反復するトラジティ5
駅まで十分、学校まで十分程度の道を辿った。昨日通っただけの道を思い出して学校に向かうのは、なかなか勇気が必要だった。信号や分かれ道に差し掛かるたび、こっちで合っているだろうか、と不安が込み上げるのだ。なにかが違うような気がして元の道に戻ろうとするも、結局その道を進む、という不審極まりない動きまでしていた。
どうにか学校に辿り着いて、他の生徒の背中を眺めながら昇降口に進む。昨日さんざん睨めっこした下駄箱に靴を仕舞って、上履きに履き替えていたら「おはよ」というソプラノの挨拶が耳に流れ込む。
僕の左隣に進んで、靴を履き替えているのは川田さんだ。
「あ、おはよう、川田さん」
「今日も帰り、秋山と霖雨とどっか寄るの?」
それは、初めて聞いた彼女の声と同じく、気怠げではあったが、嫌そうではなかった。僕の方を向いた彼女は首を斜めにして、明るい茶髪をさらりと揺らす。ただ確認しておきたいだけみたいだった。
僕はもう一度、頭の中で彼女の言葉を繰り返してみて、くすりと笑いながら頷いた。
「うん、そうしよう。昨日は楽しかったし、もっと仲良くなりたい」
「そ」
「教室、一緒に行こうか。というか川田さん、暮林さんのこと下の名前で呼んでるんだね」
「昨日友達になったから」
友達、という響きに目を瞠ってしまった。暮林さんに友達が出来た、というのは、僕の目的を達成するためにはとても喜ばしいことのはずだ。それなのに晴れ渡った表情を上手く作れない。
階段を上りながら、心臓が痒くなるような気持ちを堪えて、唇で三日月を象る。
「いつの間に、友達になろうなんて言ったの?」
「一緒に遊んで、楽しめたなら友達でしょ。だから、友達らしくなるために今日から呼び捨てしてみるから。よろしく時雨」
「あ、僕もなんだ」
どこか引き攣っていた笑みが自然と綻んだのは、川田さんの中で僕も友達として見られていたことが、嬉しかったからだろう。友達なんて関係一つで簡単に気分が浮き沈みする。なんだか馬鹿馬鹿しかったけれど、可笑しかった。
階段を上って、廊下を進んで教室に入る。既に教室内は騒がしいくらい生徒が登校していて、川田さんと一緒に入ってきた僕は数名にちらと見られた。女子も男子も、何人かがこそこそと話し始める。やはり学校というところは面倒くさい。男女が仲良くしていると変な目を向けられる。
けれど、別に僕はそれでも構わないと思っていた。今はそういう目で見られるかもしれないけれど、そんなのを気にせず暮林さんと川田さんの仲を深めさせれば、僕がいなくなった時に綺麗な友情だけが残るだろう。秋山はどうやらクラスのムードメーカーみたいな立ち位置だから、何かあっても取り持ってくれそうだ。
川田さんは一番前の席に座って、僕はそのまま自分の机に向かう。秋山はまだ来ていなかったけれど、隣には既に暮林さんが着座していた。
「おはよう、暮林さ――」
「おはよう霖雨」
椅子に座ったまま体の向きを暮林さんに向けると、彼女の顔も一瞬こちらを向いた。しかし、彼女の正面に立った川田さんが、彼女の意識を全部持っていく。
「えっ、あ、うん。おは、よう。川田さん。明坂くんも」
僕のことは忘れられていなかったようで少しほっとした。僕の名を呼んだ時だけこちらをちゃんと見るあたり律儀だと思う。困ったように微笑んでいる暮林さんへ、川田さんが詰め寄った。机に手を突いて、頭突きするのではと誤解するくらい身を乗り出す。
「ねぇ、今日から霖雨って呼ぶから。霖雨も私のこと、雪って呼んで良い」
「え……?」
「というか、そう呼んで。友達なんだから」
有無を言わさぬ語調に、僕は困り眉を作ってしまう。暮林さんも戸惑うだろう。という僕の予想に反して、彼女の眼鏡の奥で、その瞳が真ん丸になっていく。星空を凝縮したみたいに双眸を輝かせて、彼女は「友達」と反芻した。
嬉しそうなのは横顔だけでよく分かる。それを見ていたら、先程友達認定してもらえた僕もあんな顔をしていたのではないかと考えてしまった。照れ臭くなって、頬を掻く。
「わ、わかった。雪、ちゃん」
呼び捨てで良いのに、と唇を尖らせる川田さんと、気恥ずかしそうに微笑んでいる暮林さんのやり取りは、とても微笑ましい。嬉しさと一緒に棘の付いた情感が込み上げるのは何故だろうか。
悲しいのに笑ってしまう人みたいに、僕の笑みはどこか歪だったかもしれない。だから、それを誰かに見られる前に机に伏せた。机の上で腕を組んで、そこに顔を埋める。
暮林さんを救わなければならないし、僕自身そのことに賛成しているし、救いたいと思っているのに、心がそれを快く思っていないみたいで、気持ち悪い。
僕が作っている影のせいで、机の木目はおろか、色さえ窺えない。真暗な影をじっと見つめ、教室内の喧騒を一人ぼっちで聞いていた。孤独感が臓器を押し潰そうとする。深海に落ちていくみたいだった。潰れて、そのまま息も出来なくなって、死んでしまうような。
そんなことをイメージした自分の脳が理解出来ず、耳を塞ごうとした。楽しそうな声が、今はなんだか不愉快だった。そっと持ち上げた両手を耳に添える前に、頭にこつんと何かがぶつかる。
「時雨、おはよう。朝だぞ!」
頭の天辺を後ろに引っ張って、僕は顔を上げた。僕の前に座った秋山は片手にテニスボールを持っている。彼はそのまま、ボールを前に突き出して、川田さんと暮林さんにも笑いかけた。
「今日の放課後は、野球しようぜ!」
「それテニスボールじゃん」
「キャッチボールするだけだからボールはなんだって良いんだよ」
川田さんと秋山のやりとりを見ながら、僕は思わず、唇の隙間から息を吹き出してしまう。「それじゃあ、野球じゃなくてただのキャッチボールでしょ」と川田さんが抑揚のない声を返している。そんな二人が可笑しくて一人で笑っていたら、暮林さんが僕を見ていた。
向けられた視線を辿って彼女と顔を突き合わせる。自分が見ていたことに僕が気付いて気まずくなったのか、彼女は一秒にも満たない短い間だけ顔を逸らした。けれどすぐにこちらへ向き直って、手を振ってくる。
隣の席で、結構近い距離にいるのに、なぜか嬉しそうに手を振られたのだ。それが変だ、と思うより先に、なんだか頬が緩んでいた。
多分、暮林さんがあからさまな好意を僕に向けたから、嬉しくなったのだと思う。好意といっても、それは勿論友達に向けるものだ。それ以上ではなく、それ以下でもない。それでも、『ただのクラスメート』じゃなくて、『好感を持てる友達』という肩書きを手に入れた気になって、ほくそ笑んだ。
「楽しみだね、放課後」
僕がそう声をかけたら、彼女は顔いっぱいに嬉しいという感情を広げたまま、頭を大きく縦に振った。一度下に下げられた頭は、不思議と上がってこない。きょとんとしていたら、意を決したように彼女は髪を振り乱して正面に面を向けた。
「あ、あのっ」
「どうかした?」
「お昼、も、みんなで一緒に……」
語尾にかけてどんどん声量が零になっていく。言い切るには勇気が足りなかったのだと思うし、最後まで言い切らなくても伝わると思って、そこで勇気を使い切ってしまったのかもしれない。
実際、僕はそこまで聞いて、その先にどんな言葉を続けたいのか理解出来ていた。それなのに知らないフリをして続きを待ったのは、彼女がどこか、甘えているように見えたから。
表面には出さないけれど、少し、他人に甘えて『察してくれ』と訴える彼女の弱さに、苛立ちを覚えた。
僕が「お昼?」と鸚鵡返しをすると、暮林さんは目と一緒に顔も泳がせながら、掠れた声で「えっと」と繰り返していた。そんな彼女の頭に、川田さんの手の平が乗せられる。
「お昼、一緒に食べようってことだよね。私は元々そうする気だったし、良いよ。時雨と秋山も良いよね?」
川田さんが察してくれたことで、暮林さんはほっとしたように笑う。色を無くしていっていた頬が、今は恥ずかしげに赤く色付いていた。
予鈴が鳴って、川田さんは暮林さんに片手を振り、自身の席へ戻って行く。秋山は黒板に体を向け直して、机を漁り始める。既に授業の準備をしていた僕は、隣の席で嬉しそうにしている暮林さんに、冷たい黒目をぶつけてしまう。
口を開いてはいけないと、なんとなく思った。だけど僕は、口角をほんの少し下げたまま、小さな棘を放ってしまった。
「暮林さん。一人で出来ないことは、誰かに甘えて、助けを求めても良いかもしれない。けどさ、自分一人が一歩踏み出せば言い切れる言葉の先を、優しい誰かに続けてもらうなんて甘えは、駄目だよ」
「え……?」
「踏み出さないと、何も変わらないでしょ。だから、君が踏み出せないなら、いくら僕が君を前へ引っ張ってもすぐに――」
自分が何を言っているのか気付いて、手の平で口元を覆う。危なく、僕は君を助けるために行動しています、と明言するところだった。不審に思われてしまったかもしれないけれど、その不安を表に出してしまえばもっと不審になる。
だから、今し方の無表情を嘘みたく掻き消して、児童小説に出てくる猫に似た笑い方で上書きした。
「なんでもない」
誤魔化すべく、何事もなかったといった様子で僕は鞄を漁り始めた。長財布が目に入って、秋山にお金を返さなければならないことを思い出す。鞄から財布を引っ張り出した後、僕は秋山の背中を軽く叩いた。
(六)
それから、僕らは毎日昼休みと放課後、一緒に行動するようになった。もっと短い時間も含めるなら、十分休みや朝のホームルーム前も、だ。秋山は誰とでも笑って話せる人気者みたいで、そんな彼と絡んでいる僕もだんだんと友達の輪が広がっていく。体育の授業だと男女別になるため、僕は秋山や他の男子生徒と話しつつ、女子の授業風景も観察していた。
暮林さんと川田さんはほぼ常に行動を共にしているみたいだった。その分二人の仲が深まっていると感じられ、胸を撫で下ろせる。
僕が来てから――つまり暮林さん達が仲良くなってから、二週間が経つ。暮林さんは、二週間前に僕が「なんでもない」と誤魔化した発言に関して、なにも言ってこなかった。気にしていないのか、それとも忘れようとしているのか、あのことには一切触れず、普通に友達として接してくれる。最近はよく明るい表情を浮べるようになった。
この調子なら大丈夫、と胸に呟いて、僕は席を立ち、鞄を肩にかけた。
「じゃあ、ファミレス行こうか」
僕は今日、日直だったから、三人を少し待たせてしまっていた。書き終えた日誌を先生に渡してきた僕がそう呼びかけると、三人はそれぞれ頷いた。
他愛のない会話を交わして無言の時間を潰し、学校からファミリーレストランに足を踏み入れる。秋山と僕、川田さんと暮林さんが向かい合って座り、メニューを眺めた。
学校が終わった後だから空腹で、どの写真も美味しそうに見える。ハンバーグにしようかと悩んでいたら、川田さんがぼうっとした顔のまま、さらりと言った。
「今日は私が奢るよ」
「え?」
まるでいつも奢ってもらっているような言い方だけれど、初めてカラオケへ行った日に秋山が奢ってくれたくらいで、それ以降は皆自分の財布からお金を出していた。
いきなりの申し出に、僕も暮林さんも、秋山も、みんな驚いて、それから一様に首を左右に振った。
「大丈夫だよ雪ちゃん、お金ならちゃんと持ってるから」
「俺も時雨も、大丈夫だぞ」
「じゃあ秋山と時雨は自分で払えば良いけど、霖雨のは私が出したい」
「暮林さん、そろそろお金まずい?」
川田さんの言い方が妙に気にかかって、僕は正面に座っている暮林さんの手元を窺った。メニューに書かれている値段と、自身の手持ちの額を気にしていたのだろう、その手にはベージュの財布があった。