反復するトラジティ1
降り注ぐ雨の温度が分からない。黒と灰と藍を混ぜ合わせたような空は、温かくも冷たくもない無色透明の雫を零し続けていた。
下げた視界に映るのは、雨に濡れた床だけ。前を向けば緑色の柵が目に入った。柵の手前にはきちんと揃えられたローファーが置かれている。その上に乗せられた封筒は、きっと綺麗な白をしていたはずだ。今や雨のおかげで灰色になってしまっていた。
この光景が何を意味するのか、寝起きのようにぼんやりとしている頭では考えられない。
ただ、柵を越えなければ、と思った。
どうしてかは分からない。靴を脱いでそこに手紙を遺したら、あとは飛んでしまうだけ。それが当たり前のこととして脳にインプットされているようだった。
前――柵の方へ、進もうとした。足音は鳴らない。足が動いた感覚もない。けれど確かに前進している。それは、近付いた柵や靴が証していた。
手を前に伸ばした。柵に指を掛けるつもりで、前へ、伸ばしたつもりだった。瞳に自身の腕は映らない。動いた様子もない。
では、自分はどうすれば良いのだろう。
何も出来ない時間は焦りを生んで不安を掻き立てる。雨音がひたすらに鼓膜を打つ。頭上から注がれている雫が触覚を刺激しないなんて、不気味だった。
わけも分からぬまま佇んで、ゆっくりと瞬きをする。と、いつの間にか、靴と手紙の前に真っ白な猫が座っていた。
未だ止む様子のない雨は、猫の足元の床へ染み込んでいく。白い毛並みは汚れることを知らないみたいに、綺麗なままだった。息を飲んでその白さに視線を奪われていたら、耳に声が届いた。
「君に救ってもらいたいんだ。ここで自殺をしてしまう女の子を」
猫の口元が、声の通りに動く。この猫が喋っているのだということは分かったが、猫は喋る生き物だったか、記憶が曖昧だ。意識も何もかも朧気な中、自殺という響きがやけに鋭く耳を突き抜けた。詳細を問いかけたいのに声が出ない。そのことに気付いたのか、猫は晴空の如く澄んだ蒼の双眸を僅かに大きくして、こちらを見つめてくる。
「済まない。そのままでは返事を聞けないな。仮の姿を与えておこう」
猫の、男とも女ともとれる不思議な声色に聞き入っていれば、すぐさま目の前が真っ白になる。眩しい、と感じたのは一秒程度の短い時間だ。次第に白さは薄れ、冷たい雨が頭にかかる。
はっとして頭に手をやった。さらりとした髪の毛の感触が手の平に伝わる。目の前にその手を持って来てみたら、ちゃんとした人の腕と黒い袖の上で雨が跳ねていた。
「あ……」
「どうだろう。身体は動かせるようだが……声はうまく出せるかい?」
「あ、うん。いや……えっと……」
自分がどういった口調で話していたのか思い出すことが出来ない。たどたどしくも返事をしてみせると、猫は目を細めて「良かった」と微笑んだ。
「君は裁かれないといけない魂なんだ。本来なら、二度と転生が出来ない。けど自殺のように、死ぬべきではない時に死んでしまう人を助けることで、その魂の罪を許すことになっている」
「……つまり、私――違うか。僕? ……つまり自分は、人助けをしなきゃならないの? 見ず知らずの人間を? それとも面識がある?」
口から出た自身の声は、少年のようだ。一人称すらどうすれば良いか分からず、戸惑いながらも問いかけると、猫は白い頭を上下させた。
「君に与えた姿は仮のもので、これから与える名前も何もかもが仮のものだ。だから、相手は君の言う通り見ず知らずの人間、ということになる。君は事故でずっと休んでいた少年として、彼女と同じクラスで一ヶ月過ごしてもらうつもりなんだ」
「一ヶ月?」
「そう。今ボク達がいるのは、その子がもう自殺してしまった日。今から一月前の時間に君を送り込む」
聞き取りやすい速さで淡々と話が進んでいく。説明をしかと頭に刻みながら、はっとしたように猫へ詰め寄った。
「待ってよ。一ヶ月しか時間を貰えないの? 一ヶ月で、私――僕が、その子を救えるって思ってるの、か?」
「救えなかったら君は転生出来ずに消されて、彼女が死ぬ。それだけだ」
「なにそれ……死ぬって分かってる人間を救わなくて良いんだ? もっと期間を」
「君にチャンスをあげるのは一度だけ。期間なしにするわけにはいかないんだよ。それに、これは君だけじゃなくて彼女にとってのチャンスでもある」
この猫が命の価値をどう見ているのか推し量れない。彼の第一声であった救ってもらいたいという言葉には、誠実で切実な音吐が伴われていた。というのに、チャンスなんて単語を使われてしまうと、まるでゲームを楽しむ子供のようにも見えてしまう。
こんな心情を知ってか知らずか、猫は申し訳なさそうに顔を歪ませた。
「つまりね、罪を犯して死んだ君がチャンスを与えられて、自殺をしてしまう彼女が偶然君と巡り合わせられることになった。その偶然の先に起こることが喜劇だろうが悲劇だろうが、それは運命なんだ。一人の人間の人生に干渉出来るのは、いくらボクでも一度だけなのさ」
「……そうだ、あなた――いや、えっと、君。さっき一月前の時間に僕を送り込むとか言ってたよね。しかも人間の人生に干渉するとか……なんなんだ? そんなの普通の猫じゃない」
「ようやく脳が働くようになってきたのか。魂しかなかった君に肉体を与えて、こんな話をしているんだから、もう分かってるんじゃないかな。そもそも、猫は喋らないだろう?」
そうだ。猫は、人の言葉を喋らない生き物だった。開いた口から漏らすのは、にゃあという鳴き声。猫は飼っていなかったから、今頭に浮かんだ猫はテレビに映っていた猫か野良猫だろう。
けれど、この記憶は誰のものだ? 生前の自分のものだろうか。
記憶を辿ってみても、記憶の主に関することは何も思い出せなかった。知識ばかりが脳裏を過る。
「――さて、ボクが何者かというのは君の想像に任せるとして、今から君に名前を与える。君がその名を口にすれば、君は一月前のこの場所に送り込まれる。良いね?」
「……分かった」
自分のことは何一つ分からず、魂の転生だなんて自分にはどうでも良いことを持ち出され、見ず知らずの少女を救えと言われて。それを断ることも出来るはずなのに、なにかに拒まれ断れない。
命を捨ててしまうと分かっている人間を救いたいと思うのは、どこから湧く感情なのだろう。生前は正義感の強い人間だったのかもしれない、などと考えていると、猫が名を口にした。
「明坂時雨。それが君の名前だ」
「明坂、時雨……」
ほぼ吐息のような声で呟いてみせると、降っていた雨が上がっていく。灰色の雲が白くなりながら流れて、空が何度も色を変える。群青、曙、東雲、濃藍、そんな色に繰り返し変わって、ようやく落ち着いた色は白藍だ。真っ白な絵の具を出鱈目に引いたような雲が、そっと影を作る。視点を落としてみたら、目の前にあった靴と手紙は失せていた。地面が濡れていた形跡はなく、雨など降っていなかったかのようだ。
青空に浮かぶ太陽に目を細めていると、猫がこちらへ歩き出す。
「君が救うのは中学生の少女。暮林霖雨という名前だ。自分の名前と、その名前を覚えたら、三階にある三年二組の教室に入ると良い」
「姿も名前も仮な僕がいきなり教室に足を踏み入れて、良いの?」
「問題ないように弄ってある」
「……そう。じゃあ、行ってくるけど……困ったら来て欲しい」
「君がボクの助けを必要とするくらい困っている、と判断した時は、また姿を現そう」
猫はフェンスを器用に上って言った。そこからどのように去るつもりなのだろうと見つめていたら、フェンスの外側の床に足を着き、そして真っ白なその身を虚空へと投げ出した。
驚いてフェンスに駆け寄り、下を覗き込む。手を伸ばしても届くはずがない距離に、校庭が広がっていた。ごく普通の校庭だ。血に塗れた猫の死体が転がっている、なんてことはなかった。猫の姿は、完全にどこかへ消えていた。
早鐘を打っていた胸を落ち着かせてから、フェンスに背を向ける。
自分の名と、少女の名と、向かうべき場所。それらを頭の中で反芻しながら、屋上の扉を開けた。
(一)
「あ、明坂!」
教室を探して歩いていたら、背の高い男性に声を掛けられた。短く切った髪や体格からして、受け持っている科目は体育だろうか。しかし白衣を着ているから理系科目である可能性もある。どちらなのか悩んでいると、盛大な太息を吐かれた。
「せっかく骨折も治って復活出来たのに、いきなりサボりか」
「え、あ……いえ」
「もしかしてまだどこか痛むのか? そうなら無理せず保健室に行ってくれよ。じゃあ、先生授業あるからもう行くな」
言うだけ言って本当に立ち去っていく背を一瞥し、再び廊下を進み始める。
奥にある行き止まりから二番目の教室が、三年二組の教室のようだった。閉まっている扉をゆっくり開けると、幾つもの視線が一斉に向けられる。肉食動物の檻に入れられた餌の気分になって全身が強張った。
少しして視線が外された。誰も話しかけてくる者などいない。困りに困って、引き攣った笑みを浮かべながら、一番廊下側の一番前の席に座っていた女子生徒に問いかけた。
「あの、僕の席って、どこかな」
地毛なのか染めているのか、明るい茶の髪が揺れる。控えめな化粧が施された顔は小さく可憐だ。彼女は気怠げに目を細めて後ろを振り返り、面倒臭そうに後方の席を指さした。
「一番窓側の一番後ろ」
端の席ならいきなり付け足されても大きな問題にはならないのだろう。きっと猫がそう考えて仕組んだことだと思う。
「ありがとう。君、名前は?」
「川田」
「川田さん、か。よろしく」
それだけ言って、教えてもらった席へ足を進めた。
ハズレだ。
胸中に嘆声を吐き出す。同じクラスにいれば遅かれ早かれ暮林霖雨がどの人物か分かるだろうが、遅くてはいけない。出来る限り早く、出来れば今日中には彼女を認識し、関わりたい。
席に着いてから教室内をぐるりと見回した。一番後ろというのは良い席だ。目と首だけでも動かせば全体を見られる。
自殺をするということは、虐められているか孤立している可能性が高い。それを意識して見て、目を付けたのは、隣の席の女子生徒だ。
黒く真っ直ぐな長い髪を両肩の上あたりで二つに結い、赤い縁の眼鏡を掛けている。ワイシャツを第一ボタンまでしっかり留めていて、リボンも緩めることなく綺麗に結んでいた。優等生のような身なりをした彼女の机に手を伸ばし、軽く叩いてみた。
文庫本をじっと見つめていた彼女は、その本から手を離してしまうほどの動揺を見せた。
「えっ」
声を出すことに慣れていないような、小さな掠れ声が耳朶を掠める。長めの前髪を黒いピンで留めている彼女の顔は、簡単に窺うことが出来た。地味だけれど顔立ちは整っている方だろう。そんな彼女が、見て分かるくらいに戸惑っていて、思わず笑ってしまった。
「ごめん、驚かせちゃったかな。せっかく隣の席だから、仲良くなりたくてさ。君名前は?」
「……暮林、霖雨」
その名を聞いて、胸を撫で下ろした。見つけられたことを嬉しく思うも、今胸の内に蔓延る感情を表に出さないよう気を付ける。初対面の人間と言葉を交わす時はどんな顔をしていれば良いか、誰のものとも分からない記憶から引き出しながら、笑う。
「よろしく、暮林さん」
「う、うん……」
「あ。僕の名前分かる?」
「明坂、くん」
明坂時雨という人間が本当に存在しているかのように設定されているみたいだ。それを再認識出来て、安堵した。
小説を手に取り直して読書を再開してしまった彼女を横目で見つつ、頬杖を突く。
とりあえず他人から知人程度の関係にはなれた。ここから友人同士になれば良い、と考えていたが、一ヶ月後に自分が消えることを想起すると、それではいけないと考え直す。
ひたすら思議していた僕の耳に、ひそひそ話が流れ込んできた。
「ねぇ、明坂くん、暮林さんと話してたよ」
「暮林さんの隣とかつまんなそう」
「明坂って女好きなんじゃねぇの? 来てから川田と暮林サンとしか話してねぇじゃん」
聞き流すつもりが、どの言葉も流れて行かずに耳に残る。失敗したと歯噛みした。
猫に言われたことを果たすために暮林霖雨と関わることが必要だったとは言え、この身体は男だ。ずっと休んでいた生徒、という注目される立場で、異性の生徒にばかり声をかけていたら女好きと思われても仕方ないだろう。
無意識下で顰めていた顔をなんとか綻ばせ、前の席に座る男子生徒の背をつついた。
「一限目って何の授業かな?」
「一限は、数学だったはず」
爽やかな笑顔を返されて、一瞬息を飲んだ。女子生徒に人気が出そうな相貌をしている彼は、ニコニコ笑ったまま、身体ごとこちらに向き直った。
「俺、秋山って言うんだ。お前は明坂だよな。多分出席番号前後だぜ!」
「あ、そうなんだ。よろしく、秋山」
呼び捨てで呼ばれたため、そのまま呼び捨てで呼び返してみたが、失礼ではなかったか心配になる。彼はどうやら気にしていないようで、笑ったまま新しい話題を出してきた。
「明坂、携帯持ってるか? メアド交換しねぇ?」
「あ……今日はちょっと、忘れてきちゃって。明日で良いかな?」
「そっか、じゃあ明日な!」
「秋山、前向け。授業始めるぞ」
いつの間にか教壇に立っていた男性教師が、気だるげな声を落とした。秋山は焦ったように口角を引き攣らせてから、すぐさま黒板の方へ向きを戻す。
号令がかけられ、僕は机の中に入っていた教科書を取り出した。