生きる故に食べる
2、変わり種
帰宅した自分は直ぐに履歴書に向かう。志望動機、これは何時考えても苦手だ。長所・短所の項目も苦手だが、それらは履歴書の購入時点で無いものを選択している。通過すべき難関は事は少ない方がいい。
正直を言えばただただ妙な興味と家からの距離的な利便性、飲食に対する好意だが。さて、そのまま書くわけにもいくまい。
『前職は営業職なのですが退社を機に、学生時代に慣れ親しんだ飲食店で働きたいと考えていたところ、貴店の募集を見、応募致しました。』
…記入欄のサイズ的にこのあたりが妥当だろうか。喋りは兎も角、文章の構成となるとどうにも自信が持てない。無難なところだと自分では思うのだが。
しばらくの間、鉛筆でメモ用紙に書いた文面とにらめっこ。他にいい案が浮かぶでもなく、何はともあれ面接の印象というのは面と向かってこそ。だろう。結局はなにも弄らずに履歴書へと転写した。
さてと時計を見ると時刻はもうじき3時になろうとしている。
連絡先が無かった以上、飛び込みで行くしかない。店名も分からないのだから、職業案内所や募集誌を確認しようとも思わない。
とすれば、3時というのは如何にもよい時間。これから一応スーツに着替えて、彼処まで行って…3時半というところか。
善は急げ、は好きな言葉だ。タイミングが合う、というか。
予約済みの面接にはない、初めてのどきどき感を味わいながら袖を通していく。ネクタイは職種を考えれば堅苦しいかとも思ったが、どのみちスーツを選択した以上はと締めておく。
玄関で無意識に足を突っ込もうとしたスニーカーを端に追いやり革靴を取り上げる。五日ぶりの感触は毎日履いていた日々を忘れてしまったかの様に堅かった。
つい急ぎたくなる足を抑えながら、意識的にゆっくりと落ちついた足どりを心がける。汗もかきたくないし、店前で息を整えるのは短い方がいい。のんびりとした歩調で進む住宅街は時間もあって静かで、気候も丁度よくぶらりとするには気持ちがよさそうだ。
ここ一月半、序盤は仕事中には我慢していた自堕落を大いに満喫したが、ただダラダラとしていただけで気分転換などは考えず。いざ仕事を探そうとし始めてからは焦り、結局のんびりとした時を過ごさなかったものなぁ。としみじみ感じる。
はてと、何時もと比べて妙に緊張感の薄い自分に可笑しくなる。
好奇心のもとに挑戦する気になったからだろうか。なんだか若返ったような気分だ。
面接が終わったらちょっと散歩してみようか。あ、そういえばここから少し歩くと肉屋があって。あそこの揚げたてコロッケなぞを買い食いするのも面白そうだ。
何故だろう。足どりが軽い。革靴はこんなに軽かったろうか。
何処までも歩いていけそうな、むしろ歩き続けていたいような爽快感をおぼえながらの道程。
だが、目的地は遠いわけでもなく。程無くしてあの暖簾が見えてくる。手前で歩調を緩め呼吸を整える。今の時間帯なら準備中の札が出ていても良さそうなものだが、たどり着いたその場所はやはり何も変わりがなかった。
そもそも営業中の札も無かったのだからそれはそうか。
いつまでも暖簾を見詰めていたところで物事は動かない。
よし。とひとつ気を入れて扉を開ける。一見古めかしく立て付けの悪そうな引き戸は抵抗なく、嫌味を感じない程度のがらがらという音をたてて自分を通した。
中は少し外より涼しかった。左手に四人掛けのテーブル席が2つ。右手のカウンター席が…6、だろうか。今は全てが空席だった。外観のイメージ通り小さな店だと感じた。
カウンターの目の前が調理場のようで、年輩の男性が下を向いて作業しているようだ。他の人は見あたらない。
「あの、すいません」
と声をかけた時、かぶるように
「いらっしゃい。お好きな席へ」
顔を上げて此方をちらと見た男性に言われてしまった。
しくじった。扉を開けながらでも先に声を出すべきだったか。しかし顔を上げてくれたのはありがたい。今はこの方しか居ないようだし、要件を伝えることにした。
「いえ、私はお店の前に貼ってある求人を見まして。電話番号が見当たらなかったもので、失礼かと思いましたが直接来させて頂きました」
頭を軽く下げながら言って、顔を男性の目線に戻す。と、男性が吃驚したような顔で此方を見ていた。
何か自分はおかしかったろうか。あ、もしかして求人の剥がし忘れか。だとしたら残念だが仕方がない。
「あの、もし決まっている様でしたら」
「いや、違うんだ。すまない。少し驚いてね。そうか、求人か。そうか。」
男性は何か合点がいったというようにうんうんと繰り返した。何に驚いたのだろう。面識がある…覚えはないし、流石に初見の人を驚かせるような美男では決してない。醜男でも多分ない。多分。
「あ、いやこういう小さな旧い店なんでね。募集を出しても応募がね」
戸惑いが面に出てしまっていたのか、男性が少し笑い話をするようなトーンでそう言った。
なるほど。と納得してしまうのも失礼な気がして、はぁと軽く頷く。
「すまんけど、そこのテーブルのとこで少し待ってもらえるかな。腰かけて」
作業中に来てしまって申し訳なかったです。そう声をかけるべきか迷ったが、それでまた作業を止めては仕方がない。言われた通りにテーブル席につき、履歴書の入った鞄を膝に抱く。
辺りを何気なく見回すと『おすすめ定食』と書かれた貼り紙が1枚あるだけで、他にメニューやポスター等は見あたらない。
メニューがひとつという店は珍しいが無くはない。日替わりでなくおすすめという所がなんだかこう、良い。
しかし飲みものの類もないのだろうか。シンプルなのは好感が持てるが少々殺風景な気もするが。まぁ解り易いのが一番か。
「お待たせしたね」
作業に区切りが付いたのか、男性がカウンターの奥から此方に廻って来た。どうやらテーブル席とカウンターの間にある通路の奥、そこに垂れた暖簾ごしに見える通路から行来するようだ。
「いえ、大丈夫です」
ペコリと頭を下げて対面に座るのを待つ。
「私は店長の野崎といいます。濁らないノサキです。で、求人の応募ってことだよね」
「はい」
掛けた野崎さんに履歴書を差し出し、背筋を意識して座り直す。
「松坂大輔…マツザカダイスケさん、ですね」
「あ、タイスケです。松坂大輔と申します」
「あぁ、すいません」
自分も濁らないんですよ。と足した方が好感を得られたろうか。いやいや、余計な事は考えるな。集中集中。
じっと見詰めていると野崎さんはどこかぼんやりと、心あらずな様子で履歴書を眺めているように思えてくる。そんなにガッツリと食い付く類いの内容でもなかろうが、不安を感じる挙動に『また駄目か』という思いがじんわりと浮かんで来た。
「ん。いくつか確認しておきたい事があるんだけど、いいかな」
しばらく呆っと落としていた目線を上げて、野崎さんが問い掛けてくる。
「はい。何でしょうか」
「働いてもらうとなると、朝は10時から2時まで。夜は6時から10時まで店に入ってもらいたいのだけど。大丈夫かな」
少し考える内容だ。間が4時間も空くのか。勤務時間としては8時間は妥当だと思うし、時間給だろうからありがたいのだが。
いつまでも考えている訳にもいかない。ここは即決。
「はい。大丈夫です」
流石に考えなしに即答は出来なかったが、優柔不断な自分にしては頑張ったと思う。
野崎さんは少し笑ってうんうんと頷いた。
「それと、あとひとつだけ。うちでは賄いは出さないんで、昼食、夕食両方他所でとってもらいたいのだけど」
むっ。と思う。飲食店であるからにはやはり食事付に期待はしていた。そもそも此処で働きたいと思った理由には入らないが、正直なところ少し残念ではある。が。
「大丈夫です。そうします」
悩むところではない。自分の目的はハッキリとしている。妙に気になるこの店で、食事をとることではなく働くことだ。
野崎さんはうんとひとつ頷いて
「私は採用したいと思います。私、いわゆる雇われ店長で。オーナーに確認後、また連絡したいと思います」
つきましては連絡先を、と来たところで自分も気になっているいることを訊くことにした。
「表の募集をみたときに探したのですが、此方の連絡先は」
「あぁ、この店は出前や予約はとらないのでね。私とオーナーの個人的な連絡先はあるけれど、店としての連絡先はないんだ」
そう言いながらメモ用紙をどこからか取り出して、さらさらと数字を書いて寄越した。
「それ、私の番号ね。君のも書いてもらえるかな」
店としての連絡先がない?まさかの答に大丈夫なのかという思いがまた沸き上がるも、どうやらまとまりそうな話。それに此処を選択するに至った経緯を考えれば、今更考え直すほどの事でもない。言われるままにスマホの番号を書いて渡した。
「ん、これも言っておかなくちゃあ」
そう言って提示された時給は、この辺りの賃金を考えれば100円程高かった。意外な思いが面に出てしまっていたのか、賄いが出ないから高めに設定しているんだよと野崎さんは少し笑った。
「ありがとうございました」
頭を下げて店を出ようとすると、此方こそとカウンターの中に戻った野崎さんが手を軽く振ってくれた。
扉を締めて一息つく。歩を進めながら浮かんでくるのは安堵と不安。
店長は良い人そうだった。仕事が決まりそうでホッとした。連絡先がないってどうなの。オーナーがヤバい人とかないよね。ああ賄いなしは残念だな。間の4時間どうしようか。仕事決まったら母さんに連絡しないと。
あ、帰る前に肉屋でコロッケ買って食べたい。スーパーより肉屋がいい。
帰りに向かっていた足を反対に。先ずはコロッケ。考え事は連絡が来るまで保留。期待も不安も一旦置いとこう。ともあれ気になって仕方なかったあの店は、今まで知らなかった変わり種だった事だけは間違いなかろう。