2話 水凪天祢と八重麒麟②
――――コンコン。
バキャッ。
手元で起こった破壊音。
岬科市立第一高等学校の保健室前の廊下にて。
鍵が閉まっていたらしいことに気が付かず、入口の戸をノックの後に引いたら破損した。
水凪天祢は目を丸くする。
3限目の授業の最中という時分であり、閑散とした廊下にその音は際立つ。
おそるおそる戸を引くと、カラカラという乾いた音と共に横へスライドした。
「……。えぇー……」
覗く部屋の奥。
椅子に座り、タイトなスカートからスラリと伸びた足を優雅に組み、こちらを見詰めながら困惑の声を上げる白衣の美女とぱちりと目を合わせる。
「……呼んでおいて鍵を掛けているなどと誰が思う」
「問題はあなたの力加減の方だと思ったりは……」
天祢の主張に困った顔で反論するのはこの学校の保健室の主、八重麒麟である。
長い黒髪を首の後ろで束ねて留めた長身の女性。
長い脚の先に引っ掛けた乳白色のスリッパをプラプラと揺らし、湯気立つカップと受皿をそれぞれの手に持ったまま。
少しだけ下へずれ気味の赤い縁の眼鏡の奥から、呆れた視線を天祢へと送っていた。
時刻は午前11時40分。
登校した天祢は職員室へ顔を出してすぐさま手筈通りに担任の男性教師に体調不良を訴え、保健室へ向かう旨を伝えた。
一瞬とても怪訝な顔をされたが了承を得ることが出来、天祢はここへとやってきたのだった。
「言ってくれれば。ノックしたのに」
ぽつりと呟く天祢。
「そこを主張するなら、扉を開けようとするのは返事の後であるのがマナーではなくて?」
なるほどな。
ぐうの音も出ず、天祢は頷いた。
何も言わずに部屋に足を踏み入れる天祢。
保健室の戸は一枚戸であり、一般的な例に漏れず鎌型の金具を柱へ引っ掛けるタイプの錠前であった。
見ると柱側の穴が鎌錠に引き千切られる形で破損しており、天祢はふむ、と神妙に頷く。
引き戸の取っ手に手を掛けて、そっとスライドさせることにより静かに入口を塞ぐことに成功した。
これでよし。
左手の甲で額を拭う。
「弁償してね」
天祢は手で顔を覆う。
八重が手に持っていた白磁のカップにそっと口を付け、こくりと喉を鳴らす。
ふぅ、と吐息を一つ。
「ちょうどこうして紅茶を口に含んでいて、返事が遅れちゃったの。こちらも悪かったわ。手配はこちらでしておくから」
カチリとカップを置いて受け皿を鳴らす八重。
費用もそちらで持って欲しかったが、先程も言ったが壊したのは天祢の方であるので、それを主張すること自体がおこがましいと思い自重する。
八重は再びカップにそっと口付け、上品に傾ける。
何らかのハーブの香りに鼻をむずむずとさせつつ、天祢が尋ねた。
「よく飲むの? ここでは」
まるで酒場で見かけた相手に掛けるような台詞だったが八重はさして気にしなかった。
カップの中身はもちろん紅茶である。
「たまにね。暇な時には暇なのよ、保健医なんて」
八重はそう答え、赤い唇を悪戯っ子のように曲げた。
鮮やかな赤色。
化粧を好まない彼女は今も薄くエチケット程度にしかそれを施していなかったが、その細い下唇は紅を挿したように鮮やかな色をしていた。
八重の顔立ちの端正さをより引き立たせるアクセントとなっている。
天祢は目を薄めて八重に言う。
「暇なのはいいことだと思うけど」
医者が暇なのは皆が健康である証拠である。
「嫌。私が暇なのよ」
嫌とか言うなと天祢は思った。
常勤保健教諭という肩書きであるならば、自身の暇を厭うより皆の無事を祈っていてほしいものだった。
そう思いつつ、天祢は八重の腿へと視線を落とす。
「紅茶を飲んでいるのは、初めて見た」
「ん?」
八重の膝の上、薄ピンク色の小さな薔薇の描かれた可憐な印象のティーカップとソーサー。
透き通るような純白の陶器に、八重の綺麗な指がうっすらと映り込んでいる。
「そうだったかしら? あれ、私は紅茶好きよ?」
「そうだったんだ。コーヒーは知ってたけど」
天祢はベッドの横にあったキャスター付きの小さな丸椅子をぞんざいに足で引き寄せ、ぽすんと座った。
砂糖もミルクも一切入れないブラックコーヒーを口にしている場面をよく見かけていたのを思い浮かべつつそう述べたのだったが。
「いえいえ。私はコーヒー、嫌いよ?」
「え」
首を傾げて言う八重に目を丸める天祢。
八重はカップと皿を机に敷いた薄紫色の布の上に置くと腕を上げ、うんと背を伸ばしながら息を吐く。
「仕事中の話ね、それ。疲れているときに目が覚める気がするから仕方なく飲んでいただけ。本当は苦手なの。プライベートでは一度も口にした事がないわ」
苦い顔で舌を出す仕草をしてみせる八重。
言われてみれば、それを見かけていたのは大体彼女がコンピューターのモニターを凝視していた時とかだったと天祢は思った。
要はしんどい時に飲んでいたのだ。
八重麒麟は自己管理が上手な人間であったので、あれを”気付け”だとは考えたことがなかった。
天祢の様子を見て、八重はやんわりとした笑みを浮かべた。
「あんまり余裕が無かったものね、あの頃は。周りのことを気にしていられる人間なんて、数えるほどもいなかったもの」
「……」
何となく無言になる二人。
転んでしまいそうなほど椅子の背もたれに体を預け、黒いストッキングに包まれた足をぷらぷらとする八重。
前を留めていない大きな白衣の裾が床を擦る。
下に来ていた純白のブラウスが中から押し上げられて大きな膨らみを形成している。
その二つの山の向こうに見える八重の白い顎を、天祢はぼんやりと眺めた。
「でもそんな中で、私の嗜好を気に留めてくれてたのはちょっとびっくりしたかも」
「……勘違いでしたが」
天祢はふいとそっぽ向いた。
八重は体を起こしてふっと笑みを見せる。
「嬉しいなーって言っているの。あなた、普段から何考えているか分からなかったから」
「そうですか」
「あはは」
天祢の素っ気ない態度を照れ隠しと見て八重が笑う。
「でもやっぱりたまによ、こうして落ち着いてみるのは。今日はね、しっかり落ち着いておこうと思って」
「いつももう少し落ち着いて欲しい」
「そうね。何故かね、もうこんな時間なんだものね。何でかしらね」
「その節は大変申し訳なく」
ぽそりとさり気なく苦言を呈してみたものの、そもそもこんなタイミングでここへ訪れなければならなかった理由を言及され、天祢は深々と頭を下げた。
そして立ち上がった天祢は、丸椅子を引っ提げて八重の傍へと近付いた。
「怒っていないけどね。もうする?」
「うん」
こくりと頷く。
「……」
ギシ、と椅子を鳴らして、八重が天祢へと正面を向けた。
無表情の天祢と、やんわりと微笑んだままの八重。
お互いの顔を見詰める二人。
しんとして、室内には静かな息遣いだけが聞こえている。
八重がゆっくりと上体を前へ寄せ、両手を天祢の頬に添えた。
息を吐き、睫毛を揺らすように瞼を落として目を細める。
しっとりとした彼女の手のひらの温もりを感じつつ、天祢は静かに目を閉じた。