毒花姫は竜公爵に溺れるほど愛される
昼食を終えてから夜まで、エメラティーナはびくびくしていた。
なんせ昼頃、怒らせてしまったのである。
いや、怒らせたというのは正しくないかもしれない。ただ、レキュロスの心に傷を負わせたのは確実だった。
(あんなにも良くしてくださったレキュロス様に対して、わたし本当に失礼なことを……)
話の感じからして捨てられるなんていうことはないが、また違った意味で恐ろしい。
今でも十二分に良くしてもらっているのに、他に何をされてしまうのだろうか。
考えただけで恥ずかしい。
少なくとも、エメラティーナが考えられる範疇を超えているだろう。
そんなことを気にして過ごしていたせいか、エメラティーナはわたわたしていた。
しかし彼女の予想に反し、レキュロスは夜まで何もしてこなかったのである。
拍子抜けというか、なんというか。
むしろ、気にし過ぎていた自分が恥ずかしいくらいである。
そのためエメラティーナは、途中からすっかり気を抜いていた。夜、楽しく湯浴みをするくらいには気を抜いていたのである。
ユリアもそんな彼女を見て嬉しくなったのか、いつもより念入りに髪を洗ってくれた。
風呂から上がった頃、エメラティーナはすっかりのぼせていたのである。
レキュロスが来るまで起きていようと思ったのだが、頭がぼんやりしてふわふわする。水差しの水を何度か飲んで体温を下げていたのだが、気がつけばソファの上で眠っていた。
かすみがかった頭の中、エメラティーナは夢を見る。
それは、嫌な夢だ。
エメラティーナが、ひとりぼっちの夢だった。
エメラティーナはひとり離宮にいて、誰かがいないかと歩き回っている。
そこに、ユリアはいない。その上離宮は、歩いても歩いても出口が見当たらないのだ。
レキュロスはもちろんいない。
そこに救いはない。
エメラティーナは、ひとりぼっちだった。
悲しくて寂しくて、ひとり膝を抱えて座っていると、どこからともなく物が壊れる音がする。
それは、離宮の一部が壊される音だった。
驚いたエメラティーナが足をもつれさせながら走ると、そこには竜がいる。大きな大きな竜だ。瑠璃のように美しい鱗を持った、立派な竜だった。
エメラティーナがちっぽけに見えるほど大きな竜を見て、彼女はあ、と声をあげる。
(レキュロス様……?)
レキュロスが竜になった際の姿など見たことがなかったが、なぜかレキュロスだと、そう思った。
深海のように深い色をした鱗、優しげにエメラティーナを見つめる若葉のような瞳は、樹海に彷徨ってしまったかのような。そんな錯覚をエメラティーナにさせる。
すると、瑠璃竜が高く高く吼えた。それはエメラティーナの夢を壊すかのような。そんな咆哮で。
同時に、離宮にヒビが入っていく。何よりも待ち望んでいた光が、ひびの間から覗いてみえた。
瞬間、エメラティーナは弾けるように走り出す。向かう先にいるのは、瑠璃竜だ。
壊れゆく世界の中、彼女は懸命に走り続ける。
そして、瑠璃竜の体に触れ――
エメラティーナの意識は浮上した。
彼女はぱちぱちと目を瞬かせながら、現状把握を試みる。
(そっか……わたし、ソファで寝てしまったのね)
そう。そこまではいい。
しかしエメラティーナが今いるのは、ベッドの上だった。
なんだか嫌な予感がして、そろりそろりと視線を彷徨わせると、直ぐ横にレキュロスが寝転がっている。
「ひっ」
思わず、小さな悲鳴がこぼれてしまった。
そんなエメラティーナを見て、レキュロスは苦笑する。
「そんな顔しないでください。わたしは別に、化け物ではありませんから」
「す、すみません……」
「それよりも、エメラティーナ。何か嫌な夢でも見ましたか?」
「……え?」
「頬。涙流れていますよ」
そう言われ、エメラティーナは慌てて頰に手を当てた。
そこには確かに、泣いた跡が残っている。エメラティーナは慌てて手のひらでこすった。
しかしそれを、レキュロスに止められてしまう。
「こらこら。こすってはいけませんよ。目が腫れてしまいます」
「で、でも……」
「ほら。こっちを向いてください、エメラティーナ」
そう言われ顔を横に向けると、レキュロスの顔が近づいてくる。
気づいたときには、涙の跡に口づけをされていた。
まるでついばむように。レキュロスは口づけを重ねていく。リップ音が妙に響き、エメラティーナは混乱した。
「はい。これでもう大丈夫ですよ」
そう微笑まれたが、頬の熱は引きそうにない。
エメラティーナは俯きながら、か細い声を漏らした。
「あ、ありがとう、ございます……」
蚊の鳴くような声で礼を述べれば、レキュロスが笑みを浮かべる姿が目に入る。
しかし直ぐに真面目な顔になると、彼は首をかしげた。
「どんな夢を見ていたのですか?」
「えっと、その……ひとりで離宮を彷徨う夢を、見ていました……」
「それは……」
レキュロスが眉をしかめるのを見て、エメラティーナはバッと顔を上げる。
「で、ですが! 瑠璃色の竜が、離宮を壊してくれたのです! あれはきっとレキュロス様だと、そう思いました! レキュロス様がいてくださったからこそ、わたしはこうして幸せな日々を送れているのですっ!!」
そう力強く言えば、レキュロスが目を丸くした。
そしてくすくすと微笑み、エメラティーナの髪を梳く。
「わたしが魔除けになったのなら、それは何よりです」
そんなことを言いながら、エメラティーナの髪を指先に巻きつけ。
「ですが今日のことは本当に、驚きました」
そう、唐突に攻めてきた。
エメラティーナはひっと内心悲鳴をあげる。
「それはそのっ!」
「エメラティーナが、自分自身を卑下にしていたことは知っていましたが……まさかここまで信じてもらえていなかったとは。わたしは、エメラティーナを伴侶として扱っていたつもりなのですが……」
「そ、そ、の……っ」
「悲しくなってしまいますね。思えば、エメラティーナのほうからわたしに対する想いを聞いたことは、一度たりともありませんでしたし。もしかしてエメラティーナは、わたしのことが嫌いですか?」
「っっっ!! それは、絶対にあり得ません!!」
そのとき、自身でも驚くほどの声が出た。小さな声しか出したことがない彼女からすれば、かなり大きな声である。ここまで出るものなのかと、むしろ感心してしまったほどだ。
エメラティーナ自身びっくりしたが、このまま言ってしまえとヤケになる。
彼女は顔を真っ赤にしながら、口を開いた。
「レキュロス様はわたしの恩人です。わたしにはもったいないくらい素晴らしい殿方だと、そう思っております。拾ってくださったこと、見つけてくださったことに、感謝もしているのです。ですがわたしは、レキュロス様に何を返せるのだろうかと、そう思ってしまいます。なんせわたしは、祖国では煙たがれていましたから……」
最後のほうは、何が言いたいのか分からず尻すぼみになってしまった。普段から他者とコミュニケーションを取っていないツケが、こんなふうに現れるとは。もどかしくて仕方ない。
しかしエメラティーナはそんな自分を捨て去るために、瞳を潤ませながらキッとレキュロスを見る。
「わたしは、レキュロス様に恋をしております。もっともっと触れて欲しいと、浅ましいながらにそう考えることが何度もありました。あなた様と立ち並ぶことができる要素などひとつも持ち合わせていないのに、あなた様のすべてが欲しいと、そう思ってしまうのです。こんな業突く張りな女でも、レキュロス様はわたしを嫌いになりませんか……?」
終わりに向かうにつれて、声が情けないほど震えてしまった。しかし瞳だけは逸らすまいと、真っ直ぐレキュロスを見つめる。溜まりすぎた涙がこぼれ落ち、シーツにしみを作った。
レキュロスはその視線を受け取り、ふっと目尻を和ませる。
「その程度のことで、わたしがあなたを嫌いになるわけがないじゃありませんか。むしろ、本音が聞けて嬉しいとさえ思いました」
レキュロスはそう言い、エメラティーナを抱き締めた。
広く柔らかな胸に身を預けながら、エメラティーナはほう、と息を吐く。触れられている部分が火を噴きそうなほど熱いのに、心は不思議と穏やかで満ち足りている。
抱き締められることがこんなにも落ち着くなど、思ってもみなかった。
そんなエメラティーナを見て、レキュロスは言う。
「エメラティーナ。あなたの好きなように触ってください」
「それは……」
「だって、わたしにもっと触れたいのでしょう?」
「うっ……」
すでに言質を取られていたエメラティーナは、言葉を詰まらせ唇を噛む。しかしその手は不思議と自然に伸びて、レキュロスの首に巻きついた。
エメラティーナはそのままぎゅっと、レキュロスを抱き締める。
レキュロスの思いやりを思い出し、そっと、でもめいっぱいの愛を込めて。
「レキュロス様……わたし、レキュロス様のことが、好き、です……」
「……はい。わたしも好きです、大好きです。愛していますよ、エメラティーナ」
「は、い……っ」
先ほどとは違い、嬉し涙がこぼれた。誰かと心を通わせることがこんなにも幸せなことだと、思ってもみなかったのだ。
そんなエメラティーナの頭を撫で、レキュロスは「こっちを向いてください」と催促する。
促されるままに視線を合わせれば、レキュロスの熱っぽい視線とかち合った。
近づいてくる顔を見て、エメラティーナは自然と瞼を閉じる。
唇同士が触れ合った瞬間、胸にあふれんばかりの幸せが広がった。
幸せの味とでも言えばいいのだろうか。べつに口にしたわけではないのに、今まで空っぽだったこころが満たされていくのが分かる。
それからレキュロスは何度も何度も、エメラティーナの唇をついばんでいった。
(わたし、今すごく幸せ……っ)
幸せすぎて溶けてしまいそうだった。
ようやくキスが終わったかと思うと、今度はぎゅっと抱き締められる。体の隙間という隙間をなくそうと言わんばかりの抱擁は苦しくもあったが、同時に幸福でもあった。
「エメラティーナ。これからも、してもらいたいことがあれば言ってくださいね? わたしにできることならば、なんでもしますから」
「それ、は……恥ずかしい、です……」
「ですが言ってもらわないと、分からないのですよ。なんせわたしとエメラティーナは、別の種族なのですから」
「うっ……は、い……」
なんだかはめられているような気がするが、エメラティーナの気のせいだろうか。
エメラティーナは、レキュロスの胸元にすがりつきながらそう思う。レキュロスの胸元に額をこすりつけ俯いているのは、ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなかったからだ。
しかしエメラティーナの全身が、熟れたリンゴのように赤くなっていることなど、一目瞭然。隠すだけ無駄かもしれない。
それに、いまさらなのだ。先ほど恥ずかしいことを打ち明けたばかりである。
そう思ったエメラティーナは、消え入りそうな声で名前を呼んだ。
「レキュロス様……」
「はい、なんですか?」
そしてレキュロスも耳がいいのか、それを器用に拾ってくれる。
エメラティーナは耳によく馴染む優しい声を聞き、ぽつりとつぶやいた。
「わたしが死ぬまで。ずっと、そばにいてください……」
どこかへ行かないで。
消えてしまわないで。
わたしを置いて、行かないで。
そんな心の叫びを、すべてその一言でまとめる。
それを聞いてどう思ったのか。レキュロスはエメラティーナの耳元に口を寄せ、そっと囁いた。
「我が愛しき花嫁の、おっしゃる通りに」
まるで騎士の誓いのような一言に、胸が苦しくなる。
そんな幸福感を胸いっぱいに抱えたまま、エメラティーナは目を閉じた。ぎゅっとレキュロスの胸元にすがりつく。
「わたしを、愛してくれてありがとう……」
そうつぶやき、エメラティーナの意識は闇の中に溶けた。
それから先。
エメラティーナとレキュロスは、ずっとそばにいた。
日を追うに連れてレキュロスの愛情は深まり、エメラティーナがよそ見をする暇がないほどのサプライズが、毎日のように送られた。
はたから見ても、それはとても重たくおかしなものだったという。
エメラティーナはレキュロスにもらったいっぱいの愛を胸に抱えたまま歳を重ね、老人になり、そしてレキュロスのそばで永遠の眠りについた。
最期のそのときまで、エメラティーナは幸福だった。今までの抱えてきた不幸の何倍も、幸福だったのだ。
そしてレキュロスも、エメラティーナがしわくちゃの老婆になったとしても、彼女に惜しみない愛を注いだという。
それは、見た目だけでなく中身も愛していたという証でもあった。
そんな彼女の墓は、とても立派なものだった。
それと同時に、月命日の際には花と瑠璃のような鱗が供えられ。
命日には必ず、竜の咆哮が聞こえたという――