茜色―4
雨の音がする。
屋根にぶつかり、弾ける音。
木々がざわめく音。
葉にしずくがぶつかる音。
黒雲から舞い落ちる雫は、私が一番嫌いなもの。
私が嫌いだといえるもの。
「ひゃぁっ」
手で口を抑え、震えるからだをちじこめる。
それでも、思わず声がこぼれた。
「ぁ…」
窓から一番離れた場所。ドアの直ぐ側、タオルを被りクッションを抱えてゆっくりゆっくり息を吐く。
吸って、吐いて、音を聴かないようにする。自分と世界を切り離して、だいじょうぶ。だいじょうぶ。
「だいじょーぶ、だい、じょうぶ」
自分にいいきかせて、ごまかして、誤魔化しきれないから必死につぶやくしかない。
だいじょうぶ、だいじょうぶ、何も怖くなんてない。
いまはあの日じゃないからと。わたしが壊れた日じゃない。
私が壊れた日じゃない。
あの日じゃないから。
だからだいじょうぶ。
私を迎えに来る人がいた。だけどそれは私を迎えに来てくれたわけじゃなかった。
旦那様はだれをみている?
だれ、誰。私の影はだあれ?
私の後、誰が立つ。知らない。知らない知りたくないやめてイヤだ違うの。
違う。
違う違う違う違う。いいんだ、それで良かったの。
ああ、見上げた空はこんなにも暗い。こんなにも重たい。
重たいしずくに潰されて、私はきっとどこまでもどこまでもおかしいのだ。
おかしいくらいでいい。壊れていれば壊されることを心配しなくていい。良かった、良かった。
だけどイヤだよ。こわいよ。苦しいよ。息が、苦しい。
は、は、と浅い呼吸。はくはくと動かしてもうまく空気を吸えなくて、声が出なくて、苦しいの。
お願い、お願いです。早く、早く。
早く雨がやみますように。
早く晴れますように、と祈って。祈ったさきがなんなのかだってわからないまま私はただ祈るのだ。
ちゅん、ちゅんちゅん、小鳥の声がして、木々のささやく声がする。
うっすら響く雨音に、ひっと呼吸が浅くなりかけて、それに気づかないふりをしてゆっくり、ゆっくり、意識的に何も考えないように空っぽに。
からりからり、心のなかで音がなる。空虚なそこにガランガランとものが落ちる。
雨音なんて聴いていない。聴こえない。
もう晴れる。もう晴れた。だからへいき。だいじょうぶ。
そうして落ち着いた頃。
コンコン、とノックの音を直ぐ側できいた。
「は、はぁい、ぇぁ、どぅぞ」
「失礼いたします。絢明お嬢様、朝食の準備が整いました」
「ありがと、ございます」
「いえ」
ゆるり、首を振って使用人さんはうっすら開いていたカーテンを閉める。外はまだ灰色だった。
「朝食の後、お嬢様の時間をいただけないでしょうか?」
「ゎ、わたしのじかん、」
今日の予定も明日の予定も特別なことはなにもないし、やりたいこととかも本を読むとかそれぐらいなので、何も問題はないんだけど…。
「ええと、どうぞ、です?」
「ありがとうございます」
私なんかの時間でいいんですか?
ふわりふわり花を飛ばして喜んでくれる姿に、なにも問えなかった。なんで、と思う。考えてしまう。だけど答えはききたくないから、放り出して忘れてしまえ。
「あ、そうでした。お嬢様!今日のおやつはマフィンだそうですよ。朝食は摘みたてハーブと煮込みハンバーグです」
「マフィンっ、たのしみです、ね」
使用人さんと一緒に別邸のなかにある小さな使用人用の食堂へ向かう。
普通のお家のダイニングキッチンみたいな感じ。
6人がけのテーブルと椅子があって、テーブルはひっぱると少し伸びる。食器棚のなかには使用人さんたちが選んだティーセットだったりが入っていて、テーブルクロスとかコースターとかも使用人さんたちが選んだもの。
ここは別邸で働く使用人さんたちの休憩室も兼ねている場所だから、色んな所に使用人さんたちのこだわりが隠れている。
はじめのころはもっとひんやりした場所だったけれど、使用人さんが来て、それから他の使用人さんたちが集まるようになってからは、あたたかみを感じられる場所になった。
居心地がよくて、困るくらい。
「おはようございます」
「おはよー!お嬢様、おはようございます。気多さん盛り付け終わったー?」
「終わりましたよ」
「ん、おっけー、あたしの方もできた」
キッチンで二人の使用人さんが慌ただしく準備をしている。それでもぶつかったりしないところがすごい。
使用人さんが手伝いにいって、テーブルへ料理を次々に運んでいく。
ハーブたっぷりのサラダ、煮込みハンバーグ、小さなバスケットにはまるパンとはちみつ、それからジャム。じゃがいものスープにおやつのマフィンが並べられたところで、絢明様、と呼ばれた。
「パンとご飯どっちにします?」
「ごはんにします」
「はーい」
「ありがとうございます、なしださん」
「いえいえ」
敬語が苦手な使用人さんが、少なめのご飯をよそって私がいつも座る席の前においてくれる。
それに続いてしっかりものの使用人さんがポットの紅茶とカップを持ってきて並べていく。
テーブルの上に全て並んだことを確認して、使用人さんたちが席についた。
「いただきまーす」
「「いただきます」」
「いただき、ます」
揃って手をあわせる。作ってくれた人たちに感謝をする習慣は素敵なもので、こんなふうに誰かとご飯を食べることができるのは、こうふくなことだって思う。
ここに来たばかりの頃、私はひとりで食事をとっていて。それはなんというか、苦しくて、だけどいつもと変わらないもので。
でも使用人さんたちがここで食事をとっているのをみてしまったときに、いいなぁと思って、あのときの私はそれをそのまま言葉にしてしまったのだ。
ひとりで食べるより使用人さんと食べたい。
そういうわがままをいった。
それから使用人さんと食事を摂るようになって、そのうち他の使用人さんたちも混ざるようになって。
それがあたたかくて、苦しい。
「あ、真菜お嬢様がそろそろピアノの発表会だとかで音楽室使うみたいですよ」
「あの防音室?」
「そうそう」
「じゃあお掃除、確認も含めてちゃんとやらないと」
「一応定期的にやってはいるけどねー」
ハンバーグを小さくきってお米と一緒に口へ運ぶ。
柔らかくて美味しい。今度はパンと食べるのもいいなぁ。
そうやってもくもくと食べていたら、気になる話があった。
「ぴあの」
ピアノの音色。電子ピアノを弾くその手も、きれいだねとささやいたその声も、おいでと手招いて抱き上げてくれたそのぬくもりも。すべてがおぼろげでゆめうつつ。
こくん、と飲み込んでから口をひらく。
「まなさまのピアノ、すてきてすね」
きいたことはないけれど、きっと楽しそうに弾くんだろう。鮮やかで柔らかで、跳ねるような音が聞こえるような気がする。
真秀様はバイオリンを習っていらっしゃるから、音が重なり合うともっと素敵なんだろうな。
「絢明様は弾いてみたいって思わないんです?」
「んー…すこし、だけ…かも」
どうなんだろう。私はどうしたいのかな。
わからない。わからない。やりたいことってなんだろう。やらなきゃいけないこととちがうのは、わかるけど。
きっと、私しか私のことはわからないし、選べないけど。
それと同じくらい私は私のことがわかっていなくて。
私がいちばん、私を知らない。
「真秀坊ちゃまも最近バイオリンの練習をしているところをよくみかけますが――」
「次の発表会、個人とペアどっちもって聞いた気がする」
「あ、そうなんですね。じゃあデュオのためかな」
「でゅお?」
デュオって、ことは二人で演奏するってこと、だよね?
「二人で演奏、一緒に楽器を弾いたりすることを言うんですよ。デュエット、とも言いますねー」
「じゃあさんにんだったら、なんていう、ですか?」
「トリオかな」
「いくつまであります、か」
「四人でカルテット、五人でクインテット、もっとありますけど…」
もっとたくさんってすごいな。それを覚えてる敬語が苦手な使用人さんがすごい。
「あの、じゃあ、もっともーっとたくさん、は」
「え?あー、複数人、えと、皆同時にだとアンサンブルですかね?アンサンブルはデュエットとか全部含めてだったと思いますけど」
「あとはデクテットとかじゃない?10人で演奏するときの」
「あーあー、そうそう!」
「たくさん、しってるの、すごいです」
「雑学系の本を集めるのが趣味なんですよ、あたし。最近もそれで本棚がうまっててそろそろなにか捨てないと…あ、」
ふと目が合う。
「絢明様、楽器の本とか…読みます?」
「うんっ!」
「ふは、じゃあ明日にでも持ってきますね」
「ぁ……ぇと、あの、ありがとう、ござい、ます」
勢いよく返事をしてから、気づく。
うんっ!ってなんだよ〜〜〜!!いやでもだって!私もわたしも本大好きなんだよ!とくに私!知らない分野の物事を知るのってすごく面白いからついっ…!
わからないことをそのままにしておくのってちょっと落ち着かないし、そわそわしてゆらゆらしてぐらぐらするでしょう。だから知らないことは知っておきたいし、それにそれに、そもそも、私にはちゃんとすきっていえるものが、私だってわからないくらいだから。だから、おもわず。
「いーえ。こちらこそですよー」
「私も外国語の絵本とかそろそろお別れしようと思ってるのよね」
「外国語ですか」
「ええ。昔読んでたものが実家から送られてきて」
「ああ」
「絢明お嬢様、お読みになられますか?」
いただけるならとても嬉しいです。本は本という形であればどんなものでも好きです嬉しいですありがとうございます!
こくこくと首を縦にふる。
「うれしい、です」
ふわふわとした気持ちになってしまう。本、新しい本。ふふ、ほかほかしちゃう。
「それは良かった。また何かあったらもらってください」
「ぁ、ぅ、うん」
「そうだ!古川さんさ、呉服屋の近くにできたカフェ知ってるー?」
「え?いえ…知りません」
「この前覗いてきたけどベリー系が良さげだった」
「そうなんですか。いいですね。私はFeminimartのドライフルーツとかいいと思います」
「最近無添加のだしてたもんね」
「ドライフルーツね…覚えとこ。ノルンの新作ケーキ美味しそうだったわ」
コンビニのお菓子っていま何があるんだろう。ここに来てからはそういうの全然知らないんだよなぁ。あやめになってからは、そもそもコンビニに行ってないし。前のときはたまーに利用していたから気になる。
あんまり添加物が〜とかそういうのを気にしちゃってお菓子を買うことは少なかったけど、たまに食べるとやっぱり美味しくて……。ドール愛好家のお茶会をするときとかもなるべく無添加、無農薬素材のものってこだわりだしちゃって。
自分で作るのが早いって考えてからお菓子作りを始めたんだったっけ?
「新作ケーキなんだった?」
「キャロット」
「野菜シリーズたすかる」
「今度買ってきてみんなで食べましょうか。ね、絢明お嬢様」
「ふぇ」
煮込みハンバーグとご飯を食べ終え、マフィンに手を伸ばしたところで話しかけられる。
私?
私も含めてていいんですか?
「それいいですね〜!!じゃああたしは露雨月のおすすめ和菓子買ってきます。あそこ芋ようかんがほんとに美味しいから食べてほしい」
「あら、古川さんがノルンで無田さんが露雨月なら私は…フラメのスイーツ系のパンを買おうかしら」
「すごく豪華なお茶会になりますね」
「ねー!いつにしよっか」
「もうちょっと落ち着いてからがいいわよね」
「確かに」
わ、わー!わー!!話が早い!なに?なんなの?すごい勢いで話がまとまっていくじゃん!あとね、ぽんぽんお店の名前出されてもね、全くわかんない!覚えられないし!
露雨月は和菓子屋さんで、ノルンはケーキ屋さん、それでフラメはパン屋さんで…??
「とりあえず一月は先になるわね。ごちそうさまでした」
「そだね。ごちそうさまでしたー」
「んん、ん、」
紅茶でマフィンのかけらを飲み込んでいると使用人さん以外の使用人さんが食べ終えた食器を片付けに行く。
はやいなぁ。私が食べるの遅いのかな?
「マフィン今度はかぼちゃとかにしようかな」
「私プレーンが好きよ」
「絢明様は何がいいですー?」
「レモンとか…?」
「レモンですね、レモンとかぼちゃとにんじん〜」
ふんふんふんと楽しげにしている敬語が苦手な使用人さん。楽しそうで何よりです。無理しないでくださいね。
「樽石さんにも相談しよっと。あたしそろそろ行きますね」
「あ、私も!絢明様、古川さん、また後で。無田さん待って!」
ぱたぱたとしっかりものの使用人さんが敬語が苦手な使用人さんを追って食堂を出ていくけれど、私はなんだかほうけてしまっていた。
私の横を通り過ぎるときに、敬語が苦手な使用人さんにかけられた言葉。
「なんでも試してみたらいいんですよ」
そんな言葉。
もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ、何も出てこなくて、ぽやぽやしたまま口を動かす。そのうち手に持っていてマフィンを食べきってしまって、ちぎって口に運ぶものがなくなってしまった。紅茶を飲む。ごくん、と一口。二口。
隣で使用人さんが席を立つ。私の食器と自分の使った食器を持っていってじゃーじゃーと洗う音。
そのうちかしゃん、かしゃん、と棚の食器を整理する音などが聴こえ始めた。
「なんでも、ためしてみる?」
そんなの、いいの?
いいのかな?
私、私のやりたいこと、よくわかってないけど、いいのかな。
「試してみないことにはわからない、そういうこともたくさんありますからね」
いつの間にか直ぐ側まできていた使用人さんがそう言葉を返してくれる。
そっと椅子に座ったままの私の隣にしゃがみこんで、手を握ってくれる。
「…」
やめてよ、やめて。やさしくしないで。あたたかいのはいや。つめたいってもっともっと思っちゃうからやだ。
知りたくない。
知りたくないの。ずっとすっと忘れていたいの。思い出したくないよ。覚えていたくないよ。新しく、わかりたくなんかないない。いいでしょ、ずっとごまかしていたって、いまはまだ、それでもいいでしょう。
「ゆっくりでいいんですよ」
「……」
そう言って、なんでもなかったみたいに振る舞ってくれるあなたに、私はいつまで甘えているんだろう。
「ごちそうさま、でした。あらいもの、ありがとう、です」
せめて、お礼くらいは。ちゃんと。
「はい、どういたしまして。さて、絢明お嬢様!」
「あっ、えと、はい!」
「私にお嬢様の時間をいただけますでしょうか」
「ん、もちろん、です」
いつか必ず。あなたの優しさに、強さに、私にくれたすべて、使用人さんたちが私にくれたたくさんのものに。
向き合うから、だからそれまでは。
こちらのお話は、旧明日の天気は。とはすこし違う話になりますがよろしくお願いいたします。
旧明日の天気は。についてですが、こちらのプロットのようなものとして更新はできるだけしていくつもりです。