人が、再び三年六組の教室に足を踏み入れることはなかった。



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