反復するトラジティ6
毎日のように遊ぶことで仲を深める、ということしか僕の頭にはなかったが、僕も彼女達も、皆中学生なのだ。財布に入っている金と言ったら、普通親から貰う小遣いくらい。たくさん貰える子もいれば、そうじゃない子もいる。親に「友達と遊ぶからお金を頂戴」と言って貰える子と、貰えない子がいる。
みんなの金銭事情までは考えていなくて、内心で舌を打った。次からは金を使わない娯楽にも目を付けよう、と考えていたら、黙っている暮林さんの代わりみたいに川田さんが開口する。
「クラスの子が話してるの聞いた。霖雨、母親と……その、仲良くないんでしょ。だったら、お金とか、大変じゃないかなって」
川田さんは、はっきりと物を言っているけれど、言葉は選んでいるみたいだった。実際、彼女が聞いたという話は、もっと酷い言葉が使われていたかもしれない。たとえば、いじめられているだとか、虐待されているだとか。
思えば、僕は暮林さんに友達を作ることに必死で、彼女のことをよく知らない。自殺の原因は学校で孤立していることだと、勝手に決め付けてしまっていたような気がする。
何を言えば良いか分からない様子で唇を引き結んでいる秋山が、暮林さんに気遣うような面様を向ける。暮林さんは笑った。砕いた硝子で作ったみたいな、痛々しい笑顔だった。
「大丈夫だよ。雪ちゃんに出してもらうのは、悪いし」
「悪くない。金なんて腐るほどあるよ。貯金増えすぎたから減らさせて」
暮林さんの手元の財布を奪って、川田さんが小銭入れのファスナーを閉め、持ち主の鞄の中へ突っ込む。そのまま鞄を持ち上げて、自分の右手側に運んだ。暮林さんが手を伸ばしても届かない位置だ。
困ったような顔で暮林さんに見上げられ、「早く何食べるか決めたら」と川田さんが素っ気無く返す。
渋々引き下がって、暮林さんはメニューと睨めっこを始めた。
「川田って、金持ちなのか?」
「別に」
秋山の問いかけにも冷たい声が返されたが、川田さんはいつもこんな感じだ。深く聞かれたくないわけでも、質問に苛立ったわけでもないと思う。
テーブルに置かれている呼び鈴を鳴らして店員を呼ぶと、僕らはそれぞれ食べたいものを頼んだ。少しして、四人が頼んだ食事が卓上に並べられる。チーズの乗ったハンバーグを箸で切っている僕の横で、秋山が明太子パスタを口に含む。咀嚼してから、彼は「今度さ」と言った。
「いや、今度ってか、みんなが良ければ、明日。明日は、俺の家で遊ばね? 金かかんないし、ご飯食べる奴が多くなると母さん喜ぶし、カードゲームとかテレビゲームとかするのも楽しいだろうし。どうだ?」
「良いね」
言下に返したのは僕だ。それはとても楽しそうだと思ったし、秋山がそれを提案したのは、もしかしたら暮林さんを色んな面で気遣ってのことだろうな、と思ったからだ。お金に余裕がないかもしれなくて、家庭環境も良くないかもしれない彼女に、一般家庭で楽しい食事をさせる。それは良いアイデアだと思った。
川田さんと暮林さんも賛成のようで、二人とも「楽しそうだね」なんて話し始める。それから、トランプは何が好きか、だとか、どんなゲームがあるか、だとか、そんな会話が始まった。トランプのゲームはいくつか記憶にあったため、なんとか会話についていけたけれど、テレビゲームだとかRPGとかの話になってくると、流石に記憶と知識が追いつかなくて、相槌を打つことしか出来なくなる。
暮林さんもあまりゲームはしないのか、川田さんと秋山の話を微笑んで聞いているだけだった。
聞き側に徹する、というのも退屈で、僕は暮林さんのドリアの皿を指で叩いた。ガラス製の器が透き通るような音を立てて、暮林さんの興味を引く。こちらを見てくれた彼女に、にこりと笑った。
「暮林さんも、あんまりゲームとかしない?」
「あ、うん。私、そもそも友達、いなくて。ゲームを買ってる余裕も、なかったから」
「そっか。じゃあ、秋山の家でやるの、楽しみだね」
「時雨くんは」
僕と彼女の虹彩が、真っ直ぐな線で結ばれる。眼鏡の奥の丸い目を、初めてちゃんと見つめたような、そんな気がした。だがそれは気のせいだ。実際に初めてだったのは、多分、暮林さんが真っ直ぐに僕を映したこと、だと思う。いつも恥ずかしそうに目を逸らしていた彼女が、真っ向から僕に、初めて向き合ったような感覚だった。
暮林さんは、あ、と口を塞いだ。
「ご、ごめんね。えっと、明坂くん、は」
「え、あ、いいよ。時雨で」
逸らさずに僕を見つめてくれたという衝撃に意識全部を持っていかれていたみたいで、下の名前で呼ばれたことには気付いていなかった。
時雨で良い、と言われて、彼女はプレゼントを貰った幼子みたいな顔をする。そんなに嬉しそうに笑えるのが、羨ましいだなんて思ってしまった。
相変わらず自分の思考が理解出来ず、掻き消すように後ろ頭を掻いていれば、暮林さんが続ける。
「じゃあ、その、時雨くんは、さ。絵本とか、好き?」
いきなりの質問に、僕は首を傾げる。中学生が絵本を好きだと言うことを、恥ずかしく思っているのか、暮林さんの顔はみるみる赤くなっていった。それがなんだかおかしくて、僕を笑わせてくる。
「好きだよ」
「はっ!?」
音量を最大にして曲を流してしまった時みたいに、大きな声を上げたのは秋山だ。川田さんと話していたはずの彼はいきなり僕の胸倉を掴んで、小声で怒鳴ってくる。
「おまっ、時雨どういうことだよ! せめて俺のいないところで、だなぁ!」
「いや、秋山、違う。絵本の話」
「絵本?」
気が抜けたような顔を浮かべている秋山を、川田さんがクスクスと笑っていた。もしかしたら彼女は、秋山が暮林さんのことを好きだと知っているのかもしれない。
暮林さんは喧嘩が始まったと思ったのか、狼狽して止めようとしていた。
秋山が僕から離れて、ソファに背中を沈めたため、僕は話を戻す。
「暮林さんはどんな絵本が好きなの? シンデレラとか?」
「うん、好き。子供の頃、童話はたくさん読んでいたの」
「そっか。やっぱり女の子って、童話の王子様に憧れる?」
暮林さんがどう反応するのか見てみたくて、少しからかうような声柄で言ってみた。けれど彼女は、ううん、と首を左右に振る。
「シンデレラなら、魔法使いの方が好きだよ」
「へぇ、どうして?」
「だって、舞踏会に行きたいって思いを叶えてくれるのは、魔法使いだから。シンデレラが王子様に会えたのも、幸せになれたのも、魔法使いのおかげでしょ。けど、魔法使いは一度助けてくれたきりで、それからは出てきてくれないのが、残念だよね」
本当に、童話が好きなのだろう。普段みたいに言葉に詰まったりせず、饒舌に、楽しそうに彼女は言った。話を聞いていたら、確かに、と思えて、なんだか僕まで楽しくなる。
「そう言われてみると、僕もそう思っていたみたいな、そんな感じになる」
「時雨くんも?」
「昔、そう思っていたような気がしたんだけど、多分暮林さんの言葉でそう思っただけ」
僕が共感を示したことで、暮林さんの顔色がパッと華やぐ。
童話というと、コレが好きだったな、という話で場が盛り上がり始めた。自分達の深い部分とは関係してこない思い出話みたいで、誰かが嫌なことを思い出すこともなく、皆楽しそうに好きだった物語を語っていく。
暮林さんが一番楽しんでいるみたいに見えたけれど、多分彼女と同じくらい、僕も楽しかった。
窓の外から日差しが一切差し込まなくなって、もう遅い時間だと気が付いたのは、誰が最初だっただろう。恐らく、みんなほとんど同じタイミングで外か、時計に目を向けた。話がちょうど途切れた頃だ。そろそろ帰ろうか、と言った僕を、秋山が引き止めた。
「時雨と俺はもうちょい話していくからさ、暮林さんと川田は気を付けて帰れよ!」
この後の予定は特にないから別に構わないけれど、話があるなんて一切聞いていなかった僕は少しびっくりしていた。川田さんと暮林さんは顔を見合わせて、微笑を交わすと、すっと席を立つ。立ち上がりざまに川田さんは自分と暮林さんのぶんのお金を置いていった。
「じゃ、お先に」
「じゃあ、また明日ね」
暮林さんが先に通路に出ないと出られないから、川田さんが彼女の背をぐいぐいと押している。暮林さんはもう一度「また明日」を繰り返して、手を振りながら遠ざかっていった。
また明日。思い返してみれば、彼女はいつも、「また明日」という言葉を口にしている気がする。また明日、なんてただの別れ際の挨拶だ。一般的なものだし、深く気にする必要性のないものでもある。だけど僕には、それがなんだか、明日もこの関係が続いていますようにという、おまじないをかけているみたいに思えた。
既に見えなくなった二人の残り香を追いかける感じで、店の入り口の方をぼうっと見ていたら、秋山に肩を引っ張られる。
「なあ、時雨。俺、暮林さんが好きだ。なんとなくとかじゃなくて、本気で、好きみたいなんだ」
「あ、うん、知ってるよ」
本気だということまで知られているとは思っていなかったのか、秋山の整った顔が固まっていた。互いに黙った中で、店内に流れている音楽と、他の客の会話が聞こえてくる。通路を挟んで隣のテーブルにいる女子高生達が、「どっちの子のことかな」「ギャルっぽい子じゃない?」なんて、多分僕と秋山の話について語っていた。ずっと同じ店にいたら話題がなくなるだろうし、目に見える範囲の中から話題を見つけたくなる気持ちも分かるけど、聞こえる声で噂をするのはやめて欲しい。
苦笑していたら、秋山がようやく続けた。
「俺、さ。最初は、そんなに良い印象持ってなかったんだ。いつも一人だから、一人が好きなんだろうし、クラスの話し合いにも全く参加しないから、他の人間のこと見下して、心の中で笑ってる優等生タイプかなって思ってた」
「暮林さんのこと? へぇ……」
相槌を打ちながら、なんだか嫌な気持ちが肺に溜まる。僕も、周りにそう思われていたことがあるような気がした。一人が好きなんだろうから放っておきなよ、とか、大人ぶって調子乗ってるんじゃないか、とか。教室内にいる人間なんて、孤立している奴のことを好き放題言うものだ。当人は聞こえないフリをしていても、案外全部聞こえていたりする。
だけど、秋山が暮林さんにそう思っていたのは、意外だった。初めから彼女に好感を抱いているように見えたからだ。
「秋山は、人を嫌ったりしないと思ってたよ」
「別に、嫌ってはなかったよ。近寄りがたいし、話しかけても素っ気無くされそうだし、仲良く出来ねぇだろうなぁとか、思ってただけで」
「ふうん。そう思っていたぶん、彼女の笑顔を見た時に舞い上がった?」
「……まぁ。初めて話したっつっても過言じゃない俺にも、あんなに頑張ってる感じで笑ってくれるのかって思ったら、気にはなるよな」
僕の肩を掴んでいた手を離して、秋山はテーブルに両肘を乗せた。絡ませた指の背に顎をぶつける。隣にいる僕では、彼の顔色は覗けなかったけれど、赤くなっていく耳はちゃんと見えていた。
「それで、時雨と川田も入れてみんなでさ、キャッチボールしたりカラオケ行ったりしてたら、暮林さん教室にいる時よりもすげぇ楽しそうで。友達って言葉だけでも、すごく嬉しそうで。なんか、可愛くて。もっと喜ばせてあげたいし、もっと楽しませてあげたいって」
「うん、分かった。分かったからさ、それ僕じゃなくて本人に伝えよう?」
「伝えて良い、のかな」
「良いでしょ。明日の放課後は君の家行くんだし、なんなら、僕と川田さんでなんとか二人の時間作ってあげるから、とっとと告白しちゃいなよ」
恋愛経験なんて僕にはない。生前の僕にだってなかったはずだ。だから、告白する適切なタイミングなんて知らないけれど、出来るだけ早くした方が良いと、なんとなく思った。
秋山に告白されて、嬉しそうに笑う暮林さんを、僕も見てみたいのかも、しれなかった。
「分かった。ありがとな、時雨。明日、頑張ってみる」
「うん。あ、最後にアイス頼んで良い?」
「あ、俺もデザート食べる」
呼び鈴で店員にデザートを頼んで、待つこと数分。僕の前にはアイスが、秋山の前にはコーヒーゼリーが運ばれてくる。お互いスプーンでそれをつついて、どこか熱くなっていた体を冷やすように嚥下する。
コーヒーゼリーも冷たいだろうが、秋山こそ今アイスを頼むべきだったと思う。僕と言う友人に好きな人を打ち明けた彼の頬は、日焼けした後みたいな赤さをしていた。
食後のデザートで口内をさっぱりさせて、僕と秋山はようやく店を出た。暮林さん達が帰ってから、三十分くらいは経過していそうだ。僕はホテルに向かうから駅の方へ行くが、秋山はそうではないため、店先で別れた。
月光と街灯に照らされる藍色の道を進んで、駅前に出る。少し遅い時間まで長居しすぎたみたいで、僕みたいな中学生くらいの子供は全くいなかった。
だからだろうか、同じ中学校の制服を着ている女子生徒に、目がつられた。
彼女は駅構内から、スーツ姿の男性と腕を絡ませて出てきた。一見親子のようだ。カラオケ店の前でぼうっとしている僕の方に、二人は歩いてくる。
学校指定のリボンはだらしなく緩めて、ワイシャツのボタンも下着が見えそうなくらい開けられている。スカートも短くて、派手な女子という印象を受けた。だから、染めたことなどなさそうな黒髪と、大人しそうな顔立ちが、服装とちぐはぐに見える。
男性の方を上目遣いで見て、彼女はにこりと笑った。どこかで見たことのある笑い方だった。けれどそれは、僕が知っているものよりも、明らかに作られた笑みで。
「……暮林さん?」
男のことしか見えていないようで、それ以外の通行人や夜景に目を向けることなく僕の横を通り過ぎた女の子に、僕は、思わず呟いてしまっていた。
「――え?」
僕の耳の後ろに、革靴の音が数歩響いた。そのたった数歩で、その音はぴたりと止む。体ごと振り向いたら、あの女子生徒が足を止めて僕を見ていた。
赤いフレームの眼鏡なんてかけていなくて、髪は結んでいなくて、制服は乱れていて。それでも僕には、彼女が暮林霖雨なのだと、分かってしまった。