プロローグ
やがて破天の青春神話
鳥が飛んでいる。
闇の中、その身を舞わせて。
轟音のようなものが、遠くの空を震わせているのが聞き取れた。
晴れていれば日が暮れるか暮れないかという時分、生憎厚い雲に覆われた空は地上に影を落とし、薄暗い。
岬科市中心街に立ち並ぶ高層ビルのうちの一つの上部に搭載した大きなモニター。
闇と化しつつあった空に、その巨大なモニターの映像は眩いほど鮮やかに映えていた。
本来ならばスポンサー企業のコマーシャルやニュースを延々と垂れ流し続ける役割を担うそれは今、そうではないものを映していた。
鳥。
それは光輝く鳥に見えた。
全身を淡い光が包み込み、背から生えた一対の翼は炎のように煌々と光を放っている。
それは人であった。
少女である。
一人の少女が懸命に飛ぶ姿を背後から追うという映像。
闇の中をゆく少女。
少女が右手を振るうと、一瞬だけ暗闇が裂けた。
裂け目から覗くのは青空。
裂けた闇が、まるで少女を飲み込まんとする意思を持つように蠢いた。
よく見るとそれは、生き物に見えた。
闇という空間だと思われたそこには膨大な量の黒い異形の生物が犇めいて存在していた。
それら全てが、少女へ殺到してゆく。
空間を埋め尽くさんばかりの異形のどれもが、人はおろか猛獣よりも遥かに大きく、凶悪な姿をしていた。
少女は身を翻すと共に再度右手を振るい、迫る異形を薙ぎ払った。
空を舞い翻る毎に異形を肉塊へと化す光の少女と、その少女に食らい付き蹂躙しようと無限とも思える勢力で迫る魔物の群れ。
最高峰のCG技術を駆使したリアリティ溢れるフィクションのような、荒唐無稽な悪夢の光景。
そんな映像。
そんな少女の様子がただ延々と流れていた。
地上を行き交う人間は大勢存在したが、これを見上げて眺める者はしかし、いなかった。
「……――――」
市街から遠く外れた郊外。
淀んだ空気の漂う路地裏の拓けた一角に、少年は立っていた。
黒髪黒瞳の少年。
上は薄い黒地のTシャツ。
下に履いた黒のカーゴパンツはまるで軍隊に用いられるもののように頑強そうで厚手。
そしてそのズボンと同化して見えるような真っ黒で大きな靴は、登山用途のトレッキングシューズのような造りをしており、足首を二重のベルトで固く縛っていた。
下に行くほどタフそうな装いであるという、一見してひどくアンバランスな身なりをしていた。
幼さの残る端正な顔立ちに表情は無く、前髪の奥でぱちりと開かれた黒い瞳はある空の一点をぼんやりと眺めている。
遠くの空、チカチカと目まぐるしく動き回る映像。
この場所からでは豆粒ほどの大きさにしか見えないモニターの映像だったが、少年はさして支障の無い風に、それを眺めていた。
まだ少しだけ顔を見せている夕日も、ここからでは窺えない。
少年の立つこの区域だけが、夜の最中であるように暗かった。
郊外の路地の奥――――切り取ったような四角形の敷地には割れたガラスや木屑が飛散しており、その四隅には壊れた木の箱が乱雑に積まれていた。
ゴトリ。
ふと、地面に伝わった鈍い振動。
音はその敷地の隅、積まれた木箱の脇で起こった。
大きな男が倒れている。
薄汚れたコンクリートの地面に倒れ込んだ剃髪の頭に入れ墨の男は、ぴくりとも動かない。
よく見ると少年の周囲、敷地の隅には幾人もの人影があった。
その全てが屈強な男性であり、そして全員倒れていた。
今の男を最後に、意識を持っている者は誰もいなくなった。
この場に立つのは、少年だけだった。
ヒュッ――――。
か細い風切り音。
そっと半歩分左方へと体を動かして何かをかわす少年。
チラリと視線を右へ外すと、そこに黒づくめの青年が立っていた。
「……」
長身の優男。
頭一つとまではいかないが少年より幾分か背の高い青年が、穏やかな顔で立っていた。
顔の右半分は大きな黒い眼帯で覆われている。
少年は気配もなく現れて、一切の躊躇無くナイフで頸部を狙ってきた青年を一瞥する。
そして再び、街の空へと視線を戻した。
青年は意外そうに目を丸めた後、可笑しそうに苦笑した。
空いた左手を懐に入れ、右手に握るのと同じ湾曲したナイフを取り出した。
ブン、と右手のナイフを無造作に少年へと放り投げる。
音も無く事も無く、それを指で摘まんで止める少年。
ヒュオッ――――!
いつの間にか少年の反対側へと回り込んでいた眼帯の青年が振るったナイフを少年が跳んでかわした。
流れるような静かで速い移動。
眼帯の青年が緩やかな笑みを浮かべる。
少年の着地点へと、その足首を狙った投擲を、少年が靴底で弾いた。
ギン、という音。
足を狙うことで注意をそちらへ向けると同時、放たれた黒色の苦無。
それを少年が先に受け止めて手に持っていたナイフで止めた音だった。
散る火花。
目立つ2本のナイフに注意を向け、闇に紛れる黒い苦無で少年の眉間を狙う。
これを一切の躊躇無く行う青年は手練れであり、目的は少年の命であるように思えた。
少年が眼前に掲げたナイフの刃に突き立った苦無が弾かれるより前に、瞬時に接敵した眼帯の青年はそれをそっと掴んだ。
自ら投擲した武器よりわずか一拍遅れの踏み込み。
至近距離、ナイフ越しに少年と青年の視線が絡む。
「――――」
青年の左目から笑みが消える。
この距離とタイミングなら取れると確信したその瞬間、青年は全身を粟立たせた。
静かで暗い――――奈落の如く、どこまでも深い少年の暗い瞳に飲み込まれるような感覚。
本能が危機的警鐘を鳴らすより先に、後退の姿勢に入る。
経験により培われた第六感による反射行動。
苦無の刃先を僅かに引いたその瞬間――――眼帯の青年が、目の前に居た少年の姿を見失った。
ドンッ!!
全力で後ろへ跳躍した青年の右腹部に、重い衝撃が走った。
目を見開く青年。
突然の衝撃に身を強張らせる。
衝撃に空中でほぼ直角に軌道を変えた青年は、敷地の隅に積んであった木箱を蹴って跳ねた。
放物線を描き、そのままフェンスの向こうへと姿を消す。
そして、そこから眼帯の青年の気配は完全に消失した。
「……」
おや。
きょとんとする少年。
割れた木箱がパラパラと木屑をこぼす音が静かに響く。
気配を探るが、完璧に消えている。
この数秒間の静かな攻防がまるで嘘のように、辺りがしじまを取り戻す。
少年は彼の腹を打った右拳を開き、鋭利に曲がったナイフをその場に捨てた。
キン、と澄んだ音を立て、ナイフは地面に突き立った。
下はコンクリートである。
恐ろしく鋭利だ。
「……?」
あれは誰だろうか。
少年は首を傾げる。
知らない顔である。
大きな眼帯で半分が覆われていたが、残りの半分は知らない顔だった。
少なくとも直前に襲い掛かってきた、辺りに寝そべる男達とは明らかに毛色が違うと感じた。
そもそも誰であるのかはいいとして、何の目的で仕掛けてきたのだろうか。
手応えはあったが、ダメージがあったかは不明である。
青年が姿を消した今、再び静かになった周囲へと視線を転がす。
どうでもいいかと息を吐く少年。
追う程のことでもない。
さして回してもいない思考を切り、とりあえず10秒以内に彼が現れなければ移動しようと少年は決めた。
「……」
10秒経った為、少年は暗い路地へと歩き出した。
黒い重厚な靴が路地の砂利を踏んで音を立てる。
街灯の無い暗い通路へと、迷い無く足を踏み出す少年。
ふと、遠くの映像の方へと目を向ける。
空ほどには高くないビルの上。
彼女の纏う光を映して光度を上げる巨大なモニターに、少年は眩しそうに目を細めた。
実際には相当な距離がある為、目に刺激を感じるほどのものではそれはなかった。
しかしそれでも、少年にはそう感じた。
何らかの爆発の後であろう、長い黒煙を切り裂く光の奔流。
穢れ無き光の翼を背に、夥しい数の異形を討ち続ける少女の姿を見詰め、少年はただ静かに息を繰り返す。
不意に。
正面から映り込んだ少女の碧い瞳が、こちらの視線と合った気がした。
「……」
あ、と小さく声を漏らす少年。
無意識に目を逸らしていたことを自覚して、少年は胸が少しだけもやつくのを感じた。
どういう感情であるのかをうまく言葉にすることは出来ない。
もう一度視線を戻すと、画面には空が映っていた。
天空高く舞い上がった少女。
強く輝く光翼が二つの尾を引いて、群がる黒い波へと直下してゆく。
そこで、建物の陰に隠れて見えなくなった。
少年は目を伏せて、それきりそちらへと視線をやらず、暗闇の中を歩み続けた。
星も見えない暗い夕暮れ。
金色の少女を闇の中から眺めていた少年は眠るように目を伏せて、ただ前へと歩き続けた。