1話 水凪天祢と八重麒麟①
水凪天祢と八重麒麟
目が覚めたので、体を起こしてみる。
薄暗い部屋の中。
外から感じる喧騒は夜の最中という様子ではなく、水凪天祢は目をコロリと窓へ向けた。
暗い緑色の遮光カーテン。
その隙間から入ってくる細い陽光が、室内を分断している。
天祢は日は昇っているようだと、ぼんやりと認識した。
何か夢を見ていたような気がするが、内容は全く覚えていなかった。
ただしその内容については別段気にならなかったし、そもそも本当に見ていたのかも定かではなかった為、やはり気にしないようにした。
重そうに頭をもたげる。
実際眠気は無かったが、まだ思考が鈍い。
時分が気になり、天祢はしばたく目を左右に転がす。
「……」
携帯端末が見つからない。
天祢は少し考えて、そういえば眠る前に枕元に置くことはしなかったことを思い出した。
布団を剥いでベッドから降り、どこに置いたかと思案する。
椅子の背もたれに掛けた黒いズボンへと目を向けた時に、その向こう――――玄関を上がってすぐの床の上にそれを発見した。
それを見て天祢は昨日帰宅後にその脇にある低いシューズクロックの上にぽいと置いたきり、そういえば触っていないことを思い出した。
床に敷いた柔らかい玄関マットに突っ伏したままの端末を眺めつつ、天祢は冷蔵庫の扉を開いた。
庫内の数少ない内容物とにらめっこをして、天祢は小さなため息を吐きながら飲料水のペットボトルとチョコレートの菓子を取り出した。
起き抜けであるせいかあまり空腹感は無いと感じたため、天祢は水分と糖分のみを摂取することに決めた。
ペットボトルのキャップを回して水を一口、軽く乾いた喉を潤す。
人は就寝時にも呼気や発汗といった要因でかなりの水分を失う。
そう聞くもののあまり実感がしていなかったのだが、こうして水分補給をしてみると、ああそうなのかなと天祢は思った。
味覚に頼らず、おいしいと感じる。
続いてチョコレートの包装を見る。
ナッツやパフ等をふんだんに混ぜ合わせて固めた、ぎっしり詰まった食感と程よい甘さが売りの棒状のチョコレート菓子だ。
一本食せば満足するというような旨を叫びながらひたすら踊るCMで話題の商品らしいが、特にこだわりはなかった。
パリ、と包装紙を裂く。
それを一口齧ったところで天祢は、そういえば今は何時なのだろうかという最初の疑問を思い出した。
再度玄関へと目を向ける。
この部屋には時計もテレビも無い為、それを確かめるには端末が必要だった。
「……」
仕方ない、拾い上げてやるか。
ようやくそういう気が起こり、天祢はそちらへと足を向けた。
そこでふと、なぜ床に落ちているのだろうかと思った。
天祢が記憶している奴の最後は靴箱の上である。
どうして床に落下しているのだろうか。
無意識に手などが当たり落ちたのか、記憶自体が曖昧なのか、はたまたメッセージやコールの着信による振動によってひとりでに――――。
そこまで考えて、天祢は動きを止めた。
「……」
眼下の端末を仁王立ちで見詰める天祢。
チョコバーを口に咥えたまま、おそるおそる手に取って画面に浮かび上がった表示を見た。
メッセージが5件、着信54件の表示に息を呑む。
「……」
7月10日、午前10時34分。
人差し指で画面の認証ロックを解除する。
八重麒麟。
メッセージと着信の履歴全てに、その名前が添えられてあった。
岬科市立第一高等学校の常勤保健教諭――――彼の通う高校の教師である女性の名であった。
「……」
教師である彼女、八重麒麟のことを天祢は”八重さん”と呼んでいるのだが、彼と彼女には教師と生徒という関係以前に別の縁がある。
そういう事情の絡みで、天祢は今日彼女の元へ面倒臭いが訪ねる約束をしていたことを、ようやくの末思い出すに至った。
お互い少し早めに登校し、用事を済ませてしまおうという話であった。
今日に限って寝過ごしてしまう理由が分からない。
また、気まぐれでマナーモードに設定していたことも敗因の一端と推察する。
「……」
天祢は無言で画面を眺めている。
履歴数の割合から分かるように、メールのように内容が形に残る連絡手段を好まない彼女が、珍しくメッセージを残しているのが気になった。
しかも5件。
じっと見詰めた後、指でタップして内容を確認する天祢。
顔を顰める。
5件とも、お怒りのメッセージであった。
どうせ寝ているのだろうというような内容で綴られたメール全てに目を通す。
天祢は頷き、心配の裏返しであろうと解釈した後、今現在ナイーブになっているであろう彼女の神経を逆撫でしないよう細心の注意を払った一文を捻出する。
『ごめん寝てた』
送信。
天祢はよしと小さく頷き、踵を返して咥えていたチョコバーを齧り取った。
即座に端末が振動する。
『怒』
端末画面を眺めたまま、咀嚼に励む天祢。
程よい甘みと噛み応え。
まるで糖分が直接脳へ流れてゆくような、じんわりとした充足感。
甘いものは比較的好きな為、チョコレートは結構好きだった。
あと見た目よりもボリュームがあるなと思っていたところで再び振動する端末。
今度は着信だった。
電話を取る。
「もぐもぐ」
『ふざけんなおい』
会話開始一秒で罵倒されてしまう。
普通に挨拶からスタートするつもりが、食事中であったが故に可愛いものになってしまった。
『あのね、何か口に入っているならね、せめて飲み込んでから取るとかそういう配慮みたいなものをね』
もっともな指摘であった為、やや急いで口のものを嚥下する天祢。
ふぅ、と息を吐き、まるで何事も無かったように仕切り直した。
「おはよう、先生」
『おはよう水凪君。ときに月曜は学校へ来る日だと決まっているのだけれど、それについて何か思うところでもあるのかしら』
水を飲みつつ項垂れる。
そこについては異論は無かったが、やはりご機嫌がよろしくないことと見受けられる。
細く小さな針を神経を避けて刺されているように、それがなかなかに伝わってきた。
この通話の相手が八重麒麟である。
教師然とした優雅な女性らしい口調であるが、ため息と共にそれが崩れた。
『本当に寝てたの? 私、結構鳴らしたわよ?』
「寝てた。ごめん。着信履歴にはちょっと引いた」
教師と生徒の会話は冒頭のみであり、天祢は普段からそうであるように八重と話をする。
見慣れた八重の顔が呆れた表情を浮かべている様が、ありありと脳裏に浮かんだ。
『珍しいわね本当に。何? そんなに手こずった感じ?』
「いや、別にそういうわけじゃないけれど」
天祢は曖昧な返事をして、部屋に一つだけ置いてある焦げ茶色の椅子に腰を掛けた。
ナチュラルオークを加工した簡素な造りの椅子だが、座部にある固めのクッションと背もたれの絶妙な歪曲具合が程よい座り心地をもたらし、割と気に入っている。
今は背もたれにズボンを引っ掛けている為、浅く腰を掛ける程度としているが。
ギ、という音が鳴り、静かに響く。
昨日の件を把握しているようなものの言い方をしている八重。
彼女は大抵の事は知っている、という大雑把な認識の仕方をしている天祢にとっては、八重の物言いを別段奇妙とは捉えなかった。
だったら昨日の事も存じているのだろう。
何の事とは言わない。
『具合が悪かったりはしないのね?』
「大丈夫だと思う」
『そう。……ま、そういうことは後で聞くとして、いい時間よ? 今から学校に来る? どちらにせよ今日中に一度は私に顔を見せてもらうわよ』
「大丈夫。いっぱい寝たから今は目が覚めてる。準備をしたらそっちに向かう」
『はいはい。ただ私、お昼から用事があるのよね。学校に着いたら体調不良のフリをして保健室に来なさい』
「……先生、授業は」
『はい?(怒)』
電話越しの威圧。
まぁいいか。
「到着し次第、顔を出すよ。……心配させてごめん」
『あはは。心配なんかしていないわよ。誰があなたを殺せるのよ』
天祢は口をへの字に締めて、微妙な表情を浮かべる。
水凪天祢を誰が殺せるのか、と八重は笑った。
スッと目を細める天祢。
ふと。
天祢は静かに、右手を前方へと突き出した。
突き出した右手の先をじっと見詰めていると、何かがぞろりと蠢くような気配がした。
薄暗い部屋の中、どこからともなく現れた黒いものがゆっくりと腕に這ってゆく。
まるで砂鉄のような、それでいて液体のような、そのどちらとも似つかわしくないような、何か。
それが意思を持つように、ゆっくりと渦を巻きながら右腕に纏わり付き、同化する。
耳鳴りが聞こえる。
ゆっくりと、確かめるように指を動かす。
びくりと、突如右手の筋肉が蠕動し、あらぬ方向へと折れ曲がった。
さざ波のようだったノイズが次第に砂嵐のように耳にうるさく障る中、それぞれの指が狂ったように動き、そしてこちらへと向いて――――。
『――――どうしたの?』
その声に天祢は目を見開き、はっとする。
目の前に伸ばした右腕はいつもと変わらない肌の色をしていた。
目を丸くしたまま右手をぱくぱくと開閉し、異常無きことを確認する。
ざりざりと耳にうるさかったノイズも始めから無かったもののように、薄暗い部屋は静謐としていた。
『ひょっとしてなんだけど、この上居眠りでもしてるなんてことは』
「ごめん。何でもない」
探るような八重の物言いに、天祢は少し慌てた風に返した。
少し考える素振り。
「何でもない。何でもないんだけど、今俺どのくらい寝てた?」
『……』
「寝てないんだけどね」
『切ろうかな』
「まぁまぁ」
『縁を』
「まぁまぁ」
適当に宥める天祢。
『このやろうが』
お気には召さないらしい。
『まぁそんなこんなも諸々ひっくるめて、後でね。 とりあえず顔を洗って歯を磨いて、着替えて学校に来なさい。 今日くらいはシャキっとしなさい』
「あ、うん。わかった」
ぷつり。
通話が切れた。
通話を終えた後の携帯端末の画面をぼんやりと眺める天祢。
そうしていると独りでに画面が黒く切り替わり、中身の無い電池のイラストが表示された。
それが数回の点滅を繰り返し、そして火が消えたように光が消えた。
「……切れた」
バッテリーが。
触れても反応をしなくなった手の中の屍を見ながら呟く。
今から外出という時にと思ったが、八重からの怒涛の着信を一身に受け止めていたのはこいつだったと気付いた。
天祢は立ち上がり、ぐったりと果てた端末に電力を供給する為、尻のコネクタに細い端子を差し込んでやる。
出発までの数分間、少しでも英気を養ってほしい。
「さてと」
天祢は息を吐いて、着ていたTシャツを脱いだ。
先程見ていたような気がするものについて、巡らせるほどの思いは無い。
それは起床時のように本当に見ていたものなのかどうか実感が湧かないものだったが、見ていたものについての心当たりはあった。
しかしそれは、ああではない。
天祢にとってそれは制御不能であるような異様なものでは有り得ず、気が付けばいつもそこにあった、そういうものだった。
チカリと目に刺激を感じて片目を細める。
前へ屈んだ天祢の首からぶら下がった赤銅色のネックレスが、カーテンの隙間から差していた陽光を一瞬拾ったのだ。
チャリ――――。
長方形の小さなプレート。
白銀色の細い鎖をかすかに鳴らす。
「……」
天祢は何も言わずに制服へと着替えを済ませた。
今日は、忙しくなる日なのである。
まだ「なろう」の機能を御し切れていません。
便利であるという話は聞くんです。