茜色―1
浮かんでは弾けて消える記憶のかけらをただみていた。
どうすればいいかわからない。それでもわたしは私のことを知っているはずだ。
しゃぼん玉のなかでは幸福そうに笑う赤子がいる。
ぽろぽろと涙を落とすこどもがいる。
優しくて大きな手に自分の小さな手を重ねてはにかむあやめがいる。
優しさが残酷なものだと知る前の、ことだ。
このあとから、ここで私が――――
ぱちんっと一つが弾けるのに連鎖して、シャボン玉は全て割れてしまった。弾け飛んだそれのかけらを拾い集め、つなぎ合わせる。私は私、わたしはわたしにしかなれない。私は私の願いのとおりに行動する。つぎはぎだらけでも、かけていても、記憶は確かに繋がった。繋がったからこそ、不思議に思う。
前の世なんてあるんだな。
いや、来世があることに、記憶が残ってるものなんだってことに驚くべきなのか、感心することなのか。ううん。
「絢明お嬢様?」
あ、いけない。
ぽやぽやしていたら使用人さんの話を聞き逃してしまった。なにか言わないと。
「あ、えと、わたし、どれくらい、ねてた?」
「二日ほどです。お医者様は貧血だと仰っておりました。身体に異常はないとのことですが…」
二日とはなんというか。
ちょっとした眠り姫だね、私。
「なかなか目が覚めなかったので心配いたしました…目が覚めて良かったです」
「ぅ、あ、ごめ…ありがとう…です?」
ごめんなさいと言おうとしてやめる。前にごめんなさいを言ったとき、使用人さんが悲しそうな表情をしていたことを思い出したから。でもやっぱりごめんなさい。目が覚めなかったのは多分、かつての記憶を整理していたからだと思います、使用人さん。
「お嬢様にそのように言われることを、私はしていませんよ」
苦笑で使用人さんは言う。
いつもあなたはそうやって言うよね、ほんのりごまかすように、本当にそう思ってるみたいに。自分のことを下げるようにあなたは言うね。
どうしての答えを知っているから私はずっと、この距離のまま。
「ん、でも、ありがと、です」
「…すぐに水をお持ちします。少々お待ちください」
喉が渇いていてがらがら声だ。喋りはふつう…?
倒れる前も喉が乾いて目が覚めたのだから、そりゃあカラカラだろう。でもわざわざ持ってきてもらうのは申し訳ないと思う。
それがお仕事なのはわかってるけど…。
扉の前できれいなお辞儀をして、使用人さんは部屋から出ていった。
ここにきてしばらくたつけれど、ああいう扱いにはいまだに慣れない。たぶんずっと慣れないままだろう。
あちらこちらにきれいな立ち居振る舞いのお手本があるのはとてもありがたいことなので、ぜひとも見習いたいところなんだけど――それよりも。
まずは状況の確認からしていきたいと思う。
つぎはぎだけではわからないことだらけなので確認というか、記憶のすりあわせというか、とにかくまとめてみよう。
まずは、いつも私の側に居てくれる使用人さんの名前。あの人は古川音さん。私の世話係の人で、気の毒な人。
私は由井園絢明。先日誕生日を迎えたため今は5歳。2つ上の兄と姉がいて、たぶん仲は悪くも良くもない。どちらかといえば良好。兄姉と私は親が違うため、血が繋がっていない私は別邸で暮らしている。私の母はずいぶん前に亡くなっていて、旦那様が私を引き取った。まぁ、世間体を大事にした結果だと思う。本邸には旦那様と奥様、兄と姉がいて、別邸に来ることはほとんど無い。
私自身のことについてはすらすらと思い浮かぶところもあれば虫食いのようにところどころ抜けてもいて、まったくわからないところもあるような…?なんだろうこれ。でも大事なことは抜けていない。
つぎはぎなので足りないことがあるんだろう。
それが私の現状だ。
コンコン、とノックの音が響く。
「あ、はい、どうぞ」
「失礼します、絢明お嬢様。お水をお持ちいたしました」
どうぞ、とお水を渡してくれる。
お姉ちゃんのような、身近な庇護を与えてくれる大人。
「ありがとです、ふるかわさん」
「…!いえ、当然のことですから」
私がお礼を言ったり謝ったりすると、いつも使用人さんは困ったような、悲しそうな表情をする。でも私は私が大事だから、理由がわかっていてもやめることはできない。
この距離のままでいいから。
「ありがとってわたしがいいたいだけだから」
使用人さんは私の面倒をみないといけないから当然なのかもしれないけど、それは簡単に消えてしまうもの。
当たり前だと受け取ることはできない。
「では、私はこれで失礼いたします。絢明お嬢様」
また困ったような、なんとも言えない表情をすぐに隠すと使用人さんは部屋から出ていってしまった。パタリと閉じた扉、その向こうからも立ち去る気配。
「あいまいなわたしに、あなたはもったいないよ」
私の立場は曖昧で。
私の母は奥様ではないし、それに。
由井園家は裕福だ。旦那様が会社を経営していることと、それなりの名家であるため、だと思う。難しいことはわかんないけど、多分そう。
由井園がどれくらい裕福かというと、パーティとか開いちゃったりするくらい。あと他のお家と比べてお屋敷で働いている人たちの人数が圧倒的に多いことからもわかるだろうか。兄や姉はご令息、ご令嬢で、私はその時の状況によって立場がかわる、曖昧な存在。お嬢様と呼ばれることもあれば、そうではないときもある。たいていは後者だ。だからこそ、私は私の立場をしっかりしたものにするために、考えて行動しないといけない。
あれ…?
そういえば、前世みたいなもの?を思い出してからだいぶ考えがまとまるようになった気がする。
そもそも私が私ではなくなったような気もするし、ふわふわとしていた足元がかろうじて歩ける瓦礫に変わったというか、そんな感じがする。それは"わたし"を思い出したことによる影響だろうか。ありがたいことだ。
曖昧な私を明確にするためには何もかもが足りない。
足りないものを補うためになんだってした。
これからだってするんだろう。
「ほんもたくさんよんだ。でもたりない。べんきょうも、おにいさまたちよりできなきゃいけない」
まだまだ足りない。
使いやすい駒だと思ってくださるならいい。
そのほうが動きやすい。
警戒されてしまうより侮られている方がいい。
そうやって、私は私がここにいる理由を探さなければいけない。
だけどね、でもね、たまに思ってしまうんだ。
普通に。
普通の、ありのままの私として。
もっとのんびりゆったり、ただのあやめとしていられたらよかったのになぁって。
それはきっと、わがまま。