反復するトラジティ4
性別の掴めない声音が耳朶を撫ぜて、僕は顔を勢い良く持ち上げる。目の前の地面に、真っ白な猫が着座していた。空はもう暗い色で塗られているのに、その白さは薄れていない。まるでその体毛が発光しているみたいだ。
涼しい顔で僕を見上げている猫に、僕は冷笑した。
「神様だから、人に見られるのは困るって?」
「いや、ボクは困らない。困るのは君だろう。そういえば伝え忘れていたね、ボクの姿は人に見えないんだ」
それは確かに伝えられていないことだったが、さほど驚きはしなかった。時間を戻したり、死者の魂に別の体を与えられる猫だ。
閉じたままの僕の唇から、ふうんと漏れた。
「別に、次からは周りなんて気にせず出てきて良いよ。その姿が見えないなら尚更。僕が出来るだけ小さい声で話すか、周りを気にしなければ良いだけでしょ」
「ふむ。君が良いなら、次呼ばれたら出来るだけ早く姿を現そう」
僕は仏頂面で頷く。猫がいないことで今日どれほど困ったか。押し付けるだけ押し付けて簡単に姿を消した猫に、苛立ちが何度も募っていた。そんな僕に「それで、用件は?」と、猫が何食わぬ顔で言ってきた。怒鳴りつけてもこちらが疲れるだけと判断して、僕は冷たくなってきた風をふっと吸った。
「聞きたいことは三つある」
「分かった。一つずつ聞いていこう」
「この体って、元々は誰のもの?」
宝石みたいな蒼い目を瞠り、猫はそれから頭を傾けた。どういう意図で投げられた質問なのか、理解するのに時間がかかっているみたいだ。数秒の間の後、猫は斜めになっている頭をそのままにして、ああ、と吐き出す。
「借り物だと思ったのかい? 仮の肉体ではあるが、誰かから借りたものではないよ。それはボクが用意したものだ。君の魂しか入ったことがない」
「……そっか」
とすれば、僕の心が肉体に何かしら影響を受けているかも、なんていう仮説は成り立たなくなる。それが分かってしまったら、自身への不信感が湧き水のように溢れ出した。そのせいで体が、表情が、強張っていくのが分かる。鏡を見なくても、さながら絶望した人みたいな、ひどい顔をしているんだろうなと想像がつく。
それを感取してか、それとも気付かずにか、猫が話を先へ進めた。
「二つ目は?」
「あ……。えっと」
「答えられるものは何だって答えよう。だから身構えなくてもいい」
「……君は、僕が罪を犯して死んだ魂だって言った。罪って、なに? 僕は、人を殺したり、したの?」
膝の上で固めた拳が震える。手の平に嫌な汗が滲んだ。空気がやけに肌寒く感じて、全身が強張った。猫がどこか義務的に答える。
「それは教えられない。君は過去のことより、今のことに目を向けてくれ」
「なんで……」
「君が暮林霖雨を救えたとしても、君は過去に戻れない。君の人生は終わっているんだ。もし思い出しても、どうせ転生する時に忘れさせられる。今の君には、彼女を救うことと、自分が次の人生に向かうことを考えてみて欲しい」
視界の端で、公園の入り口前を数台の自動車が通過して行く。けれどそのエンジン音が聞こえなくなるくらい、聴覚は猫の声だけを捉えていた。頭の中で、今聞いた言葉を反芻する。
猫が言っていることは、正しいことなのだと思う。今更過去を思い出したところで、確かに意味なんてないのだと思う。
「……そっか」
受け入れられそうになかった正論を、なんとか受け入れた。咽喉から溢れそうだった不満を、臓腑に落とし込む。そうしたら、生前の自分のことを知りたいと駄々を捏ねていた自分は、どこかへ消えてくれた。
「自分が犯罪者だったとしても、今の僕は、明坂時雨だもんね。そんなに、深く気にしなくて良いか」
「そういうことさ。君がもし、生前のように罪を犯してしまったら……などと考えているなら、生前のことを知るよりも今と向き合っていればいい。過ちを恐れるなら、過ちを犯さないようにすればいい。それだけだろう?」
ご尤も。僕は口角を少しだけ持ち上げて、小さく頷く。
自分が何者か分からない不安のせいで、暮林さん達と僕が普通に接して良いのか、ということまで分からなくなっていた。過去、何者だったか分からなくとも、ここにいる僕は僕でしかないのだ。今出来ることをやれば良い。そんな簡単なことはすぐ目の前にあったはずなのに、後ろばかり見ていたせいで見えていなかった。
憑き物が落ちたような顔をしているからか、猫はご満悦といった様子で双眼を細めていた。
もう用は済んだため、曲げていた膝を伸ばしてベンチから尻を離した僕は「あ」と漏らした。
「そういえば、家ってどこなの?」
「ああ、家も家族も用意していないよ。その代わりホテルを借りてある。朝食と夕食は付いているから、昼食だけ適当に買うといい」
「昼食のお金はくれるんだよね? あとさ、携帯電話欲しいんだけど」
「勿論、必要最低限のお金はボクが用意する。けど携帯電話か……」
これまで猫という動物に表情があるとは思ったことがない気がするが、この猫に会ってから猫の表情というものを知った。柔らかそうな額を動かして変えられる目付きは、人とあまり変わらない。
だからこそ、猫が嫌そうな顔をしているのだな、とよく分かった。
「……悪いけど、そこまでは支援しない」
「携帯電話くれないの? 必要だよ、必要」
「無くてもやれるだろう? あとで君が居た事実を消す際、面倒事が増えるからやめて欲しいんだよ」
「ケチだなぁ」
落胆する僕の前で、白い尻尾がゆらゆらと揺れる。猫じゃらしにつられる猫みたいに、僕は遠ざかるそれへ飛びつこうとした。
「ちょっ、どこ行くの」
「君の用が済んだみたいだから帰ろうかと思ったんだが、まだ何かあるのかな?」
「当たり前でしょ。ホテルとお金」
申し訳ないという素振りを一切見せずに、忘れていた、と猫が言った。肺に溜まっていた息を全て吐き出すように、数秒かけて溜息を吐いてやった。
夕焼けを硝子に閉じ込めたみたいな、橙色の街灯に照らされる夜道を、猫と共に歩いて行く。夜の街といってもまだ二十時頃だろうし、大通りを進んでいるからか、雑踏は薄れない。
仕事帰りのサラリーマンや、店のチラシを配っている店員、はしゃいでいる学生達の間を縫うようにして、猫はさっさと歩いていってしまう。猫ほど小さくも細くもない僕は、半ば置いていかれそうになりながらも、白い毛玉を追いかけた。
ようやく着いたのは、秋山達と別れた駅前から、十分ほど歩いた先のホテルだ。近くにはコンビニエンスストアや焼鳥屋、ラーメン屋もある。食べ物には困らなさそうだ。といっても、朝食と夕食は出ると聞いたから、利用するとしてもコンビニくらいだろう。
辺りを観察していた僕に、猫が言った。
「ここのホテルに入って、受付で名前を言うと良い。そこから先は大丈夫だろうから、後は好きにしてくれ。ボクは君が困った時に、また現れることにするよ」
え、と間抜け面を形成しているうちに、猫は僕の横を通り過ぎて車道へ飛び出してしまう。振り返ってみると、左へ進む車と右へ進む車の波に飛び込んで、猫は姿を消してしまっていた。
もう少し心臓に優しい去り方は出来ないものか、と思いつつ、ホテルに向き直る。ガラス製の自動ドアまで十歩といったところだ。後ろに人がいたなら、早く入ってしまえと僕の背を押したかもしれない。
なかなか足が前に進まないのは、緊張のせいだ。
生前の僕がいくつだったかは知らないが、今の僕は中学生だ。一人でホテルなんて行った記憶がない。説明されたようにやって、順調に事が運んだとしても、その先になにがあるか分からないからなんだか不安だった。
どのくらいの間、その場で立ち竦んでいたのだろう。左右を見たり、ホテル内を窺ったり、まるで不審者だ。ようやく意を決し、僕は扉の前に立った。
自動ドアと思った扉は開かない。心臓を縮こまらせて目線を下ろすと、ボタン式の自動ドアであることに気が付いた。
誰も見ていないのだろうけれど、恥ずかしさが全身の血を沸騰させて、僕の肌を赤く彩った。八つ当たりみたいにボタンを指の腹で強く叩く。ガラス戸が左右に引っ込んで、僕はようやくホテル内のタイルを踏んだ。
(五)
昨夜は本当に名前を言っただけで鍵を渡され、部屋まで案内された。食堂は一階にあって、そこで夕食を食べるとすぐに部屋へ戻り、風呂を済ませてから就寝した。部屋には机と椅子、テレビ、クローゼットやベッドなどが置かれている。寝ぼけ眼を擦りながらベッドを這い出て、机の上をちらと見たら、長財布が乗っていた。
ああ、猫が用意してくれたんだな、と手に取り、何気なく開いてみる。一万円札が数枚、千円札が数枚入っていた。中学生の小遣いにしては大金だ。札に混じって、一枚メモ用紙が入っているのを見つける。
なんだこれ、と取り出して見れば、メッセージが書かれていた。
「必要の無いものに金を使った場合、天罰が下る……って、脅迫しなくても大事にするよ」
猫に聞こえるかどうかは分からなかったが、声に乗せて小さく笑った。別に聞いていなくたっていい。なんとなく、声が出てしまった。
さてと、と独り言ち、僕は身支度を整えて、一階へ向かう。受付の女性に鍵を預けると「行ってらっしゃい、気を付けてね」なんて、まるで子供にかけるような言葉で送り出された。中学生は確かに子供だけれど、一応は客なのだから、もう少し普通の客として扱って欲しかった。なんだか、面映ゆかったのだ。
けれど、嫌な気はしなかった。胸が温かくなって、たかが営業スマイルと挨拶に何故感動しているんだと自嘲する。
ホテルを出ると、陽光が真っ向からぶつかってくる。白い光がやけに眩しく滲んだのは、寝起きの瞳だからだろうと思った。目を擦ったら、その表面に張っていた膜が破れて雫を零す。
「え……?」
欠伸をした覚えはないのに、気が付くと、わけも分からず泣いていた。なにが悲しいのか全く分からなかった。ただホテルに泊まって、いってらっしゃいと手を振られて、当たり前の朝に飛び込んで、それらのどこに悲しいことがあったのか、僕には推し量れもしなかった。
涙が止まるまで目元に手を当て続けた。深閑とした朝の、ひやりとした空気が少し冷たい。濡れた頬から体温を奪っていく。
車が駆け抜ける音や、人が通り過ぎて行く靴音を聞けば聞くほど、早く泣き止まなければ、と思った。
必死に涙を引っ込めて、ようやく僕は顔を上げる。何事もなかったかのような涼しい顔を貼り付けて、学校を目指した。