反復するトラジティ7
視線が絡む。先程まで無邪気な笑みを浮かべていた相貌は、どんどん色を失くしていく。怯えているような瞳が、街明かりを吸い取ってキラキラしていた。
「リンちゃん? どうかした? やっぱり学生だし、ホテルよりカラオケが良いかな? それともウチに来る?」
暮林さんの胸中なんて何も知らずに、彼女の隣の男が楽しそうに笑う。話しかけられてようやく、固まっていた彼女が、わざとらしく男に身を寄せた。甘え方を知っている女みたいに、さりげなく頭を腕に擦り付けた。
「小沢さんが行きたい所で良いですよ。でも少し、足が疲れちゃって。近い所が良いなぁ」
「じゃあカラオケにしようか」
そんなやり取りをして、僕に背を向けて行く。カラオケ店に入ろうとする背中を、僕は、黙って見ているなんて出来なかった。
暮林さんの肩を掴んで無理やり振り向かせると、動揺している彼女の顔が視界に飛び込む。その向こうで、三十代くらいの男が「は?」と言い出しそうな眼球を僕に向けていた。
僕はそのまま暮林さんの腕を引っ張って、逃げるように駆け出した。行く先はどこでも良かった。あの男について来られないように、点滅している青信号を駆け抜ける。横断歩道を渡っても、止まれなかった。人気がなくなるまで、どこまでもこのまま走りたかった。
「っ離して!」
甲高い悲鳴が聞こえたのは、駅から数百メートルは離れた頃だと思う。道の先には、僕の泊まっているホテルが見えた。無意識の内に駆けてしまう道は、普段通り慣れた所なのだろう。
細腕を掴んだまま、僕は彼女と向かい合った。
「暮林さん、何してるの。何をして、何をしようとしてたの。やめなよ。そんなことしたって、そんなの君が――」
「違う。違います、私。人違いです」
まるで、彼女一人だけ、真冬の世界にいるみたいだった。真っ青な顔で、ひたすらに首を左右に振る。今にも、泣き崩れてしまいそうだった。夜の藍色が、ひどく、冷たく見える。
暮林さんの腕を掴んだままの手が、無意識下で力を込めていた。
「……ふざけないでよ。別に、こんなことで友達やめたりしない。人違いなんて、そんな嘘吐かないでよ。あんなこと、もうしないでよ。何されるか分からないし、何があるかだって」
「仕方ないでしょ!」
その声は悲鳴にしか聞こえなかった。人気のない静寂に吸い込まれていくその余韻が、僕の鼓膜を震わせる。瞠目して息を呑んでいるうちに、暮林さんは叫び続けた。
「仕方ないんだよ。だって、こうするしか、ないんだから。こうしないと駄目なんだから。仕方ないじゃん。他にどうしたら良いの!?」
流れ星みたいに、涙が微かに光って頬を伝う。薄く施されていた化粧が、涙で滲んでいた。落涙していることに気付いているのかいないのか、彼女はそれを拭い去ろうとしなかった。僕を見つめることに、必死になっているみたいだった。
僕は「ごめん」と呟く。彼女の訴えたいことがあまりに砕けていて、拾い上げた欠片だけではなにも読み取れなかったから。
「ごめん、何が仕方ないの? なんでそうするしかないの? 今の話じゃなにも分からない。ゆっくりで良いから分かるように――」
「時雨くんには分かんないよ!」
目を細めてしまったのは、耳を劈いた拒絶が鋭かったからだろうか。それとも、振り払われた腕が動かなかったからだろうか。
走り去っていく後姿が、とても、愚かに見えた。
嫌われるだとか居場所がなくなるだとか、そういったことに怯えて、救いの手を振り払う。そんなのは、取り乱している人間なら誰だって犯してしまうことだ。
だけどそれを目の前でされてしまうと、どうしようもなく、叫びたくなった。
救おうとしてくれる人がいるのに、逃げるなよ。僕なんかよりずっと恵まれているのに、僕には差し出されなかった手がそこにあるのに、目を逸らすなよ。
震えた唇からは息が漏れるばかりで、何一つ言葉に出来なかった。彼女を愚かだと思った自分自身が憐れに思えて、馬鹿みたいに、泣いていた。
(七)
翌日、暮林さんは学校に来なかった。体調不良で欠席だという。秋山はとても残念そうにしていたし、川田さんは退屈そうにしていた。放課後に、暮林さんへプリントを届けたいから、という理由で担任のもとを訪れ、僕は彼女の家へと向かっていた。
秋山と川田さんには、病人に大勢で押しかけるのも良くないでしょ、と話して、僕一人で行くことにした。学校から徒歩十五分ほどのところにある、古そうなアパート。アパート名が書かれている看板は錆びていて、建物の壁も綺麗と言えない。元々は白かったのであろう壁には砂や泥などの汚れが点々と付いていた。
そのアパートの一階で、一番奥にある部屋のインターホンを、そっと鳴らす。昨日のこともあったから、少しだけ緊張してきた。また避けられるかもしれないし、そもそも出てきてくれないかもしれない。不安と緊張で、心臓が早鐘を打つ。ごくり、と唾を飲んだ。
中から返事がないまま、扉だけが錆び付いた音を立てながら開く。出てきたのは、寝起きのようなボサボサの髪をした女性だった。夕方なのに、着ているのは多分寝巻きだ。
「……誰?」
「あ、僕、霖雨さんのクラスメートで、あの子今日欠席だったから、プリントを届けに来たんですけど、霖雨さんはいますか?」
たった一単語を口にしただけでも、彼女が不機嫌なのは嫌と言うほど分かった。気圧されながらも、僕は平然と言い切ったが、苛立ちに塗れた溜息が吐き捨てられる。
「知らないわよ。帰ってないし。プリントなんて会った時に渡したら?」
言うだけ言って、彼女は扉を閉めてしまった。間抜け面をした僕だけがそこに取り残されて、吐き気がした。帰っていない娘を心配しない母親。どうでも良いと言わんばかりに無関心な瞳。愛されていないことが、それとなしに伝わってくる。自分の親でもないのに、なんでこんな奴が親なんだろうと思ってしまった。
唇を噛み締めて、僕はアパートを後にする。そのままただ、ぶらぶらと街を彷徨った。暮林さんの姿を求めて、ひたすらに歩き続けた。今はとても、彼女に会いたい。会わなければならない。
歩いても歩いても、見知った姿は見つけられない。いつも見ている暮林さんの真面目な格好も、昨夜初めて見た乱れた格好も、見つけられない。
やがて空が薄暗くなってきて、拳を握り締めた。
「猫。……猫!」
通行人なんて気にせずに、必死に呼びかけた。猫を呼ぶのはいつぶりだろう。ホテルの場所を聞いてからは、一回も顔を合わせていないような気がする。
通り過ぎていった人が僕を不審な目で見ていたけれど、そんなのはどうだって良かった。真っ白な猫が電柱の陰からふらりと現れて、苦笑する。
「相当お困りのようだ」
その不思議な声音は、僕にしか聞こえなかったのだろう。猫の鳴き声を気にする者は一人としていなかった。僕は真っ白な体を抱き上げて、その耳に唇を近付け、小声で問いかける。
「暮林霖雨が死ぬのはあの日から一ヵ月後――あと約二週間だけど、僕の影響でその自殺日が早まってしまうことって、あるの?」
「そうだね。彼女の中に、自殺したいという気持ちはいつだって蔓延っていて、常に引き金に手を添えている状態なんだ。いつどんなきっかけでその引き金を引くかは分からない」
猫の回答に歯噛みする。嫌な予感がした。彼女が自殺してしまうような気がした。彼女にとっての悲劇が、繰り返されてしまうイメージ。そんな悲しいものが瞼の裏に映される。実際にその自殺風景を見たわけではないのに、鮮明に思い描けてしまう。
そうなるのが嫌で張り上げた言葉は、切迫していた。
「暮林霖雨の居場所を教えて欲しい」
「公園だよ。二週間前、君がボクを呼び出した所さ」
今向かっていたのは商店街の方で、全く反対だった。僕は歩いてきた道を戻る。もう歩いてなんていられなかった。目的地に向かってひた走る。夕陽が沈んでしまう前に、僕はそこに辿り着けた。
二週間前、僕が座っていたベンチに、今日は暮林さんが一人で座っていた。公園内で、数人の小学生が砂遊びをしている。僕は柵の間を通って、暮林さんの傍に近寄った。髪は下ろしたままで、服装も乱れたまま。だけど眼鏡はかけていて、少しほっとした。
ノートを見つめている彼女の正面に立ったら、僕の影が彼女の視界を暗くしてしまったのだろう。すぐに彼女は気が付いて、顔を上げてくれる。
「おはよう、暮林さん。……いや、こんにちは、かな。捜したよ。隣、良い?」
走ってきたから、息が上がっていて情けない。疲れきっている僕を見て、暮林さんは苦笑いを浮かべた。「うん」とだけ返して、少しだけ、ベンチの端に寄ってくれる。僕は隣に腰を下ろし、何か声をかけようとした。しかし、先に発声したのは彼女だ。
「私、その、ごめんなさい。時雨くん、前に、踏み出さなきゃ駄目だって言ってくれたのに、私、何も変われないの。伝わるか伝わらないか曖昧な言葉だけかけて、伝わってくれることを願ってる。けど、ちゃんと伝わった後で、拒絶されるのが怖いから、ちゃんと、全部伝える勇気がないんだよ」
それは、僕が「なんでもない」と誤魔化した言葉のことだった。吃驚する。彼女は、あんな発言、全く気に留めていないと思っていたから。
膝の上で開いたままのノートをじっと見つめて、暮林さんは俯いた。
「私の、話。つまらないかもしれないし、どうでも良いかもしれないけど、聞いてくれる?」
強風が吹いたら折れてしまいそうな、か細い芯を包んでいる声だった。僕が「うん」とだけ返すと、暮林さんは僕をちらと見た。ほっとしたように、唇を撓ませていた。
「……私、絵本作家になりたいの。けど、お母さんが、そんな無駄なことに時間を費やすなって」
白い指先が、罫線のないノートの紙をすっと撫でる。その頁には、女の子と街の絵が描かれていた。けれど、紙はところどころ破けていて、セロハンテープで繋げられている。
「高校に行くお金だってないし、お母さんと生活するためにお金稼がないといけないから、絵本作家だなんて夢は、諦めなきゃいけなくて」
「そっか……」
「でも、ね。辛いんだ。やりたいこと諦めて、やりたくないことやってお金貯めて、お母さんの奴隷みたいで。頑張って男の人からお金貰っても、お母さんは私に興味なんてなくて、お金しか見てなくて、私に、居場所なんてなくて。学校に行っても居場所はなかった。笑っていいって、好きなことしていいって許してもらえる場所って、なかったの。私、いられる場所がないのに、夢だって追えないのに、それでも生きてる私ってなんなんだろうって、思って」
鼻にかかったような声に、変わっていく。「ずっと死にたかった」と零した時には、もう、声と言うよりも吐息に近かった。僕は、無言でその頭を撫でてやることしか出来なかった。初めて聞いた彼女の境遇に、驚きはしなかった。ただ、胸が、悲鳴を上げていた。少し間を置かないと、言葉を返せそうになかった。
「……昨日は、時雨くんには分からないなんて言って、ごめんね。ただ、怖かったの。時雨くんのおかげで私、今、生きてるのに。時雨くんが友達と居場所をくれたから、私、生きていようって思えてるのに、男の人と遊んで、お金もらって、そんな最低なことしてるなんてバレちゃって、嫌われたら……もう、どこにも行けないと思った。居場所が、なくなっちゃうって、思ったの」
夕方五時半に響く鐘が鳴って、砂遊びをしていた小学生が公園から出て行く。僕は鐘の音が過ぎ去るのを待ってから、首を横に振った。
「謝らなくて良いんだよ。事実、分からないからさ。暮林さんがどれほど辛いかって、想像は出来ても、ちゃんとは分からない。だから、助けたいなぁってヘラヘラ笑って、君に手を差し伸べられる。暮林さんが押し潰されそうなほど辛いなら、それを笑わせて和らげることだって出来る。友達だから、伸ばした手は引っ込めないよ。どんな形でも、暮林さんは頑張ってるんだから」
「……時雨くん」
「僕だけじゃない。秋山だって、川田さんだって、君を助けたいと思ってるんだ」
さらりとした髪が揺れて、暮林さんの顔が上げられる。真正面から見た彼女の瞳は、真珠みたいに煌めいた。長い睫毛が濡れている。頬が、濡れていく。歯と唇を震わせながら、暮林さんは「ありがとう」と零した。
「……その絵本、読んでみても良いかな?」
声を殺して泣きながら、暮林さんは首肯してくれた。彼女の膝から、そっとノートを引っ張って、それを捲っていく。
物ならばなんでも持っているお姫様が主人公だった。だけど、お姫様に友達はいなかった。パーティーに行っても、なんでも持っているから羨ましがられて、分かり合えないと思われて避けられる。遊ぶ為に街に出たいと言っても、王様が許してくれない。
そんな彼女は、持っていたものを全部お城に置いて、こっそり街に飛び出した。地味なワンピースを身に纏い、同じ年頃の子に声を掛けて、友達になる。友達と泥だらけになるほど遊んで、とても楽しんだけれど、帰るに帰れなくなった。服だけでなく顔や手足も汚れてしまって、王様に怒られてしまうと思ったのだ。友達に慰められても、お姫様は泣き止まない。困り果てた友達をそっと下がらせて、誰かがお姫様に手を差し伸べる。
全く、おてんばだなぁ。でも、楽しそうだったね。と微笑んでいたのは、王様だった。それからお姫様は、王様と友達と一緒に、美味しいご飯を食べた。