第5話 乙女陥落
――数時間前。
「ようこそ! 日本の首都、東京へ! ここは君が力を発揮できる世界さ!」
自慢げに言ったオスタラの言葉をダレンは一切聞けてはいなかった。
「おい、ここは、なんだ。これは――」
魔法の国だ。そう思った。
ここにあるのは全て魔法だ。空を飛ぶ車も、花瓶を操る花屋の術も。全て魔法による産物だった。
「ふふん、すごいでしょー。ここは魔法を使える魔法使いたちの世界で日本と呼ばれる国、その首都の東京だよ」
「すごいな……」
「世界最大規模の迷宮がある迷宮都市のひとつだからね。君でいうあの塔の街と同じだと考えればいい」
「なるほど……それで、俺をこの世界に行けるようにしたのはなぜだ」
「君は魔法の使い手だろう? それもかなりのものだ」
「……それは、結果的にそうなっただけだが」
「君の元いた世界では魔剣がなければ息苦しいだけ。でも、ここでは君はきっと凄い功績を打ち立てられる! その権利が君へのぼくからのお礼さ!」
「こんなことが出来るなんて、おまえは神様なのか?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。君たちがどう認識するかなんて、ぼくには関係ないからね」
「そうか……どうせなら、魔剣を使えるようにしてもらいたかったがな」
「誰かに与えられて君は満足できるのかい?」
オスタラの言う通りだ。
誰かに与えられた力では意味がない。自分で掴み取らなければ、己を見下した相手を見返したということにはならない。
「ああ、俺は俺の手で掴み取りたい」
「そうだ! それでこそ! まさしく英雄の気質さ。だから、そっちの手助けはしない。ぼくがするのは君が金銭で苦労しているらしいから、その助けとなることさ」
「この世界は稼げるのか?」
「もちろん、君の腕次第だけど、稼げるさ! この世界には君の世界の塔と同じものがある。迷宮と呼ばれるそれは、地の底へと続いている。全部が真逆なのさ!」
「なるほど……ならその迷宮ってのはもしかして」
「そう! 魔法でしか攻略できない!」
ダレンは魔剣が使えない代わりに魔法が使える。元の世界ではダレンは塔を進むことは出来ないが、日本では迷宮を進むことが出来る。
塔の稼ぎと迷宮の稼ぎが同じかどうかは定かではないが、少なくともバイト三昧よりは稼げるのは明白だった。
「物価の違いは一概には言えないけれど、こちらの世界で稼いで稼ぎを宝石とか金にして向こうに持っていけばかなり稼げるとは思うよ」
オスタラからのお墨付きもある。
「どうだい? 来てよかったんじゃないかい?」
「まだ実際にどうかはわからないから何とも言えないけどな」
「うん、慎重なのはいいことさ。じゃあ、まずは自分の目で確かめて来ると良い。この世界がどんなものかを。もしかしたら良い出会いがあるかもだ」
「ああ、ありがとう」
「どういたしまして。さて、最後のお節介だ。言葉は通じるようにしてあるし、あと必要なのは華々しいデビューだね! うん、ちょうどいい。強い魔物に襲われている女学生がいる。どうだい? これを助けてみるというのは」
「どうだいって、そりゃって襲われてるなら行くに決まってるだろ」
「うん、それでこそだ! 君にぼくらの加護のあらんことを。迷い惑い悩み苦しみ艱難辛苦を乗り越えたその最果てで君が英雄へと至るかもしれないのをただ見ているよ! ああ、 君の願いが叶うのをぼくらは見守っているとも!」
大仰にオスタラは両の手を広げる、心の底からダレンという男を歓迎するように。
「さあ、行ってらっしゃい、幸運を!」
ぽんと彼女が手を叩くと、ダレンの足元が抜けた。落下する浮遊感はなく、まるで飛び出す絵本の頁が切り替わったかのように場所が切り替わった。
そこはどこかの洞窟だ。先ほどまでの澄み切った都市の空気は消え失せた。今やここはどこぞの異界の最底辺。
第十五階層。紛れもない低階層に存在する薄暗い洞窟。慣れたものならば危険はない。
だが、現在その洞窟の中では、ありえないすえた臭いがしている。まさしく悪臭。どこぞの異界より悪魔でも出でて来たのか。
息をするのもおぞましい。空気自体が魔性という概念に汚染されている。呼吸するだけで肺が焼けただれていくかのような感覚は、紛れもなくここに出現したものの存在格を示している。
超級の存在がこの低層を闊歩している。それをダレンは肌で感じ取った。
「そんなやつに勝てるのか……」
否、勝てるのか、ではない。弱気になっている暇はないのだ。
なぜならば――。
「きゃぁぁぁあ!!」
オスタラが言っていた女子学生は既に、ソレと遭遇しているのだから。
空間を引き裂く女性の悲鳴。それこそがカウントダウン。それが聞こえなくなったとき、全ての道は閉ざされる。
ここで逃げ出す者にいったいどうして真理が掴めよう。魔剣を抜刀できよう。世界が異なってなお、ダレンという人間のやるべきことは変わらない。
否、むしろ、この世界でこそ出来ることがあるのだとすら感じる。
「ああ、やってやるさ」
ダレンは駆け出した。己に出来ることがあるのならばやらないのは嘘だ。例え魔剣が使えずともここならば――。
強化魔法を発動し、洞窟を駆け抜ける。
果たして飛び出したる大空洞にソレはいた。巨大な悪魔がそこにいた。
強靭な筋骨と人外の強化魔法によって支えられた巨体は、ダレン十数人分にも及ぶだろう。東京の摩天楼と並ぶほどの大きさは人間が相手をする領域を超えているようにすら思える。
巨体に見合った巨大な翼は飛ぶためのものではない。それは武器。紛れもなく己の目の前に立ったものを斬り裂くための刃として確立されている。
凶悪に過ぎる角は天を恨むようにネジ曲がり鋭利に過ぎる角先は、ここに至るまでに殺した者どもの返り血が垂れている。
ソレを中心に汚濁が放たれているのだ。放たれる呼気は全て瘴気。臓腑を爛れ焼く毒気に他ならない。
ベヒモスと、その人は呼ぶ。ここまで巨大なものは変異個体。何かが起き、強大になった個体は人間を容易く屠る殺戮装置と同義だ。
「おいおい――」
そして、そんな殺戮装置は既に哀れでか弱い獲物を追い詰めている。
『GAAAAAAA--』
地の底から響くような咆哮をあげ、獲物を喰らう牙を見せつける。断頭剣などが可愛く見える巨大に過ぎる牙を突き立てられればどうなるかなど想像せずともわかる。
「ヒッ――」
哀れな獲物――西園寺はもはや体面など保っていられる状態ではなかった。恐怖に膝を折り、失禁していることすらもうどうでもよかった。
化粧はぐちゃぐちゃで、綺麗に整えたネイルは割れている。ありていに言えばボロボロだ。こんな状態、他人に見られたらもう人前に出ることは出来ない。
そんないつものプライドなど彼方に逃げ出している。もはや恥じも外聞もない。
ただ死にたくなかった。
「いや、助けて、助けてよぉぉぉお!」
無様に泣き叫んで助命を乞う。
その様を見て、ベヒモスはただただ嘲笑うのみだ。
どのように蹂躙してやろうか。今まで会った獲物の中では随分と生きが良いから、丸呑みにするか。
逃げていったこいつの仲間のところまで持って行って目の前でバリバリとむさぼってやるのはどうだろうか。
とてもそれは素晴らしいだろう。絶望をもたらす悪魔としての本懐と言える。
ともかく捕まえてからにするかと、その左手を伸ばす。
「ひぃぃぃ、誰かぁぁぁ――!」
放たれる悲鳴。
「――根源接続:魔法起動――【雷曲七番・雷帝剣】」
紡がれるダレンの魔法詠唱。
同時に、一閃が奔った。
紫電をほとばしらせた斬撃がベヒモスの防殻を斬り裂き、腕を切り落とす。
『GAAAAAAAAAAAAA――』
悲鳴咆哮が洞窟に木霊する。
「っし、行けた。おい、無事か!」
「え、え?」
目の前に立つのは誰だろう。いや、わかる。輝ける雷の魔法剣を手にし、目の前に立つその背はまさに王子様。
あまりの恐怖に千切れた心はその輝きに容易く都合のいいように修復される。彼こそは自分を助けに来た王子様であると。
「無事だな。そこで待ってろ、すぐに終わらせてやる」
かつての父の姿を思い出しながら、そう自信過剰に言う。
勝てるかどうかなどダレンにはわからない。そもそもまともな実戦は今日が初めてだ。だが、ずっと訓練してきた。
木製の剣を振り続けて来た。ならば、出来ないはずはない。
否、やるのだ。
やらなければ背後にいる少女が死ぬのだと理解し、ただ決意のままに前を見据える。
「え、ま、待って、待って、ください、そいつは――」
ベヒモスは危険だ、と言おうとして、その背より放たれる絶対の安心感に言葉を失った。
――ああ、この人なら大丈夫だ。
ダレンのことを何一つ知らないというのに、西園寺は無条件に彼のことを信用した。
「行くぞ、デカブツ!」
『GRAAAAAAAAAA――!!』
己の腕を奪った勇士にベヒモスは怒りの剛砲を叩きつける。矮小な存在ならば、それで身が砕けてしまうほどの破壊力を内包する一撃は、ダレンの防殻を揺るがしもしない。
「その程度か?」
己の魔法の腕をダレンは知らない。比べる相手がいなかったからだ。
だからこそ誰も、本人すら自分の実力を知らない。目の前の強大な相手に出し惜しみをするという考えはなにもない。
まだ何があるのかわからない。だからこそ――。
「最初から全力で行く
――根源接続:魔法起動・四重演奏
――【氷曲十番・氷柱杭結】
――【無曲八番・重力沼】
――【雷曲九番・処刑人の雷槍】
――【光曲二番・光輝天照】」
超高速で紡ぎあげられる四重魔法陣。根源から結果が汲み上げられる。
その速度が尋常ではない。西園寺の実に十数倍。同じ魔法を使おうとしたならば、西園寺ならば各々一分はかかる。つまり計四分。
それをダレンはただ一瞬、一息のうちに同時に発動してみせる。
まず巻き起こるのは極寒の冷気の現出。ベヒモスの残った四肢を冷気の牙が食らいつき離さない。
ただそれだけでベヒモスの全ての動きが封じされる。そこに死神の鎌が落ちて来る。
重力というなの世界の楔がベヒモスを地へと押し付ける。
『GRAAAAAAAAAAAAA――』
何とかしようと放つ咆哮。苦し紛れの叫びなどダレンの防殻はおろか、髪の毛すら揺らすに至らない。
その間にベヒモス頭上に生じるは円形に回転する雷の槍。都合七つの槍は回転し、その中心で太陽のような光球がその力が解放されるのを今か今かと待っている。
「終わりだ――」
掲げられたダレンの腕が落ちる。
それは断頭台からギロチンが落ちるかの所業。雷の槍が突き刺さり爆ぜ、光球が甚大なる威力を見せつける。
肉体を完膚なきまでも破壊する様は、まさしく光と雷の嵐そのもの。重力に押さえつけられ、氷に縛られたベヒモスはただその破壊を享受するのみ。
ベヒモスにといって幸いだったのは、その痛みを感じる前に、一瞬のうちに絶命したことだろう。
爆風、爆炎がすべての視界を覆い尽くす。
それが晴れた時、ベヒモスは完全に沈黙していた。
「ふう、こんなもんか」
警戒しつつ、ベヒモスの死体に近づいていくダレンを見て、西園寺はつぶやく。
「……すごい」
尋常ではない練度だ。
だが、これですら到達点には程遠いのだと彼の背が語っている。
ダレンが見ているのはまだ先なのだと、西園寺は理解して――それが間違っているかあっているかはともかく――落ちるのは当然だった。
「あぁ、私の王子様ぁ……」
乙女として全力の声が出る。
幸か不幸か、ベヒモスに近づいていたダレンには聞こえていなかったものの、この瞬間より西園寺は心に決めた。
目の前の男を手に入れるのだと。
さて、そうなればどうしたものかと瞬時に思考をし始めて、まずは身だしなみを整えるべきだと思いいたった時に。
「おーい、こいつどこをどう剥ぎ取ればいいんだ? 初めて会うからな、わかるなら教えてくれ」
「え、ひゃい!?」
突然話しかけられるものだから思わず変な声が飛び出してしまった。
「おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫ででです!?」
「大丈夫に見えないんだが、どこか怪我でもしたか。治療魔法は使えるから見てやれるが」
「だ、大丈夫です!? ち、近づかないでください!?」
「え、あ、そうだな。すまない……」
「あっ……」
突然のことで動転してやってしまったぁ、と思った西園寺であるがもう後の祭りである。今は落ち着いて、気を取り直して、そう、挽回するのだ。
などと乙女は必死に回復しようと努めて深呼吸。
「良し! あ、あの、あ、ありがとうございましたぁ。私、西園寺と申します。助けていただき、本当に、ありがとうございました」
「ああ、いいよ、別に。襲われてる奴を助けるのは普通だろ」
「(うっはぁ、めっちゃいい……)」
思わず飾りもしない本音が飛び出した。
「ん?」
「な、なんでもありませんわ、おほほほ……」
厳重に乙女心を淑女精神で制しつつ、さあ、どうすればポイントを稼げるかを必死に考える。
だが、男性経験なんぞ皆無なこの乙女丸出しの乙女には最適解などわかるはずもない。
とりあえず、お名前からなどと可愛らしいことから開始するという結論に。
「あ、あのお名前は?」
「ああ、ダレン・テゼルだ」
「ダレン様……」
「ダレンでいいよ」
「いえ、そういうわけには行きません」
――ぶっちゃけ呼び捨てとか乙女の心臓が持ちません。
「そ、そうか? 別にそこまで偉いもんでもないんだけどな。まあ、いいか。とりあえず迷宮から出よう。いつまでもこんな場所にいるものでもないしな」
「は、はい!」
「とりあえずこいつは抱えていくか」
死んだベヒモスの死体をダレンは抱える。
「すごいですね……」
すさまじい強化魔法の練度にただただ見惚れて素直な感想が出て来る。
「そうか? 俺以外の魔法使いに会ったことないからどんなもんかわからないんだよな」
いったいどれほどのド田舎から来たのだろう。
――い、いえ、そこは関係ないですわ。それはつまり、私が初めての相手ということ。これは大きなアドバンテージですわ。
何のアドバンテージなのかはわからないが、初めてというのは甘美だと乙女心は言っている。
「それじゃ、行くか」
巨体を抱え大空洞を進む。西園寺曰くこの先には外に出るためのゲートがあるというので向かうのはそこだ。
ベヒモスを倒したおかげか他の魔物は出てこず二人は無事に迷宮から帰還することが出来た。
そこで待っていたのは、驚愕と身元不明無職無国籍という最悪の事実だった。