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専業主夫、希望します!

専業主夫、希望します!

作者: 高倉良夜

ぐーたら息子が頑張るお話。

主人公の友人に、氏名がないのは仕様です。

「働こうと思うんだ」

 唐突に発せられたその言葉を聞いた友人1が目を丸くして、「え。相談ってそれだったの? マジ?」と言うと、友人2は「天変地異の前触れ?」とぶるりと体を震わせ、友人3は「働けんのか、おまえ」とそもそも論をかまし、友人4はあきれたように「冗談だろ?」とのたまった。

 そろいもそろって、たいへん失礼な友人たちである。


 数日前に、相談事があるのだと友人1に持ちかけたところ、それなら皆で集まろうと提案された。その友人1の号令一下、集まった大学時代の友人に異口同音に馬鹿にされ、お誕生日席と呼ばれる位置に陣取った坂上柾はむっとした表情を隠せなかった。


「だいたい、人並み以上に不労所得があるってのに、どういう風の吹き回し?」


 友人1が首をかしげた。残り三人もうんうんとうなずく。

 卒業まで二年を切る時期になっても就活なるものを一切しない柾を心配して助言というおせっかいを焼いてきたこの四人は、大学のゼミが同じだったりする。

 悪気はなく親切心からあの手この手で就活させようとする四人に手を焼いた柾からこっそり教えられて、皆、柾が就職しなくてもよい理由を承知している。

 ちなみに柾の大学時代の友人はこの四人だけだったりする。付け加えるなら、高校までの九年間で親しくした友人はいない。


「……無職ではつきあえないってあの子に言われたんだ」

 柾は憂い顔で説明した。

「え、あの子ってあのときの子?」

「ゼミの同窓会のあの子?」

「同窓会のあの子って、あのキャリア官僚の子?」

「あれからあの子に会えたの?」


 指示語ばかりが飛び交いつつ、それでも対象を特定できているのはどこぞの熟年夫婦のようだ。小洒落たワインバーの片隅がにわかに熱くなった。

 大学時代も卒業後も女っ気なく生きてきた柾の恋バナは、友人たちにとって格好の酒の肴になった。あれから何があった、どこで会った、どういうことになっているのか、とたたみかけられ、柾はその勢いに押されつつ、口を開いた。


 あのときの子、あの子、と友人たちが称した、有沢有子との出会いは、三ヶ月ほど前にさかのぼる。


 柾は、たまには顔を出せと友人たち(つまり友人1~友人4)に引きずられ、数年ぶりにゼミの同窓会に出席した。

 四人の友人を除けば、指導教授と当時のチューターだった元院生(今は講師)に挨拶すれば、暖め合う旧交もこれといってなく、後輩や先輩に顔を売る必要も感じていない柾は、これで義理は果たしたと帰ろうとした。


 出口に向かった柾の目に飛び込んできたのは、遅れて会場に到着した若い女性だった。

 パンツスーツ姿で、顔の少し下あたりで切りそろえられたまっすぐな髪に縁取られた顔は卵型。くりっとした目が印象的だった。柾は思わず立ち止まり、まじまじと見つめてしまった。


 背後から「ゆうこ、よかった。間に合ったんだ」と誰かが声をかけた。するとその女性はにこりと笑い、ひらひらと手を振って柾の背後にいる誰かに応じた。

 その笑顔に柾の目は釘付けになった。

 さっさと帰るつもりだったのに、くるりと向きを変えると、先ほど別れを告げた友人2を捕まえてあれは誰だと詰め寄る勢いで問いただした。

 残念なことに、友人たちは「ゆうこ」と呼ばれた女性を知らなかった。


 結局、「ゆうこ」という名前から出席者名簿を確認し、名前は有沢有子、職業は国家公務員で某省勤務、年次は柾たちの七年下と判明した。判明したただけで、何かがあったわけではない。

 なにしろ、話しかけなくていいのかと聞かれても、柾はただつっ立っているだけなのだ。

 有子に目を奪われ、見ているだけで胸がどきどきするのに、何をしたらいいか分からない。

 「ああ。おまえって、彼女いない歴イコール年齢だったっけ」とどこかをえぐるような事実を突きつけたのは友人4だったか、友人2だったか。


 結局、「ゼミの同窓会はお見合いパーティじゃないしな」という友人3の一言でその日は終わった。写真を撮影することすら思いつかなかった柾である。

 帰宅後、ゼミ論のテーマについて聞くとか、ゼミでの教授の無駄話について話を振るとかできたのじゃないかと思っても後の祭り。

 けれども、友人1が会場写真を撮影する態でさりげなく有子が入った写真を撮っていてくれて、その日のうちにメッセージに添付してくれた。

 持つべきものは友人であると、今度ばかりは本気で思った柾であった。


 その後一ヶ月ばかり、有子の写真を眺めながら呆けて過ごしていた柾である。

 有子との接点などなく、連絡先を知るはずもなく、あの写真を待ち受けに設定したスマホを眺めながら、生であの笑顔を見たいと悶々としていた。

 しかるべき機関に情報収集を依頼しようか、某省の前にずっといればひと目なりとも見られないだろうか、どうすれば会えるだろう。


 そんなある日、思いもよらない方面から思いがけない任務がもたらされた。


 姉の冴子が嫁いだ先の舅の弟、姉から見れば義理の叔父に当たる人物が某省の、つまり有子の勤務先の事務次官に就任したのだという。

 内輪での祝いの席に招待された両親から、暇なら代理で出席してこいと命じられたのである。

 両親も柾と同じく職業を持たず、有閑人生を送っているが、社会貢献と称して様々な活動を行っているだけにそれなりに忙しい。

 引きこもってばかりいないでたまには人付き合いをしろと言われれば、わかったとうなずくしかない。渋々代理出席を承諾し、二ヶ月先のその日を待った。


 まさかその就任祝いの席で有子に会えようとは。


 案内された席の隣に有子の姿があったのだ。柾は有頂天になった。

 ミッションとして課されていた、主賓への挨拶や姉の婚家への挨拶を速攻で終わらせると、隣の席に座っている有子に果敢に話しかけようとした。

 悶々と写真を見続けていたこの三ヶ月、柾はイメージトレーニング(妄想とも言う)をしっかり行っていたのだ。


 会えたら、どうやって声をかけようか。会話が始まったら話題は何がいいかな、もちろんゼミの話題が無難だろうな。

 とっかかりはゼミ論か、この前の同窓会のことかな。そうだ、連絡先を入手しないと。理由をどうでっち上げようか。それに、会う約束を取り付けたいけれどできるかな……。


 とまあ、いろいろ脳内で繰り広げていた柾であったが、結局その成果は発揮されなかった。手元の座席表を確認した有子から話しかけられてしまったのだ。


「坂上さんとおっしゃるんですね。逢坂事務次官とはどこでご一緒されたんですか?」


 『事務次官とはどこでご一緒されたのか』という質問の意味が全く分からなかった柾は、食事の手を止めて、有子を凝視してしまった。自分をにらみつけるように見つめている柾を見て、ちょっと困った表情を浮かべた有子は、軽く頭を下げた。


「失礼しました。わたし、有沢有子と申します。某年入省で、三月まで見習いで島根に行っていたんです。今年から戻って企画課に配属されました。先輩はどちらにいらっしゃるんですか?」


 そこまで言われてようやく柾も質問の趣旨を理解した。有子は柾が某省の先輩だと勘違いしているのだと。


「えーと、僕は坂上柾と言います。某省関係者ではなくて、逢坂事務次官が僕の姉の義理の叔父に当たる方なので、僕の両親に今日の案内をいただいたんです。両親の都合がつかなかったので、僕が両親の代理で出席しています」

「そうなんですか。失礼しました。同じテーブルなので、てっきり関係者かと勘違いしてしまいました」


 会話はそこで途切れた。柾は、イメージトレーニングの成果を発揮しようと口を開こうとして……開こうと……開こうと……した。

 結果、一言目がひねり出せず目の前のスズキのポワレを黙々と食するしかない柾である。ちらちらと横目で有子を眺めると、なにやら考え込んでいる様子で眉根が少し寄っている。やがて皿が空になる頃、有子がはっと顔を上げ、柾に顔を向けた。


「そういえば、坂上さん、大学の何某ゼミの同窓会にいらっしゃいませんでしたか?」

 僕のことを覚えていてくれたんだ! と柾は舞い上がった。

「名簿の中で、お一人だけ無職だったのでちょっと記憶に残っていたんです」

 柾の気分は急降下した。名簿で見ただけなのか。無職が記憶に残っただけなのか……。


「何か資格取得のためにお勉強されているとか?」

「いや……そういうことでは……」


 どう説明したものかと柾が口ごもると、有子がいきなり謝った。

「ごめんなさい、いきなり失礼しました。こんなところで、それも初対面で個人的なことを伺うなんて、ほんとうにごめんなさい」


 頭を下げられて柾は慌てた。慌てたついでに思わず口走ってしまった。

「いえ、あの、僕も、同窓会で見かけて、有沢さんのことを覚えていました。あの、それで、ずっと考えていたんですけど、今度、一緒にどこかに出かけませんか」


 鳩が豆鉄砲を食らったような表情というのは、このことか、と柾は思った。有子は目を極限まで見開き、ぽかんと口を開けて見事に固まった。


「いきなりですいません、でも、ゼミの同窓会で見かけて以来ずっと、あなたとおつきあいしたいと考えていました」


 有子の表情が明らかに曇った。


「ごめんなさい。無理です」

「一度だけでも、だめですか」

 柾は食い下がった。すると、有子は困ったような表情を浮かべた。

「せめて理由を」

「わたし、おつきあいするなら真剣に結婚を考えておつきあいしたいと思っているので、無職の方とは、その……」


 そう告げられたあと、柾は記憶が定かではない。

 失礼にならないよう、お開きになるまでは席に着いていたはず。

 ふらふらしている柾を気遣って姉がタクシーを手配してくれたはず。

 ちゃんと家に帰ってきたはず。

 だっていま家にいるのだから。

 それから、それから……?

 ……そして呆然と一週間を過ごし、それでも有子に会いたいと、友人1に相談事があると持ちかけたのだった。

 そして冒頭に戻る。



『仕事を始めました。よろしくお願いします。』

 姉にメッセージを送ると、柾は肩から力を抜いてため息をついた。

 友人たちは、『無職』だけを理由に断る有子に憤慨してくれた。

 それでも、有子をあきらめられないという柾に、肩をすくめながら「まあ、初恋なんだろうから応援するよ」と言ってくれた。「ついでに社会の厳しさを知るのもいいだろう」と友人1は余計なことを言ったが。


 さて、友人たちの助言を受けつつ仕事探しを始めたものの、連戦連敗だった。

 働くと言ったはいいが、何がしたいわけでもない。働いたことがない上にこれといった資格を持っているさけでもないので、事務の仕事ならなんとかなるだろうと軽いノリでハローワークで事務職の仕事を探した。


 結果、何通履歴書を送っても面接にはたどり着けなかった。

 あらかじめ厳しいだろうと説明されていた柾もこれにはがっくりきた。

 友人たちによると、収入の多寡にかかわらず事務職は人気なので、仕事をしたことがない人物は即戦力にならないと見なされ、それだけで落とされているのだろうとのことだった。


 そこで、選択肢を広げてみた。運送業、自動車組み立て、販売業(マーケットのレジや品だしの仕事だった)、飲食業等々……。

 しかし、大学卒業以来無職生活十年選手、アルバイトもしたことがない、筋金入りの仕事未経験の箱入りおぼっちゃんは、一度たりとも採用担当のお眼鏡にかなうことはなかった。

 ここに、人手不足でも雇ってもらえない男、坂上柾が誕生した。


 そんなこんなでがっくりと肩を落とした柾に、優しい友人たちはそれみたことかとは言わなかった。無職ではなくなる、イコール就職だと突っ走った結果、得るものもなくがっかりしている柾に、友人1が提案した。

「そもそも、雇われるってのがおまえには向いてないんじゃないの。資金力はあるんだからさ、いっそのことなんか事業始めちゃえば?」


 目から鱗であった。その手があったかと柾は顔を上げた。

 柾が方向転換すると、また友人たちがあれこれ助言してくれた。

 なにしろ有名企業に勤務する友人たちである。柾より遙かに社会経験が豊富である。事業のアドバイスには事欠かない。


 というわけで、友人たちの検討の結果、柾は手っ取り早く自分の資産でいくつかの不動産を買い取り、その賃貸を軸とする事業を行う会社を設立し、その代表の座に納まることとなった。

 会社の名称を決めるとき、おまえの名字が「さかのうえ」だからヒルトップな、とツッコミどころ満載で安直な提案をしたのは何につけてもおおざっぱな友人3である。


 直接経営するつもりはないので、資産管理を任せている従兄をこれも代表権のある専務にして丸投げした。

 友人1には「仕事に就くために始めたのに丸投げするって、それってどうよ」と突っ込まれた。もちろん柾は気にしないことにした。

 せっかくなので名刺を作って、名刺入れも購入し、何ならビジネスバッグも手に入れて、サラリーマン風の装いもばっちりコーディネートした。

 失礼なことにサラリーマンスタイルの柾を見た友人たちも従兄も爆笑した。


 一方、祝賀会以降、柾の行動がおかしいと両親に怪しまれた。原因を探られた挙げ句、件の祝賀会がらみだと判断された。

 ここで関係者である姉から召喚され、ことのいきさつを洗いざらい吐かされた。

 柾の話を聞いてにんまり笑った姉は、情報収集と、彼女へのつなぎなら任せなさいと、うきうきと請け負った。


 そこで初めて、あれは内輪の祝賀会だったのだから、当然ながら有子も関係者だったのではないかと気づいた。

 それならば姉に頼めば会うきっかけくらいつくれたのではなかったか、との思いが柾の頭を過ぎったが、ことここに至っては今更な話で、これまた後の祭りというやつであった。


 任せなさいと言っただけのことはあり、姉は有子についていろいろと情報をもたらした。柾が姉に感謝をしたのはこれまでの人生で初めてかもしれない。


 有子は、姉の義理の叔父である事務次官の妻の弟の娘だった。

 両親はそれぞれ有名企業に勤務。兄が二人おり、既に独立して一家を構えているということだった。

 有子本人は、有名な国立大学にストレート合格(つまり柾もその大学の卒業生)、義理の伯父に触発されたのか、官僚の道を選択。これもストレートで某省に入省を果たし、二年近い地方生活を経て本省復帰。現在実家住まい。激務で最終便を逃し、タクシー帰宅になることが常態化。親族情報によると、異性とのつきあいはない模様。


「よかったじゃない。決まった相手はいないみたいだから、『無職』のあなたにもチャンスはあるわよ。たぶん」

 にまにまと目は笑っているし、声音もからかいを含んでいる。明らかに馬鹿にされたが、有子につながる貴重な人脈であるから、柾はひたすら耐えた。屈辱を力に換えて、事業の体裁を整え、無事メール送信にこぎ着けたのだった。

あの衝撃の日から三ヶ月ほどたっていた。



「その節はたいへん失礼いたしました!」


 柾の目の前で、土下座せんばかりに深々と頭を下げているのは有子である。

 姉にメールを送った数日の後、柾は姉に呼び出されてその自宅へと向かった。

 案内された応接室で扉を開けるなり、有子が頭を下げたのだ。何がどうして有子が頭を下げているのか全く理解できない柾である。

 部屋にいるのは、姉と有子、加えて有子の隣に見知らぬ女性が座っていた。


「まあまあ、有子ちゃん、柾が驚いているから、まずは落ち着いて」

 ゆったりとソファに座っている姉が有子をなだめるように言った。

「そうよ、有子、いきなり謝っても、坂上さんには何のことか分からないと思うわよ」

 有子の隣の女性がたしなめた。その口調と年格好から察するに、有子の母親らしいと柾は見当をつけた。しかし、有子はわたわたと頭を下げたまま続けた。

「でも、冴子さん、わたし、ほんとうに失礼なこと言っちゃって、もう穴があったら入りたいです」


 なぜに有子が穴があったら入りたいのか分からない。

 それよりも、姉が「ちゃん」付けで有子の名前を呼んでいるのはなぜなのか気になって仕方ない柾は、姉と有子を代わる代わる見つめた。

 姉はその視線に気づき、あきれた視線をよこしてから柾を促した。

「ほら、柾もそんなところに突っ立ってないで座ってちょうだい」


 はい、と従おうとして柾は気づいた。これは名刺の出番ではないかと。

 今こそ本日のコーディネート(姉に指示されてサラリーマンスタイルである)を生かすときではないかと。

 そこで、友人たちに教わったばかりのビジネスマナーを総動員し、スーツのポケットから名刺入れを出すと、おもむろに有子に歩み寄った。名刺入れの上に名刺を乗せて差し出す。


「改めてご挨拶させてください。坂上柾と申します。株式会社ヒルトップの社長を務めております。よろしくお願いします」

 柾が名刺入れを取り出したところではたと気づいた有子も名刺入れを出していた。

「ご丁寧にありがとうございます。某省企画課に勤めております有沢有子と申します。

どうぞよろしくお願いします」


 互いに名刺を交換する。どうにも収まりが悪く、柾は照れ笑いを浮かべながら姉の隣に座った。

 対面するのは有子である。隣の女性は有子の母であると名乗って、互いに挨拶したところでお茶が運ばれてきた。有子はしげしげと名刺を見ている。


「冴子さんからお話は伺っていましたけど、本当に会社を設立されたんですね……」

「有沢さんに、無職ではだめだと言われたので」

 答えた柾に他意はなかった。しかし、有子は目に見えてしょんぼりと申し訳なさそうに頭を下げた。

「え、あの、その節は本当に失礼いたしました。わたし、本当に失礼だったと反省しています。仕事をしているかしていないか、肩書きじゃなくて、ちゃんと坂上さんとお話しするべきだったと思います。あんな言い方してしまって、本当に申し訳ありませんでした」


 有子が謝罪すると、姉がそれを止めた。

「有子ちゃん、気にしなくていいのよ。柾は生活とか人生とかについて、これまでまともに考えたことがなかったのだから、いい薬になったと思うわよ。おかげで事業なんか始めてしまったものね。柾がまともになったと言って両親も喜んでいるの」


「いえ、そう言っていただけるのは有り難いのですが、娘が失礼してしまって本当に申し訳ありませんでした。すぐに娘から話を聞いていれば謝罪に伺ったのですが、話を聞いたのが、先日冴子さんからご連絡をいただいてからだったもので……」

 まだまだ謝罪が続きそうになったのを姉が遮った。


「今日おいでいただいたのは、そういったわだかまりを解くためでしたから。柾は気にしておりませんし、謝罪はいただいたということで。その点はもうきになさらず。ね、有子ちゃん」

 有子が戸惑いつつもうなずくのを確認して、姉は柾に向かって爆弾を投下した。


「それでは、柾、前回のリベンジよ」


 姉は、血も涙もなく柾に公開処刑を宣告した。まさか姉と有子の母親の前でもう一度『つきあってください』と言わなくてはならない羽目に陥るとは。

 柾は心の中で姉をののしった。ののしったが、ここまでお膳立てをされて、敵前逃亡ができるはずもない。柾は覚悟を決めた。


 もちろん、まさかその状況で有子が断れるはずもなく。柾は無事に有子とのおつきあいを始める運びとなった。

 姉は「わたしの作戦に感謝しなさいよ」とドヤ顔だった。平伏して感謝させられたのは記憶に新しい。


 つきあい始めてしばらくしてから、柾は謝罪に至った経緯を有子から聞いた。


 祝賀会で柾から「おつきあい」を打診されたことを有子は誰にも話さなかった。

 冴子から連絡があったのは冴子宅で顔を合わせた日からさかのぼること二日前。冴子から電話を受けた母親は飛び上がらんばかりに驚き、有子に迫った。


「今、逢坂の冴子さんから連絡があったの。それで、ちょっと確認したいのだけど、あなた、坂上家のご長男から交際を申し込まれて、それを断ったって、ほんとうなの?」

「あー、坂上家……坂上って、坂上柾さんって人なら、そういうことがあったよ。でも、ゼミで同窓だったみたいでね、ゼミ名簿で無職だったの知っていたから、卒業して十年もたって無職ってないわーと思って断った」


 有子の返事を聞いた母親は大いに呆れた。

「本気でそれ言っているの? 逢坂の冴子さんのご実家なのよ。働かなくったって十分生活できるのよ。十分どころじゃないわ。あなた知らなかったの?」

「逢坂の冴子さんって言われても、誰のこと?」

「逢坂の伯父さんのお兄さんの家のお嫁さんよ。そのお嫁さんのご実家が坂上家なの」

「うーん。遠い親戚ってこと?」

 有子は伯父の親戚関係を気にしたこともないのだった。


「あの祝賀会、内輪でってことだったでしょ。誰かの親戚だから出席していたことくらい分かるでしょうに。ああもう、ほんと、仕事するまでもない人に無職だからって、馬鹿にしたようなこと言ってしまう失礼な娘だったとは。そもそも断るにしても、ほかの言い方ってものがあるでしょう。無職でいる理由だって、体の具合が悪いとか、事情があって仕方なく無職なのかもしれないじゃないの……。それを全くもう……。あさって、冴子さんのお宅に坂上さんがいらっしゃるそうだから、そこでちゃんと謝るのよ」


 母親の最後の言葉で有子は深く反省したのだと言う。有職かどうかだけで人間性は分からない。あの断り方は最低だったと。柾に会ったら真っ先に謝罪しようと決めていたのだと言った。


 有子の笑顔に惹かれた柾は、実際に有子と会うようになって、ますます有子に心を傾けた。

 話題が豊富で仕事で起きたちょっとしたトラブルをおもしろおかしく語って聞かせたり、本や音楽、アニメについて熱く語ったり、いろいろな顔を見せてくれるのだ。

 仕事の話題などない柾は、主に聞き役に回っている。

 有子と会うようになって、有子が熱く語るアニメを研究したり、本を読んだりと、柾の生活が一変した。

 両親は呆れているが、単に家で過ごしているより、世間との付き合いができたことは喜ばしいと放置されている。

 つい先日など、姉に「今頃青春やってるのねえ」とため息交じりに言われた。


「そういえば、今は僕のことどう思いますか?」

 あの日の謝罪のいきさつを思い出した柾は、ワインを傾けながら思い切って尋ねてみた。有子は、「そうですね」と言って、しばらく考える素振りを見せた。


「坂上さんは、いい人だな、って思います。わたしの話をきちんと聞いてくれて、わたしの仕事が忙しくても待っていてくれるし……いつもわたしの都合にばかり合わせていただいて、申し訳ないって思っているんです」


 事前情報どおり、有子は超多忙で、いったいいつ休んでいるのか心配になるほどだった。

 土日も普通に出勤している姿を見ると、いろいろと柾も考えさせられる。

 それでも、この仕事が楽しいと頑張る有子を見ていれば、いくらブラックな環境だと思っても、仕事を辞めたらどうかなどと柾には提案できないのだ。

 そんなわけで、会うためには柾が有子の都合に合わせるしかないが、それにはいささかの不満もなかった。会ってもらえるだけでも有り難いと柾は思っているからだ。


 実際のところは、有子がなんとか時間をひねり出し、数回は土日の日中に会った。

 しかし、休日に会っているというのに、なぜか有子に仕事の資料が送られてくる。

 その都度内容を確認して対応している姿を見かねた柾は、仕事帰りの短時間でもいいから会いたいと提案してみた。

 提案したものの、有子からの連絡などこないかもしれないなあと不安になっていたところ、ある日、「今日、早く帰れそうなので会えます!」と連絡が来た。

 嫌われているわけではないとほっとした柾である。


 もちろん、いつでもOKの柾はすぐさま承諾の返事を送った。

 それから有子の仕事帰りに時間があればどこかで軽く飲むようになった。

 これって、デートでいいんだよね、と思いながらいそいそと有子に指定されたお店に向かう柾である。

 本日の店も有子指定のワインバー。有子の帰宅に都合の良い店を選んでもらっている。

 柾が店を知らないという事情もあるのは有子には内緒であるが、もしかするとばれているかもしれないなとも思っている。


 いつでも時間を合わせられるのは、柾が時間に拘束される職業に就いていないからだともちろん有子も分かってそう言っている。

「まあ、仕事があるっていっても、僕は暇だからねえ」

 柾の返事を聞いて、有子はくすっと笑った。ちょっといたずらっぽい笑みだった。柾はあれ、と思った。


「よく考えてみたら、わたし、この先も全国を歩くことになるんですよ。留学もあるかもしれないし、海外の可能性もあるんです。それでなくても、あと数年すればまたどこかに行くはずです。そして、四年くらいそこで仕事をして、また東京に戻るんだろうと思います。そのあとも、行ったり来たりになると思います」


 この手の話は初めてだった。この話はどこへ向かっているのかな、と思いつつ、柾は相づちを打った。

「たいへんな仕事だよね。でも有沢さんはこの仕事を続けたいのでしょう?」

「もちろんです。でも、女性の先輩は、結婚するとそこがネックだって言います。単身赴任になってしまうんですよね。子供もいたらどうするかかんがえなくちゃいけないし。だから最近あこがれるんですよ。専業主夫に」 

 着地点が見えたような気がした。


 結局そこそこの財産があって不労所得で生活できていることが分かっていれば、あるいは姉の紹介があれば、事業など始めなくても問題なかったんじゃないかと柾は思った。

 思ったが、ま、いいかと気にしないことにした。いずれにせよ有子との交際は始まったし、勢いで始めた不動産業も丸投げしているので何の問題もない。

 有子の任地がどこになろうとくっついて歩くことに一切の障害はない。もちろん専業主夫も。

 家事は一切知らないが、なんとかなるだろう。たぶん。となれば返事はただ一つ。


「専業主夫。問題ないよ。僕はどこにでもついて行くから」

 柾がにっこり笑うと、有子はふふと笑った。きれいな笑顔に柾は見とれた。

「『ついて行けるから』じゃなくて、『ついて行くから』なんですね」

 言われて柾はあっと思った。取り消すつもりにはならなかったので、「もちろん」と答えると、有子は笑みを深めた。ああかわいいなあと柾は目を細める。


「じゃあ、坂上さん、家事スキル、磨いてくださいね!」

 家事をしてくれる人を雇おうとも考えない有子に、人を雇えばよいのではなどとは提案しない柾である。柾は有子の期待に応えるだけである。

 よし、また友人たちに相談しよう、と心に決めた柾であった。



働かなくても暮らせる人のことを考えていたら、ふと思いつきでできたお話です。

超激務のとき、こういう配偶者がいたらいいなあと思ったりしたかも……。


※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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