9話 水凪天祢と佐伯月白④
「――――うん。実はそうなんです」
「へぇ……」
岬科市立第一高等学校。
岬科市内唯一の共学制高校であり、全校生徒七百人超に教職員も含めたそのすべてを収容する一棟のみの校舎は必然、巨大である。
大きめのコンクリートタイルを敷き詰めた屋上の縁には、安全の為に四尺程の高さの白塗の鉄柵が囲うように立てられており。
天祢と月白はその柵を背に並んで座り、身を預けていた。
柵の土台のスベスベとしたコンクリートに尻を置いて足を伸ばし、ぼんやりと遠くを眺めながら会話をしていた。
「……」
人一人分程の間を空けて隣にちょこんと座っているクラスメイトの少女、佐伯月白。
天祢が彼女へと視線をやる。
小さな体の彼女は縮こまるように両膝を抱え込み、窺うような瞳をこちらへ向けていた。
ぱちりと目が合うと、月白は少しだけ背を伸ばし、膝に顔を埋めた。
その仕草が可笑しく、天祢は少し目を細めた。
引っ込み思案だが明るくて愛嬌があり、可憐で優しい――――人の心を読むことが出来る少女、である。
彼女は”能力者”だった。
何かを出したり壊したりというようなものではなくそれは、”周囲の他人の思念や思考を読み取る”というものだ。
八重と同じ”精神感応系能力者”。
精神感応。
主に精神や思考の内容が、通常の感覚経路を介さずに伝わるという非合理的な意思の疎通。
経験や心理学に基づいた思考や行動の誘導に収まらない、超感覚的な伝達手段。
思念伝達、読心術、テレパシー。
人に限らず生物は全て、脳からの電気信号に従属する形で生命活動を行っている。
脳を根として末端にまで張り巡らせた神経経路を伝導した電気信号が、各器官の機能や筋組織を刺激することで”動く”ことを実現している。
光の刺激を映像として目から取り込み、空気の振動を音として耳から受ける。
味覚器や嗅覚器は化学物質を味や匂いとして識別し、全身の皮膚に備わった受容細胞により物質に触れたことを認識することが出来る。
そのような合理性を排した、超感覚的知覚とも呼べる情報伝達手段。
「……性質、と呼ぶべきか」
いつかの八重の教示を呼び起こす天祢。
単に能力者という言葉から連想されるのは、戦闘者や破壊者というイメージであろう。
人を超える身体能力、発火等の現象の再現、物質具現――――彼らが得る超常的な力とは、戦いの為にあるようなものが主であった。
それに対して、思考や精神に干渉するようなタイプの能力の発現者は圧倒的に少数であり、存在自体が稀であった。
根拠として今現在記録に残る精神感応系能力者は十人を割っており、そのどれもが特性の異なるオンリーワンであった。
かつて八重から手渡され、流し読んだ精神感応系能力者のリスト。
八重が把握している紙切れ一枚分の氏名リスト――――その中に佐伯月白の名前は無かった。
ぽつりと訊ねてみる天祢。
「……先生のことも、知ってるの?」
「えーと……あ……保健の八重先生かな? 先生とはあまり話したことないけれど、天祢君はよく八重さんって呼んでるよね。仲が良いのかな、というくらいしか……」
「……。なるほど」
「?」
はてなを浮かべる月白。
八重が彼女と同じ他の精神感応系能力者の存在を危惧し、執拗に訓告していた理由が今分かった。
戦闘能力を持たない彼女があらゆる権力や武力を情報で制してきたのを見てきた天祢にとって、それは深く息を吐いて項垂れるに値する事態であった。
天祢は人前で八重を親しく呼んだことは一度も無かった。
これは努めてそうしていたことであり、それは八重との関係性を秘匿していたからである。
二人の関わりを知る人間は、この学校にいないはずなのだ。
さらりと八重の名を出した月白に、天祢は素直に驚愕した。
「……うん。実はあの人、俺の保護者なんだ」
「え……えええ? 八重先生って、天祢君の……!」
ぴょこ、と顔を跳ね上げて驚く月白。
「あ、血は繋がってないんだけどね」
天祢はぷらぷらと手を振って見せつつ、平気な素振りでそう言う。
「そ、そうなんだね……。えっと……じゃあ、もしかして一緒に暮らしていたり」
「いや、別々で暮らしてるよ。保護者といっても家族じゃなくて肩書きだけみたいな感じ」
「そ……ご、ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「全然大丈夫。……ああ、仲は良いよ。多分」
こくりと頷いて、天祢はとりあえず胸を撫で下ろす心地で息を吐いた。
天祢を通して八重の事が詳細に識られているということはどうやら無かった。
月白が読むのはあくまで相手の『思考』であり、『記憶』ではないということ。
それそこだけは、早急に検証が必要であった。
無垢とも言える朗らかな顔でこちらを見ているこの少女が――――成り行きとは言え、情報の観点であの八重麒麟を出し抜いているという事実。
もしそこに悪意が加われば、被害を被る可能性も十分に有り得た。
武力や権力とは違う。
ただそこにあるだけで、場のバランスをどのようにでも壊してしまう。
少なくとも彼女、佐伯月白という少女はそういう存在となり得る素質を有していた。
「……」
ただし。
じっと月白の顔を凝視する天祢。
じーっ……。
月白はしばらくその目を見詰め返していたが、いつものように頬を赤らめて丸い膝に顔を埋めてしまった。
そろそろ一年の付き合いになるのにこの照れよう。
「あ……天祢君。何かな、こっちを見て……」
「いや。……月白さん、何で俺に教えたの?」
天祢は何故自分にそれを打ち明けたのかという、一連の会話の核心に触れることにした。
躊躇しても始まらないし、何より天祢自身それが気になったのだった。
悪意ある存在――――彼女がそういうものとは、天祢には到底思うことが出来なかった。
「えと……ご、ごめんね。急に……」
「そうじゃなくて。……そんな秘密を、何で俺に教えたのかなと」
「……」
こくこく、と月白は頷いて、前を向く。
口元を膝に埋めて肩を竦ませる。
ふと天祢は疑問に思った。
「今って、俺の考えていること聞いてた?」
「えっと……ごめんなさい、聞いてなかった……」
「いや、ありがとう。……オンオフが出来るんだな。ちゃんと制御が可能ということか」
「う、うん……普段は全然聞かないようにしてるの、プライベートだから。物心ついた時から持ってたから、頑張って出来るようになった。でも……どうしてもこちらに向いた思考とか、強い思いとか、気を抜くと聞こえちゃって」
「へぇ……大変だなー」
「大変、ですか?」
「声に乗せない思いなんて碌なものが無いんじゃないかって、今考えてみて思った」
「あ……」
天祢が何となしにそう言うと、月白は困ったような笑みをした。
心当たりはあるのだろう。
そうすると天祢の所感は的を射ているようである。
人間は思考をする生き物である。
知能を持ち、倫理観を有する存在だ。
ストレスというものの発散方法は、ほとんどの場合同じ思考によるものである。
誰かを笑い、誰かを妬み、誰かを誹り、誰かを殺す――――頭の中で。
それが自分であるのか特定の誰かであるのかは、それを想像する人物のみぞ知る。
そんな意思や思考を、強ければより強く受け取ってしまうという異質な特性を生まれながらに持ち合わせて、真っ当に人生を歩む自信を一体どれ程の者が持てようか。
「……」
「天祢君?」
天祢は月白へと顔を向け、人差し指を立てて閉口する。
月白は小首を傾げて回路を開く。
(聞こえる?)
こくこく、と月白が頷く。
このような他愛のない思考をも容易に読み取ってしまう辺り、月白の能力の熟度は計り知れないものであり、天祢は改めて驚くと共にその能力を再認する。
天祢は月白の目を見たまま口を閉ざし、思案する。
(授業、何て言ってさぼったの?)
その問いに、月白はやや怯えたように瞳を揺らした。
「……黙って抜けちゃいました」
ぎこちなく笑う月白。
月白にとって人生初のサボタージュである。
自覚をする度、体に緊張が走った。
拭えない罪悪感に、いつまで経っても落ち着かない。
「……どういう顔をして教室に戻ればいいのか分からないなぁ」
苦笑する月白を見詰めながら、一緒に行こうかと考える天祢。
「う、ううん! いいです、大丈夫……!」
その何気無い天祢の思考に、首と両手をぶんぶんと振り回して断る月白。
ただでさえ誰にも内緒で二人きりで過ごしているのだ。
この上仲良く一緒に教室に顔を出した場合の周囲の反応を物案じての月白の遠慮であったが、天祢は猛烈に断られたことに素直に落胆した。
自分では力になれないようだと、一度だけ頷いた。
これに慌てる月白。
「ち、ちがうの! そうじゃなくて……」
あたふた。
「まぁいいか」
「あぅ……」
ものの数秒という驚異の立ち直りの早さを見せた天祢に、月白が言葉を失くした瞬間だった。
しかし月白も気を取り直す。
「……それでね。 さっきの質問」
「?」
「私ね……天祢君に話したのが、初めてです。こんな話、誰にもしたことなかった」
「比良坂は?」
「……」
ふるふる。
「そっか。ごめん」
人は自分と異質な存在を排斥する。
特に月白の能力は、ともすればこれまでの信頼関係を裏返すかの如く壊す蓋然性を備えているものだ。
彼女の前に立つことは、内面を曝け出すのと同義であり、対等な関係とは程遠い。
だから打ち明ける相手というものを選ばなければならない。
それまでの友好性は意味を為さない。
月白は朱美のことが好きで、ずっと友達でいたいのだ。
「えへへ」
少し安堵したように朗らかにはにかむ月白。
一息入れて、大きな目を優しく細めた。
「それでその……天祢君と……どうしても話がしてみたくて、思い切って言っちゃいました」
何だろう、その動機は。
天祢に月白の考えを理解する力は備わっていないので、彼女が何を考えているのかよく分からなかった。
話があるなら教室で出来ただろうに。
そこまで考えて、ああ、教室では出来ないような内容の話が目的かと、この悲しいまでにデリカシーに欠けた水凪天祢という少年はようやく思い至ることが出来た。
ぱんっ、と腿を叩き、天祢は月白へと上体を向けた。
「OK。どうぞ」
「きゅ、急に何かな……?」
いきなり全力で聞く姿勢に入った天祢に若干の怯えを見せる月白であったが、この悲しいまでにデリカシーに欠けた水凪天祢という少年は悲しいかな、それに気付かない。
「実はこの後行くところがあるんだ。そろそろ本題に入っても大丈夫だろうか」
それは確かに事実であった。
天祢がこのタイミングで学校を去るのは、この後に起こる出来事の為であった。
この場を切り上げる口実などでは決してない。
月白の為、限られた時間内に話を済ませてしまおうと考えてそう言ったのだったが、傍から見ればなかなかに痛い物言いであった。
当の月白は気にした風も無く、ピンと来たように顔を上げた。
「あ、うん……ごめんね。その……言いたくて」
月白は体育座りを解き、両足を揃えて横に流して天祢へと体を向ける。
「……。えっと、好きです」
「? 何が?」
「……あぅ」
真顔で首を傾げられ、真っ赤な顔でゆっくりと俯きながら――――月白は小さな手でスカートを握り締めて、はっきりと告げた。
「あ……天祢君のことが……好き、です」