35.盗賊、しめる
白ワニの咆哮が響く中、俺は後ろにいる三人に無言で指示をした。
ゆっくりと——注意を引かないように距離を取れ。
両の掌で扇ぐようにジェスチャーし、後方に下がるよう促す。
それが唯一の“正解”だった。
『無垢なる水の地下洞』で遭遇した時から、この怪物の力は俺のような支援型には到底どうこうできる相手ではなかった。
…たとえこの場に湯取がいたとしても、軽々しく挑んで良い相手ではない。
全長十メートル以上、雪のように白い鱗、異様に発達した顎。
正に白ワニは、理不尽なまでの暴力の象徴だった。
だが——その判断ができなかった人間もいる。
「…くっ、くるな!くるなァアアッ!!」
恐怖で錯乱した神代が、震える手で魔導書を掲げ、【黒杭】を打ち出そうとする。
——しかし、結果としてその行為は、白ワニの注意を引くこととなった。
次の瞬間、白い影が疾風のように跳ねる。
“パクリ”という、えらく間の抜けた咀嚼音が辺りに響くと、続いて魔術書が落ちるバサリという音と、血の雨が降るザァッという音が耳に届く。
「ぎゃああああああああああああッ!!」
喉が裂けたような神代の悲鳴が、室内にこだました。
白ワニはまるで玩具で遊ぶ犬の様に、神代の胴体を顎で挟み、くちゃりくちゃりと咀嚼していた。
——こんな所で、俺がかつて想像した白ワニの生態が実証されてしまった。
…やっぱりコイツは、「半分は食べずに残す」んだな。
それで、地底湖に溜まった回復薬で再生したら、また食べるつもりなんだ。
…コイツにとって、自分以外は「生きた保存食」なんだろう。
…まぁ、ここは地底湖じゃないんで、このままだと神代は死ぬんだけどな。
俺は音を殺して背後からそっと接近し、奴の意識が逸れている内に、開いた【錬金術師の驚異の部屋】で白ワニに触れた。
出てきた時の逆再生のように、ワニの身体はパタパタと薄く折り畳まれていき、巨大な体は再びページの中に収まった。
…この演出、何度見ても飽きないわぁ…大好き。
…残された血溜まりの中に、胴体の下半分を失った神代が倒れている。
既に虫の息。放っておけば数秒から数十秒で死ぬだろう。
…俺は神代の胸ポケットから【白銀の懐中時計】を取り出し、【錬金術師の驚異の部屋】から出した【ポーション】を数滴、神代の断面に振りかけた。
ジュウッ…という音とともに、血が止まり、肉が再生していく。
…うん、濃度100%の【ポーション】だからな。死んでなきゃ完全復活するってプシュパカが言ってたし、まぁ大丈夫だろう。
「アグニ、神代の拘束を頼む。あとは…あれも回収しとくか。」
俺は地面に落ちていた【人皮の呪術書】を拾い上げた。
神代が使っていた、あの忌まわしい本だ。
…【白銀の懐中時計】と共に、どさくさに紛れて貰っとこう。フヒヒ。
二つのアノマリーを【錬金術師の驚異の部屋】に仕舞うと、ようやくヘクセンとアステリオス、beeが駆け寄ってきた。
…なんかヘクセンが異様に目を輝かせて、俺に詰め寄ってくる。
『…おいおいおい!お前が使ったあの魔術書は何だ!?召喚か!?召喚獣の本なのか!?最高にイカシテルじゃねえか!…なぁ、それ譲ってくれよ!』
『いや無理だ。俺の切り札だし。』
『…くぅぅぅぅぅぅ〜〜〜ッ!!絶対か?絶対無理か?金なら弾むぞ?』
ヘクセンは目を潤ませ…いや、文字通り涙を流していた。
お前どんだけ魔術書好きなんだよ。
…ああ、そうか。
ノクス・ミラビリスの本拠地——《グラン・ビブリオテカ》…大図書館って名前は、こいつの趣味か。蔵書狂め。
代わりに俺は、【錬金術師の驚異の部屋】から【ポーション】を取り出した。
ヘクセン、アステリオスから話を聞きながら、どの程度の怪我人がどれくらいの人数居るのか細かく確認し、必要な濃度の【ポーション】を合計で166本…持ってきた分で結構ギリギリだった、危なかったぜ。
【錬金術師の驚異の部屋】のほとんどのページを埋めていた【ポーション】が無くなった代わりに、代価として受け取った異星由来のアノマリーが詰まったコンテナが3つ。
だが、コンテナはアノマリーでは無いので、そのままでは収納できず、一度外に出してからチマチマ一つずつ入れ直す必要があった。面倒くさい!
しかもその間中、ヘクセンが入れ替え作業をしている俺の手元を物欲しそうにガン見していたせいで、やたらやりづらかった。
…最終的に、俺たちはある約束を交わした。
『——分かった。俺がトレジャーハンターを引退する時、お前に譲る。…それでいいか?』
『…本当か!?やった!指切りだぞ!!』
指切りて。子供か。…子供だ。
俺にとって【錬金術師の驚異の部屋】は生命線だ。…今はまだ手放せない。
…けれど、俺だって年を取る。いつかは引退する。そのときには、ヘクセンに託すことにした。
何百年と生きてきた大魔女にとって、数十年など瞬きの間だろう。
この約束と、今回の取引で——ノクス・ミラビリスとの間に、太いパイプができた。
…なにかあれば、存分に頼らせてもらおう。
ヘクセンがなにやら呪文を唱えると、宝物殿は一瞬にして元の白い部屋に姿を変える。
すると、入り口のドアがけたたましい音とともに開き、幾人ものロイヤルガードが部屋に雪崩れ込んでくる。
『グランドマスター、こちらで異常な魔力震を感知致しました。お怪我はございませんか?』
『…ああ、大丈夫だよ。それより、そこに転がっているカミシロを連行しろ。こいつが例の内通者だ。』
『なんと…!』
いつの間にか下半身が復活した神代は、フルチンで白目を剥いたまま力無く笑っている。
アグニの拘束からロイヤルガードが持ってきたアノマリーの拘束に切り替えると、神代は何処かに連れていかれた。
…やれやれ、これで今度こそ本当におしまいかな?
一筋縄ではいかないとは思ってたけども、まさか戦闘が発生するとはな…。
しかし、これでやっと帰れるな。
『何と言うか…色々とすまなかったな、アリババ。今回の件でお前は、ノクス・ミラビリスにとって良き友人となった。これからはお互い、困った時に助け合える間柄になれたら嬉しく思う。』
すっかり砕けた喋り方になったヘクセンが、少しバツが悪そうに話す。
『…おう、こっちこそよろしく頼む。…だから、頼むから俺の事暗殺しようとか思うなよ?その場合はノーカンにするからな?』
『……あ、当たり前だろう?私がそんな事をするワケ……フンッ!』
最後まで演じきれよ…。
いや、マジで暗殺とか勘弁だからな!
最後に、アステリオスが【神秘の天体観測儀】を起動してくれた。
三人で開いたゲートに入ると、出た先は何処かのビルの屋上だった。
アステリオスは『母が色々すまない。また会おう。』と言い残し、ゲートに消えた。
…残されたのは、雑居ビルの屋上に俺とbee、二人だけ。
〈いや、普通に我も居るが?〉
〈なんだったら私もずっと見ております。〉
…。
夕焼けがビル群を黄金色に染める中、俺はふと口を開いた。
「…なぁbee。いっそのこと、俺達と正式に組まないか?俺達にはやっぱり裏の業界に詳しい仲間が必要だし、逆にbeeには色々と提供できると思うぞ?」
beeは少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑って答える。
「ふふ、考えておくわ。…じゃ、またね。」
ヒールを鳴らして飛び上がり、ビルの谷間に去っていく彼女の背を見送って、俺は小さくため息をついた。
「…やれやれ、簡単には靡かないか。本当に、猫みたいな奴だな。」
日の沈み始めた屋上に、冷たい風が吹き抜ける。
〈…おい、こいつフラれてやがる。ダッサ。〉
〈マスター…心中お察しします。〉
そういうのじゃ無ぇっつーの!
勘違いすんなポンコツ共が!




