8話 水凪天祢と佐伯月白③
「……あり?」
昼休み終了のチャイムがそろそろ鳴ろうかという時分。
ふと、比良坂朱美は空席となっている佐伯月白の机を見て目を丸くした。
今の今まで席に居たはず――――そう思ったところで、教室を抜け出す小さな後ろ姿を視界の隅に捉えた。
目線を向けた時には後ろ足くらいしか確認出来なかったが、薄黄色の短いソックスが見えた。
月白だ。
普段であれば筆記用具と次の授業の教材をせかせかと広げているタイミングである。
「トイレかな」
朱美が振り返ったのは、もう一つの空席の方を見る為であった。
先程重役出勤してきた天祢の席である。
昼休み開始と同時にのこのことやってきて、つい先程また出て行ってしまった水凪天祢である。
ここからサボりはなかなかの強気であると思い、帰って来たかどうかを何となく確認していたに過ぎなかった。
朱美は頬杖を突いたまま、教室の出入り口を眺め続ける。
「……ん」
キーン、コーン、カーン、コーン、――――。
後半の始業のチャイム。
鐘が響く中、入って来たのは月白ではなく社会科担当の教諭だった。
岬科高校二年の団教諭、綾小路櫻子である。
「……ありゃ」
静かに入室した櫻子はゆっくりと教壇へ上がり、持っていた帳簿を置く。
きっちりと結わえられた白髪、その佇まいは西洋の貴族を思わせるような気品の老齢の女性だ。
普段から他を寄せ付けないオーラを放っており、生徒からは敬遠されがちな教師であった。
チャイムが鳴り終わり余韻を残す中、櫻子教諭は小さく息を吐いた。
めくった黒い帳簿に目を落とした後、いまだ頬杖を突いて口を開けていた朱美へと目を向けた。
「……比良坂さん。佐伯さんは?」
クラス委員長である月白の不在の理由を、その副委員長である朱美に問う櫻子。
「やー……聞いてないです」
「……聞いていませんか?」
「知ってるんですか?」
「不明だから尋ねています」
「あー。ついさっき出て行くところは見たような」
ちらり、廊下へと意識を向ける。
先程までの喧騒はなりを潜め、聞こえてくるのは隣の教室の授業の声がかすかに程度で、他は足音一つ無い。
すぐには戻らなそうだ。
月白が誰にも何も告げずにいなくなるなどということ、朱美はこれまでを思い返してもあったことがなかった。
余程の急用であるか、そもそも意図していた行動であるのかないのか。
どちらにしろ、朱美には予測が付かない行動のパターンであった。
「……」
彼女の親友である朱美が知らないものを他のクラスメイトが知るはずも無く、静まり返る教室。
櫻子は落ち着いた風に再度帳簿に目を落とし、口を開く。
「水凪君は休みですか?」
「水凪君は休みじゃないです」
きっぱりと言い放つ。
「……登校はしていましたね?」
「登校はしていましたね」
鸚鵡返しに近い形で受け答えをする朱美に、櫻子がじろりと横目をやる。
「些か態度が悪いですよ。比良坂さん」
「すんませーん」
へらりと笑って姿勢を正す朱美。
馬鹿にしているのでも何でもなかったが、自分にはそういう無自覚があることを理解していた為、朱美は素直に態度を改めた。
ちなみに周囲の生徒は二人のやり取りに若干の緊張を感じていた。
自分たちが生まれる遥か前から教員として生き、学園の長たる校長へすら発言に影響力を持つ櫻子教諭に対しても何ら変わらない比良坂さん。
普段は頼もしいが、今はやめて欲しいと思う。
当の櫻子はそれ以上は言及せず、上着の左ポケットから携帯端末を取り出した。
スマートフォンである。
古式ゆかしい佇まいでありながらそんなものをと思いつつも、通信技術の最先端たる携帯端末に古式ゆかしいも何も無いなと朱美は思い至る。
しかしそんな彼女のピンク色の端末に、女子高校生の間で人気の『デコレーション』と見受けられる装飾が所々為されているのには多少なりとも衝撃があった。
それを目にした教室の前の方の席の空気がざわりとした。
「……」
教壇の上へ置き、トントンと慣れた手付きで操作をする。
――――ピロリン。
短い電子音。
分かる者には分かる、今流行りのアプリ『MINE』のメッセージ受信音。
入れているのかよ。
そして返信も早い。
「……。水凪君は学校を去りました」
「はぁ? 帰ったんですか?」
「そのようですね。今、校長からありました」
校長かよ、相手。
返信の早さが気持ち悪い。
「はー……そんなに体調悪かったんかぁ」
「……?」
「ん?」
「……いいえ」
櫻子は机のスマホをポケットへしまい、帳簿を閉じて短く息を吐いた。
「……佐伯さんは行き先不明ということですので、少し確認をしてきます」
返信の早さに加えて、情報量が多いことも気持ち悪い。
愛想を顔に貼り付けたまま朱美がそんなことを考えていると、スッと入口へと歩き出す櫻子教諭。
朱美は口をへの字にする。
月白の性格からして無茶をするなどということは想像が出来ず、心配はしていなかったものの、どこで何をしているのやらと思った。
ふと、櫻子がぴたりと動きを止めた。
静かにこちらへ踵を返し、じっと朱美の顔を見詰めてくる。
「?」
「……。貴方達、もしかして知らないのですか?」
「ほい?」
知らないのかと、振り返った櫻子が何を指して問うているのかが分からず、クラス一同首を傾げる。
「水凪君は、本日付けで自主退学。この学校を、去りました」
「……は?」
一瞬何と言われたのかと思ったが、朱美は目を見開いた。
ざわりと、クラスの空気がどよめき立つ。
「――――」
「……。なるほど、分かりました」
ただ一人落ち着いた様子の櫻子教諭は何かを察したように納得し、再び入口へと体を向けた。
彼女から出た思ってもみなかった台詞に驚愕して言葉を詰まらせる朱美だったが、すぐに持ち直して口を開いた。
「先生」
「?」
櫻子が歩みを止める。
クラス中の視線が朱美へと集まる。
「月白ちゃん――――そう言えば、気分が悪いって言ってました」
へらりと笑って突然、そんなことを朱美は言い出した。
先程まで知らぬ存ぜぬと言っていた朱美である。
櫻子が眉を顰める。
周囲の生徒もポカンとしていたが数人、主に女子の中に、彼女と同じように手を挙げる者が現れた。
「……あっ! 言ってた気がする。ね!?」
目を合わせる生徒達の間にまるで何かが伝播しているように、口々に声が上がる。
「保健室で薬貰ってすぐ戻るって言ってたよね」
「あ、あー……そうだ。辛そうだったよね。そう言えばさっきも、盛大に牛乳噴いてたし」
「それは忘れろ」
すかさず朱美が突っ込む。
彼女を中心に小さな笑いが生まれる。
「……」
その様子を、櫻子教諭は冷ややかな目で静かに眺めている。
大人を舐め過ぎだと、彼女は思った。
目を伏せて息を吐く。
「……ええ、分かりました。まずはそちらに向かうとしましょう」
ガタン、と椅子の鳴る音。
目を開けると朱美が立ち上がっていた。
「先生」
「……何ですか?」
「ちょっとだけ待ってもらえたら嬉しいです」
「何をですか?」
水凪天祢が今日学校を去ることを、月白は知っていたのだと朱美は気付いた。
ここが最後だと、理解をしていた。
だから月白は向かったのだ。
最後だからと奮い立って。
無茶はしていないだろうとはよく言ったものだ。
あたしにくらいは一言相談しろっていう。
「きっと今、月白ちゃんは月白ちゃんなりに頑張ってるんだと思うんです。その何か、勇気とかそういう色んなものを振り絞って」
「……」
「わっかんないけど」
「……」
「――――あ。あたしが見て来ますよ、副委員長だし。それか保健委員が」
朱美が視線を送ると、教壇の目の前の席に座っていた保健委員の三つ編みの女生徒がゆっくりと頷いた。
いつも無口で静かな印象の女子だったが、彼女も理解を示してくれていた。
へにゃ、と朱美が笑みを向ける。
櫻子は息を吐く。
「授業中です。貴方達は教室で待機なさい」
「んー。えーとさ」
「あなたがそう言うのなら、そうなのでしょう」
「え」
「待つと言っています」
まだ何事かを言おうとした朱美の言葉を遮るように、櫻子がそう述べた。
櫻子は無表情で朱美を見詰めている。
「……」
人を見る目、というものが綾小路櫻子にはあった。
長い教員生活の中、万を超える人間と関わりを持ってきた彼女が持ち得た選球眼のようなものだ。
対峙した人間が考えていることが、彼女には何となく分かった。
自分が普段生徒達からどのような印象を抱かれているかということも。
一部を除くおおよその同僚の教員達から畏怖されているということも。
つい先程登校してきた水凪天祢が訴えた体調不良が、仮病であることも。
先程とついぞ変わらない表情を浮かべて立っている朱美が、友人の為に意思をもって自分に楯突いているということも。
そんな彼女と自分のやり取りを、拳を握り締めて見守るクラスメイトも。
もちろん――――佐伯月白のことも。
状況を鑑みて、月白の現状は朱美やその他の生徒の推測通りと考えてよいだろう。
それ以外の状況、万が一本当のイレギュラーを起こしていないかということを櫻子は危惧していた。
それを確認する為に櫻子は席を外そうとしているのだ。
やれやれといった風に、朱美から視線を外して櫻子は言った。
「号令を掛ける者が不在で、授業が始められますか」
「……。うわぁ」
「忘れ物をしてきました。職員室、に戻ります。それまでに彼女が戻らなければ、もう授業を開始します。全員、静かに待機なさい」
朱美は驚いたように目を丸くしたまま、ストンと椅子に腰を落とした。
そんな朱美を切れ長の目で一瞥し、櫻子は姿勢良く踵を返して、今度こそ入口の戸に手を掛けた。
退職間近な年齢にも関わらず、その目に宿す光は衰えておらず。
ぴしゃり。
彼女が静かに扉を閉めて足音が聞こえなくなるまで、誰も微動だにしなかった。
しばらくしんとしていた教室だったが、幾人かの女生徒が朱美へと声を掛け出した。
「……比良坂さん、大丈夫?」
軽く放心したような朱美の様子を心配した女生徒だったが、朱美は何でもないようにうんうんと頷いた。
「水凪君、やめちゃったんだね……」
「佐伯さん、絶対水凪君のところだよね。ひゃー、ドラマみたい……!」
「……ごめんね、すぐに気付けなくて」
「んーにゃ。……ありがとね、みんな」
朱美は同調してくれたクラスメイト達へと、感謝を述べてやんわりと愛想を見せた。
やれやれと溜めた息を吐きながら、奮闘中であろう月白の事を想うのだった。