夢鳥
深く暗い森。
鬱蒼と茂る樹々。
蔦や葉が生い茂る。
そこに一匹の獣が居た。
草木に馴染む灰色の毛皮を纏った獣だ。
その場に人間が居たならば、無粋にも獣に烏滸がましくも人間が付けた種類の名を当て嵌めたかもしれない。
だが、深い森の中。
獣は自らに呼称を付ける事は無い。
唯、あるがままにしなやかに本能に従い生きるのみである。
昼間は腹を満たす為に小さな動物を狩り、食らう。
喉の渇きを覚えれば、茂みの泉に頭を付ける。
日が暮れると寝床と定めた草木の間に身体を横たえ休む。
獣は唯、生きるのみだ。
仲間も居らず、もう自らを産み落とした親の顔さえ忘れた。
獣はずっと一匹であった。
仲間が欲しいなどと考えた事も無かったが、ある日の事だった。
獣が森の奥の泉に辿り着いた時。
そこには一匹の獣が居た。
一目で分かった、同族であると。
だが、その獣は老いさらばえていた。
自身が幾ばくの命も無い事は分かっているのか、浅く苦しそうな呼吸を繰り返して力無く横たわっていた。
辛うじて泉の淵に付く様に前足を投げ出すように。
艶やかだっただろう毛並みは艶を無くし、薄汚れている。
肉体の筋肉も削げ落ちて皮だけが骨を覆っている。
今となっては狩りすらまともに出来ない程弱っているのだ。
獣は年老いた獣を横目に顔を水に付けて飲んだ。
その様子を生気のない白濁とした眸で年老いた獣は見やってきた。
既に目は見えていないのかも知れない。
「坊や」
年老いた獣が聞き取り難い唸り声のような鳴き声で語りかけてきた。
獣は視線だけを年老いた獣に向けた。
「坊や、私は惨めに見えるかね?」
突拍子も無い問いに、獣は解を忘れて年老いた獣に顔を向けた。
そうして幾ばくかの間を開け、返答した。
「ああ、この上無く」
すると年老いた獣は力を振り絞るように笑い、咽せた。
「そうか。何故そう思うかね?」
年老いた獣は更に質問してきた。
獣は少し煩わしく思う傍ら、初めての同族との会話に好奇心を擽られていた。
「狩りも出来ないなら我々は死んでいるようなものだからだ」
獣の解に年老いた獣は首を持ち上げ緩く振った。
「狩りは今もしているのだよ。私は、何度かの夜を跨いでずっと狩りをしている」
どう言う事だろう。
獣の目には既に死にかけの老いぼれが横たわり死を待っているようにしか見えなかったからだ。
獣の空気を察したように年老いた獣は裂けた口元を更に開いて笑ったようだった。
「私は元は坊やのような時代もあったのだ。だが、段々と目が見え辛くなり、手足が言う事を聞かなかくなった。だが、私はまだ狩りを辞めた訳では無い。一羽の美しい鳥を待っているのだ」
獣は更に訳が分からないと思った。
自由に動ける肉体がある獣ですら鳥などは余り狙わない。
飛び回る鳥を地上を這うように生活している獣に取っては獲物となり得る存在では無いからだ。
更に視力が衰えた年老いた獣が如何にして鳥を狙うと言うのだろうか。
美しさを判別する事は愚か、近付いた事すら分からないだろう。
それどころか、自分がいつまで狩る側でいるつもりなのだろうか。
今の年老いた獣は間違い無く狩られる側ですらある。
「あれは七色の羽を持つ美しい鳥だった。
枝に留まり、毛繕いする度に陽の光を浴びた羽がきらきらと輝いていた。私はあの鳥を仕留めると坊やくらいの年頃に心に決めたのだ」
獣は、年老いた獣の与太話に息を一つ吐いた。
「それがアンタの夢かい?」
「夢……、いいや、夢では無い。私は必ずあの鳥を仕留めると決めたのだ。もう、何夜もまともに食ってはいないが。なあに、力を温存しているのだ」
そう言って年老いた獣はカラカラと笑った。そして矢張り咽せた。
「坊や、この老いぼれの最後の頼みを聞いてくれんか」
獣は嫌だ、と思った。
だが、この年老いた獣の余生はどう見積もってもあと数夜だ。
反して獣にはまだまだ数えられ無い程無数の夜が待っている。
気まぐれだった。
だが、獣は老獣の願いを聞く事にした。
「いいだろう」
その日から獣は老獣の目となった。
老獣は残った僅かなプライドがあるのか、体力の限界なのかは分からぬが、獣が獲ってきた獲物には口を付けようとはしなかった。
老獣が獣に望む事はただ一つ。
老獣が言う美しい鳥が泉の辺りに現れた時に方角を伝える事だけであった。
待ち構える間に、獣は老獣から様々な話しを聞いた。
老獣の歴史とも言える破片を集めるようないくつかの話しだった。
獣は、いつの間にか老獣の歴史に、己の生き様を重ねていた。
老獣と出会って三回目の夜が明けた朝。
深い森、泉に僅かばかりの陽が差し込んだ頃である。
老獣の呼吸がいつもより荒く、短くなってきている事に獣は気付いた。
ーーーとうとうか。
獣はそう思う。
この短い期間に老獣が言う七色の羽を持つ鳥は現れる事は無かった。
汚い羽の鳥が何度か来た事はあった。
きっと老獣が死ぬ事を待っているのだ。
万物はそうして回っている。
その歯車の一つとして生きてきた獣はそういった事を身を持って知っていた。
そしていよいよ、荒々しく浅く呼吸をし出した頃。
掠れた鳴き声で老獣は獣に聞いてきた。
「まだかい?坊や……」
勇ましい冒険譚を聞かせてくれた年老いた獣。
いつの間にこんなにも情が湧いてしまったのかと獣は驚いた。
弱々しい鳴き声に、もう見ていられなかった。
その時である。
一羽の鳥が黒い影を落として泉の浅瀬に降り立った。
「ジジイ、前方だ。ゆっくり狙え」
そう獣が声を掛けると、老獣の眸はギラリと光った。
まるで老獣は若返りでもしたように、だらりと投げ出していた前足に力を入れて立ち上がったのだ。
獣は、まさかと驚いた。
こんな力が残っていたのかと驚いた。
先程までゼーゼーと繰り返していた呼吸がスッと止まった。
じっくりと品定めでもするかのように体勢を低くして、間合いを測っている。
獣は老獣の在りし日の姿を見ているような錯覚を憶えた。
泉の水面を嘴で忙しなく突いていた鳥が目敏く老獣の気配に気付き、顔を上げた瞬間。
老獣は全身の残る気力や体力を振り絞り、一目散。
見事、鳥を仕留めたのだ。
「やったな、ジジイ!」
そう言って獣が駆け寄るが、既に返事は返って来なかった。
ぐったりとした薄汚れた鳥に牙をしっかりと突き立てたまま。
老獣は絶命していた。
暫く獣は、老獣を見下ろしたまま。
まるで余韻に浸るかのように、獣らしく顔をのけぞらせて遠吠えした。
獣は、老獣の最後の獲物である薄汚れた鳥を馳走になり、その場を離れた。
老獣は水面に身を委ねたまま。
朽ちる時を待っているようだった。
了,