茜色―5
食堂を出て廊下をしばらく歩くとお庭と繋がった通路というか、お部屋というか、そういう場所まで来た。ここまで来ると静かで、だけど強く響く雨のおとがきこえてくる。
やだな。雨は、やだな。
いまはまだ平気。だいじょうぶ。だっていまはあの日じゃない。だっていまは、使用人さんがいっしょにいる。いてくれる。
だいじょうぶ。だってこれはあの日の雨じゃない。
朝と違ってだいぶ落ち着いてきたし、まだ平気。それにほら、ここには大きい声も嫌な音も、光もない。響いて響いて耳鳴りがすることもなくて、だからだいじょうぶ。今日は今日だ。これは過去じゃない。過去になんて戻れるわけがない。だから平気、大丈夫。
使だけど使用人さんはちらりと私の方をみて、「すみません。やっぱり今日はやめにしましょう」なんていう。
多分、雨がだめだってばれている。ばれていて、だけどそこまで酷いとは知られていなくて、でも苦手なんだってことはわかっていて、だから、雨が苦手なのを、なんとか好きに近づくように、してくれようと、したのかなぁ。
そんな気がする。
「んーん、いこ」
だいじょうぶなの。だいじょうぶだよ。きっと、平気。
少しだけでも気づいてくれる人がいた。私をちゃんと見ている人。みないでって思うけど、だけどね、ほんとはうれしいよ。イヤだけど、イヤじゃないよ。
だからね、なんとかなるよ、平気だよ。
なんとかするよ、頑張れるよ。
「……」
じっと私のことをみて、私の言葉を意味を、確認しようとする使用人さん。ありがとうを込めてにぱっと笑ってみせる。みてみて、私ね、だいじょうぶなんだよ。ほんとだよ。あなたがいるから、だいじょうぶなんだよ。
「…そう、ですね」
ぎゅう、と握られた手は痛そうで、ごめんね、と心のなかで謝った。ほんとは嫌だって思ってるんだろうな。
今日は部屋で本を読みましょう、とかゲームをしましょう、とかそう言って私をここから離したいんだろうな。
それでたぶん、雨のそばに連れてきたことを後悔するんじゃないかなぁ。
それとももう、後悔してる?
「わたしのじかん、あげるんだもん。たのしませて、ね?」
びっくりした顔がじわじわと赤く色づく。どこか寂しげに瞳が揺らいで、大きな花を咲かせた。
「はい。お嬢様の時間を頂いているのですから」
からからと引き戸を開ける。
そこには木製の棚やらテーブルやらが置いてあり、脚立、箒に塵取りが壁にかけられている。
鍵付の棚の中には確か、草刈り鎌や剪定ばさみがあったような気がする。
ここは庭師さんがよくいる、物置のようなところだ。庭の管理に必要なものがだいたい置いてある。
庭の管理ってだいたいは業者に頼むものでは…?とか思うんだけどこの屋敷にいる庭師さんは仲介とかを挟まず由井園家に雇われてるみたい。
「にわしさん、いないね」
「そうみたいですね」
もう一つ、外とつながる扉の先。
屋根付きのテラスにはバケツやプランカップ、ペットボトルなどがいくつも並べられている。
ぽちゃん、こんこん、かんっ、ぴちゃん、落ちるしずくが次から次へと音を奏でる。とんとん、ぴちゃん、こんこん、かんっ、弾む音色、静かな音、気の抜けるような音、それからはっきりと、けれど静かな雨の音色。
「ぁ…」
雨、というよりはそういう音楽みたいな音で。
「ぅ、えと、あの、えっと、これ、あの」
「そのー、ですね…絢明お嬢様にとって、雨の日がほんの少しでも楽しくなればと思い用意してみたのですが…」
ああ。
ほら、やっぱり。
私のための行動で、気持ちで、そんな思いを否定なんてできないじゃないか。
ねぇ、いつから気づいていたの。
いつ、私が、雨が苦手なんだって知ったの。
どうして気づいてしまったの?
私、なんにも、できないのに。
「ありがと」
なにもできないのに。
「お嬢様、ほら、カップとか、高さとかによって音も違うんですよ」
すっと指差し笑う。
トン、トン、トン、ぽつん、ぴちゃん、ぽとん、ぼとんっ。
こんこん、かん、こん、ぽつん、ぴたん、ぴちゃんっ、ぽちゃんっ。
高い音に低い音、弾む音に沈む音、いろいろな音がまじってまざって弾む。
ぽつん、かつん、コン、カン、ぴちゃん、ぽちゃん。
コン、カン、かつん、こん。
雨は、嫌い。
雨は怖い。わるい夢はいつでも私をみている。ゆらりゆらり手招いて、おいでおいでとささやきかける。雨はこわい。雨は嫌い。嫌だ、イヤなの。だって雨は、私がおいていかれる合図なの。
ぽつん、かつん、コン、カン、ぴちゃん、ぽちゃん。
コン、カン、かつん、こん。
それでも、私は良かったのだ。
嫌だといえるものがあってよかった。
私は私のこともわからないけど、そんな私でも嫌だといえるものがあって、それは唯一の道しるべだった。
わからない、わからない。何がわからないのかもわからなくて、忘れてしまったことがあって、思い出せなくて、だけど何がどうして忘れてしまい、なぜ思い出せないのか、それもわからない。知りたくない。知りたくないけど知りたくて。
すべてがこわくてしかたがなくて。
ぽつん、かつん、コン、カン、ぴちゃん、ぽちゃん。
コン、カン、ぽちゃんっ、ぴちゃんっ。
知りたいのに、踏み出せないの。
「あのね」
ねぇ、どうしてわかったの。
どうしていつも、わかってしまうの。
「ど、して、あめがにがてって、わかったの…?」
「絢明お嬢様は雨が降っている日は普段よりすこし起きるのが遅くなります。それに、その…なんというか…無理をなさっているような、気がしましたので」
下を向いて、ぽつりぽつりと話してくれた使用人さんは、勘違いでしたらすみません、と謝る。
勘違いなんかじゃ、ないよ。だけどね、だけど。
気づいてほしくなかったの。やさしくしてほしくないの。
なのにね、なのに、ごまかすのも、ひていするのも、できなくて。
うれしい、ってこういうときの言葉なのかなって思っちゃって。
たくさん考えさせちゃってごめんなさい。
ごめんなさい。私にたくさんくれるのに。
私のことみようとしてくれているのに。
なのに私はあなたのことをみていなかった。
みちゃいけないの。だめなんだ、今はまだ。
「ありがとうございます、古川さん」
全部、終わったら。私が願いを叶えられたら。
その時はちゃんと貴女に向き合えるといいなって思うんだ。
だからそれまでは、ごめんなさい。気づかないふりを、知らないふりを、させて。
「え、あ、えぇと、そう言っていただけて、嬉しいです」
驚いたような使用人さんの声に、私は笑って誤魔化すことにした。
今はまだ貴女に話すことはできないから。
私の世話をしないといけない、気の毒な人。その認識を、今はまだ、変えるつもりはないんだ。
それでも。
それでもね。
雨がすこしだけ好きになれたよ。
濡れた道路、水たまり、とまる車。
ピシッとしたお洋服の大人がしゃがんで、あやめと目を合わせてくれる。だからあやめは、たすけてっていったの。
ままをたすけて!
でも雨の音はあやめのことをのみこんじゃった。男の人はぱぱとちょっとだけ似てて、あやめの頭をぽんぽんって撫でてくれたの。だからあやめはわかったんだよ。
このひとは、あやめのことがきらいなんだって。
でも怒らないし嫌な顔もしないから、いい大人。
その人はあやめに「おいで」っていったの。
あやめはだから、そのひととお約束をした。
雨はいつだってあやめの大切なものをながしていく。だけどお約束はながせないからだいじょうぶ。ままのおねがいは私が叶えてあげるからね。
だから起きて、まま。あやめをほめて。
ままとみた新しい傘をまださせてないのに。
あやめはままと歩く水たまり、好きなんだよ。