反復するトラジティ8
(八)
次の日は、暮林さんも学校に登校してきた。僕に話したことで恥ずかしさとかはなくなったのか、川田さんにも、絵本作家になりたいんだという夢を語ったみたいだ。帰り道、川田さんは暮林さんが書いた絵本を読みながら歩いていた。
暮林さんに告白するタイミングを窺っているらしい秋山と、その隣に並んで歩いている僕は、後ろにいる二人に気付かれないよう作戦会議をする。
「まず、秋山の家に行って、一時間くらいは普通に遊ぶ。それから、僕と川田さんが用事を思い出したって言って帰る。これでどう?」
「良いと思う、けど。どうやってそれを川田に納得してもらうんだよ。メールとか?」
「……まず最初に秋山の部屋に行くでしょ? それで、僕と暮林さんが部屋に残って、秋山は川田さんと茶とかお菓子の準備。それをしている間にその話をして頼んでみて」
「わ、かった」
小声で交わした作戦によって気合いが入り始めたのか、秋山の両手が握られる。よし、と意気込んではいるけど、緊張も垣間見えた。
到着した秋山の家は二階建ての一軒家だ。「お邪魔します」と言いながら皆で玄関を抜けたら、秋山が川田さんを引っ張って行く。
「暮林さんと時雨は二階の俺の部屋で待っててくれ。その、扉見れば分かると思うから」
「秋山、なに引っ張ってんの? 私は?」
「茶とか菓子運ぶの手伝ってくれよ」
不機嫌そうな川田さんと、冷や汗をかいている秋山が台所に引っ込んだのを見て、僕は暮林さんと一緒に階段を上った。
扉を見れば分かる、と言っていたのはそういう意味か、と理解する。二階には三つ扉があるのだが、それぞれネームプレートがかけられていて、秋山の部屋の扉には平仮名で『ぐりむ』と書かれていた。
「なんでグリムなのかな?」
「秋山の下の名前だよ」
「そうなんだ? かっこいいね」
ふわっと笑った彼女のその感想を秋山に聞かせてやりたかった。なんて内心で呟き、扉を開けて中に入る。右手側に勉強机と本棚、左手側にはベッドとクローゼットが置かれていた。部屋の中央には低めのテーブルが配置されていて、その上にトランプがあった。
とりあえずそのテーブルの前に腰を下ろして、秋山と川田さんを待つ。
無言の室内はなかなか息が詰まる。二人が早く戻ってきてくれないだろうか、と思っていたら、暮林さんがトランプに手を伸ばした。手持ち無沙汰だったからだと思う、そのままトランプを切り始めた。
「あ、あの、時雨くん。いつも、ありがとね」
「なに、いきなり」
今日はいい天気ですね、という言葉と同じくらい、話題に困った時の台詞みたいなものを投げかけられて、笑ってしまう。苦笑した僕に、彼女もつられて微笑んだ。
「本当に、あんなことを知っても仲良くしてくれて。秋山くんも雪ちゃんも、私の夢を馬鹿にしないでくれて。嬉しいんだ」
「そっか。もしかしたら、君がこれまで一人で頑張ってきたから、秋山とか川田さんとか、良い出会いが訪れたのかもね」
壁に掛けられた時計が、かちかちと音を鳴らす。暮林さんは黙ったまま、嬉しそうに笑顔を咲かせた。そんな顔を見ることが出来て嬉しかったのか、僕の口は更に動く。
「もし僕が君で、明坂時雨みたいな奴が現れなかったら、きっと自殺をしていたと思うんだ。だから、ここまで頑張れた君は、すごいよ」
褒めたくなって言葉を探したけれど、今の発言を思い返してみたら恥ずかしくなる。「自惚れみたいで笑っちゃうけどね」と僕は付け加えた。
もし僕が君で。
その言葉が、喉に刺さった魚の骨みたいに、引っ掛かった。僕が、暮林霖雨だったら? もし僕が、彼女の人生を辿ってきて、彼女のいる環境に置かれていたとしたら? 本当に死んでいた?
おかしな仮定を組み立てようとしていたら、扉が開かれる。秋山と川田さんが、お盆に載せた茶と菓子を運んできた。
テーブルにコップとお菓子が並べられて、暮林さんがトランプを切って配ってくれる。大富豪が始まって、表面上で僕はそれを楽しんでいた。ババ抜きをしたり、七並べをしたり、携帯ゲームで遊んだり。勝っても負けても、笑顔の仮面を付けっぱなしにしているみたいだった。
今の僕は、別のことを考えるのに必死だったから。
一時間くらい経過して、僕は何気なく立ち上がる。いきなりどうしたのか、といった風に暮林さんが僕を見上げたから、手を振ってみせた。
「今日は、この後用事があるんだ。だから、また明日ね」
「あ、こんな時間なんだ。私も帰る。あとは霖雨と秋山で楽しんで」
秋山とちゃんと話をしたみたいで、川田さんが僕に付いてくる。二人で一緒に部屋を出て、秋山の家を出る。敷地内から歩道に踏み込むと、川田さんが僕の肩を叩いた。
「霖雨の絵本、読んだ?」
「え、ああ、うん。小さな女の子が好きそうな話だった」
「私小さくないけど、あの話好きだよ。元気、もらった。なんだか、家族とちゃんと話したくなる絵本だった」
「それ、今度暮林さんに伝えてあげて。きっと喜ぶから」
言いながら、僕が嬉しくなっている。あんな稚拙な絵本が、誰かの気持ちを動かせるんだ。込み上げる嬉しさに、僕はもう苦笑するしかなかった。多分、気付いてしまったから。苦笑が微笑に見えるように表情を動かしつつ、川田さんと暫く並んで歩く。途中で別れて、僕は一人で駅の方向に進む。ふと目を付けたのは、またあの公園だ。今日は誰も座っていないベンチに、一人で座り込んだ。
「猫」
公園は、遊んでいる子供すらいなかった。本当に一人ぼっちみたいだった。ここに来るといつも孤独を感じて、だけどその静かな孤独が、とても心地良い。幼い頃からそう思っていて、辛いことがあるといつもここに来ていたことを思い出した。
高い建物が周りにないから、少し顎を上に向ければ、視界一面が空になる。橙の空を仰ぐ僕に、あの声が届いた。
「呼ばれたから来たんだが、君はさほど困っていないように見える」
「困っては、いないのかもしれないね。不安と焦りと……まぁよく分からないけど、頭の中が、グチャグチャになってる」
空を見上げながら思い返す。暮林さんが歌った歌のこと。暮林さんが好きだと語った絵本のこと。暮林さんの親、環境、していたこと、されていたこと。全部、暮林さんのものなのに、僕のもののように思える。
飛び降りて死ねるほど高い建物を、僕は学校くらいしか知らなかった。屋上に続く階段の手前にはロープが張られていて、立ち入り禁止と書かれているだけで、そこを越えてしまえば簡単に屋上に入れる。
あの日は、雨が降っていた。遺書が濡れてしまうだろうから、と思って、雨の降っていない日にしようとしたけれど、翌日も雨が降っていた。長い雨が止むのをそれ以上待っていられないくらい、もう我慢の限界だった。
家では金を稼いで来いと怒鳴られ、描いた絵本を破かれて。学校では孤立していて、誰も僕を相手にしない。幼い頃は友達もいたけれど、僕が貧乏だと知るとすぐにみんな友達であることをやめた。みんな僕の陰口を叩くようになった。だから、他人の視線も他人の声も、全て僕を笑っていると思っていた。友達も居場所も持っていない僕が笑うのは許されないことで、気持ち悪いことだと思っていた。
表情を殺して、心を殺して、夢を潰して。そんな風に生き続けていた日々で、救いを差し伸べてくれる人間なんて、僕にはいなかった。いなかったから、長雨が降り注ぐ中で、僕は身を投げた。
泣き出しそうに、頬が震えている。僕はそれを、薄く笑って誤魔化す。
「猫。僕って、暮林霖雨なの?」
「気が付いたかい?」
「……そうなんだね。けど暮林さんがいるのに、なんで僕が彼女と話せるの?」
冷静を繕って、視点を下げる。猫は僕の前で、顔色一つ変えずに説明を始めた。
「世界はね、二つあるんだ。全く同じ人間が両方の世界に存在していて、その人間達はどちらの世界でも全く同じ人生を辿っている。その二つの世界を、AとBで分けて呼ぼうか。どちらも全く同じだけれどね、AはBよりも一月早く時間が進んでいるんだ」
「一月……」
一ヶ月。僕に渡された、暮林霖雨を救うための期間。
「そのAの世界で自殺した人間のうち何人かに、気まぐれにチャンスを与えているんだ。本当に時間を巻き戻してしまうと、色んな人の未来が変わってしまったり、世界中の色々な所で影響が出てくるかもしれないから。まぁつまり君は、Aの世界で死んだ暮林霖雨なんだよ」
僕がもし、こちら側の暮林霖雨だったら、救ってもらえたのか。なんて考えても、虚しさが溢れるだけだった。ただ虚しいだけに思えた。今日までの日々も、残りの二週間も。僕が死んだのに、こっちの僕は死なないなんて、ふざけるなと思った。そう思っても、やっぱり募るのは、虚しさだけだった。
僕だって、救われたかった。
「……僕は、どうなるの」
「言っただろう、転生するんだ。ただし、Bの世界の暮林霖雨が亡くなったら。それまでは、眠っていてもらう」
「……さっきまで僕と一緒にいた暮林霖雨は救われるのかもしれない。死なないでこれから未来に進んで行くのかもしれない。それなのに、僕は? ただ、眠るだけ? せっかく暮林霖雨を助けたのに、それだけ? ……僕も、救われたい。――猫、お願いだ。今は僕だって……生きたいよ。ねぇ、生きていたいんだよ!」
悪戯に傷付けられた硝子みたいに、耳を塞ぎたくなるような音が喉から飛び出した。下瞼が持ち上がって、視界を狭める。瞼に押し縮められた視界は、ぼやけていた。
「もう終わってしまったものを戻すことは出来ない。それが、死というものだろう? 自殺という罪を犯した君に、これ以上あげられるものはないよ」
「罪……そう。そうだね。そっか、死か。僕が、自分で、選んだんだっけ」
もしかしたら、僕がもっと生き続けていれば、いつかどこかで、誰かが手を差し伸べてくれたのかもしれない。生きていれば、助けてもらえる可能性が少なからず在ったのだ。それを捨てたのは他でもない、僕だった。
俯いた僕のズボンが、涙で濡れていた。両膝に置いた手が震えながら、ズボンに皺を作る。今更嘆いても、今更救われたかったなんて言っても、何もかも遅すぎた。自分が救ってもらえる可能性も、自分が笑える未来も、想像したことなんてなかった。
声もなく肩を震わせる僕に、猫が言った。
「世界が違っても、彼女が君であることに変わりはない。だから、残りの期間、彼女や友人と楽しみながら、よく考えてみると良い。君はこの一ヶ月、意味のないことをしていたのかな?」
「……一ヶ月でも、友達がいる楽しい人生を送れて、良かったのかもね」
今は、そうとしか思えなかった。これ以上何を思えば良いのだろう。
暮林霖雨に居場所を作れたことは、彼女が自分だったと知っても後悔していない。彼女なんて救われなければ良かった、とも、心からは思わない。頭の中に、彼女の笑顔が浮かんだ。
悪態をつけないくらいに僕は、彼女の笑った顔を、気に入っていた。